2020年02月13日

執筆と推敲の間。

 推敲も疲れてしまってなかなか進まず、新しい原稿も書き始めたりもするが、少し頭がだるいので、このような雑記をしようと思う。
 仮題「莫迦は懲りた」は、小説家の柴崎友香さんに捧げる小説である。読んで貰えるかどうかは判らないけど、人に捧げるというのは、僕の小説が売れないだけに、こころをモチベーティブにするのに有効である。いい加減な小説は贈りたくないから真剣度が増すし、誰かに贈ると思うとそれだけでやり甲斐があるというものだ。
 「莫迦は懲りた」の次は、仮題すら決めていないが妻に贈る小説の第二弾である。妻には「癲狂恋歌」を捧げた。しかし、それだけでは全然足りないから、第二弾としてこれから一つ書くのだ。もう数枚書いてみたが、なかなかいい滑り出しである。たぶん、なんだかんだ言って、今年の群像新人文学賞には間に合わせられると思う。昨年出したやつは、今頃屑籠の奥に埋もれていることだろうけど、今年も屑籠を豊かにするために書くだけかと思うと、ゴミ屋には大変申し訳ないように思う。せめてものデジタル投稿にしようかと考えているところである。
 このような雑記を書いているのは、実を言うとなにをやるのも疲れてしまったからで、推敲も執筆も今日は今一乗り気になれないのだ。とりあえずすべきことは「莫迦は懲りた」の推敲なのだけど、259枚はなかなか長くて、そう簡単に全編読めない。分けて読めば良いのだが、それでも体力が必要で、しかもこころのまっさらさも必要であって、少しリフレッシュしたい気持ちがあるのだ。だからといってこんな雑記を書いても少しも為にならないのだけれども。
 文学なんて、偉ぶってみても所詮、あそびごとだ。芸術というのは、いくら仔細ぶってみても、むだなあそびなのだ。人は遊ばないとこころが廃れる。だから、ゲームもギャンブルも流行るのだ。そういう粗暴な遊び方ではなくて、こころを豊かにするようなあそびが、芸術である。芸術家は、大衆にこころを豊かにするあそびを提供せねばならない。つまり、実務で疲れた人々を、癒やしてこころ優しくして社会を豊かに更新していくような、そんな精神を伝えなければ、芸術甲斐がないのだ。
 しかし、人は何をしておれば正しいというものもそれほどあるわけでもなく、釈迦牟尼仏言「諸悪莫作、修善奉行」というも、何をすれば良いかが安易には見えてこない。「善」とは何か? 人のために尽くすこととかいうけど、人のためにしたら別の人の害になることが多多あって、この食物連鎖の仏の世は、人間に限らずあらゆる生物たちが殺生しあっている。何が正しくて何が過ちだなどと、安易に決めつけられない。殺人犯の命すら、死んでしまえば焼かれて植物の同化元素に還元してしまうのだ。その循環した植物を、誰かが食べて成長することを考えると、我々の血肉には必ず殺生の歴史が刻まれていると言って差し支えない。
 仏の作り給うた浮き世の複雑さと言ったら、一言では到底表現できない。それが即ち密権国土と捉えられる悟境のあることが、仏の救いの道であるのだけど、その理屈からはじかに生きがいは得られない。
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2020年02月06日

売れないのが文学なのかも。

 よく知らないが、故小竹犬儒さんが言うには、芥川龍之介氏も小説家は食えない商売だと仰っていたそうだ。
 いままで、真剣に書いてきたり読んできたりした結果として思うのは、芸術性の高い小説は大衆受けしないと言うことだ。要するに、「売れないのが文学」なのだろう。大売れしてベストセラーになっている作品で文学性の高いものは極めて稀である。だいたい、大衆がもてはやすものは、判りやすくて派手でドラマチックで、ときには限りなく悲惨で、ときにはこの上なく残酷で、ときには途轍もなく奇妙で、ときには信じられないほど脳天気な、そんな文学らしくない漫画か映画のような小説ばかりだ。大衆は、だいたい文学の良さを判っているか? 日本文学の原点としての「もののあはれ」を解する読者が、今の世にどれだけ存在するのか? そういうことを訝しまずにはおれない。
 文学というものは、仔細ぶっているわけではけっしてなくて、静かなものである。静かだから、「もののあはれ」や情緒が深く感じられる。文学というものは、文字でしか表せないものを美しく表現する芸術である。だから、映画や漫画以上に美しい。ときには絵画や彫刻を凌ぐ。現実の芸術は、目に見えるものだけに限界があるからだ。文章で表現される美しさは、想像するものであるから、現実よりも美しく表現できる。これは鑑賞者の感性にもよるのだけど、判りやすく言うと、ギリシア哲学のイデアとか真言密教の智体とか、そういう形而上学的な表象として、美しい物を表現できるのである。
 要するに、文学が今一栄えないのは、現代の大衆が溢れる現実に想像力や感性を貧しくされているから、と推測できる。文章を読まなくても、判りやすく見える動画や漫画の方が、大衆は受け入れやすいのだ。だから、文章でも売れるためには判りやすさが求められるため、表現や描写の貧弱な、派手でドギツイ小説ばかりがもてはやされる結果になるのだ。現代の純文学の衰退には、大衆の軽薄さがその根本原因としてあるように思えてならない。
 そんなことを言うと、偉ぶった孤高の人とか言って忌避されそうだが、少なくともこの文章を読む人達には、もう少し芸術についての理解を深めて欲しい。現代絵画が滅茶苦茶ではけっしてなくて、判らないながらもそこから何かを学び取ろうと見詰める努力の中に、鑑賞者は貴重な感性を獲得することが出来ると思う。判りやすいものばかり鑑賞するから、いつまで経っても感性が未発達で、漫画や映画しか判らないような詰まらない人間になる。漫画や映画も結構だが、もう少し静かな美しさを楽しめるこころの平和が欲しい。芸術というのは、あくまでも人の気持ちを癒やすものでなければならないと思うし、逆に煽るような作品もある現実は僕は残念だが、そういうものを求める人達があとを断たないからであって、もうすこし大衆が意識改革をしないと、人類は平和になれないと思う。
 芸術というものは、平和だから存在できるものである。平和は正常な市民全員の願いであり祈りである。それを維持して広めるために、芸術はあるのだと思う。だから、文学はもっと理解されなければならない。こころを静かにすることが、世界平和への第一歩だから。
 
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2020年01月26日

僕は異端児だったのか?

 最近、プロの小説家の作品に幻滅することが立て続けに起きた。表現もなっていないし、描写はおろかストーリーすら上手いと思われない。しかし、そういう作品が大衆にも文壇にも認められているのが現実である。まったく、文壇不信になってしまった。本当に、芸術的に素晴らしいものを書く人たちが、文壇をなしているのだろうか? もしそうだとすれば、僕の感性はかなりおかしいのだ。僕は統合失調症だから、健常者からしたら異常な感性の持ち主で、僕の素晴らしいものが、大衆や文壇にはくだらなく、彼らの素晴らしいものが僕にはくだらない。
 そのように考えて卑屈になっても良いのだが、どうもそれでは僕の生きる甲斐がない。大衆の良いというものだけが価値じゃないだろう。少数人数の意見だって、立派な思想を形作ることができるのだ。数が多ければ正しいというのは、派閥力学の自民党か何かの掲げるえせ民主主義に過ぎない。そんなものは、芸術でもなんでもない。少数の感性が尊重されてこそ、芸術は価値があるのだ。
 しかし、大衆というものはまことにマスメディアに弱く、ニュースや雑誌で報じられると、嘘でも信じてしまう浅ましさを持っている。確かに、出版社は権威だし、その組織は敵に回すと恐ろしい暴力を奮う。無罪の人でも罪を感じてしまうし、罪人でも力を持ったりする。マスコミの報道は、必ずしも公正ではないし正義でもない。それどころか間違いだらけである。それでも、大衆はマスコミの報道を信じるし、専門家や識者の見解を尤もとする。
 僕は、識者の集団である文壇に全く認められない小説家である。いくら真剣に作品を書いても、一次選考すら通らない。しかし、僕は受賞作の素晴らしさは、それほどずば抜けているとも思えないし、僕の書いた小説をちゃんと読んで評価してくれているのか、とうてい信じられない。なぜなら、受賞作から感じられるテーマは僕の書く小説のそれより卑近だし、小説世界も僕の描くものと異なってあまり美しく思えない。僕の悟性や美的センスが独特であるとしか思えないのだが、それでもそういう独特の個性を尊ばなければ、芸術の世界は終わるのに、文壇や出版社はまるで僕の小説は読んでいないようなのだ。
 少なくとも、文學界新人賞に出した「恁麼」は、現在の日本文学にない真新しい世界であるはずだし、それが認められない読み手は、目が節穴なのだと思う。荒唐無稽と思うのなら、まだ読んでくれた証だが、くだらないつまらない、という感想だけであれば、その人は相当の差別主義だ。あのような新規な試みをまるで無視する文藝春秋社が、芥川賞に関わっているという事実は、悲しむべきことである。どういう理由かは判らない、ただ僕はあまりにも軽視されている。排除されていると言ってもいいかもしれない。正当に評価されていない。病歴が学歴が、何かの所為で偏見を持たれている。妄想的なのは病気の所為かもしれないが、ひょっとすると文壇自体に睨まれているのかもしれない。
 このブログを読んでくれた人で、僕をただの自惚れた莫迦だと思う人がいたなら、「恁麼」を掲載した空華第一〇号を郵送するので、送付可能な住所をブログプロフに書いてあるアドレスにメールしてほしい。いかに僕の小説が新しいか、感じていただけると思う。確かに理解し難いものはある。しかし、第一次選考にも通さない文芸春秋の凝り固まった保守性の酷さは、感じていただけるはずだ。
 いずれ、「恁麼」もAmazonで出版する予定ではあるが、僕はいつでも真剣に創作しているので、その信念が誰かに伝わることは、今後確実にあると断言できる。文壇が差別的で保守的であるというのは、そのときになってあかるみに出るだろうが、現時点でその証言のために、ここに一記事書いておいた。みなさんも、ぜひ以上のことを気に留めていただきたい。
posted by Pearsword at 22:46| 富山 ☁| Comment(0) | 迷い言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月16日

「博士の愛した公式」小川洋子著。

 小川洋子と言えば、芥川賞の選考委員すら努める文壇の重鎮である。僕自体はあまり読む気はしなかったのだが、同人の方が勧めて下さった御縁があり、読んでみようかと思った。それで、第一回本屋大賞でもあるこの著書を読むことになった。
 しかし、読み始めてすぐ、文章が野太いと感じた。繊細さがない。これは文学なのだろうか? アイデア偏重型のラノベの類いなのではないだろうか? 
 一通り読み終えて思ったが、この小説はまったく描写らしい描写がない。すべて説明書きだ。情景を言葉で抑えつけるようにして、説明している。しかも、家政婦が主人公なのに、息子のルートや数学博士の立場に平気に入れ替わって書かれている。つまり神目線だ。小川洋子さんは、全ての小説がこのような筆致なのだろうか? 描写が出来ない説明小説しか書けないのだろうか?
 たしかに、安っぽいお涙頂戴的ドラマチックシーンがあったり、決め文句的なCMキャッチのような文言が連ねてあったり、それなりに読者を騙す。しかし、少しも文学的でない。これは漫画化した方が良いのではないだろうか? そのほうがウケるアイデアだし、なにも小説として描くべき世界ではない気がする。
 たとえば、博士のトレードマークのメモだらけの背広だが、説明してあるだけなので文学になっていない。もっとメモがぶら下がっているさまを、叙情豊かに描いてそこに美的な風景を感じさせるのが文学であるのに、これでは漫画のシナリオと変わらないではないか。八十分きっかりしか持たないという博士の記憶も、未亡人にそう主張させるだけなら文学だが、博士の脳にそのような規則性を持たせるのは、SFか何かにちがいない。まるで、純文学的でない。
 しかし、この小説は本屋大賞を取り、小川洋子氏は文壇の大御所なのである。こんな人が大御所なら、僕の小説は一生認められないだろうことに、至極納得がいった。文壇は腐っている。売れれば良いのか? 名声を得られればそれでいいのか? そんなもの文学でも何でもないのだが。文壇も金銭欲と名声欲の巣窟と化してしまったようだ。
 博士が記憶が長続きしない設定で、しかも数学が永遠の真理を追究するというアイデアは、とても運命の皮肉めいていて、素晴らしいと思う。しかし、筆致とプロットの安易さで、折角のアイデアが台無しになっている。数学の真理は、アイロンがけできるような安っぽいレースではないし、ケーキで汚れて損なわれてしまうような儚いものでもない。そういうことが、まるで著者には判っていないかのようだ。数学の不思議さを訴える小説にすらなっていない。つまり数学小説としても下手くそだ。もう少しどうにか出来なかったものだろうか?
 矛盾点を挙げたらキリが無い小説でもあって、作り物なら作り物としてSFかファンタジーとして書けば良いのに、なまじタイガースの歴史とか試合の現実と符牒を合わせてあるために、嘘くささが倍増して最後の辺りは読むに耐えなかった。苦痛を伴いながらの読了だった。
 僕は、文壇のことは関係なく文学を楽しみたいので、このようなラノベに毛が生えたような小説はもう読みたくない。しかし、大衆はこのような判りやすいものの方を好むのだ。芸術のすばらしさが、大衆に開放されていないのだ。というか、こころの荒んだ人の多い世の中だから、芸術のすばらしさを理解できるものが少なすぎるのだ。
 小川洋子氏に芥川の選考委員が務まるのか、あやうく思った一編だった。
posted by Pearsword at 19:41| 富山 ☁| Comment(3) | 文藝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月04日

「また会う日まで」柴崎友香著。

 この小説は、スタンダードに柴崎友香色のよくでた作品だった。
 一読みして、とても情景の美しい小説で、李花の撮影の帰りに寄った格好良いギター二人組の演奏するライブハウス、そのあと裏道からしょうちゃんの家に帰る途中の道路、李花がドタバタフラれをしたあとにしょうちゃんと有麻とで行ったテラス席の居酒屋など、いろんな場面で美しい小説世界が目の裏に浮かぶように鮮やかに描かれている。さまざまな細部が隠し味のスパイスのようにうまく利いていて、たとえばそれは後藤さんの電話口だけで丁寧語になる妙なくせだとか、浅草寺の石段を歩く老婆の後ろ姿にものを思う有麻とか、微妙でほかに替えの利かないディテールが、とても美しく世界を彩っているのである。それは、以前柴崎さんが蔦谷書店のトークイベントで話していたように、環境と人が繋がっているということと関係があるのかもしれない。そこに住む人を描くことが、その環境を描くことと同じことあり、人を描くことで社会全体を描くことになると言うことである。だから、このようなディテールにスパイス性を持たせられるのだろう。
 一方この小説は、鳴海くんと有麻の不思議な親密さについても、謎かけしつつミステリー的牽引力を持たせて、書いてあるところが読みやすさに繋がっているだろう。鳴海くんと有麻は、高校時代の少しの妙な経験で、少なくとも有麻ほうは親密さを感じる。しかし、それは鳴海くんにとってはどうだったのか、ということが、凪子という高校の後輩のストーカーじみた女性によって、明らかにされていく。凪子はここでは探偵のような役割をしているのかもしれない。変わったキャラクターの女の子で、しょうちゃんが一目惚れするほど美人である。それが、すこしも安っぽくない筆致で描いてあるから、柴崎さんの筆力は本物であろう。
 しょうちゃんの家に、何の肉体関係もなく泊まれることから、有麻は妙な女性ではあるのだが、それは鳴海くんも同じであり、凪子にプライバシーを侵されてもすこしも意に介していない。そのような、一種色気を欠いたような二人だけに、不思議な親密さを感じるのだろう。似たもの同士なのかもしれないけど、少し不思議な二人。その未来が恋愛であるのか、あるいは占いに出たようにセフレにすぎないのか、あるいは他人のままなのか、そこは読者の想像に任せられるけど、善意にとりたくなるような美しさに彩られている。
 また、有麻は写真に興味をもつ女の子であるところも面白い細部である。有麻は、写真が趣味で、文中でも言っているが、撮りたい瞬間はいつもカメラを持っていないので上手く捉えられず、カメラで撮るときはそれと似た瞬間をさがすしかないのだ。これは、全ての瞬間が一回限りであるという、時間を大切にする哲学に繋がる見方なので、とくに注目したい。写真自体、現実のレプリカかそれ以下でしかないという見方をすると、写真は芸術性があまり高くないように思われるけど、撮る角度や枠などは写真家の手によるので、そのレベルの個性は発揮できたりもする。現実とは徹底的に異なるという認識をもっておれば、写真も一つの作者の個性的作品として、楽しめるのかもしれない。
 いずれにしても、たった六日間の出来事を書いただけの小説なので、純文学が楽しめない人には、あまり理解できない小説だろう。ただ、文章好きの人には、ぜひ読んでよく味わって戴きたい小説である。
posted by Pearsword at 16:14| 富山 ☁| Comment(0) | 文藝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月26日

今年の三大事件。

 年の瀬も迫ってきたので、今年の僕に起こったことで、最も印象に残ったことを三つ選んで述べようと思う。
 まず三番目。柴崎友香さんと、はじめて口を利けたことだろうか。
 大阪梅田の蔦屋書店で行われたトークイベントに行ってきて、次の日会社に遅刻はしたものの、柴崎友香さんと一言二言会話することが出来た。彼女もとても優しそうなお人柄で、お会いしてとても素敵なのが、イメージが崩れず嬉しかった。まさか、以前J文学を読んでいるときに、あとあと柴崎友香さんが僕のファボリット小説として残るとはつゆ思っておらず、今になってみて、こころに残ったJ文学作家は、彼女だけだと気付くに至ったのだが、その彼女を間近にみることが出来、本にサインしてもらったのは、とても面白いことであった。いつか柴崎さんともっといろいろ話せたらいいなあという、一つの目標ができたということもある。会って良かった。
 次に二番目。憧れのアーティスト柴田淳とツイキャスでとはいえ、生会話することができた。
 今まで憧れてきた柴田淳ちゃんは、話してみたらすごく相性が良く感じて、まるで十年の知己のように親しげに会話ができた。僕は確かに無名でどうしようもない貧乏小説家ではあるのだが、そういうことを全く気にしないで、きさくに話をしてくれた淳ちゃんは、本当にこころやさしいアーティストなのだと思う。これからも、応援して行きたくなった。公言しているように、一生ファンを辞めないであろう。僕が捧げた小説「ジオハープの哀歌」は、文壇には認められなかったが、Amazonペーパーバックを淳ちゃんに贈ることが出来た。話した時に、読んで感想をコメントしてくれると約束してくれたのでとても楽しみである。淳ちゃんの人格を尊敬するとともに、読んでくれるのがとても嬉しい。作者冥利に尽きるのである。
 最後に一番目。なんと言っても、藍崎万里子と結婚することができ、同居までしていることだろう。
 僕は、まさかこの歳になってから、結婚できるなどと夢にも思っていなかったし、さらにその相手が小説を書く女性であったというのは、あまりにも運命的すぎて、仏様のお導きというものを感じずにはおれなかったものである。彼女との馴れ初めも、駱駝が針の穴を通るような稀少な御縁であったし、結婚式もコンサートホールで二人だけの指輪交換式という、とてもドラマチックなものになった。僕が山口に迎えに行った日すら、台風で帰りの新幹線が止まってしまったような特殊な状況になった。なにか神がかり的なものを感じないわけにはいかないのである。彼女の小説は、誰が認めなくて僕が認めるし、現代に認められなくても、死後に必ず認められるだけの価値のある作品である。それだけ、ただならぬテーマが描かれているし、「アマプレベス」シリーズは、全て読むことで初めてその深みがよく判り、いたずらに長いだけの作品とはことなると言えるのだ。彼女の小説を解らない人は、芸術不理解者が偏見主義者かどちらかであろう。それだけ素晴らしい小説の著者と結婚できたというだけで、かなりの幸運である。だから却って、出版社には認められないのかしれない。
 来年は、どのような物事が起こるだろうか。失うものが少ないだけに、そんな悪いことはおこらないと思うし、現状だけでとても幸福なのではあるが、正直もう少し夫婦共々読者が増えたらいいなという欲はある。とはいえ、来年も今年の延長線上として、頑張っていこうと思う。
posted by Pearsword at 12:16| 富山 ☁| Comment(2) | 浮泡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月17日

「居た場所」高山羽根子著。


 僕は、富山県はつまらない県だと思っている。ろくな人物を輩出しないし、何も良いところがない。郷土愛があまり僕にはない。むしろ、富山県産のものは、人であれ物であれ、粗悪な物に決まっているという先入観を持っている。
 高山さんの著書をこれまで読んでこなかったのは、それに加えてSF作家出身という所為もある。SF作家出身の小説家は、自分のことを棚に上げてしまうが、純文学ですばらしいものは書けないような気がしていたからだ。
 しかし、このたびツイッターで少し丁寧親切なコメント返しを戴いて、失礼にも半信半疑ながら、小説家を見定めるような気持ちで、当作品を読むことにした。
 読んでみると、偏見からか初めはずいぶん表現がひっかかった。どうにもこうにも乱れた筆致のように僕には思えた。しかし、それにも拘わらず、読書を放棄させなかったものは、行間から溢れる暖かみというか文体に現れる人間性とか、そういうものによってだった。
 しかし、引き込まれるとこの小説のよさが判るまでは早いと思う。特に、小翠の以前一人暮らししていたという東南アジアかどこかの港街とその市場周りの描写のあたりは、とても美しかった。この港街や一人暮らししていたアパートの廃墟の美しさは、エキゾチックでありシュールレアリスティックでありエキセントリックでありともするとビースティスティックでさえある。この小説世界の美しさだけでも、この小説を読んだ価値があるというものである。
 一方で、小翠がアパート廃墟で吐いたヌメヌメの液体の正体とか、小翠の故郷の島に原住民と入植者の間に一時的に住んでいた渡来者についての謎であるとか、さまざまな興味対象が強く牽引して、小説をSF的ないしはミステリー的に変化させかねぬところがあるのだが、高山さんはそれを巧みに交わして、そちらの興味にそらさないように、文体の作る美しい小説世界を毀さないように、描き切っているように思われる。
 それは、博物館のミイラであれ、タッタという動物であれ、すべて本当にありそうな描写で描かれているからだろう。たぶん、魚爆弾とかも嘘なのだろうけど、腐敗するとメタンが発生するという現象を利用して、本当に起こりそうに思わせるところが、高山さんの筆力なのだと思う。
 おもしろい場面としてプロットを構成しているのは、グーグルアースやネットマップでも映らない訳ありの小翠が以前住んでいたアパートのある街について、小翠が手作りの地図を鉛筆で描くシーンで、確かに込み入った秩序の壊れた街では、その地図がめちゃくちゃになるのは判るのだが、小翠や「私」は日本の現住所まわりすら、地図で描くことの出来ぬ方向音痴という設定がそれをより面白くしている。ここでは、彼らは方向音痴としては書かれていなく、むしろ小説家の常識として、高山さんは、地図なんて誰も描けないと思っているようなふしもあり、確かに義務教育で地球が丸いこととか日本地図の形を学ばなければ、誰も自分の力で地図なんて描けないのではないかと、それほどその方向音痴に違和感を感じさせないと思わせてしまうし、実際ある程度その通りなのだろうと思う。
 最後に、タッタらしき動物が、日本の現住所の部屋に入り込んでいたと思わせるところで終わっていて、どこか荷物に紛れ込んでいたのかと、なんとなく嬉しくなる終わり方である。市場の壊されかけている港街の忘れ形見を、意図せずして得たような感覚に陥り、故郷を「懐かしく」思うだろう小翠のよろこびが予見されて、うっすら嬉しくなる。ここにも、著者の暖かいまなざしが滲み出ているのだ。
 同郷の出身作家にも、ここまで素晴らしいものを書ける人が出てきたのだなと、故郷を見直した一作だった。
posted by Pearsword at 12:58| 富山 ☔| Comment(0) | 文藝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月14日

にわか独り身。

 妻が、実家の手伝いのために、年末クリスマス前にだけ10日間ほど帰省した。そのため、ここ何日か独り身だ。
 寂しい思いはぬぐい去れないけど、自由時間は増える。というか、僕は特別どうこうという大層ぶった理想とか夢とかないので、妻がいないと途端暇になる。小説を読み書きすれば良いというかもしれないが、なかなか一日中そんなことをし続けられないものだ。高山羽根子さんの小説を読みかけだが、そればかりを集中して読めないし、仮題「莫迦は懲りない」も134枚まで書いたが、そればかりに没頭して書き続けられるわけでも無い。メリハリが必要なのだ、といえば仔細らしく聞こえるが、その実僕の集中力がないだけだったりする。
 そこで、昨日から「リツイートしたら小説を読む」というタグで小説を募って、アマチュアのネット小説を読んでいる。面白いものもあればあまり面白くないものもある。しかし、感想を書かねばと思うとなにげに張り合いが出てやる気が出てくる。自作の執筆に行き詰まり、プロの作家の小説の読書にも倦んできた頃、それは良い気分転換になった。
 しかし、僕はどうにも楽しめない人間だなと思う。これだけ暇なのにゆっくりとかのんびりとか出来ないのだ。暇が辛いのだ。これは薬の副作用だと僕は見ているのだが、たまに朝寝坊してゆっくりと寛げる日がある。その時の気分と比べて、なんだかとてもつまらない。なにをしていても底辺につまらなさがある。まだ空しさにならないのは、妻がいてくれるからだろう。
 しあわせなんて、摑みようがなくて、自分の周りにあるものを受け入れて、それをありがたがることが一番、しあわせに近いと思うのに、なかなか現状をこころから感謝できない。まだ、さまざまな煩悩が渦巻いて、僕を煽る。しかし、僕は欲望がそれほど強くはなく、不満は大体苦痛のために起こる。ようするに、妻がいてくれるから和らいでいる空しさが、僕のデフォルトの精神なのだろう。
 妻といられることがどれだけしあわせなことか、それはその出逢いと恋愛の過去をふりかえれば判ることなのに、僕の感性はひどくしあわせに鈍感だ。未だに妻と結婚した実感が湧かないし、妻のお掛けで時間的にも経済的にも余裕が出来て、そのうえ愛に包まれてこころが暖かくなっているのに、しあわせを実感できない。もともと僕は自分の現実があたりまえで、貧乏とも思っていなかったし、不幸だと思ったことがなかった。だから、過去に比べて物質的にも精神的にも恵まれた現在においても、あまり幸福になったという気がしない。むしろ以前と何も変わらないような気がしている。
 それでも、妻の存在は自覚している以上に大きく、間違いなく僕の救世主だろう。僕が人生で報われるとすれば、殆んど全て妻のお陰だと思う。だから、妻を大切にしなければならないし、妻もしあわせになるように努力せねばならない。それを、今後の人生の指針にすればいいのかもしれない。
 どうも冴えない師走半ばであった。
posted by Pearsword at 14:54| 富山 ☔| Comment(2) | 浮泡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月10日

妻の主著を読む。

 私の妻は、藍崎万里子である。少し我が儘であまのじゃくで素直でないところがあるが、そういった人間性の不完全性は、作品の素晴らしさをみるにつけて、却ってなるほどそうかと、納得させるものがある。
 今年は、「アマプレベス」と現在応募中の「モーツァルトと皇帝たち」そして既刊の「ベートーヴェン交響曲『幻影』」をすべて読んだ。「アマプレベス」からして、著者のいうような稚拙な作品ではありえず、モーツァルトとベートーヴェンの二週間の束の間に燃え上がった大恋愛について、とてもドラマティックにクリアーに描かれている。彼女の若かった頃の作品なので、こころが純粋なのだろう。いくらかその影響はあるにせよ、初恋のノスタルジーなどからは遥か及ばない、生き生きとしたこころの洗われるような恋愛が、そこには描かれている。
 その一部があってこその二部「幻影」三部「皇帝たち」なのだが、この三つはうまく辻褄が合っていて、よくもここまでプロットを考え抜いたものだと感心させられる。要するに、この「アマプレベス」を味わうためには、すべてを読まなければ充分ではない。全てを読んでようやく、これらの小説の真価が判るものなのである。
 これらの小説の不完全性というのは、台詞が多く情景描写が少なく独白が多いという要素によって特徴付けられるが、それは「幻影」でベートーヴェンに語らせている新しい音楽というものに象徴されたような文学でもある。既成価値で縛られているインテリなどは、これらの小説を毛嫌いするだろう。しかし、素のこころで読んで、彼女の描く小説世界に入り込めたなら、その素晴らしさに読者は感嘆させられることだろう。それは読者の感受性や偏見の無さが、鑑賞のための条件として、必要になってくるのだ。
 また、彼女のアマプレベスシリーズは、音楽史とか近世ヨーロッパ史などを知らないと、よく判らないところが多い。フランス革命の時代と被っているので、その辺の予備知識があると、一層この小説を理解しやすくなるにちがいない。あるいは、ベートーヴェンやモーツァルトの楽曲の作品名とその曲調を知っていると、そうとう面白みが増すだろう。僕は一部しか曲を知らないので、作中に出てくる曲の数々に対して、あまりピンとこないのだが、判る人ならもっと面白みが増すだろうと思われる。
 やたらとページ数は長いが、平易暢達な文章で描かれているため、枚数を感じさせないくらい面白く読める。ただ、面白みが判るためには、まずモーツァルトを天才で薄幸の美女と思わなければいけない。文中、それほどモーツァルトの艶姿を視覚的に描写していないので、モーツァルトがか弱い女性であることに、抵抗を感じるのが普通である。しかし、三部であるように、モーツァルトの天才の秘密はそのこと自体にあるのだ。だから、その設定はとても重要であり、リアリズムすら帯びているのは、著者の筆力以外の何物でもない。そのモーツァルトに対する偏見を脱して、しかも「事実」として読むことが出来るならば、読者はこれらの小説の良さが、よくよく判ってくるにちがいない。
 
posted by Pearsword at 10:06| 富山 ☀| Comment(2) | 文藝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月28日

「美の呪力」岡本太郎著。

 岡本さんの書物は、これまで何冊か読んできたが、その中に文章を書くのも岡本さんの中では芸術であることが述べられていた。「美の呪力」という作品は、まさに現代人に問題を人間くさくつきつけてくる芸術だろう。
 「石の積み上げ」に関する理論展開は、強引さを感じさせつつもとても説得力があり、芸術創作の理論化というようなことが作されている。芸術とは何か? ということをこの書は初めから叩き付けてきている。素材の石に神聖を感じ、ただ一心に積み上げたくなるのは神憑りで、出来上がった積み上げが霊性を持った神である。つまり、芸術の本質はシャーマニズムであることを強く訴える。
 これは、「火」の神秘性に触れたときにも書いてあることだ。火には人間が「生命」を投影するようななにものかがある。それは、僕自身も思うことで、その温かみと消えゆく儚さは、生命以外の何物でもない。そのような「火」の霊性について、一切の偏見を排した根源的な感覚を呼び覚ますような筆致で、火と水の両面性にまで考えを及ばして、その不思議さを訴えている。現代人は、科学という常識に犯されすぎだ。科学は偏見の一種であり、全てを明らかにしたように「見せかける」だけである。それは、「夜」の神秘性に触れる段で、岡本さん自身述べていることだ。「昼」は何でも白日の下に晒してしまうため、がんじがらめに認識や目線などに、物や人を縛り付ける。それは、自由を損ねる束縛である。「夜」の闇こそ、不確実性という点において、いくらでも可能性を自由に羽ばたかせることの出来る「自由さ」である。それが、現代人の感覚から損なわれつつある「不思議さ」である。
 不思議であることは、シャーマニズムを生む。不思議なものは、未知で何をするかわからず、畏怖の対象だ。世界が、神々で支配されていた頃は、昼でも認識の「夜」であった。それは一見「昏さ」ではあるが、科学という常識に縛られない「自由さ」を持っていた。そこに、神々も多く生まれ出たし、逆に悪魔も多く住んでいた。しかし、現代とてその「不思議さ」は何も太古と変わっていない。科学知識で「不思議さ」を誤魔化しているだけなのだ。誰がこの宇宙の神秘を知り得るのか? 教科書に書いていることを鵜呑みにして、常識という偏見の鎖で縛られているだけなのだ。
 そのことは、最後の章の綾取りについて書いてあるところでよく判る。今でこそ、綾取りは唯の子供の遊びだ。しかし、それが広まるための無意識的な情念として、岡本さんの指摘するように、弱者の世界を変えたいという祈念が、あったと思わせてしまうのは、自分の中にもあてはまるような気がどうしてもするからである。この世の中は、自然という無である。そこに人が働きかけて、何かを造る。しかし、それはやがて無常の波に飲まれて無に帰するのだ。
 ゴッホの自殺について、ゴッホは最期の二日間、芸術が何かを悟ったと、岡本さん言う。ゴッホは、芸術などただの遊びで、人に認められるか認められないかに拘りすぎていた、ということに死に際に気付く。そこにすでに、芸術の本質が見えていただろう。認められなくても関係ない、何か人間として生きるためのことをする、いや生きるためではなく、「人間として生きる」。それが芸術の本態なのだ。
 その芸術の本態として、シャーマニズムが欠かせないのだ。人間は、どうしても主観的な生き物であるがゆえに、上にヌミノースなものを抱かずには破壊してしまう弱者であるから。
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2019年11月25日

第二十九回文学フリマ東京。

20191124_011815661_iOS.jpg 今年で六回目の東京は、初めての新幹線での日帰りの参加になった。台風十九号の被害がひどくて、上京できるかどうか心配だったが、なんとかなった。また、妻が転居して初めての文フリ東京でもあった。ポスター制作や値札書き、荷造りまですべて二人でやった今回の文フリであった。
 今回は、1200ブースを越えた出店であり、箱を開ければ6000人以上の入場者を得た。上昇機運の文フリに出店し続けることは、われわれ同人としても希望を持つことができ、甲斐がある。
 今回は、ゥ-1と角の場所でとても目立つ場所だった。そのためもあってか、売り上げは過去最高の33冊を記録した。金額にしてもそこそこいっていて、妻が一生懸命立ちながら呼び込みをした成果だと思われる。僕もつられて、立ちんぼでチラシ配りをしたが、後半バテてブースから離脱してしまった。一重にも二重にも、妻には感謝である。
 初めての第一会場ではあったが、第二会場のときとそれほど主観的には変わりなかった。むしろ、ブース後ろがとても広くて、荷物が置きやすくて便利だった。在庫などの荷物を段ボールに持っていたわれわれとしては、荷物スペースはどうしてもほしいのだ。まあ、在庫を無くして全て平積みする手もあるが、本の数が多すぎて、なかなかそれも出来ないのがうちのブースか。これ以上新刊を増やすと、置き場がなくなってしまうので、困っている現状はある。しかし、ブースを拡張するほど本は売れない。品数を増やせば確かに売れるようなので、来春からどうすべきか考えねばならない。僕も文フリで発表したい小説があるし、妻もそのように思っているだろうので、もうスペースがないのだ。
 前半部分で、何人か知り合いの人々が買ってくださった。お返しに買いに行ったりして、そのついでに気になるブースも立ち寄って、うちのブースのCMなどしたら、そのブースの人が買いに来てくれたりして、なんとかかんとか楽しめた。
 しかし、今回は妻が懇親会は疲れると言っていたので、五時で帰った。これがあたりといえばあたりで、僕自身腰を痛めてしまったためか、前半の立ちんぼでしこたま疲れてしまって、帰る頃には虫の息だった。とても懇親会どころではなかった。欠席にしておいて正解だった。歳は取りたくないものである。もう若くはない。文フリもバリバリは熟せなくなった。
 まあ、懇親会で出会う人で、関係が続く場合はまれで、たいていはその場限りになる。また、自分の気に入ったブースの人はあまり懇親会に出ない傾向もある。そういうことを考えると、今後も懇親会は欠席にした方が良いのかもしれない。
 次回は春の東京を目指しているが、大阪も行きたいのが本音だ。ただ年老いてきたのと貧乏暮らしなのとでなかなかあちこちには行けない。東京すら年に一回にするか検討しているところだが、文フリが盛り上がってきているさなかに辞めるのは愚の骨頂なので、老体に鞭打ち頑張っていこうと思う。とりあえずは、空華第一一号発行かな。
posted by Pearsword at 14:30| 富山 ☔| Comment(2) | 創作 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月21日

第54回北日本文学賞、第一次選考落選。

 ツイッターやフェイスブックで吐きまくったので、今更書くまいとは思ったが、一応備忘録として書いておく。
 今年は、発表が早かった。もう速報が出ているようだ。昨年は第一次選考に残ったが、今年は全く駄目だった。
 今年も禅僧の話で、「万物悉有」という小品だ。昨年の「仏祖円寂」よりも、禅問答が多く出てきて、とても思惟的面白さがあると自恃しているのだが、あまり評価はされなかったようだ。だいたいが、一昨年の「江面月明」が第二次に残って、それよりも年次よりよいものを仕上げているつもりの僕としては、だんだん評価が下がっているのはどうにも納得がいかず、僕のなかの感動はなかなか伝わらないのだなと、思わざるを得なかった。
 岡本太郎さんの「美の呪力」を読んでいるが、石の積み上げについて、三つの段階があるいう。石としての素材の尊さが一つ、それを積み上げる行動の神聖さが一つ、出来上がった像としての神が一つ。芸術もこの三つの段階があるという。小説で言えば、言葉そのものに尊さを感じ、それを創作に使うことで第二の尊さを生き、出来上がった作品は一人歩きをする。とてもおもしろい見方である。
 僕は、四大文学賞にはまるっきり無視されているし、受賞歴はゼロ、選考もほぼ残らない、世間のいわゆる無能文士だ。しかし、「才能なんてない方がいい」とも言われる。そんなもの偉そうに持っているから、勘違いして居丈高になるのだ。芸術に優劣なんてあるか。あるとすれば、真剣度だけだ。いい加減に芸術を創造すると、適当なものしか出来ないというだけだ。
 だから、売れる売れないは、芸術的価値観には相反するという現実に、残念ながら直面してしまった。大手の文学賞ですら、売れる作品しかとりあげない。被災地の小説家とか芸能人小説家は、どうしても有利だ。確かに、僕には読解力はあまりないのかも知れない。しかし、少なくとも僕の好きな小説家は、あまり受賞歴は輝かしくない。若いうちから芥川賞を受賞してブイブイ言わせてる作家の、どれだけが素晴らしい小説を書いているのか、疑問を呈せざるをえない。
 何を言っても、どうせ遠吠えしている負け犬としか思われないのでこの辺にしておくが、まあ受賞なんて売れるためにするだけのものだな、とますます思った。売れてなんぼというかもしれないが、それは芸術の本質ではない。芸術なんて大したことはないというかもしれないが、少なくとも個人に生きがいを与えてくれるものである。作っていて面白いのが何よりも第一。また、味わって代えが効かないのまた第一。
 
 書のかほりインクのみこそあらざらめ思索のなかのあはれなるかな

 芸術はお金にならないと思った。
posted by Pearsword at 15:02| 富山 ☀| Comment(0) | 創作 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月20日

淳ちゃんと話す。

 昨日は、柴田淳ちゃんの誕生日だった。淳ちゃんは、少し傷ついていて誕生日プレゼントをOFCから自ら取ってきて、ツイキャスでプレゼントのお披露目をした。僕の送った小説も、ちゃんと紹介してくれて嬉しかった。
 そのあと、淳ちゃんはOFC限定の直電話ありのツイキャスを行った。ツイキャスの発信アプリを入れて受信アプリとともに開くと、スカイプのように話せるもののようだ。
 いろいろ電波事故みたいなのがあったが、落ち着いた後、僕も電話してみた。
 こころよく受けてくださって、じかに話した感想としては、まさに「魚心に水心」と言わんばかりの親しみを感じた。淳ちゃんのことは、今までダイアリーなどでいろいろ読んできたし、蠍座辰世柴田組からのファンなので、いろいろ淳ちゃんにしてきたことがあって、そのことを思い出話にしたら、淳ちゃんもそれらのことを覚えてくれていて、初めて口を利くのに、十年の知己と話しているかのような親近感を覚えて、とても嬉しかった。何よりも、淳ちゃんの音楽に対するひたむきな精神や、淳ちゃんの心根の優しさ、人柄の朗らかさが伝わってきて、淳ちゃんがいい人であることが実感できて、とても嬉しかった。
 他のファンに遠慮して、それ以上話すことをやめたが、許されるなら一日中話していたいくらい、淳ちゃんは可憐だった。あらためてこの人のファンであってよかったと思った。
 そのうえ、やさしい淳ちゃんは、僕の今回の誕生日プレゼントである「ジオハープの哀歌」を読んでくれると約束してくれた。しかも、感想を述べてくれると言うのだ。嬉しいことマッターホルン登頂のごとくであろうか。こういうシンガーだから、これからもファンとして支えていきたくなるし、その人柄により一層透き通る数々の楽曲を聴きたくなるというものである。
 また、正月などツイキャスをしたときに、話してくれたらとても嬉しいのではあるが、話したいのは僕一人でもなかろうし、淳ちゃんの方の意思もあるだろうし、実現されるかどうか、少し不安である。でも、淳ちゃんとは折あれば、もっと話したく思うものである。
 彼女が人格的にやさしい人であるという事実は、僕の芸術観を曲げないものであるため、それが実感できた今回の対話は、心の芯から嬉しく思った。素晴らしいシンガーソングライターのファンでいられることは、誇りであり喜びである。
 ただ彼女は、曲作りに対してとても真剣で、聴くだけでお客様を感動させられるものを作りたいとか、契約は一年で常に背水の陣だとか、そういう激しさも併せ持っているので、自身言っているように、曲が作れなくなったらコンサート中心に活動するというように、あまり自分を追い詰めて辛くならないように生きて欲しく思った。曲作りが楽しく安らかにできるような、リラックスした境地に成ってほしいものである。
 柴田淳ちゃん、本当に素晴らしいシンガーソングライターでした。彼女に「ジオハープの哀歌」を捧げることができたことは、一生の誇りになるだろう。淳ちゃん、これからも元気で頑張ってね!! あらためて、誕生日おめでとう!!
posted by Pearsword at 13:07| 富山 ☔| Comment(0) | 柴田淳 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月18日

荷造り完了。

 第二十九回文学フリマ東京への荷造りが終わった。昼にクロネコで出荷してきた。
 今回は、妻に手伝ってもらって、わりあい簡単に荷造りができた。アマプレベスシリーズや藍崎万里子の著書をはじめ、僕の自費印刷著作物4種プラス菩提人と空華各号を梱包した。何冊売れるか判らないが、精一杯頑張ってくるつもりである。
 今回は、僕も歳を取ってきて、人の集まる場所に出ると疲れるということとお酒にめっきり弱くなってしまったこととを考え併せて、懇親会は欠席することにした。生活も年金小説家として変化してきた現在、あまり年に何回も文フリに出られなくなったため、文フリは楽しんで出るに留め、小説家稼業は公募に投稿することとアマゾン出版とで主に活動しようと考えた。空華の電子書籍化も一時期考えたが、個別の出版物が売れなくなるので辞めようと思った。
 しかし、無刀会ダイレクトショップはさっぱり売れないので、オフセット版はなんだかんだ言って文フリで売るしかなく、文フリで売るのがまた一番よく売れる。文フリでダイレクトショップの広告は流すが、なかなか買って呉れるだけのお得意様葉出来ないのが現成だ。まあ、何の賞も取っていないから、誰も見向きもしないのだとは思う。
 文フリが終わる頃に、今年の北日本文学賞の第一次選考がインターネットで流れる。今年も僕も妻も出しているので、どのような結果になるか気掛かりだが、僕の小説は毎回のごとく禅僧の話なので、あまり理解されないにちがいない。妻の話は、妻が富山に短期滞在したときの体験をもとに創作したものだ。僕は個人的に拝読したが、なかなか美しい作品に仕上がっていると思う。選者の方々にどこまで判って貰えるかは自信がないのだが。
 なお、「ペートーヴェン交響曲『幻影』」は、文芸社との契約が切れたので、在庫は同人に譲り受けることにした。定価は二千円近くするが、無刀会では文学フリマ同様千円で取り扱う予定である。まだ、ホームページの準備が出来ていないが、いずれ調整するつもりである。
 来年は、拙著は「禅僧小話集」か「好き病み」あるいは「癲狂恋歌」を、オフセット版で発行する予定で、妻の小説は「クラリネット五重奏曲」などをオフセット化する予定である。また、出来れば文学フリマで頒布したいと考えているが、なかなか旅費も出ないので、秋の東京一回だけになるかもしれない。しかし、空華が年に二回発行であることを考えると、やはり東京に二回出るべきではないかとも思う。 
 その辺は今後検討していこうと思う。
posted by Pearsword at 17:58| 富山 ☁| Comment(2) | 創作 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月17日

食えない小説家になる。

 一応、昨日付けでA型作業所は退職した。すこしばかりだが、今後手続きを踏めば失業保険が貰える。
 そういうこととは別に、僕は自分でたっきを立てられない小説家になることにした。以前から、小説家としての人生を歩むつもりでいたが、他人に認められるわけでもなく、自分で言い張りきれないところがあった。しかし、辞職して年金暮らしを決め込むことで、貧乏と引き換えに、生業としての「小説家」業を手に入れることが、主観的にはできた。人間の受け皿というものが、組織に属していないと与えられないというものであれば、また、社会的役割が受け皿を通してしか与えられないのであれば、僕という人間はそのような受け皿や役割は持っていないことになる。しかし、それでも僕には役割があると信じられる。僕には、小説を書く使命があるのだ。それは、僕らしい僕にしか書けないものを書くことだ。それは、ほかの誰にも書けない、僕にしか書けない。
 だいたい、社会的受け皿を失ってみると気付くが、人間なんて何をできるでなく、せいぜい偉ぶって好き勝手して自然破壊するくらいが関の山の卑しい存在だ。だから、歴代の禅僧はみな、皇帝などから栄誉を与えられようとすると、頑なに拒み通したのだ。そのほうが清い生き方なのだ。というか、他人の評価とか名誉とか金銭とかに左右されていると、かえって身も心も不自由であることは、少し考えれば誰でも気付く。
 こんなことと言っても、負け犬の遠吠えとでも、蔑まれるのがせいぜいだろう。どうせ、欲しいのは名声や富で、それを得られないから、自分の情けない身の上を正当化して、言い訳しているに過ぎないのだと。しかし、実際、富や名声などより、僕は芸術が面白いと思っている。巨万の富があっても、何に使えばいいのか全く判らない。遊んで暮らせばいいというかもしれないが、何をして遊べは心が安らぐのか? 心空しくして静かに過ごす以上の安寧が、人生の方法として他にあるのだろうか? 結局、名声や富など得ても、何も心を満たしてくれないのだ。仏道でも勉強していたほうが、よほど心が安らぐと言うものだ。
 まあ、そんなこと言っても、やはり少しの理解者は欲しくて、僕は自分の小説の感想を読むのがとても好きである。それがどんな批判的なものだろうが、よほどその小説じたいを否定するような野蛮な内容でない限りは、興味深い。また、理解してくれる人を得られるのは嬉しい。僕は、自分で素晴らしいと思う小説を仕上げているから、その良さが伝わることがとても嬉しい。この辺が芸術の根源なのだが、自分の作ったものは、作ることで面白みを齎すものだが、そのくせ作られたもの自体が別の面白みを持ち始めるため、少しも自分の意図通りに作れたわけではないのに、作者である僕は作品の面白さに得意になり、あたかも作品の持つ美しさに自らも染められているような錯覚に陥ってしまう。すくなくとも、作品を誇りに思うのだが、その誇りが自らのものに摺り変わらぬよう、僕は注意したいと思っている。
 そのときに思惟するに、「芸術」のこころはどこにあるのか? ということに関して言えば、なかなか明確な解答は得られないにせよ、一にも二にも「作品」がその主人公であることは間違いない。作者は親でもなく教師でもない、ただのお手伝い程度だろうと思う。よく言えば神代か。神かがった痙攣で、作品は生み出されていく。作品が面白くても、少しも小説家が頭の良いわけではない。職業的に、小説作品を生み出す器になっただけだ。それは生業であるから、役割を果たしているに過ぎず、何も誇りに思うこともなかろう。
 つまりは、僕は面白い人生を生きたく思ったのだった。
posted by Pearsword at 16:34| 富山 ☁| Comment(4) | 浮泡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月04日

「青空感傷ツアー」柴崎友香著。

 この作は、若いときに雑誌「文藝」で既に読んでいて、この小説と「きょうのできごと」により、僕は柴崎さんにあこがれを抱くようになったのだった。しかし、若いときに読んだ記憶は、カッパドキアと麗寅しかなくて、話のすじすらおぼろげになっていた。あらためて読み返したくなり、今回購入した。
 主人公の芽衣は、人を顔から評価する優柔不断な女性として描かれていて、それと対照的にツレの音生はルックス抜群で決断力に富んだ女性として登場する。おもしろいのは、芽衣の価値判断として、男性だけでなく女性も同様に、あるいは小物や景色なども、美しいものが好きということがあって、音生についても美しいから嫉妬などせずになんでも言うことを聞いてしまうというところだ。普通の女性は、自分が美しくありたいと思うと思っていたが、少なくともそれは芽衣には当て嵌まらない。芽衣は、自分に対してはどうにかせねばならないと嫌悪感を抱いているのに、少しも焦りがなく音生という人格を、顔から判断するためか、認めてしまって少しも嫉妬するところがないのだ。
 これは、芽衣は実は自分の性質を変えようとは露思っておらず、変えたいのは例えば旅館ひうらの正恵さんに言われた悔しさからとか、そういう相対的なものでしかなくて、実は、カッパドキアの美しさに感動できることが嬉しかったり、トルコのお土産屋さんの男の子にときめいたり出来るのも嬉しかったり、あるいは音生と破天荒な気分屋旅行をできること自体嬉しかったりしていて、少しも自己嫌悪していないのではないかと、僕は思った。
 クライマックスとして、大学時代に告白されて一応「振られた」永井くんとの、夜の旧校舎の岡からの街の灯を眺めながらの会話があるのだが、このとき、永井くんと芽衣はどのような関係性を再構築したのか、それはほのめかされているに過ぎない。芽衣の主観によるがゆえに、すべてがあきらかにはならない。ただ芽衣は永井くんとの会話が楽しく、それは面食いの芽衣が顔の見られない状態で思ったことであり、それは「世界の終わり」と比喩しめる夜更けに思いが続き、そこから「雪の積もった景色」「トルコの遺跡」と連想される。トルコの遺跡は、昼間なのに人影がなく忘れ去られたように風が吹き抜ける場所であった。そこには、人の顔がないし人の息吹もない、人の痕跡があるだけだ。しかし、芽衣の語るその情景には、どうにも美しさが感じられ、それは美しいものが好きな芽衣だからゆえなのだと思う。つまり、このとき永井くんの顔ではなくて、この夜更けの暗闇の永井くんとの会話に美しさを感じたのだと、僕は思った。
 それは、芽衣は「もののあはれ」を解した女性だったのだというふうに考えられる。芽衣にとって「もののあはれ」は、美人の美と同列にあったのだ。だから、カッパドキアの美しさや、バスの中の情景など、この小説には趣深いシーンが数多く描かれているのだ。
 最後の石垣島の海の上のくだりは、麗寅に迎えに来てもらうまえで終わっているが、本当に迎えに来るのか、そのあと芽衣の言うように三人でまだ遊ぶのかは、判らない。しかし、芽衣は石垣島の海の水平線のかなたに、大阪より近い台湾を見る。そして、その水平線はどこまで広く拡がっているか、芽衣には想像つかない。このとき、芽衣は先にずっと続く水平線に、自分の人生の未来を重ね合わせたのかもしれない。それで、適当に「ぐだぐだいいながら仕事探すのも、なんかおもしろい気がしてきた」のだろう。それは、つまりみずからの人生の肯定であり自分の肯定でもあるのだ。
 この小説は、結局は芽衣のように、美しいものを愛でて生きれば、すべてを愛することができるようになるのではないかという、宇宙肯定哲学がテーマとして有るような気がする。
 いずれにせよ、情景描写も小説世界も柴崎さんらしい、とても煌びやかな小説だった。
posted by Pearsword at 19:56| 富山 ☁| Comment(2) | 文藝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月24日

第63回群像新人文学賞応募。

20191023_071325492_iOS.jpg 昨日、群像新人賞に仮題「見当外れ」を投函してきた。85枚とかなり短い仕上がりだが、全編アブストラクト小説で通したため、致し方ないところもあるだろう。アブストラクト小説は、主人公がいないことが多く、「見当外れ」もまたその例だった。このような変哲の文章が、常識的な出版社に認められる可能性はかなり低いのだが、「文學界」に「恁麼」を投稿してすれっかしだったので、講談社に訴え出てみたといったところか。
 「恁麼」は、実は「エピローグ」が付いていて、最後はお釈迦様の話で締めている。そのため、いくぶん読みやすいと思ったのだが、たぶんそこまで辿り着く前に、読み捨てられたのでないかとの臆測がある。それだけ、アブストラクトは読者を選ぶし、既成の小説観を固持する人には、けしからん文章だと思う。しかし、あたらしいものを求める方々には、きっと何らかの示唆を与えてくれるであろうものだ。少なくとも、自分ではかなりあたらしい分野だと思っている。
 しかし、なかなか認められないのが現実で、主人公もいない人間も出てこない、そんな滅茶苦茶な統合失調症の妄想など読ますな、と思われるのか落ちなのではないかと思う。されど、僕はアブストラクトは、滅茶苦茶ではないと明言できる。第一に、僕の意識と無意識を投影したこころの表現であるし、第二に、意図的にいろいろなものを象徴として扱って描いた。そのため、第三として、テーマ性がかなり面白いものとして浮き彫りになったと思っている。何も訴えない滅茶苦茶な作品ではない。
 まあ、確かにこのようなアブストラクトは、無意識主導でイメージを連鎖させて作っていくのだから、あまりプロットというものがないし、ストーリーも場当たり的で、取り留めの無いようなものになりがちなのだが、もとより僕はプロットを作らずに小説を書く作家なので、アブストラクトでなくても場当たり的にシーンを連ねていって、その結果としてテーマが浮き彫りになってくるような書き方で、普通の小説も書いているため、あまりアブストラクトかそうでないかは、創作の方法として変わらないような気がする。
 ともかく、今回の小説はアブストラクトとしてもかなり面白く出来上がったと自負している。ただ、ベストかと言えばかならずしもそうではなく、まだまだ進歩の余地は残っている。だいたい、完璧な小説というものを僕は認めず、完璧である必要もなければ、そうすることも不可能であると思っている。だから、今後もこの手の小説は、まだまだ書くべきだし、同時に普通の小説も書いていきたく思うのである。
 アブストラクトはアブストラクトでとても面白い小説世界なのだけど、やはり具象小説とは別物である。絵画も、具象と抽象両方美しく感じるのと同じく、小説も両方ともありだと思う。
 とはいえ、アブストラクト小説というものは、いまだにだれも認めていないようだし、僕一人で終わるかもしれず、認められないのが寂しくも思うが、僕の非力では如何ともしがたいところかとも思う。
posted by Pearsword at 10:47| 富山 ☁| Comment(0) | 創作 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月23日

「改良」遠野遙著。

 この作品は、とても読みやすい文章で構成されている小説だと思った。難しい単語や修辞法がまるで出てこないし、かといって口語に堕さずほどよく大衆的な、一見非常に暢達な文章。この作を読んで思ったのは、最近の文藝賞というものは、癖の極端にある文章か洗練された文章か、いずれかを選ぶのだなということだった。この文章にしても、作者の個性は出ているがあまり面白みのある文章ではない。むしろ内容がケバくて、それで引っ張っていくというふうなのかと思った。
 バヤシコに辱められた記憶が、その後の山田とかミヤベとか呼ばれる「私」の現在に尾を引いて、「私」は女装癖を持ちつつも童貞らしく、映画の女優にすら発情して勃起してしまうような、間抜けな変態だった。しかし、「私」はそのような既成概念や常識に、問題提起をする。何故、男は女装してはいけないのか? なぜ、美しい女性だけが、特権的に男にちやほやされて、みてくれだけで様々なものを得ることを許されるのか? 「男が美しくなってはいけないのか?」
 そのような小説の言葉には書かれていないメッセージが、「私」を化粧上手にさせ女装させる。しかし、それは美人になりたいためであって、女になりたいためではなかった。「美しさ」というものに対する見方が、「私」は幼すぎて女性の「顔」に多くを求める。それは異なった価値観であることを、小説の最後で「私」は実体験し、ブスである「つくね」に助けを求める。「つくね」はそのあとどうしただろうか? 自称ブスの優しさを示して、「私」の美しさの価値観に影響を与えてくれるのだろうか?
 とはいえ、この小説は読みやすいだけで、それほど衝撃的な何ものも感じられなかった。今更、女装趣味でもないし、性欲の否定でもないし、ブスのほうがこころがやさしいとか、そんな陳腐な絵空事を述べてみても虚しいだけで、かといってこの小説世界が、かならずしも美しくないとは言わないけど、あまり斬新でもなくこれといって鮮烈に映らないものであるのは、テーマが陳腐な所為もあろう。「美しさ」が「美女」の美でないことくらい、中学生でなくてもわかっていることだ。そんな当たり前のテーマを、エグく書いてみたと言った感じの仕上がりで、あまり僕は面白いプロットのようには思えない。
 むしろ買えるのは、この文章の読みやすさとほどよい文学性であり、もう少し表現に拘るならば、もっと美しい文学世界を描けるだけの筆力が、作者には有るように思える。ただ、それには彼はまだ若すぎて、若いうちから変な方向に向かうと、あとあと手に負えなくなるので、性的逸脱はこの程度にしておいて、もっと作者には哲学的な面を磨いて欲しく思うものである。表現力は充分なので、あとはハートを研ぎ澄ませれば良いだけだ。そのためには、さまざまな辛くて苦しい体験が必要だろうし、それに立ち向かう精神も要求されてくる。そういうものがあってこそ、作者は今後一流になれると思う。今のところ、少し面白い小説を書くだけというふうに、僕には思える。
 まあ、同時受賞の「かか」よりはまともかとは思ったが、やはり今一の感が否めなかった。
posted by Pearsword at 20:09| 富山 ☀| Comment(0) | 文藝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月20日

「かか」宇佐見りん著。

 なんでこの癖のある語りに、みずからの波長を合わせなければならないのだ? と途中で苦痛のあまり投げたくなったのだが、読ませたものは賞の名前だけのような作品だった。ストーリーは、「かか」の悲惨な人生とそれを悲観する「うーちゃん」のちいさな世界の話であり、つまるところそれは、かかの発狂する直前に吐かれた、呆けたババに直面したときの嘆きの述懐にプロットが要約されていて、そこですべての種明かしをするのはあまりにも興ざめでもあり、ある意味このもどかしい判りにくい小説世界を明確化してくれたような「箍外し」をしてくれた安堵も感じられて、要するにどうにも疲れる小説だった。
 うーちゃんの鬱屈した思想は、物語中盤で独白される。「男のことで一喜一憂したり泣き叫んだりするような女にはなりたくない、誰かのお嫁にもかかにもなりたない。女に生まれついたこのくやしさが、かなしみが、おまいにはわからないのよ」。だいたいが、この口調の相手たる弟のみーちゃんに語り聞かせる必然性がなくて、それがいつぞや流行ったドラマ「HOTEL」の「姉さん、事件です」を思い起こさせて、どうもくだらない。この無意味な語りかけは、何か意味があるのだろうか?
 かかは、ババやジジに愛されなかったと言って、僻んで育った子供で、ババも、かかよりも姉の夕子の子供の明子のことより先に、実子のかかを忘れてしまうというどうしようもないむごたらしい親である。そんな親がいてもこんな生き方をするような変に力んで偏った女がいるのか、あるいは、そんな親がいるのかどうか知らないが、事実をベースに描かれているにしても、その子供たるうーちゃんすら、かかの悲観を受け継いで憐憫し、かかを産み直して育てようとわざとらしい狂気を思う。どんな思考回路でもそんな荒唐無稽な思想は抱かないように思うが、まあそれはいい。
 しかるに、ラストのお粗末さときたら、がっくりくるほかない。ここまで嘘っぽいことを書いていながら、最後はうーちゃんの思い過ごしでした、みたいな但し書きは要らないと思う。うーちゃんの思い過ごしのまま、昏い妄想をたくましくさせたまま、嘘っぽい悲観のまま、終わって貰った方がよほどまとまっている。なんだか、ちまちまとした鬱屈したさまの精神は、同賞受賞作「はんぷくするもの」を思い出させて、やはり似たようなものを好むのだな、と思わざるを得ない。
 リアリズムは完全に抜けているが、小説として楽しめればまだ良いとは思う。しかし、そこそこに面白いプロットがあるだけで、この癖のある語りでなければならぬ理由もなく、僕にはこの癖のよさがまるで判らなかった。それは、「はんぷくするもの」のずれた表現と全く同等のものを感じた。そんなところに個性を出さなくても、もっと中核的なところで個性を表現する方が、よほど素晴らしい。ようするに、この小説はちまちましすぎである。
 受賞作だからといって、理解できなければ間違っているわけでもあるまい。そうはっきり思わせてくれる一作だった。
posted by Pearsword at 22:43| 富山 ☁| Comment(0) | 文藝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月17日

「孤島の飛来人」山野辺太郎著。

 どうも受賞作と色々な点において似通っている作品である。
 何かの莫迦げたプロジェクトを、大まじめで巨大組織が実行するという骨格は、「いつか深い穴に落ちるまで」とまるで同じで、このすかしたユーモアは、受賞作を読んだ後この作品を読むと、マンネリ感が否めないものだろう。「いつか深い穴」では、その莫迦げたプロジェクトが、もっともらしく上手く描かれていて、とても興味をそそるのだが、当作品はその作品の別バージョンを焼き直したような感じで、今一たのしめないところがあった。
 とくに、キタイ人がサトウキビ槍を持って、主人公吉田のまえに集まってくる辺りは、どうも嘘くさくて鼻白みかけた。しかし、それでもこの小説を最後まで読ませしむるものがあるとすれば、キタイ王国の面白さだろう。存在感を薄くすることで、日本の国土地理院には無人島として登録されることになった北硫黄島。その成り立ちと王国の存在の危うさ、その有り得ない小説世界のリアリズム。北硫黄島については、Wikipediaにも記載があって、確かに第二次世界大戦時に、全住民が日本に疎開されられて無人島になったとあり、その史実の裏側に描かれたこの譚は、莫迦げていると一笑するにはとても面白く出来ている。
 西井という日本兵が硫黄島から流れ着き、国防を任され終には国王となってしまうのだが、結局王は武力か、という点において、国の構造をみるようで興味深い。また、西井の住居がそのまま、のちのち塚本や大井に継承されるのだが、そのとき囚人のいない牢獄の看守という、小説的ユーモアを持つ職掌を産み出して、かれらが代々勤めることになるのだ。その看守の職を、吉田が受け継ぎ、吉田は日本人サラリーマンとしての任務とキタイ人家族としての幸福とのあいだの二者択一に迫られる。
 この辺は、「いつか深い穴」にはあまり無い要素ではあったが、家族愛や恋愛が、うすいタッチで軽く撫でるように書いてある。この小説家の特徴として、さまざまな事柄を部分的にではなくてグローバルに描くということが挙げられると思う。「いつか深い穴」もそうとうの時系列の流れの中で描かれるが、この話も、流れる時間は吉田の半生に過ぎぬとはいえ、吉田が大井から聞き知った話を含めると、戦時中からの長い歴史が描かれているのだ。そのため、あらゆる描写は薄く素描されるにとどまり、ほのかな色付けはされていても、個別の人格の面白さや微妙な個性の違いなどがまるでわからず、登場人物没個性的文学ということもできるかもしれない。つまりは、人間ではなく組織や社会を描く小説であるのだ。
 情景描写で、作者がもっとも力を入れているだろう所は、乙女のホシアビとウミガメの産卵だろうが、「島が産卵する」というイメージをもうすこし鮮やかに印象深く描けていたら、もっとロマンチックな小説になっていただろう。しかし、それは山野辺氏の作風ではないにちがいない。山野辺氏の面白さは、莫迦げたことをリアリスティックに描くところであり、それはユーモアに拘わることでもあって、むしろロマンチックな作風から遠いところにある。それは、氏の個性であろうし美点であろうから、読者を選ぶにしても変えて欲しくないところでもある。ただ、前作と被ったところが多い気がして、そこがもう少し突き抜けられないかと、残念に思うところである。
 人それぞれ、個性は異なるものだと、再認識させられる小説であった。
posted by Pearsword at 13:46| 富山 ☀| Comment(0) | 文藝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする