2021年01月19日

最近の症状。

 年金暮らしになってみると、ある程度自由が利いてそれ以上それほど欲しいものがなくなる。僕は、おかげさまで、かなり満たされた人生だ。暖かい御飯を食べられ、便利な住宅に住めて、好きな女性とともに暮らせる。これ以上望むことはそんなにない。だから、ときとして人のねたみが気になる。あるいは、周りに引け目を少し感じるのかも知れないが、精神症状が時として悪くなる。他人のねたみの視線を感じて、もちまえのテレパシー妄想が頭の中で現実化して、絶えず行動を見透かされている感覚に陥り、僕の生活が超能力で他人に覗かれながらねたみの幻聴を聞くことになる。こういうのは、統合失調症にならないとどういうものか判らないだろうが、かなり辛い状況だ。他人は、そういう状態を自我が強いからうまくコントロールできるが、統合失調症という人たちは自我が弱いので、そういう情報処理がうまくできずに、妄想として医者に報告して、その超能力を押さえなければ、生活が破綻するのだという妄想が、真実性を増してくる。つまり、妄想の中では、普通の人々は平気で暗黙の了解で、超能力を扱っているという世界になる。そのなかで、超能力を扱えない未発達な精神の人々が、統合失調症にかかるという原理だ。つまり抗精神病薬というのは、超能力を抑える薬ということだ。
 そういう妄想体系が僕の中にはできあがっていて、時としてうずき出す。今もそのような状態だ。ありがたいことに、ロナセンが効いてくれていて、文章を書くことが出来るので、このブログを書けるのだが、若いとき症状が酷くて、書こうとするとそれを誰か第三者に見透かされて、言葉を想起するのを邪魔されたり別の言葉に置き換えられたりして、いらいらするので少しも冷静に執筆できなかったし、書く速度も著しく遅かったのだ。そのころから見れば、そうとう改善してはいるが、やはり今でも、対人関係のストレスに遭うと、見透かされ感がぶり返して、避難の幻聴が聞こえ出す。
 そういうときは、仕方がないから横になって頭を休める。これも、今だから出来ることで、酷い時期は横たわると余計幻聴が酷くなった。だからいても立ってもおられず、不必要に行動してみたり、しかし無気力症状も同時に出ていて酷く身体を動かすのが辛かったりもして、とても普通に労働できない状態のことがあった。今は、薬のおかげで休むと頭も休まる。音楽も静かな音楽を流すと、気持ちが和らぐ。だいぶんこのような人間的安らぎ方が出来るようになったのも、精神医学のおかげであろうか。
 ちなみに、現在は執筆意欲はあるのだが、精神が傷ついていてあまり頭を使う執筆が出来ない。それで、このような雑記を記している。実は、午前中は空華第一三号に載せるための、黒瀬珂瀾さんのインタビュー記事を書いていたのだけど、なんだか昨日今日といろいろごたごたがあって疲れてしまって、一時間ほどで切り上げた。空華も、市立図書館で受け付けてくれるようになったので、とても発行しがいが出てきたため、面白い記事をどんどん作り出そうと考えているところだ。書評も連載が板に付いてきたし、短歌も載せているので、各方面に声を掛けて、誌面を豊かにしていきたく思っているところである。
 BGMはシューベルトピアノソナタ#13#14、とてもこころが癒やされた。疲れた日は、精神を休めなければならない。
posted by Pearsword at 17:03| 富山 ☁| Comment(0) | 症状 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年01月14日

小説の完璧さについて。

 ときどき、小説を創作するのに完璧さを求める人を見かけることがある。僕は、これはあまり面白い方向性のようには思わない。なぜなら、小説の創作は芸術的活動だからである。
 僕が創作を始めた原点を振り返ると、子供のころからの「ものを作りたい」という欲がある。子供の頃から工作が好きで、いろいろな紙細工を作っていた。しかし、手先が不器用でなかなか満足のいくものが作れなかった。そこで、絵や漫画も作ってみたがなかなかうまくいかず、いろいろ試すうちに、自分で出来のいいと思った文章を担任の教師に褒められた。それで、嬉しくなって小説を書き始めたのが中学二年であった。
 要するに、「自己表現」ということをしたくて、僕は小説を書き始めたのだ。自己表現とは、個性の発表である。それは、完璧性とは相反する属性だ。なぜなら人間というものはなべて不完全であるし、個性というものはどこかしら完全性が欠けているところに成立するものだからである。
 岡本太郎さんは、芸術はうまくあってはならない、きれいであってはならない、とまで仰った。それは、芸術が完璧な機能美ではなく、滑稽なくらいの個人的特質の表明でなければならないと、教えてくださったのだと思う。完璧というのは、どうにも面白みがなくて、そこに人を感動させうる要素はないように思える。
 しかし、プロの小説は完璧ではないかと、反論する人もいるだろう。プロットもキャラも文体も、すべて無駄一つない完璧な美しさだと。しかし、それはマスコミの祭り上げたイメージによる偏見であって、教科書に載っている文豪と呼ばれる人々の小説が、すべての人類に感動を与えるわけではない。その教科書に出ている文豪の作品が理解できないと、読解力がないのだと学校教育では教えるが、それはむしろその個性を矯正するような虐待的側面がある。本来、どのように感じようが、読者の勝手である。
 だいたい、プロの小説というのは、校正者によって修正されるから完璧然とするのであって、素人の書く小説でも、丁寧に校正すれば、完璧然とした文章になるのだ。また、プロは文章ばかり書いているから、書き慣れてきてだんだん文章力も付いてくる。そんなものを才能だとか称して祭り上げるのが出版社の仕事である。
 小説というのは、芸術であって製品ではない。人間味を感じさせるような不完全さがあってしかるべきである。それを恥じるような小説家は、まだ若いかうぬぼれている。完璧な芸術などあり得ない。かならずどこかに人間的不完全さが表現されるはずであり、それがなければ却って芸術とも言わない。だからこそ、AIに小説を創作されることを恐れるような莫迦者が出てくるわけで、AIも学習機能と成長機能を身につけて、生きるのに苦労することが出来れば、ようやく芸術を作り出せることが出来るが、ただのコンピューターには苦労の大切さが表現できないので、芸術的な個性表現や欠落や奇妙さが、まるで作り出せない。つまりAIにはろくな小説は書けない。
 だいたい、プロの小説家というのは、自分の文章は美しくて、自分は頭のいい才能の豊富な人間だと優越感に浸ってうぬぼれている。それは、芸術の本質から相当離れてしまっているのであるが、残念ながらそういうことを見抜く力のあるプロ作家は、日本には見受けられない。みな多かれ少なかれうぬぼれている。百歩譲って、小説を書くのが上手だとしよう。それが、どうしてそんなに大衆から比べて、偉いことになるのか? 自分は商売道具の万年筆や原稿用紙一つ作り出せない癖して、何を偉ぶっているのか? プロの小説家というのは、どうもマスコミの犠牲者的側面が否めない気がする。
 僕は、ありがたいことにプロにならなかったので、うぬぼれずにすんでいる。それは、僕が文学の本質を蹉踞せずにすむことでもある。マスコミにいたぶられないように、文学の本質を突き詰めていきたい。
 
posted by Pearsword at 18:08| 富山 ☔| Comment(2) | 迷い言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年01月02日

今年はよい一年でありますよう。

 妻の祖母が昨年なくなったので僕は喪中なのだが、新年の挨拶として他に言葉を知らないので、このように書く。
 昨年から、コロナウイルスの流行が酷くて不安が広がるばかりだが、本当に平均寿命が縮まるかも知れない。まだ、特効薬も開発されておらず、罹って死ぬ人も後を絶たない。
 昨年中に書くべきであったが、自分の三大事件を書くとすれば、
 @憧れの小説家にストーカーとして訴えられそうになる。
 A憧れのミュージシャンに小説を捧げるも差別を受ける結果になる。
 B「癲狂恋歌」を刊行する。
 どうも僕が今まで捧げてきた小説というのは、相手に認められないことが多くて、贈った相手に喜ばれたのは、妻の場合だけのような気がする。ミュージシャンに捧げても結局ファンクラブから追い出されるし、小説家には準備段階で阻止された。その小説は、妻の小説の登場人物に捧げることにしたが、なかなかの力作に仕上がっているので、いずれは文フリなどでも頒布を考えている。
 要するに、有名人の方々からしたたか差別を受けた年であった。有名人に対する認識が変わったし、もう少し正しく生きねばならないとも考える契機になった。
 妻と太宰府で買っただるまは、未だに二つとも片目のままである。受賞祈願であっただけに、ずっと片目かも知れない。片目でも二つあれば両目になるとかや、くだらぬ冗談はやめるが、別の意味での文学の成就を祈願にしなければならないだろう。人に認められるというのは、相対的なことでありながら、人間が人間である以上、どうしてもその当事者の幸せにとって必要なことである。しかし、内容もない文学をみとめられても仕方がない。僕らは僕らの信じる理想を追求して、それを認めてもらうほかない。
 生活は、おかげさまで不自由ない。だから、むしろ感謝しなければならないのだ。そのうえで、いつか僕らの文学が大衆に認められたならと、そういう希望を持ってはいる。大衆は、必ずしも文学の面白さを判ってはいないようなのだけれども、それならばそのような穏やかな面白さを伝え受け継ぐための一助になるように頑張らなければならない。
 今年の初歌を詠んでおく。
 
 元旦のパンデミックにしずけきも喪に隠れをり 初線香焚く

 なかなか人生思うようにはいかないが、仏様の御加護を信じて生きていこうと思う。 
 
posted by Pearsword at 09:40| 富山 ☁| Comment(2) | 迷い言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年12月18日

「ハルモニア」鹿島田真希著。

 鹿島田さんの小説のイメージが「この暁のぬるさ」で変容し、かなり興味が湧いたのでこの作を読んでみた。
 そうとうロマンチックな話で、登場人物も個性的きわまりなく、その小説世界は美しい。本当の音楽大学がこのようであるかのように、音楽の世界が奇抜に描かれているが、たぶん本当の世界はこんなに美しくない。しかし、そういうリアリズムというか写実の芸術論というものにも、この小説では触れられていて、主人公トンボの書く曲は、経験的に日常生活の描写というものになっていった。一方のあこがれのナジャは、トンボから見ると音楽の世界の中だけで美しさを追求したような音楽を作曲していた。二つのやり方のどちらが芸術的なのか? その芸術論にこの小説は簡易ながら一つの解答を与えている。
 前者はどちらかと言えば悲劇詩人的作曲で、チャイコフスキーやマーラー的な音楽であり、後者はどちらかといえば喜劇詩人的作曲で、モーツァルトやハイドン的な音楽のような気がする。しかし、それは僕のイメージでしかなくて、小説の中で言えば、ナジャの方がトンボより前衛的である。トンボはブルックナーに影響を受けていると書いてある。確かにブルックナーも短調が多いような気がするが、現実は厳しいことが多いので、写実するとどうしても短調になってしまうような気がするのは、僕の性向が暗い所為だけだろうか?
 ともかく、トンボはナジャが迎えた挫折について、彼女を好きになって助けることが出来るようになる。ナジャはもともと新入生の中から選ばれた天才であり、トンボは二浪してやっとかっと大学に入った劣等生であった。トンボの方が努力家のように思ってしまうのが、一般的解釈ではあるのだが、作中、トンボはナジャにとても同情的理解を寄せている。天才にもスランプはあり、劣等感を抱くことがあるのだと。
 ところで、この小説はナレーション的独白で描かれている。それが、客観的な記述と異なり、ややテレビドラマ的ではあるのだが、文章がかなり簡潔にまとまっていて、短編的美しさがある。それは、要するに理系的機能美とでもいうものである。不必要な記述が省いてあって、理性でまとめられ整形された人工美である。それ自体、ナジャ側の芸術性をもつ作品である。
 文中、作者の考え方なのか、芸術論的文章がある。
 「観念と生活。魂と肉体。音楽の内容と形式。すべての抽象的なものと具象的なものは結局一致しているのではないかと。そしてものを作る人間がその二つを完全に一致させることができた時、それは結構官能的体験でもある。ぼく達の抱擁のように」
 芸術というものは、いずれにせよ人のこころを癒やしうるものだろうと思う。この作品自体、作中の世界に行ってみたくなるような憧憬を抱かせるし、トンボやナジャに会ってみたくなる。彼らの作曲した音楽を聴いてみたくなる。いわば、そのような抽象である。それを具象化するとき、多分多くの芸術は失敗するのだ。映画化やドラマ化した小説ほど、小説を台無しにするものはないからだ。
 そういう意味でこの文章を考えると、小説というのは、すべての読者に小説という抽象を具象化させることを強いる、芸術敷衍の効果のある芸術なのかも知れない。読んだ世界をどう再現するかは、読者それぞれの創造行為なのだ。
 ともかく、この小説自体、ハッピーエンドでとても美しい短編だった。本棚に入れておきたい一作である。
posted by Pearsword at 16:46| 富山 ☔| Comment(0) | 文藝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年12月14日

「原発小説集」風見梢太郎著。


 令和二年の秋の文学フリマ東京で手に入れた本であるが、反原発思想の小説である。
 短編集だが、すべて原発がらみの作品で、出てくる登場人物が作品間で共通している。全小説で一つの小説世界を形成しているのだが、現実とリンクした状況が描かれるため、ある程度はモデルがあるのだろうと推察できる。ただ、三人称で描かれていて、すべての短編を一つの作品としたならば、多元焦点的であるので、その心理描写などの詳細さから言って、あきらかに創作物である。
 そのような反原発のテーマで描かれる世界は、福島の原発事故を主体として、かなり悲惨な状況である。本当に現実がこの通りであるのかにわかに信じがたいくらいの、原発周辺の放射能もれのひどさや現場作業員の置かれる状況のむごさが、文学として描かれている。文学として描かれているために、作品の美しさは見事なものがあるのだが、そのせいで、脱原発というテーマが犠牲になっていると言える。著者は、問題事件の衝撃性よりも、作品の文学性を取ったのだと思われる。それが、読者に訴える方法として、成功しているのかどうかは、僕にはなんとも言えないが、少なくともこの作品に滔々と流れる人類愛というものは、読むもののこころに浸み入るものと思われる。
 作品の中で、僕が一番印象的だったのは、「海洋投棄」である。大手電力会社は、福島の原発事故の前から、放射性トリチウムは三重水として海洋投棄を暗黙の了解でしていた。東京電力は、トリチウムは処理不可能だと開き直った説明をして、垂れ流しにしてきたらしい。水素は身体を作る元素の一つなので、いずれは体内に入り内部被曝を起こす。そんな誰でも判る道理のことを、こともなげに処理不可能だと言って垂れ流す大手電力会社というのは、目先の利益しか考えられない愚昧な企業なのだ。
 「海洋投棄」の最後に、次のような台詞がある。
 「海に引きずり込まれた人々への鎮魂の捧げ物が、放射能の汚染水とはなあ。ある種の冒涜かもしれんな、これは」
 海洋投棄される汚染水は、凍土の壁で流出を防ぐと見せかけていた、原子炉から漏れ出したプルトニウムを含む汚染水であるが、それ以前にすでにトリチウムは海洋投棄されていた。ALPSで汚染水の放射能を取り除くと見せかけて、放射性トリチウムはまるで除去するつもりがない。
 この小説に描かれる暗愚な権威たちは、地球を汚染して生物を殺すことを、まるで問題にしていない。その暗愚な権威の考えることは何なのかが、この小説では描かれない。権威側はなぜそのような非持続可能な未来を作るような政策をするのか? ただ権威の犠牲になりつつも、懸命に生きる人々のあたたかさや精神性を描くだけでは、どうにも訴える力が弱い気がして、この小説群はその点がすこし残念に思えた。
 権威に訴えるならば、大衆を動かさねばならない。それはよく判るのだが、この小説でどれだけの人々が目覚めるだろうか? 
 しかし、僕も物書きとして、風見さんの扱うテーマには、とても感銘を受けた。このような小説家がいることに関して、僕もかなり勇気を戴いた。僕も、反核思想の小説として「ジオハープの哀歌」「螺旋の拈り」を書いているが、なかなか他の人に影響を与えうるかどうかは疑わしい。それでも、風見さんを見習って、このようなテーマの作品を、もっと書くべきだと思った。
posted by Pearsword at 20:57| 富山 ☁| Comment(0) | 文藝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年11月23日

第三十一回文学フリマ東京。

EnaImJsUwAANQrx (2).jpg  今回の文学フリマ東京は、東京に同人メンバーができたので、その人に設営をしてもらい、遅刻して参加することになった。
 なぜ遅刻したかといえば、新幹線代を浮かすためである。妻と二人で車で来たのだが、高速代金も片道六千円あまりと、かなり格安なので一泊することにしたのだ。二人で来る場合は、このほうが断然リーズナブルである。流通センターまでの道が、カーナビ頼りだったが、iPadがよく働いてくれて、迷いなく着くことが出来た。
 さて、一時くらいに到着したが、早々にいつも買ってくれていたMさんが、差し入れとともに3冊も購入してくれた。あとから聞いてとても恐縮したのだが、御礼を言いに行ったときにはすでにブースにはいなかった。今度お会いしたときには、かならず御礼を言おうと思う。
 あとの報告によると、今回の文フリ東京は、3148人の来場者があったということで、確かに第二十九回からは減っているのだが、売れた率としては大して代らなかった。今回は23冊を売り上げ、コロナ禍下にあっては大変がんばった結果となった。これも、事務局の適切な対応があって、お客様が安心して買い物が出来る環境になっていたからであろう。
 隣の方は、以前一度購入したことのある「地図と小説」の本多篤史さんだった。今回は挨拶もできなかったが、撤収作業のとき優しくお声を掛けて戴けて、なかなか気さくな人だなあと思った。一冊買っておくのだったかなと、思った。小説というのは、書いた人の人となりが大切であり、いくら巧みに作った作品でも、その人の人格がなっていなかったら、読んでも味気ないものである。やさしい人の書いた小説を読みたい気がする。
 宿泊は、近くの東横イン大森に泊まった。安い割にはいい宿だった。
 車で来たので、どこか駐車場のあるところと言うことで、翌朝は明治神宮に観光に行った。初めての明治神宮は、なかなか感動もので、二人でおもうところを祈念してきた。帰りは、竹下通りでクレープを食べ、表参道を散策してきた。
 なかなか面白い文フリ東京だった。来年の春も来たい。
 
posted by Pearsword at 07:59| 富山 ☔| Comment(4) | 創作 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年11月18日

「その暁のぬるさ」鹿島田真希著。


 鹿島田さんの作品は、芥川賞受賞作「冥土めぐり」以来読んでいなかったが、僕向きの小説家を探す徘徊をするうちに、ふとまた読みたくなった。それで、この作品を図書館で借りてみた。
 入りからして、とても引き込まれる作品だった。会話がすべて地の文に書いてあるため、内向的な性格の女性語り手の雰囲気が出ていて、すこし取りつきにくい感はあるが、語り手の女性の優しい感性だとか、細密な心理描写などにより、とても小説の魅力が放散されて、すこしも陰気でない。舞台も、保育園とその職場の女性たちの話で、初めから出てくる「和紙の方」という言い回しは、どこか平安時代の宮廷を彷彿とさせる雰囲気を醸し出している。
 その通りに、「わたし」の悲恋の思い出が描かれていて、それは平安貴族の女性のように、切なく悲しい彩りで描かれているのだけど、雰囲気的には平安宮廷でも、内容は近代的な不健康さを持っていて、「わたし」の素直でない不器用な「あの人」に向かった想いが、思い出として描かれている。つまり、ほぼ風景描写がなくて、心理描写の豊かさで、その内にこもるはずの陰気さを消滅させていると言って良い。
 ある絵本を見せると泣き止むという、「わたし」と「あの人」の関係を唯一知っている園児は、どこか不思議な雰囲気を持っているけども、その娘が夢の中で「あの人」を連れて行ってしまい、その代償として、「わたし」が泣きながら老いぼれていくという、よくできた寓話のような夢を考えると、その園児は何か霊的能力を持った、神様の使いか何かではないかと思わせられ、その流した涙とともに、「わたし」は「あの人」がいなくなっても大丈夫な状態に、されてしまったように感じられた。それは、小説がリアリズムがあるとかないとかの次元の問題では無くて、うまく出来ている纏め方という感じがするエピソードである。むろん、現実にそのようなことは起こりえないだろうけれど、「わたし」の心理については、ずいぶんリアリティのあるねじくれ方をしていて、このように悩む現代女性も多多いることだろうと思わせてくれる。
 全体的に眺めると、とてもよく纏まった小説然とした小説だなという気がする。このような小説を読むと、本当に小説は写実しなければいけないという決まりはないなと思うし、個性的なことが素晴らしさを表現している例として、記憶に留めておきたくなる。鹿島田さんの小説は、あまり数多く読んでいないけれど、ほかにも読みたくなるような、この小説独特のいい香りを漂わせていて、面白みを非常に感じた。
 最後は、「あの人」との貴重な思い出を、自分が忌避していたような噂話ばかりする女子のまえに、自分もそれと同化するかのように晒してしまうような雰囲気で終っている。「その暁」というのは、夢を見て泣き老いたときの、大根とソーセージの炒め物を食べた朝のことであろうし、そのときはすでに、「あの人」との恋愛時のような緊張感を失ってしまっていて、「ぬる」かったのだということだろうが、そのぬるさが題名と言うことに関して、それを肯定しているのか否定しているのかは、俄には判りがたい。それはおそらく、読者の裁断によりどちらにでなるべきものであり、「ぬる」いから否定しているという淡泊なものではないはずだ。それくらい、この小説は独自的で個性的である。
 ぜひ、みなさんにもお勧めの小説である。
posted by Pearsword at 18:51| 富山 ☀| Comment(0) | 文藝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年11月16日

芸術と優劣。

 僕は、今までに方々に自分の小説を送ってきた。憧れのアーティストを初め、プロアマ問わず多くの小説家にも、自作を送った。しかし、感想をまともにもらえたことは殆んどない。それだけ、小説の質が悪いのだとか、自己嫌悪に陥ることも出来るが、僕はむしろ自分の人を見る眼がないのだろうという気がした。多く送れば、中には奇特な理解者もいていいはずなのに、誰一人僕の小説など、読もうともしてくれない。読まれなければ、面白いかどうかも判らないのに、さしずめ三ページほど読んでは投げる人が殆んどなのだろう。
 たとえば、本当の文学者であれば、素人の小説も楽しんで読んでくれると思うのである。読む暇がないのなら仕方がないのだが、僕の小説に関して言えば、暇がなくて読まれないだけではない気がする。どうにも僕の精神障害者というハンデが偏見を生じて、読者を一層少なくしているような気がする。そういう偏見を持たずに、いろいろな小説や文学を楽しむことが出来る人が、本当の意味での文豪である。僕は、現代のプロ小説家の中に、そのような人を知らない。
 文学は芸術ではないのだろうか? 僕はその大前提は信じたいたちだ。文学が、ただの名声を得るための道具でしかないという見方は、一部の有名人にしかない勘違いだと思う。名声を得れば、その人は誇らしくなるし、歴史に名前が残れば、偉人になった気持ちになる。そう思って死ぬことが出来たら、その人は達成感に満ち足りて死ねると思うのだろう。しかし、結局死ねば骨と炎に成るのである。歴史に名前を残せたとして、それが何になるのであろうか? 名前だけ残しても、その中味が邪であったなら、犯罪者と変わらないのだ。
 それは、たとえば小説家として、名を成してしまえば、他の人々は大体大人物だと認めてくれるかも知れない。小説というものは、一目では価値の判らないものだからこそ、人々は評判で評価しがちだし、賞を取ったものしか読まないようになる。すべての小説を読んでいられないからである。だから、素人の書く素晴らしい小説があったとしても、読まれなくて闇に葬られることも充分あり得る。
 しかし、それは他人に読んでもらえないからである。現代のように、いろいろな形で人に読んでもらえる時代であれば、実際に読んでもらうのが一番大切なことであろう。少しでも誰彼に自分の感動を伝えられたら、その小説は成功していると言える。統計学的に言って、無関係な誰かに読んでもらってその人が面白かったという感想を持った場合、他にもそのような人は人口に分布していると考えて良い。即売会など、赤の他人に読んでもらっていろいろ感想をもらえたなら、その頻度が多いほどその分布は広いことになる。
 だから、アマの作品だからと言って、楽しめない人は多分偏狭な堅物なのだと思う。芸術というのは、正解がないから楽しいのだ。子供の絵でも楽しんで鑑賞出来るのが芸術家だし、小説だっていろいろなものを楽しむことが出来る人が、本当に文学を愛している人だ。下手だからとかくだらないからとか言って、その作者を蔑むような人は多分芸術家に向かない。サラリーマンでもやって出世街道を進んでおれば良い。芸術を楽しむと言うことは、平等で自由な平和を作ることでもあるのだ。個性がそのままで相互肯定され、自由に自分を表現できる。それが芸術の本質だと思う。そこに優劣を持ち込む人は、くだらない人たちだ。
posted by Pearsword at 22:13| 富山 ☀| Comment(0) | 迷い言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年11月06日

「ポトスライムの舟」津村記久子著。

 プロ作家不信に陥る中、それでも何かを探さねばと思って、以前から気になっていた津村記久子さんの小説を、今回は読んでみた。
 始まりは、工場の休憩室の一幕から始まる。そこに貼ってある世界一周旅行のポスターに惹かれて、自分の給料を一年貯め込んだら、このツアーに申し込めるなどと思ったナガセが、じっさいにいろいろな事情に絡まれながらも、お金を貯めていく話である。そのいろいろというのが、どうもわざとらしいような事情で、要するに離婚話を初めとする男女の仲の話なのだ。そのようなことに、やはり女性は関心があるのだろうし、ナガセの周りの登場人物は、すべて女性である。
 まあ、そのような夫婦仲は上手く行かなくて、男女の愛とは何なんだろうとか、考えるのも面白いのかも知れないが、この小説ではむしろそんなことはどうでも良いテーマで、一番素晴らしく思えるのが、雷の鳴る豪雨の中のポトスライムを並べた廊下の描写であったり、工場のある街並みの雰囲気であったりと、僕には思えた。「ポトスライムの舟」というものは、作中に一回だけ、ナガセの夢に出てくる。シングルリガーカヌーで、世界中の人々にポトスを配って行くときに、カヌーに多くのポトスを積んでいたものを言うのだと思う。雨の中で、ナガセはこの国は雨が降るだけでもありがたいのだと思うため、水がないと要らないと言われるポトスについて、その夢の中で、かなり持てあますことになるのだ。
 ポトスが、その生命力で物語に蔓延るかのように、あちらこちらに縫って出てくるのは、何かの主題を暗示しているのかも知れないが、そういう深読みは敢えてしなくても良い気がする。ポトスを食べるという思い付きが面白いし、それは世界一周のためにお金を貯めるときに考えついた制約料理法だというのも珍妙だし、ナガセを取り巻く小説世界がとても美しく描かれていて、そのへんはなんとも言えず美しい。
 ユーモアが笑いを誘うような滑稽さがなくて、美に昇華しているかのようなこの小説世界について、何かに比べて素晴らしいなど、あまり比較対象のものがなくて、独自のものだと言うほかない気がする。何もテーマがないじゃないかという意見もあるかもしれないけど、少なくともこの雨ばかり降る描写についても、日本的な気候の必然以上の著者の嗜好が感じられ、水が好きなんだなあ、という感想を抱くに到る。
 最後は、ナガセが自分のバイタリティのようなものに気付くため、水が好きな雰囲気と相俟って、ポトスというものをナガセ自身の象徴として表しているのではないかという、こじつけじみた解釈も出来なくはないが、そういう余計な考察はしない方が良いような気もする。
 僕の自分の小説と比べて、いろいろなものが繊細で、また卑近でもある。そこらへんにありそうな工場の、そのへんにいそうな女工の話である。リアリティという概念は、必ずしも写実性ではないと僕は思っているけど、何かモデルがあるにせよ、人間関係の構造みたいなものが、写生された作品のような気がする。ありそうな街並みの中のありそうな人間関係での少し夢のある話とでも言おうか。その辺、僕の書くものとは性質が異なるし、現実の醜さのようなものも描かれていて、確かにいろんなものが美化されて描かれてはいるのだけど、理想主義にならずにうまく現実を模写して再構築してあるような小説だと思った。
 作品としてとても味わいがあって、芸術作品と言って差し支えないと思った。
posted by Pearsword at 09:25| 富山 ☁| Comment(0) | 文藝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年11月01日

差別にあってみて思うこと。

 歌手Sのツイッターブロックをされたのは、かれこれ10年くらい前になるが、ファンだった僕はかなりこころを痛めた。それからも声援を送り続けていたが、今回またツイキャスで僕だけ配信が見られないというブロックのようなことをされて、僕はとうとう彼女の理解を得ることをあきらめた。ファンを辞めることにした。
 思えば、僕がツイッターで「あなたの名前」の歌詞について意見した日から、彼女は僕を忌み嫌ってきたのかも知れなかった。女性は一度嫌いになった人は二度と好きになれないと言う話を聞いたことがあるが、今までは商売上仕方なく付き合ってきたのであったが、僕が小説の進呈などをするものだから、とうとうぶち切れたのだと思う。
 この彼女の決断に火を付けたのが、同じ僕の憧れだった小説家Sの差別であろう。彼女は、大阪のイベントで僕のサインを間違えてしたことがあり、それすらも故意だったのかなと言う気すらする。それ以前に多くのファンレターを送っていて、大阪のあとのオンラインイベントなどでは、僕のアカウントからのコメントだけ、司会の人が無視して読み上げなかった。はじめその司会が悪いのかと思っていたが、そういうことが二度違うイベントで続いたので、小説家Sの悪意であろうと気付いた。それについて、ツイッターでクレームを入れたら、彼女の代理人の弁護士から警告状が届いて、これ以上イベントに参加したりファンレターを送ったりしたら、ストーカー防止法で訴えると告げてきた。言いがかりもいいところだが、弁護士には叶わないから、引き下がった。
 そのことを、よせばいいのにファンレターで歌手Sに書いたものだから、歌手Sもこれに乗じて、僕を常識のない問題ある精神障害者として特別扱いしたのだろう。証拠としては、しかとしたものはないが、長年のファンの中で、会報にコメントが載せられない人は多分僕だけだろう。それくらい嫌われていた。
 このようなことを通じて、僕は芸術がすこし怖くなった。いくら感動するものを見聞きしても、もしその作り手が酷い人格の持ち主だったら、と思うと、芸術を味わうのがこころむなしくなるのだ。そんな酷い人の作ったものなんて興味ないし、もし感動させられたとしたら、自分の不覚を嘆くだけとなる。芸術作品が素晴らしいのではない。そこに流れる作り手の精神性が素晴らしいのだ。たとえ作り手の人格がなっていなくとも、もしその作品を真剣に作り上げ、そこに尊い精神性を込めたなら、それはそれ相応の価値が出る。しかし、酷い人格の人たちには、そのような精神性は期待できない。すくなくとも、精神障害者の僕を差別するような人々に、なにも期待できない。
 僕は、最近そういうことで、心も痛むし何を作ればいいのか判らなくなって、どうにも創作が出来なくなっていた。しかし、今日妻に話していて、自分でも気付いた。もし自分が正しいと思う道を進んでいるのなら、まわりが僕を莫迦にしようが煙たがろうが、それを辞めるのは周囲に負けることであると。そんな邪な勢力に負けてはいられない。自分の正しさを突き抜けねばならない。それはことによると利己的なのかもしれないが、自分が自分であるための条件なのだ。負けて周囲に流されたら、自己表現をあきらめることになるのだ。僕は、表現家として生きる上で、自己主張を辞めてはいけない。自分を生き抜かねばならない。
 確かに、それは商業作家への道ではないだろう。しかし、そのほうが僕らしい小説が書けるし、真の理解者も出来るのだ。
 人間不信にも陥って、どの小説家も結局名声を得たいだけの下らぬ人格の方々なのだと思ったりすると、小説が味気なくなってきて、何を読めばいいかもはや判らなくなってしまっている。とりあえず、妻の小説を読んで気を休めているが、プロ作家なんて有名になって名声にあぐらを搔いていい気になっているだけの人々なのかなと思ったりする。
 仏教では、行を大切にする。思うだけでは駄目だし口だけでも駄目だ。正しいと思ったことは実行しなければ意味がない。難しいことではある。しかし、間違ったことではない。七仏通戒偈「諸悪莫作、衆善奉行」。芸術の意味を考えつつ、日々創作していきたい。
posted by Pearsword at 22:38| 富山 ☁| Comment(0) | 迷い言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年10月29日

「沼に迷いて」草間彌生著。

 統合失調症の大成功者としての芸術家草間彌生さんは、小説も書いていた。そのことを知ったのはだいぶん前だが、そのときからいつか読んでみたいと思っていたので、今回購入してみた。
 「沼に迷いて」は、大芸術家ロイ・グリーンパークについて描かれた小説である。筆致は簡素で飾り気がなく、どうしても描写が薄い。しかし、芸術家の面白げな世界が描き出されていて、読んでいて楽しい。この小説世界の面白さは、まずはロイのアトリエとそれを取り囲む沼の描写が美しいから生じるものであり、そのへんは如何にも画家らしい方法である。筆致は簡素なのに、描かれている世界が美しいので、小説全体が面白くなるのである。
 プロットととしては、芸術の価値を問うようなテーマを描き出すことに成功していて、そこも巧みである。初め、僕は主人公のマーコが草間さん自身の投影像なのかと思って、なんとも著者は差別的でいい気になった高慢女だなと思ったが、ひょっとしたらこれは、草間さん自身の考え方感じ方とはことなるものを持つ人格を描いてあるのかと思い直した。というのも、芸術品がそのものの価値如何よりも、名前で高値が付いてしまうことや、その先に、高値の付いた美術品やお金だけを欲しがる人が出てきて、そういう人は作者などどうでもよくなっているという、芸術の現代の風潮に対する風刺が上手く表現されていると感じたからである。
 しかし、ロイの人格の描かれ方も酷い気がして、マザコンで自閉症の醜い老人と言うことに成っている。天才とはえてして人格が曲がるものだというふうに描かれているのかとも思ったりもするが、もっと掘り下げると、これは精神を病んだいびつな性格の人たちに対して、もっと理解してほしいという願いが込められているような気もしてきた。精神が病んでいても、性格がねじ曲がっていても、美しい芸術品を作ることの出来る人がいるのだ、ということを、ここは草間さん自身の訴えとして、小説で表現したかったのかもしれない。
 最後はロイの詩で終わっているが、確かにあまり印象的には響かない詩ではあるのだが、味わいはそれなりに深いものがある。この詩によって、作者は天才ロイのこころの清らかさを示したかったのだろうし、そういうロイの可哀相な境遇を象徴にして、世の中の精神が病んでしまった方々を、もっと理解してほしいというメッセージが、どうもこの小説には込められている気がしてならないのだ。
 確かに、ロイの天才ぶりは、小説としては貧弱にしか表現されていない。しかし、弟が小児麻痺であり母が酷い過保護であるロイが地下室で美しい芸術的な箱を作るというそのアイデア自体が、すでに天才を描く骨格として印象的であるので、ロイの天才ぶりはなかなかうまく書かれていると言わざるをえない。
 何よりも、文体がとても静謐感を持っていて、小説がとても興味深い香り高さになっている。このような小説を読むと、芸術は技術ではないなという側面と、やはり小説も名前次第で売れる売れないが決まるのだという側面が、よくよく判る気がするのだ。
 まあ、草間さんに関して言えば、自伝など読んでも結構尊敬している人なので、たぶん人格もお優しいのだろうと思う。 
posted by Pearsword at 17:25| 富山 ☀| Comment(0) | 文藝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年10月23日

名声と芸術。

 名声から見放されてみると、文学というものに拘っていた理由として、そのようなものを得たい欲望があった自分を認めることになり、かえって冷静になれたと言うことはある。プロの小説家というものは、たいていは名をなして富を得るために、頑張った結果の人々である。純粋に文学をこころざす小説家がどれだけいるのか、甚だ疑わしい。
 文学をこころざすとかいうけど、それ自体大仰ぶりすぎて、どうにも格好付けだ。文学を芸術の一つとして捉えるならば、絵画や音楽などと同様、鑑賞と創作両面において楽しむべきものである。ところが、創作家というものは得てして、自分の創ったものに対して賞賛を得たがる。そういうのは、要するに自分を褒められたいのである。褒められると優越感に浸れるから、そうやっていい気になって調子づきたいだけである。つまり、いわゆる「才能」などと呼ばれるものは、だいたいにおいて人の評判で形作られるような中身の虚ろなものでしかなくて、そんなものを持ちたがる人は虚栄心の塊なのだ。もし、本当にそのようなものがあるならば、その人は自分に自信があるはずだから、人の評判などもはや必要ないはずなのだ。人の賞賛など無くても、真の天才は自分の価値を悟っているはずだ。
 とまあ、こんなことを書くと、天才は価値があるのかということになってしまうのだが、ほんらい価値の無い存在は何も無い。仏様の慈悲に照らして、無価値なものは存在していない。有=価値、というのが仏様の世界であろうか。そんな素晴らしい仏国土に住みながら、どんぐりの背比べのような人間同士の優劣を競うことの愚かしさに、芸術を行う人は早く気付くべきである。
 芸術は、正解が無い。また、個性が大切である。おのおのがそのままで素晴らしいと言うことの表現が芸術である。だから、画家であれ音楽家であれ、優越を競い賞賛を得たがるうちは、まだまだ達していない。誰の賞賛も必要なく、自分の命を燃やすように芸術活動をする人が、真の芸術家であり天才である。そう言う人は、なかなか現世にはいないのが実情なのではあるが、優劣を競うものは差別を産むので、平和的目的を達することが出来ない。
 こういう僕も、自分の小説について、まったく無視されるのはとても辛い。だれかれに読んでもらうのがとても嬉しい。表現の大前提として、人に何かを伝えるという、コミュニケーションの側面があることを無視できない。これがないといくら自己表現しても虚しいだけである。だれかれに何らかの影響を与えうるから、芸術である。しかし、それは必ずしも賞賛では無いだろう。素直な感想を抱いてもらい、それを聞くのは作者としては感無量である。そこに正解が無い以上、さまざまな影響の結果を聞くのは、とても楽しいことである。そのような芸術活動を、文学で行うのは、必ずしもプロである必要は無い。同人活動で、合評会などすると、とても詳細な感想を聞くことが出来て、面白かったりする。
 そういうことを考えると、やはり名声というのは、仏教の五欲の対象のうちの一つでしか無いのだなと、再確認させられる。
 
posted by Pearsword at 11:30| 富山 ☔| Comment(0) | 迷い言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年10月12日

「天の夕顔」中河与一著。

 飛騨の山の上牧場に行ったときに紹介されているのを見て、この本を探してみた。しかし、すでに絶版になっているためか、中古しか手に入らなかった。お金をケチったために、擦り切れた本しか手に入らなかった。しかし、そんな外見などどうでも良いくらい、素晴らしい作品だった。
 確かに、この主人公の男は、何をそんなに思い込むことがあって、七つも年上の人妻あき子に惚れたのか、そこは少し軽薄感が無きにしも非ずだ。その惚れる動機について、この小説は何も語っていない。だから、恋情の激しさが、初めからというよりも、むしろあき子の再三の拒絶によってこそ、どんどん増大していったかのような感を受ける。それは、本当に彼女のことを愛しているといえるのか? 拒絶の中の彼女の愛情を見て、その貞操に清明さを見て、ますます惚れていったというのは、少し人を知るには不足すぎるようにも思えるのだが、それにしても、ラストの「天の夕顔」花火の件は、とても美しくまとまっている。
 けだし、芸術性というものは、あまり写実的でなくても、成立するものである。この文学は、明らかに芸術的であり、この不器用な主人公の生きざまと、あき子への一本気な思い込みともいえるほどの恋情、そして、その恋情がついに実ることがなかったという悲運が、とても美しい色を成しているのだ。この美しい彩色は、最近の小説を読んでも、決して感じることのない鮮やかさである。中河氏は明治生まれだから、令和の時代には古びていてもいいはずなのに、却って鮮やかなのだ。
 主人公は、一生をかけた不倫に、あき子の精神性への愛情を見出し、歳をとっても少しも怯まず、愛し続けた。こういう激しい精神愛というものは、最近の大衆にはまずわからないものではないだろうか? 主人公は、先だったあき子に、いつか摘んだ夕顔の花として、花火を打ち上げて彼女に捧げる。それは、死してもなお愛し続けることの表現であり、物質的加齢に対する愛の抵抗でもあるのだ。
 また、山之上村から薬師岳に登頂したときに、彼は「わたくしの心には、さらに人間以外の他の世界というものが考えられ、わたくしたちは決してこの現実の世界だけの労苦を思うべきではない」と思う。つまり、自分があき子への恋情が果たせず、つらい孤独と渇望の中に生きてきたその労苦も、大自然の中ではなんのこともないということを、感じたのだと思う。そういう哲学的俯瞰ができる男であるからこそ、年老いたあき子をも、若い時と何ら変わらず、愛し続けられたのではないかという気もする。
 ここでは、主人公はあき子と暮らしていないから、憧れのままでいたからこそ、恋情を保てたのだという点については、現実的でないという批判をしないでおく。彼自身、あき子を神格化したというふうな記述をしている。しかし、それはむしろどうでもいい理屈であり、彼が一生をかけて、実らぬ悲恋を生きたということ自体が、とてもロマンチックで芸術的であるのだ。それは込み入った設定やプロットはなく、極めてオーソドックスなストーリーではあるけれど、その美しさは読者を感嘆させるものである。そういうものこそが、芸術の価値があるのだ。本当の愛とは何か? 人生を生きるとはどんなことか? そういうことが、この小説の言下に、くっきり描き出されているのだ。 
posted by Pearsword at 01:04| 富山 ☁| Comment(0) | 文藝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年09月24日

「杳子」古井由吉著。

 知人から紹介されて興味を持ち、この作を読むことになった。
 杳子は、主人公Sと山の中で印象的な出会い方をする。その著述はいかにも病的に神経質な不自然的執着のある感じ方を表現しているが、却って僕のような当事者からすると、非現実的な感じを受けた。僕は、現代医学で研究されている精神病理を一応は理解していて、というのは自らの病気がかなり医学的に説明が付くからであって、僕が描く精神病というのもやはりそのような病理をもとに描かれている理屈っぽいものである。そのため、どうにも狂人的荒唐無稽さが抜けていて、一般人には却って迫力もリアリティもないように見えるのかもしれないが、その逆のことがこの「杳子」という小説には言える気がする。一般人の描く精神障害像というのは、かなり奇抜で感覚的で神秘的ですらあるのだろう、そのような怪物じみた異常感覚が、杳子の感情として描かれている。
 しかし、この「異常感覚」は、一般人が感じそうなことの延長線上であり、その感じそうなことを誇大化して描かれたような感じを、僕は受けた。なるほど、このような「異常感覚」を感じることは、確かに普通の生活の中であり得そうな気がする。それゆえ、そのような感覚に落ち込んで病気になるという精神障碍者も、どこかにいそうなリアリティがある。しかし、実際には杳子のようなおかしな「ノイローゼ」はいないだろう。似たような人が実在しそうだが、どこか矛盾していてあまり病的切迫感も感じられず、やはり当事者の僕からすれば、作中人物でしかない。
 もっとも、それは小説だからしかたのないこと、あるいは、当然のことなのかもしれない。この小説では、最後に「健康な人」を杳子と対峙させて書いてあるが、それはどこか差別的な視線を感じさせつつも、杳子と同じかそれ以上おかしい姉が、「健康な人」側に描かれているが故に、読者たちに対する「あなたの精神は本当に健康ですか?」という問い掛けもテーマにあるように思える。主に病的な「反復」に抵抗があるうちが「病気」で、それを当り前にこなせるようになれば、姉のように「健康な人」側になれるという風に描かれているからだ。そのために、初めから描かれる病的心理が、いずれも誰にでも共感を呼びやすいように、描かれているとも言える。これは、作者の意図的なものなのかも知れないが、むしろ作者の精神病観の表れのような気がする。
 僕も精神病を描くが、なかなかリアリティを持つように描けない。その理由の一つとして、病人の切迫感が巧く再現できないと言うことがある。病理も判っていて経験もある僕も、喉元過ぎれば熱さ忘れるというものか、症状の酷いときの想い出話は、なかなかそのただならぬ危機感を再現できない。その恐ろしさというのは、言葉で表せば「自我が粉々に砕ける」「精神が爆発して無くなる」といったような恐れなのだけど、経験のない人からみれば、ただの笑いの種になる場合が多い。精神障害というのは、どうにも健常者には感情移入しがたい未知の感覚であって、知識としてしか判らない。だから、そのまま経験を描いても、なかなか共感されがたいのだろう。
 そのため、共感されやすいような「ノイローゼ」像を描くと、「杳子」のように実在しそうにない病人となってしまう。つまりは、感情移入できるように書くと病理的にありえなくて、知識的に正しく書くと感覚的に共感されがたいという、「精神病」の伝えがたいジレンマがあるということが、この小説を読んで思ったことだった。
 当事者の物書きとしては、そのジレンマを解くようなものに挑戦できないかなどと、思ったりもする。
posted by Pearsword at 19:56| 富山 ☀| Comment(0) | 文藝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年09月23日

梯子坂45。~人形山にて~

Image_1 2020-09-23_06-53-21.jpeg 昨日は、コロナウイルスによる自粛で縮こまった身体をリフレッシュしてこようと、妻と山登りに出た。
 どこにしようか迷ったが、比較的頂上の展望がいい人形山を選んだ。ここの山は、傾斜が登りやすくて、気付いたら頂上に着いているような山だと思ったからである。
 しかし、それは自分の独りよがりな感覚で、妻にしたら相当辛かったようだ。登り初めからそうとう汗を掻き、30分ごとに休憩を取った。しかし、1200mの休憩所までは一時間でなんとか来た。出るのが不覚にも遅く、登山開始8:45、第一休憩所9:45、第二休憩所10:40、宮屋敷11:30になった。宮屋敷で引き返すことも考えたが、登山は登頂してこそのものであるので、頑張って自ら励まし、更に進んだ。
 じつは、梯子坂46という企画があって、五箇山女のユニットをギャグで作れないかとか、冗談で考えていた。妻は、奇しくも今年45歳。それで、人形山の梯子坂の看板の前で写真を撮って、「梯子坂45」とか言ってSNSに載せたらウケるかなとか、考えてしまった。とりあえず、宮屋敷から30分ほど歩いて、梯子坂に掛かるが、標柱が草刈りのあとのためか、枯れ草に覆われてどこに行ったか見えなくなっていた。しかたないから、梯子坂を登る妻の写真を収めておいた。
 そんなギャグ企画はともかく、妻は体力があまりないし熱中症になりやすい体質なのに、よく頑張ってくれた。顔に塩が吹き出して、しょっぱくなっていた。それでも、弱音を吐かずに、一生懸命登ってくれた。
 頂上到着、13:10。とりあえず、大の字になって横たわり、少し休む。そして、インスタントラーメンで塩分と糖分を補給し、そのあとは山頂コーヒーを飲む。朝挽いてきた豆だが、こんなところで飲めるコーヒーは、そうとう美味い。これらのために登ってきたと言って良い。
Image_1 2020-09-23_06-54-00.jpeg しかし、昼食を食べて出たのが13:50。かなり遅くなった。妻の脚がへたばっていることや、靴擦れでいたいことなどを考慮に入れていなくて、妻にそうとう無理してもらった。たいへんハードな下山になったが、妻はへこたれずよく頑張り抜いた。宮屋敷に15;30に着いたが、なかなか安心出来ず、急がせた。妻はここでもそうとう無理をさせた。妻の精神性をあらためて尊敬した。彼女の頑張りのお陰で、なんとか17:30には下山完了できて、ギリギリ暗くなる前に降りてこられた。人形山の白山権現のお陰だろう。宮屋敷で、二人お祈りしてきたから。
 帰り、林道で子熊二匹とリスをみた。もう少し遅かったら、とんでもない眼に遭っていたかも知れない。危険と隣り合わせの登山でした。
 帰りは五箇山山荘で汗を流した。
 お疲れさまでした。
posted by Pearsword at 06:58| 富山 ☁| Comment(2) | 山行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年09月18日

創作甲斐。

 どうも僕は、最近の大衆は、本当の文学の味わい深さとか面白さを理解できないのではないかと、疑っている。
 友達の一人が、僕の本を読むときに言った。「込み入った話は要らない。判りやすい話を適当に楽しみたい」。全ての大衆がこうだとは言わないが、特に小説を読むのが好きでない人は、小説に求めるものもあまり大きくないのだ。文字を読むのがまどろっこしくて、判りやすく動画で見せて欲しいのだ。だから、小説の映画化も流行るし、映画に甚だしく感動するのだ。
 しかし、これはまるで文学を判っていない証拠である。映画など、くっきりどっきり実写されると、小説を読むときに読者たちが独自に感じる個性的世界がすべてぶち壊しにされる。小説の作り出す世界は、現実として現れず頭の中だからこそ現実より美しくなりうるし、摑めないからこその素晴らしさがあるのだ。それを安易に可視化してイメージを台無しにするのが、小説の映画化という行為である。多くの小説家が、自分の小説の映画化を喜ぶが、文学の振興のためを思えば、少しも喜ぶべきことではない。
 小説という芸術は、文字で表現するから文学なのである。そこに表現の技巧が生まれるし、映画やテレビなどで表せない妙があるのだ。文章でしか表現できない、他の媒体では代えが効かない、そういうものが文学である。そういう文学の面白さを、最近の大衆はどうも判っていないような気がしてならない。だから、絶賛されるのは、映画化されるような単純なシナリオばかりだし、その原作の中に文学性の多くないものばかりなのである。真に文学的な小説は、安易に映画化できないし、もししたとしても、小説の世界を再現することは不可能である。
 そういう視点から見て、純文学とは何であるか? ということを考察できる。古い時代は、他の芸術と等しく、小説も写実から始まっている。なんらかの現実を描写した、私小説的な自分たちの日常の物語である。そのほうが、本当にありそうな話として大衆に受け入れられやすいし、文学的表現を楽しまなくても、ストーリー自体を楽しめるのである。しかし、ストーリーというのは、そういう文章の芸術を楽しませるための方便に過ぎず、本来の文学というのは、もっと形而上学的なつかみ所のない、それでいてえも言われず美しいものである。文章の技術のことを言っているのではない。文章で表現される中身の美しさを言っているのだ。中身を表現するために、結果として技術的に巧みな表現も必要になってくる。形骸だけ巧みな文章は、中身がうつろで少しも美しくない。
 しかし、結局はだれかれ読者がいないと、小説というものは虚しいものである。誰にも読まれないものは、存在の意味がない。それでは、創作の甲斐が無いのだ。それで、僕は、だれかれに捧げることを始めた。今は、公募しても少しも理解されないので、だれかれに捧げることのみを目的として、小説を書くことになった。誰かに読んで貰えると思えば、しぜんモチベーションも上がるし、一生懸命書くことが出来るというものである。
 今は、誰かのために書く方が、面白く書けるのかなという気がしている。同人誌発表も面白いが、捧げることの面白さには負ける気がする。もし捧げる相手が間違っていなければ、それはその人の人生に、多少なりとも影響を与えうるものであろうから。
posted by Pearsword at 09:50| 富山 ☔| Comment(0) | 迷い言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年09月11日

理想を求めて。

 憧れの小説家の方から、先日、通知書が届いた。代理人の弁護士の筆により、手紙やSNS、メールなど、一切の接触を禁止します、その要請を犯すならば、裁判を起します、と書かれていた。痛かった。さまざまなことが、とても痛かった。
 しかし、裁判を起すほどお金は無いし、こちらに非がないにしても、弁護士の詭弁で無実の罪を着せられるのは判っていたので、黙って憧れの小説家の書いた本のレビューを全て消し、その方の本を16冊売ってきた。今まで、大好きな小説だっただけに、憧れの小説家だったために、かなり失望したし、こころがじんじん痛んだ。恋人に裏切られたくらい痛かった。
 作品と人間性は、あまり関係ないのだなと、はじめて思った。いくら面白い小説を書く人でも、残酷なことをできることがあるのだと思った。だから、僕は彼女への憧憬を諦めねばならなかったし、小説の理想というものを失ってしまった。もう五十路。いまさら再スタートを切れる歳でもない。自分なりを突き詰める歳だ。
 妻が慰めてくれた。小説なんて星の数ほどある。他の小説を探せば良いじゃない……。その通りだと思う。しかし、傷が癒えるのは少し時間が掛かりそうだ。そして、芸術観が大きな変革を受けた。作品が上手くても、人間性が必ずしも優れているわけでもない。人間性と芸術性、どちらが大切なのか? それはピカソの言葉に端的に表れている。「一枚の傑作を描くよりも、その画家が何者であるかと言うことが重要である」
 たぶん、このようにして僕は文壇に睨まれていて、一生日の目を見ないだろうけど、それもまた良いように思う。プロの小説家なんて、自分の文章を使ってうまく名誉と富を得た人達に過ぎないのであって、すこしも芸術的ではないし、たまたま大衆に頭が良いと誤解されているだけで、その実大して頭も良くなければ人格者でもない。そういうプロの一人になることを目指すのが、かなり虚しくなってしまった。プロの小説家になったって、自分の本を売ることに専念せねばならなくなるだけで、すこしも文学的ではない。僕らは、売れないなりの追究ができるのだと思った。
 とりあえず、現代の日本文壇に不審があるので、たぶん海外文学か古典を多く読むようになるだろう。また、ひょっとしたら、しばらくは絵画鑑賞などで頭を休めるかも知れない。いずれにせよ、あらたな理想を求めなければならない。
 けだし、芸術というものは歳によって受け取れるものが異なってくる。僕が老境に差し掛かったときには、また違う文学が好きになっていることだろう。そういう文学の多面性を惟みて、老境の自分にあった芸術観を探していかねばならない。
 こういう沙汰も、仏様の方便であり説法であることを、僕はよくよく理解しなければならない。このような世の中に僕のような顰蹙児が生きていくには、どうすればいいのか……。しかし、僕は仏様にはずいぶん救われている。だから、もうすこし巨視的に、自分の人生を捉え直せば、それでいいのかもしれない。
  
posted by Pearsword at 08:19| 富山 ☀| Comment(0) | 迷い言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年09月04日

「筆と虹」の改稿。

 「筆と虹」を刊行する前に、知人の黒瀬珂瀾さんに読んでもらう機会に恵まれた。
 黒瀬さんは、歌人にして大阪大学大学院の博士課程で研究をお積みになった方で、文学の造詣が深い。そのため、何か有用な御意見がいただけるのではないかと思って、お願いした。
 いろいろな御意見を戴いて、刊行までもう一度見直すことになったのだが、すべて黒瀬さんの御意見を反映できるほど、僕は殊勝ではない。しかし、それなりに改変を加えているところである。
 一番気に掛かったのが、僕の芸術観や価値観を、登場人物に言わせているのではないかと言う点だった。僕は、登場人物の考えとして言わしめているつもりなのであるが、どうもその部分が浮き上がって、小説の時間の流れが止まってしまうと言ったようなことを指摘された。僕としては、明言した方が判りやすいと思って、そのように書くのだが、人間言葉でズバリ言われると、却って反発してうまく受容できないと言うことなのか、僕の姿が登場人物の背後に見え隠れして、何を偉そうに知ったかぶりして、このえせ文士が! ということになるのかもしれない。いずれにせよ、控えめにほのめかす程度にしないと、上から目線だの尊大ぶっているだのと、揶揄されかねないのかも知れない。僕としては、僕のメッセージを加えているにしても、みなさんに呼びかけているという感じなのだが。
 もう一つ指摘されたのが、僕の表現はジェンダー差別について、あまり意識されていない、ということであった。「ジェンダー」という意味すらネットで調べないと判らない僕だったが、ようするに性別の差別意識が感じられやすい小説だと言うことか。その辺、どうしても男尊女卑思想の残る昭和生まれの考え方が染みついているので、俄に付け焼き刃的に男女平等を唱えてみてもうらむなしいだけだ。僕は、男と女は異なると思っているし、それは生理的なものや遺伝子的なものに加えて、ユング心理学で言うような民族の要請する集団的無意識というものも色濃く影響していると思うし、男と女は相補うために二極化しているのであって、それは各民族に受け継がれる習慣として、ひいては人類全体の知恵として、性別間の魔法として必要なものであり、それがあるから男女は恋愛が出来るし、フロイトの指摘するようなエロス的美学も生まれうるわけで、美というのは確かに性的なものだけではないが、かなり大きな部分を占めているので、男女が完全に均等で平等になったら、世の中から判りやすい美術が消え失せてしまうという結論にもなる。
 そういうことも、確かに小説のテーマにはなり得るが、いまのところその問題を中核として、小説を書いたことはない。ただ、確かに僕は、男を強壮に書かない癖して、女を女性らしく書こうとする癖があるというか。あまり化粧だのファッションだのに興味のない女性もいるだろうし、その辺はあまりこうだという定まったものは持たない方がいいとは思う。
 まあ、「筆と虹」を捧げる相手の柴崎友香さんも、ジェンダー差別には敏感な方だから、ひょっとしたら僕の小説に不快感を感じるのかもしれない。僕としては、自分の考え方をどういう形であれ表現するのが芸術だと思っているから、ジェンダー差別と言うかどうかはしらないけど、男女の役割はロマンチシズムを壊すものではないと思っているのである。
 改稿は、思ったよりも大変で、今年じゅうに発刊できるかどうかは判らないが、空華の校正も終了したし、全力を注ごうと思う。
posted by Pearsword at 13:08| 富山 ☀| Comment(0) | 創作 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年08月27日

文学活動とは何か?

 いろいろなことがあって、僕は一時、文壇批判をしたたかにしていた。
 しかし、好きな小説を読むと、どうしてもその小説の世界を嫌いになれなくて、その世界を創った著者が、どうしても悪者に思えなくて、しかも嫌いになってしまったら、もうその小説を読むことが出来なくなりそうで、結局、文壇批判をやめざるを得なくなった。好きな小説家は、たとえ僕に冷たくても、それは一時は怒りにまかせて暴言を吐いてしまったけど、虫のいいようではあるが、やはりあこがれの対象であり好きなのである。有名人というのはどうしても一般人に冷たいものなのだろう。
 まあ、僕は出版社にはまるで認められないし、プロデビューは難しいと思う。だけど、今月はそのような文壇批判で注目を浴びたせいもあるのか、キンドル本がいつもの月より、かなり多く出た。少しは読んでくれる人がいるのだと思うと嬉しいものだ。確かに、栄光にはほど遠いかも知れないけど、もともと文学活動というものは、栄光を得るための道具ではないのだ。文学活動するということは、どういうことなのか、素人ゆえにプロよりも真剣に純粋に、追求することが出来ると思う。
 プロは、お金を稼ぐ目的があるから、あまり実験的な小説は書けないし、どうしても売れる小説を書いてしまう。それは、かならずしも文学性と方向性が同じではない。むしろ売れれば売れるほど、文学から遠ざかる。では、その「文学」というものは何ものなのだろうか?
 それは、小説家が自分で、犀の角のごとく追求すべきことであり、僕はたまたま「芸術」と思って書いているが、そう考えない人もいるだろうから、一概に正しい解答はない。ただ、言えることがあるとすれば、宇宙の真理とか生命の価値とか、なにかそういった本質的なものを、追求すべきものであると言うことである。資本主義社会に圧倒的に不足しているものは、なんと言ってもこのあたりの思想である。何のために生きるのか? 命とは何か? コロナウイルスの災禍に紛れて、スーパーシティ法案を通したり、六ヶ所村の施設の安全性を是認したり、福島の立ち入り禁止区域にもどれるようにしようとしたり、そういうむごいことが平気に行われるのは、政府に倫理や思想がないからであり、ただ税金を如何に効率よく集めるかということだけを考えているからである。このような資本主義社会の不足を補うのが、「芸術」の役割である。「文学活動」もそのような補填に、与するべきなのである。
 かといって、僕らしろうとにそんな大きなことは出来ないだろうから、数少ない自分の読者に、少しずつ自分の平和思想を伝えていくほかないのだ。僕の小説は、今はほんの少ししか、現実に影響を与えられないけど、そのわずかな影響が、未来には大きな違いを生じると思うのだ。カオスというのはそういうふうに出来ているし、現実はカオスなのだ。
 そのように思って、僕はやはり文学活動をするには、自分の思想を大切にしたいと思う。思想が小説に現れ、読んだ人に影響を与えうるのだ。それは僕があこがれた小説家から教えられたことである。
 
posted by Pearsword at 17:48| 富山 ☁| Comment(0) | 迷い言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年08月16日

「野火」大岡昇平著。

 この小説は、フィリピンのレイテ島での日米の戦争をもとに書かれた話である。著者自身、レイテ島での戦争体験があるため、どこまでが実際の体験に基づくのか、とても気掛かりではあるが、作中、田村一等兵はかなり危険なことをし、殺人などの残虐行為を行い、そののち精神病院に入るために、ある程度は創作であろうかと思われる。
 まず、読み始めると、この自然描写の鮮やかさに驚かされる。戦争の話なのに、自然がまるでわざとのように色鮮やかである。それは、戦争という残虐行為を自然と対峙させて、はじめは自然を破壊する人類のイメージで描かれているが、病院が襲撃されて負傷兵が散り散りになり、人それぞれ自分たちのことだけしか考えられなくなるあたりから、人間の本能的部分が露出してきて、熱帯の自然の大きな営みの中に、人間の殺戮行為すら溶け込んでいくような、そんな描写の仕方がされている。
 かと言って、大自然の中だから、人は食物連鎖の法則に則り、殺戮をしまくってもいいのかということにはならず、田村一等兵は、あるとき野に降臨した神による百合の花を見る。それは、彼の食欲を満たすために、自ら食べてもいいと言った狂人将校と同じことを言い、人間の原罪の自覚に田村一等兵を導いていく。これは、テーマ的には人類共通で永遠と言っても良いほどの大問題なのだが、問題は、この神の助けを得てのちに、田村一等兵は、さらに人肉を喰らうところにある。
 実際、死ねないと言うだけで生きねばならないような、希望も何もない状態で、人は共食いまでして生き残りたいと思うものなのだろうか? 僕は、たぶん人生疲れてしまって、そこまで生きようとはできないと思うタイプの人間だ。人間の生きようとする本能は、そこまで強靱だろうか? そこはかなり、この小説を読んで、疑問に思ったところではあるが、田村一等兵は、そのような人間の狂人と化す力を、戦争が持っているのだというような訴えに、結び付けている。
 戦争というのは、権力に動かされて、嫌でも敵兵を殺さねばならない、おそろしい残虐行為である。人を一度殺してしまうと、一線を越えるというか、その人はどんどん人殺しをするようになるだろう。しかし、何故人殺しだけがだめなのか? ここは、町田康著「ホサナ」とテーマは同じくしている。生命の尊さは、この世の生きとし生けるもの全てにある、とすれば、ウイルスや病原菌にも慈悲を与えるのが、仏のこころであろうか? この辺は、禅書に曰く「万物自ずから功あり」。それぞれが礎となって、宇宙の城を支えている。この世の全てが尊い、というのが仏教的救いである。
 ともかく、野火では、そのようなキリスト教的原罪観まで達していながら、人はそれを犯さずに生きられないという、悲観的な終り方をしている。題名が「野火」であり、田村一等兵が記憶を失ったときに、フィリピン人の野火のもとにいき、殺害して食おうとしたと、彼自身が病院で推測するところなど、罪を知っていても避けられないという、人間の悲しい性が描かれている気がする。さらにいえば、「野火」は、「徴候」として田村に現れて、悪い予感を催させたのであり、その「徴候」とは、終りの方で書かれているかのような、「戦争」をしているあるいは始めようとしている世界の多くの国々であり、「野火」は世界の終りの大劫火の象徴として、題名として採用されたのではないか、と言う気がして成らない。
 最後は、田村一等兵は、生きているのか死んでいるのか、不確かな境地に成って終っている。それは、人類を救うための皮肉的祈りと言えよう。みな、田村一等兵のような悲惨な体験をしないと、判らないのではないか、みなさん、戦争を知らない子供なのではないか? 田村一等兵の叫びが、聞こえてきそうである。
 
posted by Pearsword at 10:08| 富山 ☁| Comment(0) | 文藝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする