2019年12月10日

妻の主著を読む。

 私の妻は、藍崎万里子である。少し我が儘であまのじゃくで素直でないところがあるが、そういった人間性の不完全性は、作品の素晴らしさをみるにつけて、却ってなるほどそうかと、納得させるものがある。
 今年は、「アマプレベス」と現在応募中の「モーツァルトと皇帝たち」そして既刊の「ベートーヴェン交響曲『幻影』」をすべて読んだ。「アマプレベス」からして、著者のいうような稚拙な作品ではありえず、モーツァルトとベートーヴェンの二週間の束の間に燃え上がった大恋愛について、とてもドラマティックにクリアーに描かれている。彼女の若かった頃の作品なので、こころが純粋なのだろう。いくらかその影響はあるにせよ、初恋のノスタルジーなどからは遥か及ばない、生き生きとしたこころの洗われるような恋愛が、そこには描かれている。
 その一部があってこその二部「幻影」三部「皇帝たち」なのだが、この三つはうまく辻褄が合っていて、よくもここまでプロットを考え抜いたものだと感心させられる。要するに、この「アマプレベス」を味わうためには、すべてを読まなければ充分ではない。全てを読んでようやく、これらの小説の真価が判るものなのである。
 これらの小説の不完全性というのは、台詞が多く情景描写が少なく独白が多いという要素によって特徴付けられるが、それは「幻影」でベートーヴェンに語らせている新しい音楽というものに象徴されたような文学でもある。既成価値で縛られているインテリなどは、これらの小説を毛嫌いするだろう。しかし、素のこころで読んで、彼女の描く小説世界に入り込めたなら、その素晴らしさに読者は感嘆させられることだろう。それは読者の感受性や偏見の無さが、鑑賞のための条件として、必要になってくるのだ。
 また、彼女のアマプレベスシリーズは、音楽史とか近世ヨーロッパ史などを知らないと、よく判らないところが多い。フランス革命の時代と被っているので、その辺の予備知識があると、一層この小説を理解しやすくなるにちがいない。あるいは、ベートーヴェンやモーツァルトの楽曲の作品名とその曲調を知っていると、そうとう面白みが増すだろう。僕は一部しか曲を知らないので、作中に出てくる曲の数々に対して、あまりピンとこないのだが、判る人ならもっと面白みが増すだろうと思われる。
 やたらとページ数は長いが、平易暢達な文章で描かれているため、枚数を感じさせないくらい面白く読める。ただ、面白みが判るためには、まずモーツァルトを天才で薄幸の美女と思わなければいけない。文中、それほどモーツァルトの艶姿を視覚的に描写していないので、モーツァルトがか弱い女性であることに、抵抗を感じるのが普通である。しかし、三部であるように、モーツァルトの天才の秘密はそのこと自体にあるのだ。だから、その設定はとても重要であり、リアリズムすら帯びているのは、著者の筆力以外の何物でもない。そのモーツァルトに対する偏見を脱して、しかも「事実」として読むことが出来るならば、読者はこれらの小説の良さが、よくよく判ってくるにちがいない。
 
posted by Pearsword at 10:06| 富山 ☀| Comment(2) | 未分類 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月28日

「美の呪力」岡本太郎著。

 岡本さんの書物は、これまで何冊か読んできたが、その中に文章を書くのも岡本さんの中では芸術であることが述べられていた。「美の呪力」という作品は、まさに現代人に問題を人間くさくつきつけてくる芸術だろう。
 「石の積み上げ」に関する理論展開は、強引さを感じさせつつもとても説得力があり、芸術創作の理論化というようなことが作されている。芸術とは何か? ということをこの書は初めから叩き付けてきている。素材の石に神聖を感じ、ただ一心に積み上げたくなるのは神憑りで、出来上がった積み上げが霊性を持った神である。つまり、芸術の本質はシャーマニズムであることを強く訴える。
 これは、「火」の神秘性に触れたときにも書いてあることだ。火には人間が「生命」を投影するようななにものかがある。それは、僕自身も思うことで、その温かみと消えゆく儚さは、生命以外の何物でもない。そのような「火」の霊性について、一切の偏見を排した根源的な感覚を呼び覚ますような筆致で、火と水の両面性にまで考えを及ばして、その不思議さを訴えている。現代人は、科学という常識に犯されすぎだ。科学は偏見の一種であり、全てを明らかにしたように「見せかける」だけである。それは、「夜」の神秘性に触れる段で、岡本さん自身述べていることだ。「昼」は何でも白日の下に晒してしまうため、がんじがらめに認識や目線などに、物や人を縛り付ける。それは、自由を損ねる束縛である。「夜」の闇こそ、不確実性という点において、いくらでも可能性を自由に羽ばたかせることの出来る「自由さ」である。それが、現代人の感覚から損なわれつつある「不思議さ」である。
 不思議であることは、シャーマニズムを生む。不思議なものは、未知で何をするかわからず、畏怖の対象だ。世界が、神々で支配されていた頃は、昼でも認識の「夜」であった。それは一見「昏さ」ではあるが、科学という常識に縛られない「自由さ」を持っていた。そこに、神々も多く生まれ出たし、逆に悪魔も多く住んでいた。しかし、現代とてその「不思議さ」は何も太古と変わっていない。科学知識で「不思議さ」を誤魔化しているだけなのだ。誰がこの宇宙の神秘を知り得るのか? 教科書に書いていることを鵜呑みにして、常識という偏見の鎖で縛られているだけなのだ。
 そのことは、最後の章の綾取りについて書いてあるところでよく判る。今でこそ、綾取りは唯の子供の遊びだ。しかし、それが広まるための無意識的な情念として、岡本さんの指摘するように、弱者の世界を変えたいという祈念が、あったと思わせてしまうのは、自分の中にもあてはまるような気がどうしてもするからである。この世の中は、自然という無である。そこに人が働きかけて、何かを造る。しかし、それはやがて無常の波に飲まれて無に帰するのだ。
 ゴッホの自殺について、ゴッホは最期の二日間、芸術が何かを悟ったと、岡本さん言う。ゴッホは、芸術などただの遊びで、人に認められるか認められないかに拘りすぎていた、ということに死に際に気付く。そこにすでに、芸術の本質が見えていただろう。認められなくても関係ない、何か人間として生きるためのことをする、いや生きるためではなく、「人間として生きる」。それが芸術の本態なのだ。
 その芸術の本態として、シャーマニズムが欠かせないのだ。人間は、どうしても主観的な生き物であるがゆえに、上にヌミノースなものを抱かずには破壊してしまう弱者であるから。
posted by Pearsword at 15:48| 富山 ☔| Comment(0) | 文藝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月25日

第二十九回文学フリマ東京。

20191124_011815661_iOS.jpg 今年で六回目の東京は、初めての新幹線での日帰りの参加になった。台風十九号の被害がひどくて、上京できるかどうか心配だったが、なんとかなった。また、妻が転居して初めての文フリ東京でもあった。ポスター制作や値札書き、荷造りまですべて二人でやった今回の文フリであった。
 今回は、1200ブースを越えた出店であり、箱を開ければ6000人以上の入場者を得た。上昇機運の文フリに出店し続けることは、われわれ同人としても希望を持つことができ、甲斐がある。
 今回は、ゥ-1と角の場所でとても目立つ場所だった。そのためもあってか、売り上げは過去最高の33冊を記録した。金額にしてもそこそこいっていて、妻が一生懸命立ちながら呼び込みをした成果だと思われる。僕もつられて、立ちんぼでチラシ配りをしたが、後半バテてブースから離脱してしまった。一重にも二重にも、妻には感謝である。
 初めての第一会場ではあったが、第二会場のときとそれほど主観的には変わりなかった。むしろ、ブース後ろがとても広くて、荷物が置きやすくて便利だった。在庫などの荷物を段ボールに持っていたわれわれとしては、荷物スペースはどうしてもほしいのだ。まあ、在庫を無くして全て平積みする手もあるが、本の数が多すぎて、なかなかそれも出来ないのがうちのブースか。これ以上新刊を増やすと、置き場がなくなってしまうので、困っている現状はある。しかし、ブースを拡張するほど本は売れない。品数を増やせば確かに売れるようなので、来春からどうすべきか考えねばならない。僕も文フリで発表したい小説があるし、妻もそのように思っているだろうので、もうスペースがないのだ。
 前半部分で、何人か知り合いの人々が買ってくださった。お返しに買いに行ったりして、そのついでに気になるブースも立ち寄って、うちのブースのCMなどしたら、そのブースの人が買いに来てくれたりして、なんとかかんとか楽しめた。
 しかし、今回は妻が懇親会は疲れると言っていたので、五時で帰った。これがあたりといえばあたりで、僕自身腰を痛めてしまったためか、前半の立ちんぼでしこたま疲れてしまって、帰る頃には虫の息だった。とても懇親会どころではなかった。欠席にしておいて正解だった。歳は取りたくないものである。もう若くはない。文フリもバリバリは熟せなくなった。
 まあ、懇親会で出会う人で、関係が続く場合はまれで、たいていはその場限りになる。また、自分の気に入ったブースの人はあまり懇親会に出ない傾向もある。そういうことを考えると、今後も懇親会は欠席にした方が良いのかもしれない。
 次回は春の東京を目指しているが、大阪も行きたいのが本音だ。ただ年老いてきたのと貧乏暮らしなのとでなかなかあちこちには行けない。東京すら年に一回にするか検討しているところだが、文フリが盛り上がってきているさなかに辞めるのは愚の骨頂なので、老体に鞭打ち頑張っていこうと思う。とりあえずは、空華第一一号発行かな。
posted by Pearsword at 14:30| 富山 ☔| Comment(2) | 創作 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月21日

第54回北日本文学賞、第一次選考落選。

 ツイッターやフェイスブックで吐きまくったので、今更書くまいとは思ったが、一応備忘録として書いておく。
 今年は、発表が早かった。もう速報が出ているようだ。昨年は第一次選考に残ったが、今年は全く駄目だった。
 今年も禅僧の話で、「万物悉有」という小品だ。昨年の「仏祖円寂」よりも、禅問答が多く出てきて、とても思惟的面白さがあると自恃しているのだが、あまり評価はされなかったようだ。だいたいが、一昨年の「江面月明」が第二次に残って、それよりも年次よりよいものを仕上げているつもりの僕としては、だんだん評価が下がっているのはどうにも納得がいかず、僕のなかの感動はなかなか伝わらないのだなと、思わざるを得なかった。
 岡本太郎さんの「美の呪力」を読んでいるが、石の積み上げについて、三つの段階があるいう。石としての素材の尊さが一つ、それを積み上げる行動の神聖さが一つ、出来上がった像としての神が一つ。芸術もこの三つの段階があるという。小説で言えば、言葉そのものに尊さを感じ、それを創作に使うことで第二の尊さを生き、出来上がった作品は一人歩きをする。とてもおもしろい見方である。
 僕は、四大文学賞にはまるっきり無視されているし、受賞歴はゼロ、選考もほぼ残らない、世間のいわゆる無能文士だ。しかし、「才能なんてない方がいい」とも言われる。そんなもの偉そうに持っているから、勘違いして居丈高になるのだ。芸術に優劣なんてあるか。あるとすれば、真剣度だけだ。いい加減に芸術を創造すると、適当なものしか出来ないというだけだ。
 だから、売れる売れないは、芸術的価値観には相反するという現実に、残念ながら直面してしまった。大手の文学賞ですら、売れる作品しかとりあげない。被災地の小説家とか芸能人小説家は、どうしても有利だ。確かに、僕には読解力はあまりないのかも知れない。しかし、少なくとも僕の好きな小説家は、あまり受賞歴は輝かしくない。若いうちから芥川賞を受賞してブイブイ言わせてる作家の、どれだけが素晴らしい小説を書いているのか、疑問を呈せざるをえない。
 何を言っても、どうせ遠吠えしている負け犬としか思われないのでこの辺にしておくが、まあ受賞なんて売れるためにするだけのものだな、とますます思った。売れてなんぼというかもしれないが、それは芸術の本質ではない。芸術なんて大したことはないというかもしれないが、少なくとも個人に生きがいを与えてくれるものである。作っていて面白いのが何よりも第一。また、味わって代えが効かないのまた第一。
 
 書のかほりインクのみこそあらざらめ思索のなかのあはれなるかな

 芸術はお金にならないと思った。
posted by Pearsword at 15:02| 富山 ☀| Comment(0) | 創作 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月20日

淳ちゃんと話す。

 昨日は、柴田淳ちゃんの誕生日だった。淳ちゃんは、少し傷ついていて誕生日プレゼントをOFCから自ら取ってきて、ツイキャスでプレゼントのお披露目をした。僕の送った小説も、ちゃんと紹介してくれて嬉しかった。
 そのあと、淳ちゃんはOFC限定の直電話ありのツイキャスを行った。ツイキャスの発信アプリを入れて受信アプリとともに開くと、スカイプのように話せるもののようだ。
 いろいろ電波事故みたいなのがあったが、落ち着いた後、僕も電話してみた。
 こころよく受けてくださって、じかに話した感想としては、まさに「魚心に水心」と言わんばかりの親しみを感じた。淳ちゃんのことは、今までダイアリーなどでいろいろ読んできたし、蠍座辰世柴田組からのファンなので、いろいろ淳ちゃんにしてきたことがあって、そのことを思い出話にしたら、淳ちゃんもそれらのことを覚えてくれていて、初めて口を利くのに、十年の知己と話しているかのような親近感を覚えて、とても嬉しかった。何よりも、淳ちゃんの音楽に対するひたむきな精神や、淳ちゃんの心根の優しさ、人柄の朗らかさが伝わってきて、淳ちゃんがいい人であることが実感できて、とても嬉しかった。
 他のファンに遠慮して、それ以上話すことをやめたが、許されるなら一日中話していたいくらい、淳ちゃんは可憐だった。あらためてこの人のファンであってよかったと思った。
 そのうえ、やさしい淳ちゃんは、僕の今回の誕生日プレゼントである「ジオハープの哀歌」を読んでくれると約束してくれた。しかも、感想を述べてくれると言うのだ。嬉しいことマッターホルン登頂のごとくであろうか。こういうシンガーだから、これからもファンとして支えていきたくなるし、その人柄により一層透き通る数々の楽曲を聴きたくなるというものである。
 また、正月などツイキャスをしたときに、話してくれたらとても嬉しいのではあるが、話したいのは僕一人でもなかろうし、淳ちゃんの方の意思もあるだろうし、実現されるかどうか、少し不安である。でも、淳ちゃんとは折あれば、もっと話したく思うものである。
 彼女が人格的にやさしい人であるという事実は、僕の芸術観を曲げないものであるため、それが実感できた今回の対話は、心の芯から嬉しく思った。素晴らしいシンガーソングライターのファンでいられることは、誇りであり喜びである。
 ただ彼女は、曲作りに対してとても真剣で、聴くだけでお客様を感動させられるものを作りたいとか、契約は一年で常に背水の陣だとか、そういう激しさも併せ持っているので、自身言っているように、曲が作れなくなったらコンサート中心に活動するというように、あまり自分を追い詰めて辛くならないように生きて欲しく思った。曲作りが楽しく安らかにできるような、リラックスした境地に成ってほしいものである。
 柴田淳ちゃん、本当に素晴らしいシンガーソングライターでした。彼女に「ジオハープの哀歌」を捧げることができたことは、一生の誇りになるだろう。淳ちゃん、これからも元気で頑張ってね!! あらためて、誕生日おめでとう!!
posted by Pearsword at 13:07| 富山 ☔| Comment(0) | 柴田淳 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月18日

荷造り完了。

 第二十九回文学フリマ東京への荷造りが終わった。昼にクロネコで出荷してきた。
 今回は、妻に手伝ってもらって、わりあい簡単に荷造りができた。アマプレベスシリーズや藍崎万里子の著書をはじめ、僕の自費印刷著作物4種プラス菩提人と空華各号を梱包した。何冊売れるか判らないが、精一杯頑張ってくるつもりである。
 今回は、僕も歳を取ってきて、人の集まる場所に出ると疲れるということとお酒にめっきり弱くなってしまったこととを考え併せて、懇親会は欠席することにした。生活も年金小説家として変化してきた現在、あまり年に何回も文フリに出られなくなったため、文フリは楽しんで出るに留め、小説家稼業は公募に投稿することとアマゾン出版とで主に活動しようと考えた。空華の電子書籍化も一時期考えたが、個別の出版物が売れなくなるので辞めようと思った。
 しかし、無刀会ダイレクトショップはさっぱり売れないので、オフセット版はなんだかんだ言って文フリで売るしかなく、文フリで売るのがまた一番よく売れる。文フリでダイレクトショップの広告は流すが、なかなか買って呉れるだけのお得意様葉出来ないのが現成だ。まあ、何の賞も取っていないから、誰も見向きもしないのだとは思う。
 文フリが終わる頃に、今年の北日本文学賞の第一次選考がインターネットで流れる。今年も僕も妻も出しているので、どのような結果になるか気掛かりだが、僕の小説は毎回のごとく禅僧の話なので、あまり理解されないにちがいない。妻の話は、妻が富山に短期滞在したときの体験をもとに創作したものだ。僕は個人的に拝読したが、なかなか美しい作品に仕上がっていると思う。選者の方々にどこまで判って貰えるかは自信がないのだが。
 なお、「ペートーヴェン交響曲『幻影』」は、文芸社との契約が切れたので、在庫は同人に譲り受けることにした。定価は二千円近くするが、無刀会では文学フリマ同様千円で取り扱う予定である。まだ、ホームページの準備が出来ていないが、いずれ調整するつもりである。
 来年は、拙著は「禅僧小話集」か「好き病み」あるいは「癲狂恋歌」を、オフセット版で発行する予定で、妻の小説は「クラリネット五重奏曲」などをオフセット化する予定である。また、出来れば文学フリマで頒布したいと考えているが、なかなか旅費も出ないので、秋の東京一回だけになるかもしれない。しかし、空華が年に二回発行であることを考えると、やはり東京に二回出るべきではないかとも思う。 
 その辺は今後検討していこうと思う。
posted by Pearsword at 17:58| 富山 ☁| Comment(2) | 創作 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月17日

食えない小説家になる。

 一応、昨日付けでA型作業所は退職した。すこしばかりだが、今後手続きを踏めば失業保険が貰える。
 そういうこととは別に、僕は自分でたっきを立てられない小説家になることにした。以前から、小説家としての人生を歩むつもりでいたが、他人に認められるわけでもなく、自分で言い張りきれないところがあった。しかし、辞職して年金暮らしを決め込むことで、貧乏と引き換えに、生業としての「小説家」業を手に入れることが、主観的にはできた。人間の受け皿というものが、組織に属していないと与えられないというものであれば、また、社会的役割が受け皿を通してしか与えられないのであれば、僕という人間はそのような受け皿や役割は持っていないことになる。しかし、それでも僕には役割があると信じられる。僕には、小説を書く使命があるのだ。それは、僕らしい僕にしか書けないものを書くことだ。それは、ほかの誰にも書けない、僕にしか書けない。
 だいたい、社会的受け皿を失ってみると気付くが、人間なんて何をできるでなく、せいぜい偉ぶって好き勝手して自然破壊するくらいが関の山の卑しい存在だ。だから、歴代の禅僧はみな、皇帝などから栄誉を与えられようとすると、頑なに拒み通したのだ。そのほうが清い生き方なのだ。というか、他人の評価とか名誉とか金銭とかに左右されていると、かえって身も心も不自由であることは、少し考えれば誰でも気付く。
 こんなことと言っても、負け犬の遠吠えとでも、蔑まれるのがせいぜいだろう。どうせ、欲しいのは名声や富で、それを得られないから、自分の情けない身の上を正当化して、言い訳しているに過ぎないのだと。しかし、実際、富や名声などより、僕は芸術が面白いと思っている。巨万の富があっても、何に使えばいいのか全く判らない。遊んで暮らせばいいというかもしれないが、何をして遊べは心が安らぐのか? 心空しくして静かに過ごす以上の安寧が、人生の方法として他にあるのだろうか? 結局、名声や富など得ても、何も心を満たしてくれないのだ。仏道でも勉強していたほうが、よほど心が安らぐと言うものだ。
 まあ、そんなこと言っても、やはり少しの理解者は欲しくて、僕は自分の小説の感想を読むのがとても好きである。それがどんな批判的なものだろうが、よほどその小説じたいを否定するような野蛮な内容でない限りは、興味深い。また、理解してくれる人を得られるのは嬉しい。僕は、自分で素晴らしいと思う小説を仕上げているから、その良さが伝わることがとても嬉しい。この辺が芸術の根源なのだが、自分の作ったものは、作ることで面白みを齎すものだが、そのくせ作られたもの自体が別の面白みを持ち始めるため、少しも自分の意図通りに作れたわけではないのに、作者である僕は作品の面白さに得意になり、あたかも作品の持つ美しさに自らも染められているような錯覚に陥ってしまう。すくなくとも、作品を誇りに思うのだが、その誇りが自らのものに摺り変わらぬよう、僕は注意したいと思っている。
 そのときに思惟するに、「芸術」のこころはどこにあるのか? ということに関して言えば、なかなか明確な解答は得られないにせよ、一にも二にも「作品」がその主人公であることは間違いない。作者は親でもなく教師でもない、ただのお手伝い程度だろうと思う。よく言えば神代か。神かがった痙攣で、作品は生み出されていく。作品が面白くても、少しも小説家が頭の良いわけではない。職業的に、小説作品を生み出す器になっただけだ。それは生業であるから、役割を果たしているに過ぎず、何も誇りに思うこともなかろう。
 つまりは、僕は面白い人生を生きたく思ったのだった。
posted by Pearsword at 16:34| 富山 ☁| Comment(4) | 浮泡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月04日

「青空感傷ツアー」柴崎友香著。

 この作は、若いときに雑誌「文藝」で既に読んでいて、この小説と「きょうのできごと」により、僕は柴崎さんにあこがれを抱くようになったのだった。しかし、若いときに読んだ記憶は、カッパドキアと麗寅しかなくて、話のすじすらおぼろげになっていた。あらためて読み返したくなり、今回購入した。
 主人公の芽衣は、人を顔から評価する優柔不断な女性として描かれていて、それと対照的にツレの音生はルックス抜群で決断力に富んだ女性として登場する。おもしろいのは、芽衣の価値判断として、男性だけでなく女性も同様に、あるいは小物や景色なども、美しいものが好きということがあって、音生についても美しいから嫉妬などせずになんでも言うことを聞いてしまうというところだ。普通の女性は、自分が美しくありたいと思うと思っていたが、少なくともそれは芽衣には当て嵌まらない。芽衣は、自分に対してはどうにかせねばならないと嫌悪感を抱いているのに、少しも焦りがなく音生という人格を、顔から判断するためか、認めてしまって少しも嫉妬するところがないのだ。
 これは、芽衣は実は自分の性質を変えようとは露思っておらず、変えたいのは例えば旅館ひうらの正恵さんに言われた悔しさからとか、そういう相対的なものでしかなくて、実は、カッパドキアの美しさに感動できることが嬉しかったり、トルコのお土産屋さんの男の子にときめいたり出来るのも嬉しかったり、あるいは音生と破天荒な気分屋旅行をできること自体嬉しかったりしていて、少しも自己嫌悪していないのではないかと、僕は思った。
 クライマックスとして、大学時代に告白されて一応「振られた」永井くんとの、夜の旧校舎の岡からの街の灯を眺めながらの会話があるのだが、このとき、永井くんと芽衣はどのような関係性を再構築したのか、それはほのめかされているに過ぎない。芽衣の主観によるがゆえに、すべてがあきらかにはならない。ただ芽衣は永井くんとの会話が楽しく、それは面食いの芽衣が顔の見られない状態で思ったことであり、それは「世界の終わり」と比喩しめる夜更けに思いが続き、そこから「雪の積もった景色」「トルコの遺跡」と連想される。トルコの遺跡は、昼間なのに人影がなく忘れ去られたように風が吹き抜ける場所であった。そこには、人の顔がないし人の息吹もない、人の痕跡があるだけだ。しかし、芽衣の語るその情景には、どうにも美しさが感じられ、それは美しいものが好きな芽衣だからゆえなのだと思う。つまり、このとき永井くんの顔ではなくて、この夜更けの暗闇の永井くんとの会話に美しさを感じたのだと、僕は思った。
 それは、芽衣は「もののあはれ」を解した女性だったのだというふうに考えられる。芽衣にとって「もののあはれ」は、美人の美と同列にあったのだ。だから、カッパドキアの美しさや、バスの中の情景など、この小説には趣深いシーンが数多く描かれているのだ。
 最後の石垣島の海の上のくだりは、麗寅に迎えに来てもらうまえで終わっているが、本当に迎えに来るのか、そのあと芽衣の言うように三人でまだ遊ぶのかは、判らない。しかし、芽衣は石垣島の海の水平線のかなたに、大阪より近い台湾を見る。そして、その水平線はどこまで広く拡がっているか、芽衣には想像つかない。このとき、芽衣は先にずっと続く水平線に、自分の人生の未来を重ね合わせたのかもしれない。それで、適当に「ぐだぐだいいながら仕事探すのも、なんかおもしろい気がしてきた」のだろう。それは、つまりみずからの人生の肯定であり自分の肯定でもあるのだ。
 この小説は、結局は芽衣のように、美しいものを愛でて生きれば、すべてを愛することができるようになるのではないかという、宇宙肯定哲学がテーマとして有るような気がする。
 いずれにせよ、情景描写も小説世界も柴崎さんらしい、とても煌びやかな小説だった。
posted by Pearsword at 19:56| 富山 ☁| Comment(2) | 文藝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月24日

第63回群像新人文学賞応募。

20191023_071325492_iOS.jpg 昨日、群像新人賞に仮題「見当外れ」を投函してきた。85枚とかなり短い仕上がりだが、全編アブストラクト小説で通したため、致し方ないところもあるだろう。アブストラクト小説は、主人公がいないことが多く、「見当外れ」もまたその例だった。このような変哲の文章が、常識的な出版社に認められる可能性はかなり低いのだが、「文學界」に「恁麼」を投稿してすれっかしだったので、講談社に訴え出てみたといったところか。
 「恁麼」は、実は「エピローグ」が付いていて、最後はお釈迦様の話で締めている。そのため、いくぶん読みやすいと思ったのだが、たぶんそこまで辿り着く前に、読み捨てられたのでないかとの臆測がある。それだけ、アブストラクトは読者を選ぶし、既成の小説観を固持する人には、けしからん文章だと思う。しかし、あたらしいものを求める方々には、きっと何らかの示唆を与えてくれるであろうものだ。少なくとも、自分ではかなりあたらしい分野だと思っている。
 しかし、なかなか認められないのが現実で、主人公もいない人間も出てこない、そんな滅茶苦茶な統合失調症の妄想など読ますな、と思われるのか落ちなのではないかと思う。されど、僕はアブストラクトは、滅茶苦茶ではないと明言できる。第一に、僕の意識と無意識を投影したこころの表現であるし、第二に、意図的にいろいろなものを象徴として扱って描いた。そのため、第三として、テーマ性がかなり面白いものとして浮き彫りになったと思っている。何も訴えない滅茶苦茶な作品ではない。
 まあ、確かにこのようなアブストラクトは、無意識主導でイメージを連鎖させて作っていくのだから、あまりプロットというものがないし、ストーリーも場当たり的で、取り留めの無いようなものになりがちなのだが、もとより僕はプロットを作らずに小説を書く作家なので、アブストラクトでなくても場当たり的にシーンを連ねていって、その結果としてテーマが浮き彫りになってくるような書き方で、普通の小説も書いているため、あまりアブストラクトかそうでないかは、創作の方法として変わらないような気がする。
 ともかく、今回の小説はアブストラクトとしてもかなり面白く出来上がったと自負している。ただ、ベストかと言えばかならずしもそうではなく、まだまだ進歩の余地は残っている。だいたい、完璧な小説というものを僕は認めず、完璧である必要もなければ、そうすることも不可能であると思っている。だから、今後もこの手の小説は、まだまだ書くべきだし、同時に普通の小説も書いていきたく思うのである。
 アブストラクトはアブストラクトでとても面白い小説世界なのだけど、やはり具象小説とは別物である。絵画も、具象と抽象両方美しく感じるのと同じく、小説も両方ともありだと思う。
 とはいえ、アブストラクト小説というものは、いまだにだれも認めていないようだし、僕一人で終わるかもしれず、認められないのが寂しくも思うが、僕の非力では如何ともしがたいところかとも思う。
posted by Pearsword at 10:47| 富山 ☁| Comment(0) | 創作 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月23日

「改良」遠野遙著。

 この作品は、とても読みやすい文章で構成されている小説だと思った。難しい単語や修辞法がまるで出てこないし、かといって口語に堕さずほどよく大衆的な、一見非常に暢達な文章。この作を読んで思ったのは、最近の文藝賞というものは、癖の極端にある文章か洗練された文章か、いずれかを選ぶのだなということだった。この文章にしても、作者の個性は出ているがあまり面白みのある文章ではない。むしろ内容がケバくて、それで引っ張っていくというふうなのかと思った。
 バヤシコに辱められた記憶が、その後の山田とかミヤベとか呼ばれる「私」の現在に尾を引いて、「私」は女装癖を持ちつつも童貞らしく、映画の女優にすら発情して勃起してしまうような、間抜けな変態だった。しかし、「私」はそのような既成概念や常識に、問題提起をする。何故、男は女装してはいけないのか? なぜ、美しい女性だけが、特権的に男にちやほやされて、みてくれだけで様々なものを得ることを許されるのか? 「男が美しくなってはいけないのか?」
 そのような小説の言葉には書かれていないメッセージが、「私」を化粧上手にさせ女装させる。しかし、それは美人になりたいためであって、女になりたいためではなかった。「美しさ」というものに対する見方が、「私」は幼すぎて女性の「顔」に多くを求める。それは異なった価値観であることを、小説の最後で「私」は実体験し、ブスである「つくね」に助けを求める。「つくね」はそのあとどうしただろうか? 自称ブスの優しさを示して、「私」の美しさの価値観に影響を与えてくれるのだろうか?
 とはいえ、この小説は読みやすいだけで、それほど衝撃的な何ものも感じられなかった。今更、女装趣味でもないし、性欲の否定でもないし、ブスのほうがこころがやさしいとか、そんな陳腐な絵空事を述べてみても虚しいだけで、かといってこの小説世界が、かならずしも美しくないとは言わないけど、あまり斬新でもなくこれといって鮮烈に映らないものであるのは、テーマが陳腐な所為もあろう。「美しさ」が「美女」の美でないことくらい、中学生でなくてもわかっていることだ。そんな当たり前のテーマを、エグく書いてみたと言った感じの仕上がりで、あまり僕は面白いプロットのようには思えない。
 むしろ買えるのは、この文章の読みやすさとほどよい文学性であり、もう少し表現に拘るならば、もっと美しい文学世界を描けるだけの筆力が、作者には有るように思える。ただ、それには彼はまだ若すぎて、若いうちから変な方向に向かうと、あとあと手に負えなくなるので、性的逸脱はこの程度にしておいて、もっと作者には哲学的な面を磨いて欲しく思うものである。表現力は充分なので、あとはハートを研ぎ澄ませれば良いだけだ。そのためには、さまざまな辛くて苦しい体験が必要だろうし、それに立ち向かう精神も要求されてくる。そういうものがあってこそ、作者は今後一流になれると思う。今のところ、少し面白い小説を書くだけというふうに、僕には思える。
 まあ、同時受賞の「かか」よりはまともかとは思ったが、やはり今一の感が否めなかった。
posted by Pearsword at 20:09| 富山 ☀| Comment(0) | 文藝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月20日

「かか」宇佐見りん著。

 なんでこの癖のある語りに、みずからの波長を合わせなければならないのだ? と途中で苦痛のあまり投げたくなったのだが、読ませたものは賞の名前だけのような作品だった。ストーリーは、「かか」の悲惨な人生とそれを悲観する「うーちゃん」のちいさな世界の話であり、つまるところそれは、かかの発狂する直前に吐かれた、呆けたババに直面したときの嘆きの述懐にプロットが要約されていて、そこですべての種明かしをするのはあまりにも興ざめでもあり、ある意味このもどかしい判りにくい小説世界を明確化してくれたような「箍外し」をしてくれた安堵も感じられて、要するにどうにも疲れる小説だった。
 うーちゃんの鬱屈した思想は、物語中盤で独白される。「男のことで一喜一憂したり泣き叫んだりするような女にはなりたくない、誰かのお嫁にもかかにもなりたない。女に生まれついたこのくやしさが、かなしみが、おまいにはわからないのよ」。だいたいが、この口調の相手たる弟のみーちゃんに語り聞かせる必然性がなくて、それがいつぞや流行ったドラマ「HOTEL」の「姉さん、事件です」を思い起こさせて、どうもくだらない。この無意味な語りかけは、何か意味があるのだろうか?
 かかは、ババやジジに愛されなかったと言って、僻んで育った子供で、ババも、かかよりも姉の夕子の子供の明子のことより先に、実子のかかを忘れてしまうというどうしようもないむごたらしい親である。そんな親がいてもこんな生き方をするような変に力んで偏った女がいるのか、あるいは、そんな親がいるのかどうか知らないが、事実をベースに描かれているにしても、その子供たるうーちゃんすら、かかの悲観を受け継いで憐憫し、かかを産み直して育てようとわざとらしい狂気を思う。どんな思考回路でもそんな荒唐無稽な思想は抱かないように思うが、まあそれはいい。
 しかるに、ラストのお粗末さときたら、がっくりくるほかない。ここまで嘘っぽいことを書いていながら、最後はうーちゃんの思い過ごしでした、みたいな但し書きは要らないと思う。うーちゃんの思い過ごしのまま、昏い妄想をたくましくさせたまま、嘘っぽい悲観のまま、終わって貰った方がよほどまとまっている。なんだか、ちまちまとした鬱屈したさまの精神は、同賞受賞作「はんぷくするもの」を思い出させて、やはり似たようなものを好むのだな、と思わざるを得ない。
 リアリズムは完全に抜けているが、小説として楽しめればまだ良いとは思う。しかし、そこそこに面白いプロットがあるだけで、この癖のある語りでなければならぬ理由もなく、僕にはこの癖のよさがまるで判らなかった。それは、「はんぷくするもの」のずれた表現と全く同等のものを感じた。そんなところに個性を出さなくても、もっと中核的なところで個性を表現する方が、よほど素晴らしい。ようするに、この小説はちまちましすぎである。
 受賞作だからといって、理解できなければ間違っているわけでもあるまい。そうはっきり思わせてくれる一作だった。
posted by Pearsword at 22:43| 富山 ☁| Comment(0) | 文藝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月17日

「孤島の飛来人」山野辺太郎著。

 どうも受賞作と色々な点において似通っている作品である。
 何かの莫迦げたプロジェクトを、大まじめで巨大組織が実行するという骨格は、「いつか深い穴に落ちるまで」とまるで同じで、このすかしたユーモアは、受賞作を読んだ後この作品を読むと、マンネリ感が否めないものだろう。「いつか深い穴」では、その莫迦げたプロジェクトが、もっともらしく上手く描かれていて、とても興味をそそるのだが、当作品はその作品の別バージョンを焼き直したような感じで、今一たのしめないところがあった。
 とくに、キタイ人がサトウキビ槍を持って、主人公吉田のまえに集まってくる辺りは、どうも嘘くさくて鼻白みかけた。しかし、それでもこの小説を最後まで読ませしむるものがあるとすれば、キタイ王国の面白さだろう。存在感を薄くすることで、日本の国土地理院には無人島として登録されることになった北硫黄島。その成り立ちと王国の存在の危うさ、その有り得ない小説世界のリアリズム。北硫黄島については、Wikipediaにも記載があって、確かに第二次世界大戦時に、全住民が日本に疎開されられて無人島になったとあり、その史実の裏側に描かれたこの譚は、莫迦げていると一笑するにはとても面白く出来ている。
 西井という日本兵が硫黄島から流れ着き、国防を任され終には国王となってしまうのだが、結局王は武力か、という点において、国の構造をみるようで興味深い。また、西井の住居がそのまま、のちのち塚本や大井に継承されるのだが、そのとき囚人のいない牢獄の看守という、小説的ユーモアを持つ職掌を産み出して、かれらが代々勤めることになるのだ。その看守の職を、吉田が受け継ぎ、吉田は日本人サラリーマンとしての任務とキタイ人家族としての幸福とのあいだの二者択一に迫られる。
 この辺は、「いつか深い穴」にはあまり無い要素ではあったが、家族愛や恋愛が、うすいタッチで軽く撫でるように書いてある。この小説家の特徴として、さまざまな事柄を部分的にではなくてグローバルに描くということが挙げられると思う。「いつか深い穴」もそうとうの時系列の流れの中で描かれるが、この話も、流れる時間は吉田の半生に過ぎぬとはいえ、吉田が大井から聞き知った話を含めると、戦時中からの長い歴史が描かれているのだ。そのため、あらゆる描写は薄く素描されるにとどまり、ほのかな色付けはされていても、個別の人格の面白さや微妙な個性の違いなどがまるでわからず、登場人物没個性的文学ということもできるかもしれない。つまりは、人間ではなく組織や社会を描く小説であるのだ。
 情景描写で、作者がもっとも力を入れているだろう所は、乙女のホシアビとウミガメの産卵だろうが、「島が産卵する」というイメージをもうすこし鮮やかに印象深く描けていたら、もっとロマンチックな小説になっていただろう。しかし、それは山野辺氏の作風ではないにちがいない。山野辺氏の面白さは、莫迦げたことをリアリスティックに描くところであり、それはユーモアに拘わることでもあって、むしろロマンチックな作風から遠いところにある。それは、氏の個性であろうし美点であろうから、読者を選ぶにしても変えて欲しくないところでもある。ただ、前作と被ったところが多い気がして、そこがもう少し突き抜けられないかと、残念に思うところである。
 人それぞれ、個性は異なるものだと、再認識させられる小説であった。
posted by Pearsword at 13:46| 富山 ☀| Comment(0) | 文藝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月13日

妻を迎える。

 金曜日、どういう話の流れでか、僕がすぐ山口に迎えに行くことになった。時間は昼過ぎ。電車の予約も取ってない。
 コインパークで駐車すると、すぐに向かったみどりの窓口は長蛇の列。仕方ないから、端末でネット予約してチケットを購入した。サンダーバードから京都乗り換え山陽新幹線である。途中、あわら温泉あたりで、線路トラブルが発生して、サンダーバードが30分ほど足止めになった。どうなることかとは思ったが、17時半くらいには京都につき、そこから新幹線だが、もとより当日に買ったので自由席で、台風19号で疎開でもするのか、やたら客が多くて寿司詰め新幹線だった。
 なんとか、広島で空いてきたので座り、そこから新山口に着いたのが20時50分くらい。出たのが13時45分くらいだから、7時間もかかってる。いつもより2時間も多くかかった。新幹線も相当遅れたし、散々な移動だった。
 しかし、妻は駅で待っていてくれた。久しぶりに妻に会えて嬉しかった。これから毎日、妻の顔を見られると思うと、とても嬉しかった。
 会った次の日は、台風で岡山以東が新幹線運休。僕らは、山口で足止めを食らった。
 仕方ないので、その日は山口市巡りをした。山口県立美術館で絵画を鑑賞し、瑠璃光寺観光をして、湯田温泉でカラオケをして時間を潰した。観光と思えばなんてことはないが、僕は今回の件で妻の御両親の印象も悪くしたし、富山に帰りつかないでは、なかなか安心もできなかった。しかし、こうして台風に足止めを食らってみると、今妻と出逢え将来を誓ったことは、後悔しようのないこころの真実なのだと改めて感じ、もう後戻りはしないことを決意させた。
 帰る当日は、昼までサンダーバードが欠便になってしまっていて、ホテルのチェックアウトの10時からは少々暇だった。二人で、近くのイオンタウンに行って、休憩する。あいにく、屋根付きのイートインが撤去されていて、戸外のベンチで過ごすとになった。今日は、台風一過でスッキリ晴れ渡っている。
 これからのことを考えた。二人でやっていくのはなんとかなるだろう。喧嘩も、たまにしてもそんなに酷いことにはならないと想像する。
 しかし、妻を無理やり連れ去ることになり、御両親にはかなり反対された。こちらも定職を持つでなし、反対されて仕方ないのだが、そんな中で支えてくれる妻は、本当に何にも変えがたい僕の救世主だ。一生、そのことは忘れずに肝に銘じ、事あるごとに妻の勇気ある行動を、思い起こそうと思う。
 これから、いかなる人生になろうとも、ここまで出来たのだ、後悔はすまい。我が人生を愛し、妻を愛するのみである。
 現実は甘くないが、頑張っていこうと思う。
posted by Pearsword at 10:35| 富山 ☔| Comment(2) | 浮泡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月08日

作業所で受けたパワハラ。

 僕は、現在HBというA型作業所で勤めている。
 少し前に、外勤の時に作業のために腰を使って、ぎっくり腰になってしまった。仕方ないから、整形外科に行って治療していたが、その治療中に、座骨神経痛を発症してしまった。ぎっくり腰は、ヘルニアによって腰骨がズレることによって起こるが、座骨神経痛は、神経を覆う鞘が老朽化して狭窄化するから起こるもので、明らかに背骨の老化である。疲労しすぎである。僕は、その説明を聞きネットで調べたりして、腑に落ちた。
 ――僕は、もう働けないんだ。
 もとより、A型作業所の作業自体、外勤でやっとかっと最低賃金分の時給が出るだけで、政府の要求する「利用者の給料を利用者自身に稼がす」ことにはほど遠い。そんなことは不可能と言っても良いし、だからこそ障碍者というのに、そんなことをさせる政府は、働く障碍者を殺そうとしているに等しい。A型作業所とは、政府の言うとおりにしていたら、障碍者を潰すための機関になるのだ。しかし、そのような考え方なのは、政府だけであって、現場のスタッフは違うと思っていた。
 しかし、僕は、このまえの土曜日に、整形外科の診断書を持っていって、「腰に無理を掛けるような仕事をさせてはならない」ということを、スタッフに確認させた。それなのに、まだそれから3日と立たない今日、作業後の登板の「掃除機」をかけるような指示を受けた。それは、少し配慮が足りないのではないかと、スタッフに断ったら、サービス管理責任者の方が出てきて、「そんなことは事前に行って下さい」と、診断書を出したのにまるで素知らぬことを言われた。そうして、僕のこころをいたぶって、怒鳴らせておいて「暴力は止めて下さい」と、滅茶苦茶な反撃をされた。こういうのを、言葉の暴力と言い、パワーハラスメントというのだと思う。
 今まで、この作業所は良い会社だと思っていたが、とんでもなかった。今度のことで、サービス管理責任者の腹が見えたし、自分らのことしか考えておらず、障碍者のことは全く屁とも思っていないことが、よく判った。彼らにしたら、僕らはただの金稼ぎの出汁だ。政府から助成金をせびり取るための餌でしかないのだ。あまりにも酷いしうちなので、凄く動揺した。とりあえず、医者に連絡を入れて、明日無理矢理診察の予約を入れた。そうでもしないと、こちらは身の安全が保てない。弱い者虐めも良いところだ。酷い作業所もあったものである。
 しかし、結局どこの作業所も似たり寄ったりなのかなとも、感じた。みな、介護者はハイエナのように障碍者に集って、美味しいところを貪り尽くして、最後はポイ捨てするのだろうな、と思った。もう、社会が嫌になったし、日本という国の障碍者差別の根の深さに、改めて驚いた。ろくな人間がいない。だから、いまだに安倍政権なんてありがたく戴いているのだ。まったく、情けない国民であることよ!!
 作業所はやめるかもしれない。
 
posted by Pearsword at 21:00| 富山 ☔| Comment(0) | 障害 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月01日

「猫と庄造と二人のおんな」谷崎潤一郎著。

 谷崎潤一郎と言えば、僕にとってあまり触れたくない、文学の古豪だった。「源氏物語」も訳しているし、ときどきインテリたちの口頭に上る、文学の基礎として学んでおかねばならない類いの小説家という認識があった。文学を学校で修めていない僕には、それは耳の痛いビッグネームの一つだった。
 しかし、今度ある人から紹介を受けて、もう歳だし諦めを付けて読んでみようという気になり、この書を読んだ。
 読後、まず思ったのが、これは谷崎氏の代表作ではないだろう、ということだった。僕もアマゾンでこもごも出版しているが、なかには出してしまって今頃になって恥ずかしくなって、引っ込めたい作品もあるのだ。谷崎にとって、この作品もそのようなものの一つではないかと、思ったのだ。
 出来は、確かに読みやすくて面白い。しかし、ストーリーもプロットも情景描写も台詞も人物描写も、すべてがすべて、ほどほどに過ぎないのだ。中庸と言うほど純度の高くない半端さは、いやおうなしに大衆的にならざるをえない。この小説はそのような出来に思えた。
 勧めた人が言ってくれていた緻密な心理描写は、気分屋的であるしストーリーのためにこじつけられて言い訳がましくひん曲げられたようになっていて、悪く言えば日上秀之さんの「はんぷくするもの」のような感すら受ける。そんな優柔な思いを、人は抱かないだろうというような、こじつけがましい気分に苛まれて、それに翻弄される登場人物の数々は、どうみてもリアリズムに欠ける。確かに、人間は理性的にいきられないから、そのような複雑な矛盾した点もあるのだと、強弁すればただの痴れ者である。人間の複雑さには、人間味があるのだ。ただ矛盾しているのではない。その辺が、優柔不断な人物が多くて、どうも嘘くさいのがこの小説である。
 その優柔さは、猫のリリーにまで及び、若い頃は尼ヶ崎から蘆屋まで帰ってきたという美談を持つ猫の筈なのに、年老いては六甲から蘆屋まで帰ることが出来ず、嫌いだった品子に寝返りを打って甘えてしまう。猫に失礼ではないか!! そんな気分屋の猫が、どこの世界にいるというのだ? とむしろ憤りすら感じさせるプロットである。
 そのため、テーマがほぼぼんやりとしていて見えず、ただ庄造が品子から無事逃げおおせるか、ハラハラドキドキのくだらぬラストを演じることになる。どうせなら、猫のリリーに大自然の象徴をさせて、おろかな人間ども、つまり庄造、品子、福子、おりんが翻弄されるさまを書いた方が、よほどすっきりした小説になって、僕はより楽しめたと思う。この小説は、どうも濁りというか曇りが多すぎて、あまり美しい純度の高いものには、どうしても思われないのである。
 まあ、畢竟すべての日本文学を読むことは出来ないのだから、僕はこの小説を以て、谷崎氏の小説を読むことは、今後機会のない限りしないだろうけど、文豪でもこのようなつまらぬものを書くのだなと、少々肩透かしを食らった。
 すくなくとも、この小説を読んで、谷崎潤一郎万歳、とは叫べない小説である。
posted by Pearsword at 20:36| 富山 ☀| Comment(0) | 文藝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年09月25日

「ビリジアン」柴崎友香著。

 山田解は、解を持たなかった。
 この小説は、出始めからして非現実的事実がリアリスティックにユーモラスに描いてある。「黄色い日」とは何なのか? そんな不思議な現象は、幻覚でなければSFかファンタジーだろう。矢継ぎ早に出てくる、リバーフェニックスを初めとする、アメリカのスターたちも、解と話をするので、初めは解が喘息だからその所為で起こる幻覚か何かと思ってしまう。最後のあたりに「白い日」や「赤の赤」などが出てきて、いろんなふうに解の見る景色が彩られる。そして、解はある日、アイスを食べ終わった男子を見て、思い当たる。「わたしが見ているこの色が、他の人には違う色に見えていたらどうしよう」。ニーチェの遠近法を思わせるこの哲学的思考は、思春期に陥りがちの一般的悩みなのだが、解のいる世界は、未来と過去の自分が対面していると示唆される、いわゆるドッペルゲンガーの目撃が起こっており、しかも通説であるところの、「ドッペルゲンガーを見ると死ぬ」という概念は、完璧に抜けている。
 非現実的なのは、最後の鉄くずの空き地で注意したおっちゃんが、以前百貨店の屋上で解が出逢っている、高層ビルをバックにカメラ付きフィルムで撮影を頼んできたおっちゃんに酷似しているところでも現れている。いろいろなことが、過去と未来で錯綜しており、不思議な世界を形作っており、しかも圧巻なのは、まだノーベル賞受賞前のボブディランを賛美しているところで、この小説が発表されたのが2011年なので、完全に彼の良さを理解してノーベル賞を予見している。小説家の眼が確かなところである。
 ともかく、この小説に「答え」はないだろう。なぜこうなっているのか? という問い掛けは、この小説の題名の理由を研究するくらい、ナンセンスだ。題名は、解の持っていた絵の具の緑の名前から来ていて、ほとんどその必要性がない。ときどき世界が色付き、色覚に関する考察が入っているので、色の意味を喚起する題名なら何でもよかったような気がする。色の作られる不思議さの描写は、途中OHPの描写でも描いてあり、その作られる色と現実の関係性の不可思議さが、スクリーンからスターを現実に抜け出させてきて、解と会話させているのだろう。つまりメタファーとして、現実世界の不確かさというものを、テーマにしていると言っても差し支えない。
 しかし、この小説は、小説の中でそれでなければならない唯一性を持っていて、ほかに替えの効かない美しき小説世界が表現されているのだ。柴崎さんの小説はどれも詩的に美しい世界が描かれている。この「ビリジアン」も、大阪の街が工場や川や橋を中心に、とても芸術的に描かれているのだが、だからといってその世界に何故そうでなければならないのかという理屈を求めるのは、まるで芸術的でない。理由があるとすれば、美しくユーモラスに描くために、そのようであるとしかいいようがないだろう。
 この小説の地の文は、ガルシアマルケス氏がマジックリアリズムを開発したならば、柴崎友香さんによって始められた、コミックリアリズムとでもいうべき、それとは知らせずに暗にギャグをかまして平静を保って語られている、ギャグをリアリズムに溶け込ませていくような、そうとう新しいものである。いくら大阪の街がお笑いに満ちているからって、それはないだろうと言うかもしれないが、このユーモアが判らない人は、人生半分損しているような気がする。それくらい、とてもユーモアが美しい作品だ。
 難を言えば、ラストが少し取って付けた感があって、僕はあまり好きではない。何も、映画のフィルムに解をねじ込まなくても良いだろうと思うのだが、作者の思うところはどんなものだったのだろう。
 柴崎さんの小説の中でも、「ビリジアン」だけに異色の色を作す小説だった。
posted by Pearsword at 15:25| 富山 ☀| Comment(0) | 文藝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年09月23日

短歌を詠み始めて思うこと。

 このまえ、妻が富山にいるときに、海市歌会に二人で出席した。そのときは、あいにく主催者の黒瀬さんが、御都合で出られなくなって、僕が詠歌のプリントアウトをしたのだが、そのときに、妻もなかなか歌会に出られないからと言って、懇親会に出てきた。
 そのときに、結社コスモスの会員の早川さんが、パロディの歌として奥村晃作氏の引用歌を詠んでいらっしゃって、その奥村さんの歌について、話をした。早川さんが紹介した歌に「もし豚をかくの如くに詰め込みて電車走らば非難起こるべし 」というのがあって、豚は人間の捕食動物であり、捌いてくらうくらいむごいことを人々はするのに、この歌は「豚」を愛護しているのだ、と却って印象に残ったのだった。そのときに、「短歌は、異質なものの結びつけのような、何かしらのアイデアが必要なのかもしれないですね」と僕は言ったのだが、ここしばらく、そのことについて思い巡らせ、やはり僕は歌人向けではないなと、懊悩していた。
 しかし、小説も文学であり短歌も文学である。向かう姿勢に共通なものを求めて何が悪かろうか? 僕は僕の短歌を詠めば良いと割り切ったときに、見えたものがあった。
 僕の好きな柴崎友香さんの小説は、写実的に描かれたものすら、柴崎さん特有の繊細でコミカルなフィルターに通されて、とても美しい小説世界を描き出す。短歌も、僕目線というフィルターを通して、何も奇を衒うことなくアイデアを練ることもなく、ただ現実をフィルトレーションするだけで良いのではないか? それが、写実という創作なのではないか? と思えるようになったのだった。
 少なくとも、短歌は小説のように、創作するものではない。そこに見いだされるのは、情景の一断面であり、刹那のきらめきであろう。その瞬間に込められた、背景としての膨大な情報は、一角の氷山の水面下として、言語下に読者に伝えられ得るべくものであり、伝わらない場合も多々あるし、何も感じてくれないことだってあるだろう。しかし、小説のように創作したイメージを伝えられないという、写実という縛りがある短歌は、それだけに現実を異なる角度で見せる可能性を秘めており、アントナン・アルトー氏の曰く「どんな超現実よりはるかにすばらしい」と言われるこの現実世界を、美しく捉えるヒントを与えうるものであるのである。この芸術の敷衍性は、ポップアートやパブリックアートと共通する「美の解放」というテーマを背負っているだけに、とても前衛的にもなりうるものでありながら、日本古来の「禅」にも同義的な目的を持たせうる人類に普遍的な要事である。仏教的な理想である「密厳国土」の現成は、そのような「不垢不浄」的哲学から齎されるべき救いであろうし、その実現に近づこうとするならば、やはり芸術の担う役割というものは、「平和」を透徹して「理想社会の構築」にまで、登り詰めねばならないと思うのである。
 そういうことを考えると、なんだかんだ言って短歌も捨てたものではないのかな、と思えるようになった。
 特に、小説の創作において「無駄」という現実的存在を、如何に違和感なくストーリーに根付かせるか、研究している僕にとってはとても、短歌の吟詠は、意味のあることなのかもしれない。

 風に揺るる窓ガラス越し明るき陽 心動ずるを仏の美といふ

 禅問答の「仁者心動」をふまえて詠ってみました。禅の境地は「無」という統一項であり、芸術と異なるのは、「美」と「無」という統一項の名称だけのような気がします。
 
posted by Pearsword at 15:31| 富山 ☁| Comment(0) | 迷い言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年09月16日

猪の死骸を轢いてみて。

 昨日の夕、松本を出たのは午後六時半頃だったろう。安房トンネルを通って九時まえに、上宝村の道の駅で休憩した。
 そのあと、富山に向かうべく出たのが、九時過ぎ。明日は休みとは言え、妻の睡眠のリズムが壊れるのが怖かったので、早めに帰宅したかった。それで、急いで向かったら、道の駅から三分くらい行ったところで、道路ど真ん中に、うずたかく盛り上がったものがあった。ライトを下向きにしていたのか、気付くのが遅れ、そのまま乗り上げて通り過ぎてしまった。茶色をしていたので、最初岩石かと思ったが、それにしてはシャシーに当たった音が鈍い。土砂か何かなのだろうと思いそのまま通りすぎるに、妻が心配する。
 「まさか人じゃないよね?」
 あんな巨大な塊の、しかも茶褐色づくめの人間なんて、まあいない。しかし、当たった感触が変だったので、とりあえずリフトアップして見てもらうところが無いか思いを巡らすも、いぜんある人の車が夕方ガス欠の時に、神岡の街に行ってもどこも閉まっていたことを思い出し、仕方ないから、神岡の道の駅まで行って、電気の前で観てみようと思った。
 しかし、目的の道の駅は真っ暗で、自販機の電灯しかない。仕方ないのでその前に留めると、パンパーからナンバープレートに掛けて、大量の血痕が付いていた。僕は、これはまずいと思い、近くに神岡交番の看板があったのを思い出し、その看板に従って交番に行った。すると、猪の可能性が高いという。しかも、一度当たっただけの場合は、こんなに大量の血痕は付きにくいと言われた。とりあえず、事故証明をとるから、現場に戻ってくれといわれた。
 現場に戻ると、一人の見知らぬ男が、交通整理をしていた。その男に、警察を呼んだ旨を話し、しばらくハザードを付けて待っていたら、30分くらいしてようやく、高山市警の方が来た。
 「事故処理が終わった後、事情をお聞きしますので、車の中で少々お待ちください」
 と言われた。とりあえず、警察官は、笑顔でそう言っていたので、我々に悪意や犯罪性は汲み取っていないようだった。
 車中、震える妻と話した。
 −−もし、あれが人が同様に路上に横たわっていたのだったら、間違いなく轢き殺していたよ。
 −−猪を轢き殺しても、罪を問われないのに、なぜ人だったら犯罪になるのか?
 −−いずれ、僕らは生きた猪を踏んづけたわけではないな。でも、トドメを刺したのだったら、あまりいい気はしないな……。
 猪は、僕らが轢き通って神岡交番に告げ戻ってくるまで、滅茶苦茶に破損されていた。内蔵だけ路上に散らばり肉がなく、頭部だけが血痕からかなり離れたところに転がっていた。この死体遺棄は、人間だったなら相当の犯罪性を持つ。同じ生命体なのに、人間と猪でどうしてこうも差別が付けられるのか? 猪が可哀想だった。人間の、霊長類と自負する傲慢さが、悲しかった。人間の横暴が、とてつもなく、痛かった。
 慰めは、人間も自然と対峙して生きていると思い込んでいるだけで、じつは大自然の中に組み込まれて、人間という動物の習性として、文明というものを形成しているに過ぎないということだった。われわれも、尸になれば、土葬なら蛆虫や小動物やバクテリアの餌に成り、火葬なら二酸化炭素になって植物の体として同化される、つまり土と空にかえり自然の循環を免れ得ない、そういう現実だった。それは、つまりは「仏性」と置き換えても良いほどの「無常」であり、人間も仏の掌の上で足掻いているに過ぎないという、仏の大慈悲なのだというふうに思え、どんな極悪人でも、最後は植物やバクテリアの餌となって死ぬのだというそういう真実が、「一切衆生悉有仏性」という道得の一側面なのかな、と思ったりもするのである。
 たしかに、我々はものを食わねば生きていけない。しかし、人間の土葬における蛆虫のような貪りを、人類はあらゆる動植物に行っているのだ。栽培や飼育してて食物として殺して食う。動植物の種を超えた生命の共食いが、此土の形なのだ。しかし、命は尊いことは第一前提だ。その確認はここではしないが、命を無駄に殺めることは、やはりすべきではない。そう思えるのが、今度の出来事だった。
 ちなみに、警察では最初の猪の発生目撃時刻を20時55分であることを確認し、猪のほうを害獣として敵視した。我々は自損事故扱いで、交通整理していたのは、市の職員らしく、消毒薬を持っていたので、血痕のついた部分に塗布していただいた。猪からすれば、害獣は人間、という視点を持つと、この世の弱肉強食性がよくわかるのだった。
 あまり、気分のいい帰り道にならなかったが、僕も小説家の端くれ、現実から目を背けぬよう頑張っていきたい。
 
posted by Pearsword at 12:57| 富山 ☀| Comment(0) | 浮泡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年09月09日

第七回文学フリマ大阪。

20190908_012820486_iOS.jpg 今年も文フリ大阪に出店してきた。山口在住の妻・藍崎万里子といつもながらに逢坂で落ち合い、今年も懲りずに国立国際美術館に行ってきた。このまえ大阪に来た時に、同ミュージアムでやっていた「ジャコメッティ展」の続きがあるというので来たのだが、その目的のジャコメッティ展Uよりも、同時開催の「ウィーン・モダン展」のほうが、より興味深かった。美術品鑑賞と言うより、ヨーロッパの美術史がよく判ってとても興味深かった。丁度、妻の勉強したモーツァルトの活躍した時代と、ウィーン・モダン展の展示内容の時期が少しかぶっていたので、妻もとても面白がってくれた。なによりも、印象派の起源がウィーンの「ビーダーマイヤー」にあるという視点は、認識が改まった。
 一泊して当日、さっそく設営ボランティアに遅刻するわ、出店者証を忘れるわ、ぼろぼろだった。国立国際美術館で真剣に鑑賞しすぎた所為もあるが、むしろ用意していたのに忘れてしまうこの呆けさ加減が、どうにもポンコツ人間ぶりを如実に表わしていて、自分で情けなかった。
 なんとか会場設営の手伝いを終え、文藝同人無刀会のブースも設えた。昨日の疲れと寝不足で僕も妻もへろへろだったが、妻が一生懸命頑張ってくれて、売り上げは文フリ大阪最高記録を更新した。その冊数28にして9400円は、行きの荷物が二箱でなければ、出店料をさっ引いても、とんとんか黒字だったかもしれない。
 何人か知り合いも来てくれて、なかなか嬉しかった。特に、ふだんツイッターしか見てなくて、文フリくらいしか会う場がない人に、やさしく声を掛けてもらって、そのうえ本を買ってもらえるなど、嬉しいことこのうえなかった。
 文フリ出店もだいぶん慣れてきた僕だったが、懇親会では相変わらず、だれも仲間がいなかった。僕と妻の前の席は、我々がまるで汚物であるかのように空いていて、最後になってスタッフが座って下さった。スタッフの方に、お勧め小説として、川端康成著「山の音」と谷崎潤一郎著「猫と庄造と二人のをんな」を進めて戴いたので、焼け石に水かもしれないが、教養を積むためと思って、読んでみようと思う。
 懇親会は、20時に終わったのに、谷町線を逆方向に乗ってしまい、慌てて引き返して梅田で大阪駅に乗り換えるも、阿呆な僕はサンダーバードの特急券を新大阪からしか買っていなかった。京都線に乗ろうとホームで待っていたが、いっこうに電車が来ない。おかしいなと思って電光掲示を見ると、20:55発になっている。サンダーバードの終電の大阪駅発は20:54で新大阪は20:58である。特急より速い普通電車など聞いたことがない。そのことに20:52に気付いた僕は、妻に急いてダッシュさせて、はるばる12番線まで階段を駆け上がらせた。発車のベルが鳴り終わった頃ようやくホームに着き、「ちょっと待って下さーい」と大声で怒鳴って駅員に頼み込み、先にドアを跨いで半乗りして「速く速く!!」と妻を急がせて、ようやく乗らせてもらった、サンダーバードだったが、間に合ってよかったとは言うものの、追加料金を払おうと検札を待ち受けていた割には、金沢まで車掌が来なかった。
 なんとか無事帰り着き、その日家に付いたときは、日付が変わっていた。
 我妻よ、お疲れ様でした。 
posted by Pearsword at 22:01| 富山 ☀| Comment(0) | 創作 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年08月31日

「ニキの屈辱」山崎ナオコーラ著。

 この小説のテーマは、根本的に恋愛と名声に拘わるものであるような気がする。
 ニキは、「女の子」と記事に書かれるのを極度に嫌がるくらいの、女らしく振る舞わない人気カメラマンだ。しかし、加賀美をアシスタントにするうちに、加賀美を好きになり二人は恋愛する。仕事場では、加賀美をアシスタントとして命令調で呼ぶが、プライベートになると甘えてきたりするようになる。ニキは、普通の女の子の部分を持っていたのだ。
 ここは、むしろ作家の女性側自らの偏見みたいなものが、見て取れる。女の子は、やはりどうあっても、「可愛い」と呼ばれたいのか? 少なくとも、ニキは呼ばれたがった。才能が凜々としていて男勝りのニキなのに、加賀美の前では女の子でいたいのだろうか? その辺がこの小説のおもしろいところでもある。
 やがて、加賀美が売れ出して、ニキは捨てられた。別れてしばらく会わなくなった。しかしそのあと、加賀美は付き合っていたときに撮ったニキの写真を写真集として出して良いか訊くためにニキと会ったときに、ニキは「カノッサの屈辱」だと言った。「カノッサの屈辱」自体がなにを指しているのかすら知らぬ僕は、ネットだのみである。Wikipediaによると、「聖職叙任権をめぐってローマ教皇グレゴリウス7世と対立していたローマ王ハインリヒ4世が、1077年1月25日から3日間に及んで雪が降る中、カノッサ城門にて裸足のまま断食と祈りを続け、教皇による破門の解除を願い、教皇から赦しを願ったことを指す」。ハイリンヒ4世は皇帝として一度、グレゴリウス7世の教皇を解任しているが、それに対してグレゴリウス7世も、ハイリンヒ4世の皇帝を解任し、諸侯が反旗を翻して、ハイリンヒ4世に謝罪を求めたために、しぶしぶ謝罪したということらしいが、ここでは、もっと単純に、権力争いに負けたことによる屈辱、と取るべきなのか……。
 ともかく、ニキはそのとき「どうして気づかなかったのだろう」と言わしめる加賀美の撮った自分の姿に現れたニキへの愛情を感じたことになっている。加賀美はそれに対して、もう遅いと言って関係を修復しない。すこしも今のニキが可愛く見えないとすら思っている。この見え方の変化には、三つの変化が撚りを作している。
 一つは、加賀美の写真家としての眼の生長、二つは、加賀美自身のニキへの気持ちの変化、三つ目は、ニキの心境の変化である。 
 加賀美の眼が幼稚であったなら、ニキ自身の言うように、ニキの名声や作品に集ったことはありうるが、加賀美が惚れていたのはニキの女らしさであっただろうし、その気持ちがフィンランド撮影旅行の前後で変化してしまったこともあるが、僕は、ニキ自身の心境の変化がとても大きいと思う。女性の表情は、そのこころを透かして輝くものだ。自分をこころから好きだと思っている女性は、可愛く見えるのが男というものである。ニキは、撮影旅行のあと自信を失ってしまって、性格が豹変した。加賀美は、じつはあまりニキを愛していなくて、だからこそ簡単に別れようなどと思いつけるのであって、やはりニキの言うとおり、加賀美の好きだったのは、人気写真家としてのニキでしかなく、その素顔やこころそのものではなかった。むしろ、ニキの男を寄せ付けない誇り高さが好きだったとすら言える。だから、ニキが自信を失って、普通の女の子のように化粧をしてきた「かわいげ」がまるでわかってやれない。それどころか、その泣いている修羅場を収めるために、冷たくシャッ ターを切る。
 加賀美は、本当に冷淡な男だと思う。結局、自分が有名になれたらそれで、かつて惚れていたという才能あるニキをすら、嫌いになってしまうその浅はかさ。
 この小説に描かれているのは、写真に置き換えられてはいるが、文学の世界でもままありがちな、才能と栄光との間に深さを試されて引き裂かれる男女愛なのではなかろうか。栄光は恋愛より勝る男女が多いと言うことでもあるかもしれない。
 それを思うと、どうも穏やかならぬテーマではあるが、加賀美が軽薄な分、なかなか面白い小説だった。
posted by Pearsword at 19:52| 富山 ☀| Comment(0) | 文藝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする