2020年06月23日

「死者の奢り」大江健三郎著。

 大江健三郎さんといえば今でこそ日本のビッグネームだが、認められるまでは相当時間が掛かった苦難の人というイメージがある。だから、よほど理解されがたい難解な文学なのかと思って、なかなか取っつけずにいたのだが、今回読む時間が出来たのでこの作品を読んでみた。
 しかし、読み出してすぐに、とても読みやすい文章であることがわかる。扱っている題材もとても異常なもので読者の興味を強く引きがちだ。しかし、そんなに純文学性が高いようには、僕には思われなかった。「死体」を扱う奇妙な状況は、倫理的な思惟を読者にさせしむる設定とともに、禁忌を犯すことの興奮のような興味をとても呼び覚ますのだが、最近の派手な残酷さを扱った話題作とあまり変わらないようなグロテスクさである。そういう暗く衝撃的なストーリーは、大衆の興味は惹くがあまりテーマ性に高尚なものを感じさせない欠点があり、この小説もそのように思えた。
 小説中、女学生の妊娠と中絶に関する倫理観や生命観が出てくるが、突き詰められないので今どき古くて弱い問題提起的なメッセージにしか成っていないし、それはメッセージではなく小説のなかの創作でしかないと言ってみたところで、あまりその描かれる世界自体が薫り高かったり美しかったりはしていない。むしろ、死者を扱うアルバイトについて、わざとそのような設定にして面白く仕上げた故意感が拭えず、小説の完成度を却って低くしているような気すらする。最後のあたりに、主人公が感じる湧き上がってくる感情についても、謎のままでわざと語らずに終っているけれども、そんな下らぬ示唆をさせるよりも、もっと著者は小説の芸術性を上げることが出来なかっただろうかと訝しく思うのである。
 また、死体の処理について、アルバイトを頼んだ仕事自体が、教授の頼んだものと異なっていて、最後にどんでんがえしのようなオチのあるプロットだが、これも却って興覚めした。それだけ、死体遺棄のようなことをさせて、学術的には犯罪にならないのは、法律と道徳についてとても考えさせると言えば、小説を善意に解釈しすぎで、それならどうして、もっと突っ込んだ解釈をさせるようなシーンや台詞がないのか、と僕は読者に対する不親切感を思うのだ。
 この小説が注目を浴びた理由があるとすれば、文壇や出版社の極端な悪趣味と学歴偏重主義しかないと思う。死体を遺棄することや解剖実験などの非倫理性を描きたいのであれば、もっと具体的にあれこれ描かねばならないし、この中途半端な小説は、描かれている世界に何の美しさも感じられなくて、大江さんの文学観は、あまり美的でないのかなとすら、勘ぐってしまうのだ。
 この本は短編集なので、この終り方には落胆したし、残りの短篇も読む気をなくしてしまった。つまりは、僕は大江さんの良い読者にはどうにもなれそうにないようだ。まあ、一作で作者を決めつけるほど乱暴なこともしたくはないので、また機会があれば大江さんの作品も読むかも知れないが、今はもう良くなった。人生は短いのだ。本も出会いを大切にせねばならない。
 
posted by Pearsword at 20:36| 富山 ☁| Comment(2) | 文藝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

白木峰に登る。

DSCN0734.JPG このまえ、妻を宇津江四十八滝に連れて行ったら、意外としゃきしゃき登るので、本人の希望も聞いて、てごろな低山を案内することになった。白木峰は、いつもであれば八合目まで自動車で行けて、すぐに頂上に着く山だが、下からでもそれほどハードではないだろうと思い、台風19号で道がふさがったままにつき、キャンプ場までしか車で入れないのにもかかわらず、登ってみた。 
 五合目登山口までは、車道をだらだらあるく。7:30スタートしたが、登山口は8:30くらいだった。そこから、僕も初めての道を歩く。ササユリやレンゲツツジが綺麗に咲いていた。久しぶりで登山初めての妻を気遣って歩くと、かなり時間が長く感じた。ようよう道が見えてきて9:50に七合目にでる。少し休憩して、だいぶん疲れているだろう妻を見たが、まだまだ行けるというので、また登り始める。八合目までも結構長く、途中ゴゼンタチバナやアカモノ、マイズルソウなどを見ながら、歩いて行く。分岐を右に見て、急坂を登り、10:50ごろ、もう一度車道に出る。地図ではもう一時間程度だ。疲れている妻を少し休ませて、更に登っていくと、視界が開け風衝草原に出合う。ニッコウキスゲの山吹色が、遠目に鮮やかだが、まだギボウシは早くて蕾だった。ヘリポートを抜けて、更に行った頂上付近は、霧の大草原だった(11:40)。ニッコウキスゲがポツラポツラで、まだ花期には少し早かったが、その静寂な広漠感は相当美しかった。
DSCN0729.JPG じつは、白木峰に連れてくる前に、妻には仮題「つまささU」という小説を捧げていて、妻に聞いたらその小説そっくりだと言われた。小説の方はもっと高い山がモデルなのだが、それでも「つまささU」について、妻が喜んでくれているので、とてもうれしいかぎりである。実際の山の景色や感動には負けてしまうかも知れないけど、それでも小説でしか表現できないものもあると思うのだ。山行は山行に過ぎないし、現実を上回るものを創造したいという気もする。たとえば、柴崎友香さんのカッパドキアのように。
 しかし、ほかのパーティーは小白木峰まで行っているのか、山頂は貸し切り状態だった。顔に塩を吹いたという妻と、インスタントラーメンを二つ作って食べた。霧と風でバーナーの効率が悪かったのか、なかなかお湯が沸かず、ガスは使用後すっからかんになった。それでも、食後のコーヒーも淹れたので、良かったとすべきだろう。
 帰りは、ゆっくりの下山になった。妻が足先がいたく爪が割れてしまったからだ。実は妻は登山靴を買っていない。普通のスポーツシューズで来た。今度登山するとしたら、装備もちゃんと調えねば成るまい。
 五合目登山口15:00着。そこから車道をだらだら歩き、ゲートに16:00到着。キャンプ場のトイレ付近に犬がいて、じゃれついて来る。車まで着いてきたので、撫でた。雑種だけどかわいらしい犬だ。妻もかわいがっていて、帰りぎわ車窓から手を振った。
 帰りは、ゆうゆう館で汗を流した。
 妻よ、お疲れさまでした。
 
posted by Pearsword at 07:54| 富山 ☁| Comment(0) | 山行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年06月18日

「きれぎれ」町田康著。

 この小説は、すこしも美しい文章や文体で書かれていなくて、美文家の人が読んだら顔を顰めるに違いない小説だ。
 しかし、描かれている小説世界は、詩的ではないのだがある種の芸術性を漂わせていて、それというのも回想や過去、現実や妄想、最後には描く絵の内容と現実が錯綜して交流していることからくるアバンギャルド性のためであろう。かなり荒唐無稽な世界が描かれているのだが、友達の吉原の家にお金を借りに行って買っただろう絵具を使って、描く絵の内容が現実に溢れ出してきたところの、情景描写がすごく乱雑感が増していて、すごく大雑把に乱暴に素描され、どうもおかしいなと思っていたら、冒頭部の妻が焼きそばを食べるしぐさが出てくるのだが、このシーンの一致が、しかしながら冒頭部では家の中になっていて、ラストではデパートの屋上になっているのは、僕のような素人にはどうにも評しようのなく、貧相な想像力を精一杯使っても、現実の多面性の表現かななどと推測することしかできないのだ。
 しかし、この小説内にも描かれているように、名誉とか名声とか言うものは、そんなに本質的なものでもなくて、主人公の僻みや妬みばかりでない位、人間関係の巧さや狡猾さによって勝ち取られるような、浅ましいものなのかもしれない。この小説は、確かに以上の説明に依るように、かなり風変わりで、筋書きや描かれている世界が、アバンギャルド的である。しかし、そんなに上質な美のように思えないのは、もちろん僕が素人だからだろうし、しかし、素人に強かに本質的なものを訴えてくるものこそ、真の芸術だと思うので、この小説に関して言えば、それほど僕は素晴らしいと評せない。
 氏の小説は、ほかに「ホサナ」と「真実真正日記」を読んでいるが、前者は大作で名作だろうし、後者はユーモアの粋を尽くした傑作だろうとは思う。この二作を読んでいなかったら、この小説をそれほど面白いと思えなかったかもしれない。面白くないわけではないが、描写は雑だしユーモリズムも今一冴え渡っていない。二分法で行けば面白いうちかな、という程度である。
 しかし、それも相性なのかもしれないが、ほかの僕の嫌いな小説家の作品から比べると格段に面白くて、「ホサナ」や「真実真正日記」ほどではないにせよ、とてもユーモリズムの利いた小説である。魅力としては、一にも二にもアバンギャルド的小説世界であって、その支離滅裂的なものが、僕のこころを現代絵画のように楽しませる。しかし、それは例えば安部公房著の「壁」ほど凄まじくはないため、インパクトとしては中程度である。
 しかし、前半は普通の少し妙ちくりんな世界が描かれているので、そこでつまらないと思ってやめたらこの小説の半分も読めていない。最後のたどたどしく雑になっていく筆致と、最後に現実に回帰したようになる危うげな小説世界を読んで自分なりに味わないと、良さは見えてこない。なので、読みだした人は途中で辞めずに最後まで読んでみることをお勧めする。少なくとも、何ものかは感じることが出来るはずである。それが良い印象であれ悪い印象であれ、である。それが芸術というものであろうから。
 
posted by Pearsword at 16:56| 富山 ☁| Comment(0) | 文藝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年06月07日

さわやかな初夏に。

 先日、とやま同人誌会関係の合評会で知り合った先輩の神野さんに、小説本の印刷の相談を受けたので、いろいろお手伝いした。神野さんは僕の親くらいのお歳なので、今一デジタル機器に詳しくなく、ワープロは使えるがデータ編集などは苦手のようなので、僕がページ体裁を整えてPDF化して、簡単な表紙作成をした。そしたら大変喜んでくれて、拙著「癲狂恋歌」と妻の著書「ガラスの子供たち」を購入していただけた。後日読んでくださるようだ。
 僕は僕で、「つまささU」が少し前に脱稿して、あとは推敲を重ねるだけになったのだが、枚数は124枚ほどだが、ラストがどうもうまく書けていないので、もう少し枚数が増えるかもしれない。いずれにせよその程度の枚数なのだが、どこの賞というものも出すつもりもなかった。どうせ理解されないだろうし、しても無駄な努力ほど疲れるものはないのだ。ツイッターで山野辺太郎さんがことばと文学賞を紹介していて、大手出版社の主催でないので、あるいは理解される可能性もあるのではないか、などと思ったりもするが、枚数が合わないのでいかんともしがたい。
 神野さんとも話したが、受賞というのは努力が報われてするものではないという意見で一致した。いくら努力をしても、認められる人とそうでない人がいる。あるいは僻みかもしれないけど、僕より創作の労のないものでも、運などの条件だけで、受賞する人もいる。また、受賞したからと言って、プロになるほど小説を書き続けられるかというのも、かなりの確率で否定的で、多くの小説家の例にあるように、大手の受賞でなくても立派な小説家になる例が多い。受賞しても書き続けられない人もいるけど、受賞しないのに書き続ける人がいると言う点において、編集者の目はふしあななのかなと思ったりもする。
 とりあえず、僕のたのしみとしては、空華掲載やアマゾン出版、同人誌即売会しかなくて、そういうもので売れなければ、僕も俗物なのでかなり辛い。誰にも読まれない小説ほど、寂しい存在もないし、誰彼に読んで貰って何かを感じて戴けるほど、小説家冥利に尽きることもない。富や名声は、得られればそれもいいかもしれないけど、小説家の追う目的にするには、見当外れのような気がする。小説の創作の楽しみというのは、小説が技術ではなく芸術である点にあると思うのだが、それは技術をいくら磨き上げても、精神的に画期的なものが作れないからである。芸術は、精神的に画期的であることができる。精神的に画期的と言うことは、つまり感動を呼ぶことのできるものであるということである。
 小説の創作は、読書の面白さを伝えるものでなくてはならなくもある。読書するときに初めて小説が息づく。その穏やかな楽しみは、テレビドラマや映画では再現不可能のものである。最近の傾向として、なんでもかんでも売れたらすぐ小説を映画化しすぎであるが、それは小説の楽しみを却って奪うものである。音痴の人が音楽を絵で表わしたものを見て知ったつもりになったり、絵心のない人が絵画を表現した詩歌を読んで判ったふうになるのと同じで、アホらしいこと甚だしい。音痴の人には優しい調べ、絵心のない人には優しい絵画、文字嫌いの人には判りやすい小説、と言ったふうに、各芸術の基礎を教えて、それらの素晴らしさを伝えるようにしないと、鑑賞者のこころは豊かにならないと思う。
 とかまあ、今日もくだらぬ雑記でした。
posted by Pearsword at 18:08| 富山 ☀| Comment(2) | 迷い言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年06月05日

「季節の記憶」保坂和志著。

 この小説は、鎌倉の稲村ヶ崎を舞台にした作家中野とその息子、そして近所の松井さん兄妹を中心にした、コミカルな人間社会を描いたものである。中野と松井さん兄妹の話し合う内容は、保坂さんの嗜好ゆえがいやに哲学的で、日常的にこのような会話をする人はいないだろうなと思いつつも、もしそんな話し合いをできる友達がいたら楽しいだろうなとも、同時に思わせてくれる。
 中野の息子のクイちゃんがとても滑稽で可愛く描かれていて、実際の子供はこんなに可愛いだけではないだろうなと、へんに現実的に思ったりもするが、この小説内の稲村ヶ崎が現実よりおそらく美しく描かれているのと同様、そのある種現実を排した美しい舞台でやりとりされるコミュニケーション自体もまた、現実よりも美しく描かれている。
 これは、かならずしもリアリズムがないと言うことには繋がらないということも、この小説の教えてくれることの一つで、写実すればリアリズムが生起してくると言うわけでもないのだ。写実してもへたくそなら嘘くさいし、創作でもうまく描写するとリアリズムが出てくるのだ。この小説のような世界は、想定内の非現実であり、少なくとも読者にとって、共感してその世界に行ってみたくなる気持ちを起こすものだ。それは、稲村ヶ崎という固有名を使用しているが故に、稲村ヶ崎のすでにある美しいイメージを利用しているともいえるが、さらにそれを塗り替えうる可能性を持っているものである。
 二階堂という厳ついホモが出てくるが、この人もなんだかおかしげで、男の大人を怖がるナッちゃんの娘のつぼみちゃんに、すこしも忌避されないことについて、変に秩序だった理論付けをするのだけど、現実はこのようにすっぱり理屈どおり行かないし、こんな子供に好かれるホモというのも珍しいと思うし、また二階堂自身がそのような現実の理屈づけについて、あまり肯定的でないという内容を、中野にしゃべっていて、どうにも容易にテーマの見いだせない、それでいて哲学的思惟に富んだ複雑な話である。
 もう一人個性的な人物として、蝦乃木が出てくるが、中野に自分の経営する温泉街の会社のパンフレットを作成してくれと言うことで、自分で撮影した従業員の紹介ビデオを送りつけてくるのだが、それを見て中野が感動する場面がどうも今一情感が溢れていなくて、感情移入できない。その場面があったほうがいいのかないほうがいいのか、ということに関しては、この場面が小説のテーマを語るクライマックスだというふうに解釈すると、クイちゃんの好きな宇宙に思いを馳せた中野の想像も思い出すため、現実はすべて素晴らしいのだ、という宇宙全肯定的な仏教哲学じみたテーマが主題になりそうで、しかしそのようなテーマはあまり直接語られていないために、どうももともとパーツの適合しないおかしげなジグソーパズルのようにしか見えなくなるのだが、それは僕の読解力が甘いからだとか言われるだろう。それでも、読解力の強弱を越えて、普遍的に訴えるべくが芸術なのだから、僕の感想はこれでいいのだ。
 そのちぐはぐ感よりも、感じられる小説世界の情趣や情景美、登場人物の魅力、ユーモアなどがこの小説の主眼であるように、僕には思われた。もともと「プレーンソング」でも、そんなにテーマが重要とされていないわけで、その延長線上に考えるならば、僕の考え方もあながち見当外れでもなかろうと思うのである。
 というわけで、この小説はテーマを考えずに読むことの練習になるような、とても文学的な小説だと思います。ドラマチックなシナリオばかり読んでいる方々にこそ、ぜひ味わってもらいたい良作です。
posted by Pearsword at 18:05| 富山 ☀| Comment(0) | 文藝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年05月17日

「虹色と幸運」柴崎友香著。

 この小説は、柴崎さんの文学の特徴がよく現れている一作だと思う。
 はじめ、同じ章なのに行開けもせずに多元焦点的に語り手が代わるのでかなり混乱するが、読み進むと主人公が三人いるためだと判る。三人が同居する節では、どうしても改行ごとに語り手が代わることになってしまう。手法的には新しい方法のように思うけど、少し違和感を感じた。
 ともあれ、それにめげずに読むと、相変わらずの柴崎さんの描く小説世界の趣に触れることができる。彼女の小説のよさは何であるか、そんなことを僕がどうこう言うのは間違っているのかもしれないけど、少なくとも僕が好きなのは、描かれている小説世界の、シックというかお洒落というか、そういうえもいわれぬ美しさや、あまり悪い人が出てこない平穏な優しさ、などであろうか。現代の読者が求めているのは、もっと過激なもののほうが多いのかもしれないけど、こころを豊かにするにはあまり激しいものよりも、こういう平和でユニークな作品の方がこのましく思われるのである。
 三人の主人公が出てくるけど、この中で誰に一番共感を持てるかというふうに読むのも、面白いかもしれない。僕は、個人的に水島珠子がもっとも好きで、というのは子供が苦手なのに気を遣って得意のイラストを書いたりお土産におもちゃを持ってきたりするし、彼氏ができないので友達の春日井夏美に紹介されたような形で長谷川和哉という男と写真を撮りに行くけど、帰り道の焼き鳥屋で幻滅して、結局は大学のデザイン科で一緒だった日菜ちゃんの仲介で再会した元カレ森野と再びつきあい出すけど、なかなかうまくいかないとか、人間関係に不器用なところがとても好感が持てるのだ。春日井夏美も、明るくて周りに気を遣うやさしい女の子だけど、弟のシンくんと付き合ったレナにも好かれるように、うまく適応する人物なので、嫌いではないけどやはり珠子のほうの肩をもってしまう。もう一人の主人公の本田かおりはというと、教務をしている大学の学生と同棲するという、自由な恋愛をしていて、主任にも昇格して、かなりうまくいく人生だ。
 まあ、そのような三人が交わる人生の一場面を、この小説は描いている。しかし、三人ともの心境が書いてあるが故に、理論的にも非現実的で、そんなことを言わなくても小説は虚構であることに関しても、読者を目覚めさせる力があるのではないという気もする。
 何も特別起こらない、というようなことを柴崎さんは自分の小説に対しして言われるようだけど、何か事件が起こる必要があるのかな? とも疑問だし、小説の作品を楽しむときに、そのものを判る人は、たぶん彼女の世界の個性的表現が理解できるはずだと思う。事件というのは、起承転結やドラマチックといったようなことであるし、そういうのはむしろシナリオ的で、映画やドラマに代替できるものである。文学というのは、文章でしか表現できない芸術である。絵画が写真やビデオで表現できない世界であるの同様の理屈である。文学は文章芸術である。
 むしろ、小説家の個性が理解できるかということが関係あるかもしれない。柴崎さんは、読者に楽しんで読んでもらいたいというサービス精神があると言う話だが、そういうエンターテイナー的なこころすら、嫌いな人は嫌いだ。読者に媚びるのは嫌だとか、誰にも邪魔されずに表現したいという人もいるだろう。しかし、作品は人間の作るものである以上、人間に訴えてこそ意味がある。人間に何の感想をも持たれない何かは、作る甲斐もないと思うのだ。そういう意味で、彼女の作品を好きな人は、たぶん文章好きなのであり人間好きなのであろうと思う。
 平和な彼女の文学が、もっと多くの人に楽しまれることをこころから望むものである。
 
posted by Pearsword at 20:26| 富山 ☁| Comment(0) | 文藝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年05月16日

今日は風が強かった。

 何か書いておかないと、ブログが死んでしまうとか、なかば義務的なことを感じてしまって、ただの雑記を書いております。
 最近は、めっきり外に出られなくなって、ストレスが過剰なのか、症状がきついこと極まりないです。それで、昨日も幻聴にやられて妻に怒ってしまったのですが、優しい妻はそれをやんわりと受け止めてくれて、そのあと僕の妄想体系について、すっかり打ち明けました。すると、とてもすっきりして、昨晩はよく眠れました。妄想は、日に干すことが大切なのかも知れません。今度、主治医にもすっかり話そうと思います。
 今日は、それで割合調子が良く、朝から小説を5枚書きました。仮題「つまささU」は、お陰様で80枚に達しました。どこの賞にも出さずに、空華にそのまま載せようとか思ってますけど、それは出版社が何を書いても認めてくれないからであって、たぶん僕の書くような小説は、一生日の目を見ないのだろうと思います。
 今日は、よるにtoi booksのネット企画で、柴崎友香さんと高山羽根子さん、太田靖久さんの出演する対談があって、それを見る予定なのです。とても楽しみにしているのですが、午前に執筆したせいか、少し疲れていて読書したい気も失せていて、妻に提案して「TOWER OF TH SUN RE-BIRTH 再生・太陽の塔」というDVDを見ました。これはたぶん、万博記念公園で、生命の樹を観てきたときに買ったのではないかと思っております。生田緑地も行きましたけど、そのときは「美の呪力」を買ったように記憶しておりますが、今一曖昧です。
 それで、その鑑賞の時に、妻が気の散ることをしてしまって、僕は瞋恚を抱いて、それがもとで幻聴の会話が始まってしまったのですね。すっかり気を悪くして、DVDにも集中できなくなってしまったのですが、後から和解したときに、妻の悪意のなさがよくわかって、いかにも瞋恚は仏教でいう三毒だというのが、よく骨身にしみたことでした。怒って良いことは何一つありはしない。仏教では、こだわりのないこころや、寛容なこころが、もっとも大切であるように説かれているように思います。個我にこだわらず、怒る機会を少なくし、こころ静かに過ごすとき、平安な境地でしずかに過ごせるのではないでしょうか。
 そのあと、少し早いですが、久しぶりに湯船に浸かりましたが、その前後に読書も出来て、なかなか楽しい一日になりました。これも僕の至らぬ部分を、妻が優しく許してくれたからだと思います。ありがたく思わねばなりません。ようやく最近、僕の「食えない小説家」人生が稀有な運命であるとしみじみ感じられてきて、ありがたいお恵みだなあと、仏様の妙技にただただ感心するばかりです。世間はあまり僕らのことを高く評価はしないでしょうけど、僕らはなかなか面白い人生を歩ませて戴いております。それも、みなさまのおかげですし、仏様のお慈悲です。
 コロナの大流行も、まだ予断を許しませんけど、だいぶん収まってきました。犠牲者も多く出てしまい悲しい天災ですが、生き残ることをありがたく思い、残りの人生をできるだけ有意義に、生き抜いていこうと思います。僕は、小説をまだ書かねばなりません。妻に捧げる第二作目のあとは、実母に捧げる小説を書くつもりです。そのように、作品をだれかれに捧げることは、とても有意義なことだと思えます。残りの人生、そのように生きていけたらな、と思います。
posted by Pearsword at 17:10| 富山 ☔| Comment(2) | 浮泡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年05月05日

新型コロナウイルスは、精神にも感染するのか……。

 どうも最近、コロナショックによる外出自粛の所為か、幻聴がよく聞こえてきて、妻と喧嘩ばかりしている。それというのも、僕に妻に似せた声で、腹黒い声が聞こえてくるからである。そこですでに、症状が再燃してしまって、他人の本音がテレパシーで伝わるという実感が戻ってきてしまうからだ。妻が僕を何らかの理由でだましていて、僕はもてあそばれているだけというふうになり、そうなると地位もお金も何もない僕としては、妻にすら裏切られたことになり、人生に何も報われるものがなかったということになって、僕はすべて虚しくなってしまうのだ。生きる気力も無くなり、もう疲れた、静かに死にたい、となるのだ。
 大げさに思うかもしれないが、僕の症状はかなり酷く、発症当時の会食恐怖や加害者意識まで、フラッシュバックしてしまった。妻の献身的な抱擁とそのあたたかみによって、僕は再び妻の優しさを実感することが出来、なんとか人心地をつけたのだった。この筆記も、幻聴に先取られてしまい、タイプしようとする先に、誰かが文を読み上げるので、僕の書きたく思う言葉がかき消されてしまい、正確に自分の文章が書けない。相当、症状が悪化している。仕方ないから、頓服のリスパダールを飲んだ。
 かなり現在、ナーバスで病的になってしまっていて、全ての行動が意識的にぎこちなくなる寸前になっている。発症当時は、すべての不随意運動まで、意識的にしか出来なくなっていて、ぎこちない動作を苦しい中にしていた。それが、中学校の理科の先生が、ヨガの行者は心臓を動かせるという話をしたことがあって、もしかしたら僕も心臓を動かしてしまうのではないかと強迫観念に駆られて、心臓が痛くなることもあった。そういう心筋の痛みは、かならず寝こみに襲ってくるので、不眠がちになったりもした。
 何か、気分転換が必要だろうと思うので、明日は少し妻とドライブでも行ってくるつもりである。外出自粛要請の中、その禁を破ってのドライブになるが、こちらももう限界である。こう引きこもってばかりだと、頭が持たない。本当に再燃したら、入院しなければならない。そしたら妻は、極端に症状が悪くなるだろう。二人で助け合って生きていかねば、精神障碍者の夫婦の我々は、生きていけないだろう。今も、幻聴であざけりの声が聞こえてくる。筆記を操り嘲り笑って、僕のこころをボロボロにする。人の本音がこうだとしたら、百人が百人、人間不信に陥るだろう。それくらい、最低の嘲り声だ。
 
 幻聴のあざけり声を恨めども君のぬくもりこころと等し

 この歌も、かなり幻聴に刺されながら書いて、ボロボロだが、ここで表現をあきらめていては、僕の人生ではない。妻が僕を必要としていてくれる限り、僕はしっかり文筆家でなければならない。自分の人生を捨ててはいけない。それは同時に、妻をも捨てることになるから。
 症状がかなり亢進してきて辛くて仕方ないが、いつもこうではないので、明日は少し改善しているかもしれない。希望を捨てないで生きていこうと思う。
posted by Pearsword at 20:32| 富山 ☁| Comment(2) | 浮泡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年04月24日

「カンバセイション・ピース」保坂和志著。

 読むことの出来る本は数が限られていて、一生の中で出会える小説も数少ない。だから、知っている中で大切に、読書をしていきたい。そんな思いで、「小説入門」に感化され「プレーンソング」に感銘を受けた保坂さんの小説をまた読んでみた。
 この小説は、保坂作品の中でも特に文章が冗長なのではないだろうか。一文が異様に長くて、なかなか述語が来ないので、こころを容易に預けられないような緊張感があって、それでいて矢継ぎ早に語られる修飾語により、リズミカルに物語が展開する。そのため、美文家がみたら何とも無様な文章だと評するかもしれない。しかし、描かれている小説世界はとても美しい。それは、いわゆる描写的美しさではなく、文体は至って簡素なのに、その言葉群で語られているイメージが情趣溢れているというか、「プレーンソング」のような静謐な美しさもありつつ、そのうえ更に別の要素が加えられていると言おうか。それでいて、とても繊細な世界が描かれてもいる。
 はじめは、祖父の建てた世田谷の古民家の間取りが書いてあって、そこに子供時代をともにした珍妙な従姉妹兄弟たちが出てきたり、そこに今は間借りして会社経営をしている友達が出てきたり、「プレーンソング」並みのありえない設定と細密な描写に、その世界自体を楽しめるのだが、そのうち横浜ベイスターズが出てきて野球の話になって、なんだずいぶん大衆的だなと思わせておきながら、その観戦の中にとんでもない哲学的思惟が成されて、その続きがまた世田谷の古民家で行われる。「プレーンソング」は、小説世界の美しさだけしか読み取れなかったし、それで充分だったけど、この作品はその小説世界の美しさの上に、哲学的問題提起が成されているのだ。
 小説ではよくネタバレをしないでくださいというが、この小説は際だったドラマはないし、そういう意味でのネタバレはすることもできない。ただ、小説家内田とその家で会社をやっている従業員三人、初めに出てくる内田の従姉妹兄弟、妻の姪のゆかり、飼い猫の三匹などの、共同生活がだらだら書いてあるだけだから、ネタも何も無いのだ。しかし、別の意味のネタとして、哲学的思惟がある。この小説の妙な牽引力をなしているのが、この哲学の謎かけである。
 それは、従姉妹の奈緒子姉がむかし風呂場で見たという幽霊のようなものの考察から入っていき、「私」や「見る」とはどういうことなのか、「神」とは何なのか、などということについての内田の、もっともらしくもどこか真実とはズレているような考察により、小説全体を通じて成されるものだ。この小説を読んでいる途中に、僕ははっと我に返った。これは哲学書ではなかった! 虚構なのだ! と。それくらい、巧みに読者の悟性を試す小説だろう。つまりは、この小説に語られる哲学は、内田のフィクションの上での考え方にすぎないのだ。
 それでも侮れないのは、その哲学があるていど現実に即しているからで、正直どこまでが虚構でどこまでが現実的哲学であるかが判らない。そのトリックに、読者は舌を巻かれることだろう。そのような哲学的思惟をクライマックスに持ってくるも、小説に描かれた世界はとても美しくて、そこに住んで一緒に内田たちと歓談したくなる。それがこの作品の純文学的美しさであり小説的なところであろうと思う。
 直訳すると「会話の平和」という題名だが、そんなものでは決してなく、もっと深くて艶のある味わい深い作品であった。
posted by Pearsword at 17:30| 富山 ☁| Comment(0) | 文藝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年04月20日

名声と文学。

 小説家志望の人々には名誉を得ようと努力する人が多いように思う。僕も、若いときには、栄誉を志していたし、それはごく当たり前のことのように思われる。しかし、僕のように名誉から見放されてしまうと、そんなものを得るために文学を利用する人々が不純に思えてきた。僕も、そういうなかの一人だったのだが、目を覚ましたと言おうか、気付かさせられたと言おうか。
 たぶん、作家と小説家の線引きもそこなのだと思う。栄誉やお金を得るために文学を利用する人々が作家で、貧乏でも芸術性を求めて文学を極める努力をする人々が小説家なのだと思う。文学とか芸術とか偉ぶるけど、じつはそんなたいそうなものでもない。芸術などというものは、本来ただの遊びごとにすぎない。文章で読み手を楽しませるだけで、その創作のときに感じる達成感とか喜びというものが、芸術の本質であろう。その喜びは自己満足ではなくて、鑑賞されたときの感情と共鳴すべきもので、感想を予期しているとも言える。芸術は、コミュニケーションを下地にしてあるもので、たぶん、誰にでも出来る創造である。誰かに向けて作る何かが、そのこころと相俟って、芸術だと思う。手紙などでも、相手を思い遣ったり為を思ったりして書けば、充分芸術なのではないだろうか?
 しかし、プロの小説家の中には、おそらく自分は文章を書くのが人一倍巧みな天才だと思っている人もいるだろう。そういう人は、他人を上から目線で見るから、こころが伴っていない。読まれて当然、人々が感動して当然。自分は文章の名手であり、その巧みさが美しくて価値があるのだと。そう思うのは、読み手に対する優しさに欠けて、たぶん「こころ」が伴っていない。そういう人はおそらく技巧に走る。だから、芸術が形骸化する。却って、文章の技術者に堕するのだ。
 芸術というのは、なんであれ人に感情や思想を伝えるものである。そこに感動の生まれる余地もあるし、人々は影響され、自分らも何かしらの創造をしたくなるのだ。それが芸術の力であり、創造力のすばらしさである。誰しもが自分だけのものを創造できる。それは、自分だけが思う人がいるからである。誰かに向けて優しく語りかける創造をするとき、その人は芸術家なのである。
 だから、芸術は名声を得るためと思う人は、芸術が判っていない人なのだ。その人は自分のために、ものを形だけこさえる工人だからだ。エゴイストであり、ことによると自己満足でしかない。そういう人は可哀相ではあるが、こころがけを変えない限りは、周りから何を言っても無駄だろう。周りの善意もたぶん判ろうとしないはずだから。
 僕は、名声に見放されて思ったことは、栄光など得ない方が幸せなのだろうということだ。現在、愛する妻と二人きりで悠々自適に暮らしていられる、その生活のどこが不幸だろうか? 何も不自由はないし、他に望むべきことも無い。欲は細い方が幸せになれるのだ。欲ばかり多いのは、餓鬼道のたぐいなのであろう。また、もともと文学というものはストイックにみえるものだ。その実、当人はそれほど苦しくもなくて、その静かな境遇が楽しいのである。そんなに派手ではないけど、落ち着いて静かに楽しめる、それはまさに読書の愉しみそのものであるから。
 芸術のモデルとして、フロイトなどは性欲の象徴としての意味を想定したようだが、近年認められてきたように、環境美といったような「コンフォート性」が、僕の場合は一番しっくりくる。壁に掛けてある絵画は、それに女性を投影して発情するためのものではなくて、環境を個性化して楽しい生活を彩るためのものである。すべての芸術に、僕は「コンフォート性」が必要であるように思う。そういうときに、僕も自分の書く小説は、たとえ好きな人のために書くものであったとしても、その人を静謐な気持ちにさせるものでありたいと思うものである。
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2020年04月10日

第六十三回群像新人文学賞、落選。

 群像新人賞の結果が出た。
 おおかた予想はしていたが、実際にまったく選考に残らなかったことをみて、苛立ちが募ってきた。どんなに斬新な作品を書いても、僕がメンヘラだからか、絶対認めないつもりなのだという、偏見に満ちた悪意を感じた。出版社というのは同業だから、大手同士情報交換して仲良くなってるのかもしれず、僕を認めるとメンヘラ小説家の誕生と言うことで、文壇の名前に傷か付くと言うことなのかもしれない。あの作品でまったく何も感じないのは、どこかの痴呆か何かだけだろう。読めば何かを感じる。それを、問題視せず選考に残さないというのは、明らかに差別であり、公平さに欠けるのである。20200408_031931138_iOS.jpg
 出版社というのは、大体においてエリート集団だろうから、学閥が出来ていると思って差し支えないだろう。東大京大早稲田慶応などの面々が、会社において重要なポストに就いているのだろう。だから、東京農工大学卒などという、自分らが低級とみている大学出身者は認めたくないのである。また、文学のプライドみたいなのがあって、健常者でなければ正しい文章を書けないとでも思っているのだろう。その証拠に、メンヘラで小説を書くものは多かれど、プロのメンヘラ小説家がデビューしたという話は、今まで聞いたことがない。エリート意識で高慢ちきなヒエラルヒーの中で文学を語るえせ識者の集団が、文壇なのだ。まともな小説家は非常に少ない。
 僕が好きな現役小説家は、柴崎友香さんと、保坂和志さんと、町田康さんくらいのもので、そのほか、大江健三郎さんの小説は一度読んでとても美しい物を感じたので、また読んでみたい気がしているがまだ読んでいないのでなんとも言えず、亡くなった小説家であれば、安部公房さんとか、もっと古典であれば、やはり芥川龍之介であるとか、いろいろ個別に尊敬できる小説家は存在するが、現代のたとえば芥川賞選考委員の小説を、いくつか読んではみたものの、素人のネット小説よりつまらない小説が多いと思った。僕の感性は、あきらかに文壇や出版社とはことなるのであるが、そもそも出版社は、本当に芸術性を大切にしているのかということを、常々思う。ただ売れれば良いという動機で、出版社は雑誌を作っているように思えてならない。現代はメディアが多様化してきていて、普通の書籍は売りがたいからと言って、たとえば読売新聞が週刊誌のように俗的な記事になっていったのと同様、売り上げを伸ばすために、文芸誌も大衆の好む芸術性の低い週刊誌のような本になってきているのではないかと、僕は思うのである。
 芸術というのは、鑑賞者の感性を開発する手助けをするものでなければならない。感性を平和で豊かに開拓し、人類や地球の平和を目指す者こそ、真の芸術というものだ。今はやりの言葉で表現すれば「持続可能な世界」を形成するための芸術でなければならない。いたずらに大衆の精神的渇望を満たすだけのもので有ってはならないのだ。芸術は、確かにただの「あそびごと」だ。しかし、人間はどうやって遊んだのか? 真のあそびとはなにか? そういう深い考察無しに、芸術は成り立たない。なぜ芸術が必要なのか? そんな資本主義経済に根付かないものを、なにを好んで人類は必要とするのか? そういうことを、出版社はまともに考えようとしない。
 確かに、紙媒体は現在とても売れない先細りと思われているものである。しかし、だからといって内容を大衆的に凡俗的に廉価化して、大衆の感化という本来の文芸誌の目的を捨てて、売り上げ部数だけを上げようとする今の大手各社のやり方は、やはり日本人はエコノミックアニマルと言われて仕方のない類人猿なのだなと思わざるを得ない。金がそんなに重要なのだろうか? 金など虚しいことにどうして気付けないのか? お金など最低限もっていればなんとでもなるのに、人よりも一円でも得したいと思う浅ましい乞食根性を、エリートの癖してもっている成金編集者があまりにも多すぎるように思えてならないのだ。
 なので、僕は出版社に投稿することを辞めることにした。そんな成金学歴猿どもに何を訴えても、見ざる聞かざる岩猿だ。轅を北にして越に向かはんがごとし、面を南にして北斗を見んがごとし、詮無きことである。大衆にじかに訴える方法を、外になにか考えようと思う。もともとマスコミは浅ましいものと判っているのだし、もう文学賞はたくさんである。あんなものは、名声をえるための泥沼の戦いに過ぎす、芸術からは程遠いのである。
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2020年04月04日

新型コロナウイルスの大災害について。

 ちまたでは、死者が六万人に達しようとしている危険な時節ではあるが、日本でもようやく東京が医療崩壊する瀬戸際だなどと、政府が鈍感な政策を振るっている。他の先進国でも、医療崩壊が起きてしまって大流行を防げないのに、現首相は手をこまねいてみているだけで、お肉券とかお魚券などと、まるで国民を莫迦にしたような政策しかしないし、その延長線上のガーゼマスク二枚支給には、どんな右翼の人も正常な頭を持っていたなら、莫迦にされていることを理解するに違いない。現政権は、この大災害においても、何ら実効的対策をとれなかったのだ。
 東日本大震災を思い出す。あのときも、NHKなどでこのままでは福島第二原発の原子炉が、メルトダウンしさらに危険なメルトスルーが起きます、と再三に報道していたのに、政府は何も出来なかったし、放置プレイで核汚染を山野海浜にばらまくことになった。現在の状況も、ほぼ似たようなものだ。いかに日本政府が暗愚かが、よく判るのである。高い税金ばかり取っておきながら、いざというときに何の実効的政策をも行えない、どの政党がやっても、日本の政治家はどうも暗愚な者が多いようで、災害を防ぐどころかひどくする傾向にあるようだ。
 そのような愚昧な政府に戴かれている我々としては、自分の身は自分で守るしかないと、つくづく思う。医療崩壊は、ほぼ免れないだろう。死者も国内で一万人くらい出るかもしれない。それだけで済むかどうかも、現政権ではあやうげで、僕もいつ感染して死ぬかも判らない。一部の薬を試す方向のようだが、安倍首相の判っていないところは、一年したらワクチンが出来ます、と恥気もなく言いのけたところだ。ワクチンというのは、予防の効果しか無くて、病気の治療には全く効かないのだ。一年間のうちに、新型コロナウイルスに感染する人はかなりの数に上るだろうし、それからワクチンを投与しても、それまで掛からなかった人の、ある程度の予防にしかならない。罹った人は切り捨てるという、国民を国民とも思わない本音が、このような一言に如実に出ているのだ。
 新薬の開発に予算を割くべきことは、以前から僕はツイッターで訴えていたが、東京オリンピックなど諦めて、その財源を全てコロナウイルスに対する医療費に充てるべきである。選手村も患者に開放して、入院施設や病棟にすれば良い。そういう英断を出来る為政者が、今の日本には全くいない。目先の自分の利益しか考えていない。そもそも未来が見えないのだろう。愚かしくて嘆かわしい政治家たち。コロナウイルスから日本だけは逃れられるとでも思っているのだろうか? 今だに天皇は神様で日出づる国と思っているのではないか? 靖国神社の参りすぎで頭がおかしくなったのか? 首相は新興宗教の教祖並みの迷妄にまみれているのか?
 とにかく、僕は腹を決めた。こうなってはいつコロナに感染しても不思議はない。死ぬときは死ぬ。そのときになっても、仏様に救って戴いている僕は、安穏に成仏しようじゃないか。その方法を妻にも教えて、この危うい二十一世紀初頭の、いずれ残りわずかな人生を、二人で生き生きと生きていこうではないか。政府などに何も期待できない。一般人として、精一杯の予防をして、罹ったら仕方が無いと諦めるほかない。政府を恨んで死ぬほど不幸なことはない。国家権力は腐っていても強いし、それには反抗できないからだ。恨むこと自体救いの道ではない。すべて仏様のお導きと思って胸に納めれば、政府も許せると思うものである。
posted by Pearsword at 13:29| 富山 ☁| Comment(0) | 世事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年03月21日

第四十四回すばる文学賞応募。

 仮題「莫迦は懲りない」は、当初文藝賞向けに、しかも柴崎友香さんに捧げる小説として、創作され始めたものだ。しかし、創作途中で気が変わって、河出書房新社に認められるのは無理があると見切りをつけて、すばる文学賞に応募することにした。
 去年、「ジオハープの哀歌」を柴田淳さんに捧げるために書いたものを、文藝賞に応募した。結果、一次すら通らず、選ばれた受賞作は「かか」「改良」だった。どちらも、それほど痛く感動できるものではなかった。「ジオハープの哀歌」は、テーマもかなり重いし一種のサクセスストーリーでもある反面悲しげな人のさがというものも描いていて、まったく評価を受けないことに、僕は一時期悪意すら感じた。精神障碍者差別ではないかと思った。しかし、河出書房の方々には一生僕の文章を判って貰えないだろうと見通したときに、かえって賞のうつろさを感じてすっきりした。受賞するものがすばらしいのではない。受賞することによって、小説家は名声を摑むのである。賞とは、芸術を紹介するものではなくて、名声を競い合うためのイベントでしかないのだと思った。
 だから、僕は河出書房には、もう一生出さないだろうし、これは河出書房にかぎらず、外の出版社も似たようなもののように思えるのだが、それを確認したら、僕は文学賞に応募することは辞めるだろう。出版社の人達に、本当の芸術は判らないと思うからだ。芸術で優劣を競うこと自体芸術的ではないのだし、大抵ろくにおもしろくもない凡庸な作品を取り上げて、学歴社会を剛健に保持するだけなのだ。学歴のない人は極めて受賞しにくいのだ。学歴か著名度がないと極端に不利なのが実情だろう。
 まあ、今回の小説も、河出書房に仮題を「莫迦は懲りた」に変更させられつつ、266枚まで書いた。自身最長の小説でもあるが、内容もかなり充実している。作中小説が出てきて、それを粗筋だか一章を使って、すべて書き込んだ。その小説を書いた青年にまつわる話なのだが、たぶん集英社でも同じような結果だろうと、僕は悲観している。出版社なんて、売れるものしか受賞させないし、話題性のない作者など、はなから相手にしないのだ。最近は小説家もビジュアル系が多いから、僕のようなぶおとこは、そのような点でも不利なのだ。
 まあ、柴田淳さんに捧げて思ったけれど、受け取って貰えるのは本当に嬉しくて、彼女が僕の名前を覚えてくれただけで、充分書き甲斐があったというものである。誰かに小説を捧げるという書き方は、「花に贈る……。」から始めたことだったが、「癲狂恋歌」も妻に贈って読んでもらって、とても嬉しかった。誰彼に読んでもらって喜んでもらうのが、名声を摑むより余程幸せなことなのだと思う。
 道元禅師の師匠如浄禅師は、当時中国皇帝からの招聘を再三に断り、名声から身を離してつとめて静かに禅の生活を送った。禅というのは、少しも求道的ではなく、すでに無上菩提は捨てていると思うのだが、そのときに残るのが、仏教哲学であり静かな生活なのだ。名声を得て派手派手しく生きるより、人知れず静かに生活した方が、どれほどか平和であるかということを、どれだけの人が判るだろうか?
 まあ、こういうことを書いても、ただの負け犬の遠吠えなどと思われるのがオチではあるが。
posted by Pearsword at 13:26| 富山 | Comment(0) | 創作 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年03月16日

はじめての合評会。

 さる三月十四日に、無刀会の合評会をはじめて開いた。合評というだけあって、ほかの同人の方も呼ばねばならぬと、あちこちに声をかけたが、結局来ていただけたのは、とやま同人誌会の老宿の神野さんだけだった。神野さんは、一通り空華第一〇号の感想を述べたが、お忙しそうで討論には加わらず、中座なさった。しかし、同人内でも活発に意見交換がなされて、とても充実した時間を過ごせた。
 僕の第一〇号掲載作は「恁麼」だが、この抽象度でもみなさんしっかり読んできてくださったのが、なによりもこのうえなく嬉しく、感想も興味深かった。宇宙の開闢史に似ているという意見から、悪というものがエゴにより自然発生的に出来ていくようだという感想や、最後のエピローグがあった方がいいのかないのかという指摘など、すべて興味深く戴いた。今後の創作の糧にしていこうと思うのものである。
 このように思うと、やはり小説というものは、読まれてこそ価値が感じられるものであると思った。僕は、さいきんだれそれに捧げるようにして小説を書いているが、そういう書き方が甲斐のあるものなのは、曲がりなりにも捧げた相手に読んでいただけるからである。出版社相手だと、ろくすっぽ正当に評価されないばかりか、下手をすると初めの三行くらい読んで偏見を抱かれて、あとは斜め読みされるだけなのではないかと思われるような現状である。いくら自分のベストを尽くしても、選考に全く引っかからないばかりか、受賞作のどこが画期的なのかまるでわからないし、受賞者と選考委員の対談などを読んでも、どうも見当はずれだと思われるような記事が載っていて、本当に日本文学に未来はあるのかと、訝しく思ってしまうばかりなのである。
 たしかに、とやま同人誌会の同人誌を読んでも、あまり感銘を受けないのも事実だが、プロの作品だからと言って、かならず感銘を受けるわけでもなく、いい加減に作ったんではないかと疑われるような小説も、あちこちに出回っているし、現代の日本文壇は、名声を得るために小説を利用している虚栄心の塊のような人たちの溜まり場のような気がしてならない。有名になりたいから小説を書くというのなら、まだお金目当ての方がマシのような気がする。小説の目的が、現代の文壇には見失われている気がしてならない。
 小説は、芸術だとかなんとか大層ぶると余計上述の人々が偉ぶって勿体ぶるだけなので、そんなことはここでは言わない。今度の仮題「莫迦は懲りた」にも、小説の目的というか書くものの考え方のようなものを、中にテーマとして含ませているが、小説は誰かのために書いた方がいいと思うのである。その対象が誰であれ、その人たちのためになるように、その人たちが少しでも元気を出せるような、あるいは慰められてここが癒えるような、そういう世界を文章で形而上学的に作るのが、小説の文学のような気がするし、それは映画や絵画などには決して出来ない、とても穏やかで香り高いものを提供できると、僕は信じているのだ。つまりは、言葉はイデア的な理想世界を形成できるからだ。
 そういうときに、あまりにも現代出回っている各賞の作品は貧弱すぎるし、あるいは乱暴で珍奇で下劣で派手すぎるのである。もう少し平和なこころの文学を出回らせてほしいものだが、文壇の趣味はとことん悪い。逆に言えば、文壇の珍奇趣味の所為で、僕の小説は一向に選考に引っかからないとも言える。読者を増やす手段として、受賞はとても有効な手段ではあるが、ことさら読者を増やす必要もないのかもしれないなどと、この合評会を通じて思った。
 捧げた人に読んで戴けたら、それで充分ではないか。
posted by Pearsword at 15:57| 富山 ☁| Comment(2) | 浮泡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年03月07日

執筆と幻聴。

 小説家が統合失調症になりやすいのは、なにかそのような医学的あるいは生理学的原因があるのだと思う。
 僕の妻も、アマプレベスシリーズを、幻聴や幻覚に苛まれつつ戦いながら執筆した。僕も、執筆困難になるのは幻聴を始めとする精神症状の所為だ。僕の場合には、書く内容がキーボードに打ち込むと共に他人に伝わり、それに対して非難の幻聴が聞こえ、やがてその幻聴が僕の文章作成を先取りして、自分の思うように書けなくなる。初めて、ワープロで打ち込む音が他人に漏れる感覚になったのは大学時代で、その時僕はパソコンで何らかの文章を執筆していたのだが、格好付けるな、とか、知ったかぶりして、などと罵られ始めたのが始まりだった。
 その思考伝播という症状は、やがて読書時にも拡がっていき、読書しようとしても、非難の幻聴が聞こえてきて、こころが痛かったり頭が混乱したりで、読書恐怖になったのだが、それでも僕は本にかじりついた。意地でも読もうとした。特に、ユング心理学の難解な書物などを読んでいたので、それに救いを求めていたと言うこともあるだろう。
 しかし、そのような症状は一向に止むことがなく、若いうちは追われるように読書し執筆していた。それらは、加齢と共に大分弱まっては来たが、今でも残胃症状が残っている。
 小説の創作は、達成感がかなりある。それは、端的にドーパミンが多く分泌するということである。小説家が統合失調症になりやすい原因の一つは、そのような神経伝達物質の大脳生理があるのかもしれない。
 僕が、最近このような症状を遠ざけるために考えている方法は、思考伝播は妄想でしかないと客観視することである。統合失調症の人は、まず信頼できる人をつくるといい。そして、その人に色々思考伝播的に話し掛けてみて、頭の中で返ってきた答えを頭に置いておいてから、同じことを声に出して聞いてみると良い。まあ、十中八九、違う答えが返ってくるだろう。そのようにして、現実と頭の中は随分と異なることを弁えて、テレパシーが聞こえていても、これは幻聴なのだと、明らむるといい。
 これを助ける心理学的仮説を僕は持っていて、それは「コンプレックス」の話である。つまり、幻聴というのは、自我をコントロールしたい抑圧された無意識としてのコンプレックスの表れ出たものであり、だから自我たる僕は頭にくるし、影響されて操られてしまうのである。つまり、心理学的に言えば、それらは全て自分の無意識としてこころの中にあるものであるから、自分の頭の中の出来事なのだ。たとえ、幻聴に操られたようでも、その人自身の作った言葉でしかないのだ。
 そのように思うようにすると、苛立ちもいくらかおさまると思う。統合失調症の人は、ぜひお試しあると良い。
 ただ、やはり幻聴の声のままに書くというのは、どうにもおかしい文章になってしまうもので、そこは僕は一生懸命、ニュートラルのこころを保つようにして、文章を作成して執筆するようにしている。文章を書くことには、なんだかんだ言ってプライドがあるのかもしれない。いい加減な文章を書きたくないし、とくに小説は誠心誠意尽くして真剣に書きたい。
 たぶん、創作というのは神経質にならざるを得ない真剣さを要求されるものなのだろう。真剣に執筆すればするほど、統合失調症になりやすくなるのだと思う。神経質になることが、統合失調症の始まりなのだと思う。
 
posted by Pearsword at 16:53| 富山 | Comment(0) | 症状 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月21日

応募する賞の選択。

 今回の「莫迦は懲りた」は、仮題通り少し懲りようかと思った。つまり、今回も落選であることを肝に銘じておかねばならないと思った。
 となれば、応募するのは締切りを設けて自分の作品を効率よく仕上げるためでしかなく、落選が発表されたらすぐさまアマゾンで出版して柴崎友香さんに差し上げることになるのだ。それなら、何も文藝賞に拘る必要もないのではないかと、考え出した。
 しかし、文學界新人賞や群像文学新人賞は期日がまだ先で、次の小説の妻へ捧げる第二弾(仮題つまささU)がその時期まで出来てしまうだろうから、自然、新潮新人賞かすばる文学賞か文藝賞かのいずれかになるのだ。選考委員を見てみると、文藝賞は磯崎憲一郎さんと村田沙耶香さんと島本理生さんと穂村弘さんで、すばる文学賞は奥泉光さんと金原ひとみさんと堀江敏幸さんと岸本佐知子さんと川上未映子さんで、新潮新人賞は大澤信亮さんと小山田浩子さんと鴻巣友季子さんと田中慎弥さんと又吉直樹さんだ。このうち、僕がその著書を読んだことのある選考委員は、金原ひとみさんと又吉直樹さんだけで、両方とも芥川賞受賞作を読み、前者は嫌気が差したが後者は感動して涙が出た。文藝賞の選考委員で名前を知っている人のは全てだが、磯崎さんは保坂和志さんの掲示板で紹介して貰っただけで、村田沙耶香さんは芥川賞受賞作の題名が嫌であまり良い印象がなく、島本理生さんは直木賞なのであまり読んでなくて、穂村弘さんは短歌関係のツイッターで名前を知った。要するに良く判らない。
 選考委員からは何も選べなくて、一番まともなのが芥川賞の選考委員のいるすばる文学賞だとは思うのだが、奥泉光さんの著書を前に読もうと思って検索したらミステリーのようなので読みあぐねいていて、どんな人なのかまるでわからない。金平ひとみさんは「蛇とピアス」がまったく理解できず、そのとき綿矢りささんと同時受賞だったように思うけど、綿矢りささんが「蹴りたい背中」でコミカルで平和な学園ドラマだっただけに、もっと大衆受けさせるための金平ひとみさんだったのかなとか、いろいろ勘ぐってしまって、ようするにどの賞に出せば良いかまるでわからない。
 もとより、受賞を目指すから迷うのであって、くじ引きで決めようかとか思っていたのだけれど、新潮新人賞にすると少し縮めなければならない手間が出てきてこの切羽詰まった時期にそれはまずい。だから、すばるか文藝かどちらかになる。
 まあ、文藝賞めざして書いては来たのだけど、五大文学賞制覇という意味で、すばるに出してみても良いと思った。どうせ落選するなら同じである。すばるだけ差別するのもおかしい。青年時代には週プレにずいぶんお世話になったのだ。集英社も悪い出版社ではないと思う。
 そのあとで、POD化して出版すれば何も不都合は生じないと思うのだ。
 追加の情報として、文藝春号を見て決めた。どうも最近、文藝は三重刷に味を占めて、売りに走っている気がする。質を落として大衆受けを狙っているといおうか……。J文学を売っていた時代が懐かしい。鈴木清剛さんはどこへ行ってしまったのだ……。その時代を振り返るかのように、中原昌也さんが出ているけど、実を言うと「マリアンドフィフィの虐殺ソングブック」は、清水アリカ氏が帯に書くほど、死にたくはならなかった。
 時代も変われば、文芸誌も代っていくのかな……。
posted by Pearsword at 20:54| 富山 ☁| Comment(2) | 迷い言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月13日

執筆と推敲の間。

 推敲も疲れてしまってなかなか進まず、新しい原稿も書き始めたりもするが、少し頭がだるいので、このような雑記をしようと思う。
 仮題「莫迦は懲りた」は、小説家の柴崎友香さんに捧げる小説である。読んで貰えるかどうかは判らないけど、人に捧げるというのは、僕の小説が売れないだけに、こころをモチベーティブにするのに有効である。いい加減な小説は贈りたくないから真剣度が増すし、誰かに贈ると思うとそれだけでやり甲斐があるというものだ。
 「莫迦は懲りた」の次は、仮題すら決めていないが妻に贈る小説の第二弾である。妻には「癲狂恋歌」を捧げた。しかし、それだけでは全然足りないから、第二弾としてこれから一つ書くのだ。もう数枚書いてみたが、なかなかいい滑り出しである。たぶん、なんだかんだ言って、今年の群像新人文学賞には間に合わせられると思う。昨年出したやつは、今頃屑籠の奥に埋もれていることだろうけど、今年も屑籠を豊かにするために書くだけかと思うと、ゴミ屋には大変申し訳ないように思う。せめてものデジタル投稿にしようかと考えているところである。
 このような雑記を書いているのは、実を言うとなにをやるのも疲れてしまったからで、推敲も執筆も今日は今一乗り気になれないのだ。とりあえずすべきことは「莫迦は懲りた」の推敲なのだけど、259枚はなかなか長くて、そう簡単に全編読めない。分けて読めば良いのだが、それでも体力が必要で、しかもこころのまっさらさも必要であって、少しリフレッシュしたい気持ちがあるのだ。だからといってこんな雑記を書いても少しも為にならないのだけれども。
 文学なんて、偉ぶってみても所詮、あそびごとだ。芸術というのは、いくら仔細ぶってみても、むだなあそびなのだ。人は遊ばないとこころが廃れる。だから、ゲームもギャンブルも流行るのだ。そういう粗暴な遊び方ではなくて、こころを豊かにするようなあそびが、芸術である。芸術家は、大衆にこころを豊かにするあそびを提供せねばならない。つまり、実務で疲れた人々を、癒やしてこころ優しくして社会を豊かに更新していくような、そんな精神を伝えなければ、芸術甲斐がないのだ。
 しかし、人は何をしておれば正しいというものもそれほどあるわけでもなく、釈迦牟尼仏言「諸悪莫作、修善奉行」というも、何をすれば良いかが安易には見えてこない。「善」とは何か? 人のために尽くすこととかいうけど、人のためにしたら別の人の害になることが多多あって、この食物連鎖の仏の世は、人間に限らずあらゆる生物たちが殺生しあっている。何が正しくて何が過ちだなどと、安易に決めつけられない。殺人犯の命すら、死んでしまえば焼かれて植物の同化元素に還元してしまうのだ。その循環した植物を、誰かが食べて成長することを考えると、我々の血肉には必ず殺生の歴史が刻まれていると言って差し支えない。
 仏の作り給うた浮き世の複雑さと言ったら、一言では到底表現できない。それが即ち密権国土と捉えられる悟境のあることが、仏の救いの道であるのだけど、その理屈からはじかに生きがいは得られない。
posted by Pearsword at 10:56| 富山 ☔| Comment(0) | 迷い言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月06日

売れないのが文学なのかも。

 よく知らないが、故小竹犬儒さんが言うには、芥川龍之介氏も小説家は食えない商売だと仰っていたそうだ。
 いままで、真剣に書いてきたり読んできたりした結果として思うのは、芸術性の高い小説は大衆受けしないと言うことだ。要するに、「売れないのが文学」なのだろう。大売れしてベストセラーになっている作品で文学性の高いものは極めて稀である。だいたい、大衆がもてはやすものは、判りやすくて派手でドラマチックで、ときには限りなく悲惨で、ときにはこの上なく残酷で、ときには途轍もなく奇妙で、ときには信じられないほど脳天気な、そんな文学らしくない漫画か映画のような小説ばかりだ。大衆は、だいたい文学の良さを判っているか? 日本文学の原点としての「もののあはれ」を解する読者が、今の世にどれだけ存在するのか? そういうことを訝しまずにはおれない。
 文学というものは、仔細ぶっているわけではけっしてなくて、静かなものである。静かだから、「もののあはれ」や情緒が深く感じられる。文学というものは、文字でしか表せないものを美しく表現する芸術である。だから、映画や漫画以上に美しい。ときには絵画や彫刻を凌ぐ。現実の芸術は、目に見えるものだけに限界があるからだ。文章で表現される美しさは、想像するものであるから、現実よりも美しく表現できる。これは鑑賞者の感性にもよるのだけど、判りやすく言うと、ギリシア哲学のイデアとか真言密教の智体とか、そういう形而上学的な表象として、美しい物を表現できるのである。
 要するに、文学が今一栄えないのは、現代の大衆が溢れる現実に想像力や感性を貧しくされているから、と推測できる。文章を読まなくても、判りやすく見える動画や漫画の方が、大衆は受け入れやすいのだ。だから、文章でも売れるためには判りやすさが求められるため、表現や描写の貧弱な、派手でドギツイ小説ばかりがもてはやされる結果になるのだ。現代の純文学の衰退には、大衆の軽薄さがその根本原因としてあるように思えてならない。
 そんなことを言うと、偉ぶった孤高の人とか言って忌避されそうだが、少なくともこの文章を読む人達には、もう少し芸術についての理解を深めて欲しい。現代絵画が滅茶苦茶ではけっしてなくて、判らないながらもそこから何かを学び取ろうと見詰める努力の中に、鑑賞者は貴重な感性を獲得することが出来ると思う。判りやすいものばかり鑑賞するから、いつまで経っても感性が未発達で、漫画や映画しか判らないような詰まらない人間になる。漫画や映画も結構だが、もう少し静かな美しさを楽しめるこころの平和が欲しい。芸術というのは、あくまでも人の気持ちを癒やすものでなければならないと思うし、逆に煽るような作品もある現実は僕は残念だが、そういうものを求める人達があとを断たないからであって、もうすこし大衆が意識改革をしないと、人類は平和になれないと思う。
 芸術というものは、平和だから存在できるものである。平和は正常な市民全員の願いであり祈りである。それを維持して広めるために、芸術はあるのだと思う。だから、文学はもっと理解されなければならない。こころを静かにすることが、世界平和への第一歩だから。
 
posted by Pearsword at 16:56| 富山 ☁| Comment(0) | 迷い言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月26日

僕は異端児だったのか?

 最近、プロの小説家の作品に幻滅することが立て続けに起きた。表現もなっていないし、描写はおろかストーリーすら上手いと思われない。しかし、そういう作品が大衆にも文壇にも認められているのが現実である。まったく、文壇不信になってしまった。本当に、芸術的に素晴らしいものを書く人たちが、文壇をなしているのだろうか? もしそうだとすれば、僕の感性はかなりおかしいのだ。僕は統合失調症だから、健常者からしたら異常な感性の持ち主で、僕の素晴らしいものが、大衆や文壇にはくだらなく、彼らの素晴らしいものが僕にはくだらない。
 そのように考えて卑屈になっても良いのだが、どうもそれでは僕の生きる甲斐がない。大衆の良いというものだけが価値じゃないだろう。少数人数の意見だって、立派な思想を形作ることができるのだ。数が多ければ正しいというのは、派閥力学の自民党か何かの掲げるえせ民主主義に過ぎない。そんなものは、芸術でもなんでもない。少数の感性が尊重されてこそ、芸術は価値があるのだ。
 しかし、大衆というものはまことにマスメディアに弱く、ニュースや雑誌で報じられると、嘘でも信じてしまう浅ましさを持っている。確かに、出版社は権威だし、その組織は敵に回すと恐ろしい暴力を奮う。無罪の人でも罪を感じてしまうし、罪人でも力を持ったりする。マスコミの報道は、必ずしも公正ではないし正義でもない。それどころか間違いだらけである。それでも、大衆はマスコミの報道を信じるし、専門家や識者の見解を尤もとする。
 僕は、識者の集団である文壇に全く認められない小説家である。いくら真剣に作品を書いても、一次選考すら通らない。しかし、僕は受賞作の素晴らしさは、それほどずば抜けているとも思えないし、僕の書いた小説をちゃんと読んで評価してくれているのか、とうてい信じられない。なぜなら、受賞作から感じられるテーマは僕の書く小説のそれより卑近だし、小説世界も僕の描くものと異なってあまり美しく思えない。僕の悟性や美的センスが独特であるとしか思えないのだが、それでもそういう独特の個性を尊ばなければ、芸術の世界は終わるのに、文壇や出版社はまるで僕の小説は読んでいないようなのだ。
 少なくとも、文學界新人賞に出した「恁麼」は、現在の日本文学にない真新しい世界であるはずだし、それが認められない読み手は、目が節穴なのだと思う。荒唐無稽と思うのなら、まだ読んでくれた証だが、くだらないつまらない、という感想だけであれば、その人は相当の差別主義だ。あのような新規な試みをまるで無視する文藝春秋社が、芥川賞に関わっているという事実は、悲しむべきことである。どういう理由かは判らない、ただ僕はあまりにも軽視されている。排除されていると言ってもいいかもしれない。正当に評価されていない。病歴が学歴が、何かの所為で偏見を持たれている。妄想的なのは病気の所為かもしれないが、ひょっとすると文壇自体に睨まれているのかもしれない。
 このブログを読んでくれた人で、僕をただの自惚れた莫迦だと思う人がいたなら、「恁麼」を掲載した空華第一〇号を郵送するので、送付可能な住所をブログプロフに書いてあるアドレスにメールしてほしい。いかに僕の小説が新しいか、感じていただけると思う。確かに理解し難いものはある。しかし、第一次選考にも通さない文芸春秋の凝り固まった保守性の酷さは、感じていただけるはずだ。
 いずれ、「恁麼」もAmazonで出版する予定ではあるが、僕はいつでも真剣に創作しているので、その信念が誰かに伝わることは、今後確実にあると断言できる。文壇が差別的で保守的であるというのは、そのときになってあかるみに出るだろうが、現時点でその証言のために、ここに一記事書いておいた。みなさんも、ぜひ以上のことを気に留めていただきたい。
posted by Pearsword at 22:46| 富山 ☁| Comment(0) | 迷い言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月16日

「博士の愛した公式」小川洋子著。

 小川洋子と言えば、芥川賞の選考委員すら努める文壇の重鎮である。僕自体はあまり読む気はしなかったのだが、同人の方が勧めて下さった御縁があり、読んでみようかと思った。それで、第一回本屋大賞でもあるこの著書を読むことになった。
 しかし、読み始めてすぐ、文章が野太いと感じた。繊細さがない。これは文学なのだろうか? アイデア偏重型のラノベの類いなのではないだろうか? 
 一通り読み終えて思ったが、この小説はまったく描写らしい描写がない。すべて説明書きだ。情景を言葉で抑えつけるようにして、説明している。しかも、家政婦が主人公なのに、息子のルートや数学博士の立場に平気に入れ替わって書かれている。つまり神目線だ。小川洋子さんは、全ての小説がこのような筆致なのだろうか? 描写が出来ない説明小説しか書けないのだろうか?
 たしかに、安っぽいお涙頂戴的ドラマチックシーンがあったり、決め文句的なCMキャッチのような文言が連ねてあったり、それなりに読者を騙す。しかし、少しも文学的でない。これは漫画化した方が良いのではないだろうか? そのほうがウケるアイデアだし、なにも小説として描くべき世界ではない気がする。
 たとえば、博士のトレードマークのメモだらけの背広だが、説明してあるだけなので文学になっていない。もっとメモがぶら下がっているさまを、叙情豊かに描いてそこに美的な風景を感じさせるのが文学であるのに、これでは漫画のシナリオと変わらないではないか。八十分きっかりしか持たないという博士の記憶も、未亡人にそう主張させるだけなら文学だが、博士の脳にそのような規則性を持たせるのは、SFか何かにちがいない。まるで、純文学的でない。
 しかし、この小説は本屋大賞を取り、小川洋子氏は文壇の大御所なのである。こんな人が大御所なら、僕の小説は一生認められないだろうことに、至極納得がいった。文壇は腐っている。売れれば良いのか? 名声を得られればそれでいいのか? そんなもの文学でも何でもないのだが。文壇も金銭欲と名声欲の巣窟と化してしまったようだ。
 博士が記憶が長続きしない設定で、しかも数学が永遠の真理を追究するというアイデアは、とても運命の皮肉めいていて、素晴らしいと思う。しかし、筆致とプロットの安易さで、折角のアイデアが台無しになっている。数学の真理は、アイロンがけできるような安っぽいレースではないし、ケーキで汚れて損なわれてしまうような儚いものでもない。そういうことが、まるで著者には判っていないかのようだ。数学の不思議さを訴える小説にすらなっていない。つまり数学小説としても下手くそだ。もう少しどうにか出来なかったものだろうか?
 矛盾点を挙げたらキリが無い小説でもあって、作り物なら作り物としてSFかファンタジーとして書けば良いのに、なまじタイガースの歴史とか試合の現実と符牒を合わせてあるために、嘘くささが倍増して最後の辺りは読むに耐えなかった。苦痛を伴いながらの読了だった。
 僕は、文壇のことは関係なく文学を楽しみたいので、このようなラノベに毛が生えたような小説はもう読みたくない。しかし、大衆はこのような判りやすいものの方を好むのだ。芸術のすばらしさが、大衆に開放されていないのだ。というか、こころの荒んだ人の多い世の中だから、芸術のすばらしさを理解できるものが少なすぎるのだ。
 小川洋子氏に芥川の選考委員が務まるのか、あやうく思った一編だった。
posted by Pearsword at 19:41| 富山 ☁| Comment(3) | 文藝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする