「おらおらでひとりいぐも」が面白かったので、若竹千佐子さんの次作を待っていたが、昨年の春に出ていたのを見付けたので、読んでみた。
読み終わって思ったのは、最近の小説にありがちなのか、テーマが欲張って盛り込みすぎであるということ。現代資本主義に対する問題意識から始まり、ウクライナ戦争の反対、日本政府の悪政への疑念、意識改革の提示などのテーマが天こ盛りである。しかし、上手いのはそれらのテーマが違和感なく、作中の里見悦子ではないが、「一貫性」を持って綴られているところである。そのあたりは、小説を書く技術が巧みだと感じた。
登場人物はどれも、現代の競争社会に合わずはぐれた人たち。現代社会で上手く適応できなかった人達を描きながらなので、現代社会の問題を描きやすい。ウクライナ戦争も、競争社会の弊害で起こるとされる。そのような競争社会の裏側に、巨大な敵を想定しているのが、作家の着目点か。登場人物の一人、木村保に、「だけど俺が怒っているのはもっとずっと大きいっていうか、誰が相手かよく分からないものなんだ。この世の中全般ていうか、誰が相手かはっきりとは分からないけど、ずっと大きくて強くてずるいやつだ、とにかく」。それに呼応するように、あとの件りで、戦争すら「金儲けの輪っか」で動いていることを、保が言う。「金、でしょうね。なんだかんだ言って、金儲けしたいんですよ、経済を回したい。あと、戦争で目をそっちのほうに向けて失政を隠したい」と、もう一人の男に言わせて、黒幕の存在を暗示したりする。保は、その黒幕に怒ったのだろうか、最後の段になると、そのような惨いことを平気で許す世界には、世を統べる神はいないとする。それで、神は個人おのおのの中にいるというような哲学が、里見悦子によって述べられる。つまり、ニーチェの言うように神の死んだ現世を提示するのだ。
この辺りは、テーマが現実的すぎるからかもしれないが、現世利益的な効果を欲しがるためにか、哲学の掘込みが浅い。神がおのおのの中にいるというのは、必ずしも間違った思想ではないかもしれないが、誰かからの受け売りであるかのような浅い使われ方をしている。宗教はつるむものではなく、個人の生きる指針となるべきものであるというところまでいかなければ、なかなかこの考え方は、正当に受け取れない。
テーマばかりを考えると、そのように掘込みの浅い週刊誌的で現世利益的な、判りやすくて深みのないもののように思われるのだけれども、この小説の第一の美点が、この社会的弱者たちである。とくに片倉吉野という不思議なおばさんの円卓は、とても美しい世界である。資本主義から切り離された無償の奉仕と、そこに和む人達。それは、確かにリアリティはないかもしれないが、小説世界の面白さ快適さという点では、かなり上手く出来ていると思う。
最近の売れる小説は、どれもこれもドキツい内容で刺激の強いものばかりだ。この小説の一番の美点は、そのようなハッキリドッキリの奇矯さ激烈さ残酷さなどに欠いている点である。とても和やかな小説世界であり、暴力も異常性欲も出てこない。読んでいて、こころが和む。吉野の卓袱台に呼ばれてみたくなる。
最後の書き下ろしの「駆け出しの神」は、連載時にはなかった部分で、紙の色も異なる。この章は、おそらく著者自身の中の「神」を、作品を受けて描いたものだろうが、その「神」というのは、作品を統べる意味での神でもあるような気がする。いずれにせよ、自身駆け出しの神と言っているように、自分の中の神という思想を、充分消化し切れていない。この章を付け加えることで、読者自身にも自分の中の神探しをしてほしいと、作者は告げているのかもしれない。その証拠に、題名の「かっかどるどるどぅ」こそが、片倉吉野の神の声なのだ。
この小説では、登場人物にはほとんどみな、内なる神が出現している。つまり、この作品には、読者にも、吉野のように自分の中の神を見付け、社会的競争で勝ち組になることを目指すよりも、内なる神を新たな価値観としてこころに据え、現代社会の諸問題を解決して欲しいという、祈りが込められているのかもしれない。
2024年10月10日
2024年09月24日
「流卵」吉村萬壱著。
「流卵」という言葉は、僕の持っている広辞苑には掲載されておらず、どうも造語らしい。おそらく、作中に出てくる理科教師の言った「受精卵」に対する言葉で、流産した受精卵のような意味ではないかと思われるが、この小説自体が、流産したかのような出来に思えた。
オカルトから、異常性欲、シンナーと、矢継ぎ早にドギツいネタを繰り出して、読者を飽きさせない技術は大したものだが、牽引力が強いだけで、中身は空ろな感じを受けた。魔術の怪しげな知識が細かく書かれていてリアリティがあって、主人公の伸一は魔術をどのように開花させるのか、あるいはそのようなオカルト趣味が人生にどのような影響を与えるのか、そのようなところが描かれれば、もっと深くなっただろう。
あるいは、青少年の時期の変態のような性癖を書くのは、三島由紀夫著「仮面の告白」の例に倣って、大衆の興味をそそるものであろうが、変態の性癖についての深い掘り込みがなく、これもその後の人生にどのような暗い影を落とすのかが描かれれば、もう少し深いテーマを持たせることができただろう。これはシンナー中毒も同じで、その後の人生に如何に影響したかが、何も描かれていない。伸一はそのようなものを流行病のように治してしまい、普通に戻ってしまう。
中盤までは、とてもシリアスな小説で、伸一が将来どうなるのかがとても暗い見通しである。しかし、後半これがガラッと変化する。おそらくその変換点は、母親の手淫の場面であり、そのあたりから、変態の性癖も大衆化されて無毒化されていく。これは、シリアスな小説がコメディ化している部分で、意外性を次々繰り出すのは、読者を飽きさせないものがあるが、それだけであり、深いテーマがまるで浮び上がってこない。
ラストは、母親までが少年期の伸一と同様に、人生を嘘で塗り固めた人として描かれる。しかし、このラストはかなり無理があり、オカルト変態と母親の生き様は、あきらかに異なる。母親を必要以上に悪者として描いていて、伸一の変態性も、母親の性格の未熟さで帳消ししているようなわざとらしさである。リアリズムを持たせるならば、母親は不器用であっても変態ではないし、伸一の変態性は、母親の不器用な性格とは別のものとして描くべきである。
小説の始まりが父親の危篤で、そこから少年期の回想に入るのだが、この構成により、現在の伸一の凡庸さが描かれるために、変態性欲なんて誰でも体験することで、少しもおかしいことではないというテーマが浮き上がる。少年期、オカルトに纏わる異常な性体験をしたのに、現在、親の元に身を寄せてはいるが、一時は普通に会社勤めをして結婚もした男として書かれているからだ。しかし、このテーマは、安っぽくて能天気でリアリズムがない。変態性欲は、一般的に言って、身を滅ぼすからだ。
このように、シリアス小説として、もっと深く心理的に描いておれば、「仮面の告白」のような問題作として、出生したかもしれないが、途中でコミックに転回してしまったために、流産したかのような小説だ。
小説家の出身を見ると、たしかに大阪であり、吉本芸能のように、コテコテの性格でも人類は救われるというふうな、あるいは、なんでもかんでもお笑いにして救ってしまうというような、そのような考え方の土地柄を感じるが、小説は漫才ではなく、もう少し真実に根付いていないと、芸術性が落ちてしまう。そのあたり、文章も流麗で技術も巧みなのに、ただ売れるためだけに書いたような、テーマの空ろさが感じられ、とても残念な感じがした。
オカルトから、異常性欲、シンナーと、矢継ぎ早にドギツいネタを繰り出して、読者を飽きさせない技術は大したものだが、牽引力が強いだけで、中身は空ろな感じを受けた。魔術の怪しげな知識が細かく書かれていてリアリティがあって、主人公の伸一は魔術をどのように開花させるのか、あるいはそのようなオカルト趣味が人生にどのような影響を与えるのか、そのようなところが描かれれば、もっと深くなっただろう。
あるいは、青少年の時期の変態のような性癖を書くのは、三島由紀夫著「仮面の告白」の例に倣って、大衆の興味をそそるものであろうが、変態の性癖についての深い掘り込みがなく、これもその後の人生にどのような暗い影を落とすのかが描かれれば、もう少し深いテーマを持たせることができただろう。これはシンナー中毒も同じで、その後の人生に如何に影響したかが、何も描かれていない。伸一はそのようなものを流行病のように治してしまい、普通に戻ってしまう。
中盤までは、とてもシリアスな小説で、伸一が将来どうなるのかがとても暗い見通しである。しかし、後半これがガラッと変化する。おそらくその変換点は、母親の手淫の場面であり、そのあたりから、変態の性癖も大衆化されて無毒化されていく。これは、シリアスな小説がコメディ化している部分で、意外性を次々繰り出すのは、読者を飽きさせないものがあるが、それだけであり、深いテーマがまるで浮び上がってこない。
ラストは、母親までが少年期の伸一と同様に、人生を嘘で塗り固めた人として描かれる。しかし、このラストはかなり無理があり、オカルト変態と母親の生き様は、あきらかに異なる。母親を必要以上に悪者として描いていて、伸一の変態性も、母親の性格の未熟さで帳消ししているようなわざとらしさである。リアリズムを持たせるならば、母親は不器用であっても変態ではないし、伸一の変態性は、母親の不器用な性格とは別のものとして描くべきである。
小説の始まりが父親の危篤で、そこから少年期の回想に入るのだが、この構成により、現在の伸一の凡庸さが描かれるために、変態性欲なんて誰でも体験することで、少しもおかしいことではないというテーマが浮き上がる。少年期、オカルトに纏わる異常な性体験をしたのに、現在、親の元に身を寄せてはいるが、一時は普通に会社勤めをして結婚もした男として書かれているからだ。しかし、このテーマは、安っぽくて能天気でリアリズムがない。変態性欲は、一般的に言って、身を滅ぼすからだ。
このように、シリアス小説として、もっと深く心理的に描いておれば、「仮面の告白」のような問題作として、出生したかもしれないが、途中でコミックに転回してしまったために、流産したかのような小説だ。
小説家の出身を見ると、たしかに大阪であり、吉本芸能のように、コテコテの性格でも人類は救われるというふうな、あるいは、なんでもかんでもお笑いにして救ってしまうというような、そのような考え方の土地柄を感じるが、小説は漫才ではなく、もう少し真実に根付いていないと、芸術性が落ちてしまう。そのあたり、文章も流麗で技術も巧みなのに、ただ売れるためだけに書いたような、テーマの空ろさが感じられ、とても残念な感じがした。
2024年09月18日
「嘔吐」ジャン=ポール・サルトル著(白井浩司訳)
サルトルという人を、ほとんどと言って良いくらい知らず、哲学者らしいことはなんとなく知っていたが、その哲学の内容はまるで知らない。しかし、同人に加入して戴いた郷土の文学の大先輩が勧めていたので、哲学書ではないこともあって、読んでみた。
哲学者とは思えないほどの、詩的な文体で綴られているが、ものごとを説明するのに、筋道立てて順序よく論理的に述べることをせず、命題の周辺を関係の無さそうな細部まで描いて、直接そのものを言葉で説明せずに、感覚的に浮き彫りにするような書き方で、読んでいてまどろっこしい。少しも哲学者らしくなく、少なくとも文系脳の描き方である。したがって、非常に判りにくくて、読者に不案内なのだが、文体に味があることもあり、最後まで読むことができた。
「存在」についての、公園のマロニエの下での洞察が、それまでに次第に発症してきた異常感覚としての「嘔気」により誘発されたものであり、その「嘔気」の説明を読む限り、どうもロカンタンは狂気じみている。少なくとも非常に神経質で、下手をすると強迫神経症であろうか。しかし、古井由吉の「杳子」を思い出すような、健常者の考えた異常心理のような内面なので、本当の狂気ではないようにも思える。また、「嘔吐感」というのは、ニーチェもよく使った言葉であり、哲学者のポーズはこれしかないのかと、滑稽な気がする。よもや、本当に嘔気がするような思考でもなさそうだし、それくらい異常な感覚だったと言いたかったのだろう。
美術館の件りでも書いてあるが、つまりは、ロカンタンは、人間の「存在」があるようでないようなものだと言いたかったのだろう。マロニエの下での異常心理のように、すべての存在は関係の中に価値付けられているだけであり、人間が価値を見出し名前を付けるから、物としてあるように思えるが、それは実は虚仮の存在でしかないということであろうか。しかし、まず、宇宙存在があると、ロカンタンは考える。このあたりの考え方は、ロカンタンやサルトルは、一種の大悟として、目新しく感じたかもしれないが、仏教哲学では基本教義である「一切空相」ということを、理解したに過ぎない。
そのような、人間の存在は、社会的な価値付けによってあるというような考え方に、反骨的にロカンタンは孤独だったのに、終盤でアニーに会いに行くと、アニーと結婚できれば、すべて忘れてしまうような能天気さを、ロカンタンに感じることができる。つまり、ロカンタンはただ、寂しかったのだ。優しく自分を理解してくれる可愛い女性の伴侶が欲しかっただけなのだ。だから、アニーに振られてしまうと、一般的に救うものとしてありふれている音楽というものに、救われることになるのだ。
これでは、少しも、マロニエの下での狂気を理解したことにならない。あれは、一種の仏教哲学の理解であろうけども、体得していないから、また俗なものに喜びを感じてしまうのだ。すべて「存在」が無駄なものであるならば、歌や音楽も無駄なものであるところまで突き抜けねばならないのに、たかが女性のジャズの歌声を聴いて救われるというのは、その「存在」についての洞察が、すこしも理解できていないということでしかないのだ。その辺は、あくまでも洞察ではなくやはり「嘔気」であり、狂気の一種でしかなかったのだろうと思われる。
ロルボン卿を歴史から蘇らせようとして、嘔気を誘発してしまったために論文を擱筆したのに、ラストで小説でそのようなことを企むあたりは、いかにも卑近といわねばならない。芸術としてのジャズに救われたから、自分も芸術をして社会的価値を身に着けて、存在することを獲得しようとするのは、美術館で嘲笑っていたプーヴィルの偉人たちの生きざまと、大して変わらない気がするのである。
異常な心理でも、斬新な哲学でもいいから、もう少しマロニエの下での洞察を深めて、ロカンタンにもっと数奇な生き様をさせてほしかった気がする。降りてきた洞察に対して、帰着があまりにもお粗末すぎる気がした。
哲学者とは思えないほどの、詩的な文体で綴られているが、ものごとを説明するのに、筋道立てて順序よく論理的に述べることをせず、命題の周辺を関係の無さそうな細部まで描いて、直接そのものを言葉で説明せずに、感覚的に浮き彫りにするような書き方で、読んでいてまどろっこしい。少しも哲学者らしくなく、少なくとも文系脳の描き方である。したがって、非常に判りにくくて、読者に不案内なのだが、文体に味があることもあり、最後まで読むことができた。
「存在」についての、公園のマロニエの下での洞察が、それまでに次第に発症してきた異常感覚としての「嘔気」により誘発されたものであり、その「嘔気」の説明を読む限り、どうもロカンタンは狂気じみている。少なくとも非常に神経質で、下手をすると強迫神経症であろうか。しかし、古井由吉の「杳子」を思い出すような、健常者の考えた異常心理のような内面なので、本当の狂気ではないようにも思える。また、「嘔吐感」というのは、ニーチェもよく使った言葉であり、哲学者のポーズはこれしかないのかと、滑稽な気がする。よもや、本当に嘔気がするような思考でもなさそうだし、それくらい異常な感覚だったと言いたかったのだろう。
美術館の件りでも書いてあるが、つまりは、ロカンタンは、人間の「存在」があるようでないようなものだと言いたかったのだろう。マロニエの下での異常心理のように、すべての存在は関係の中に価値付けられているだけであり、人間が価値を見出し名前を付けるから、物としてあるように思えるが、それは実は虚仮の存在でしかないということであろうか。しかし、まず、宇宙存在があると、ロカンタンは考える。このあたりの考え方は、ロカンタンやサルトルは、一種の大悟として、目新しく感じたかもしれないが、仏教哲学では基本教義である「一切空相」ということを、理解したに過ぎない。
そのような、人間の存在は、社会的な価値付けによってあるというような考え方に、反骨的にロカンタンは孤独だったのに、終盤でアニーに会いに行くと、アニーと結婚できれば、すべて忘れてしまうような能天気さを、ロカンタンに感じることができる。つまり、ロカンタンはただ、寂しかったのだ。優しく自分を理解してくれる可愛い女性の伴侶が欲しかっただけなのだ。だから、アニーに振られてしまうと、一般的に救うものとしてありふれている音楽というものに、救われることになるのだ。
これでは、少しも、マロニエの下での狂気を理解したことにならない。あれは、一種の仏教哲学の理解であろうけども、体得していないから、また俗なものに喜びを感じてしまうのだ。すべて「存在」が無駄なものであるならば、歌や音楽も無駄なものであるところまで突き抜けねばならないのに、たかが女性のジャズの歌声を聴いて救われるというのは、その「存在」についての洞察が、すこしも理解できていないということでしかないのだ。その辺は、あくまでも洞察ではなくやはり「嘔気」であり、狂気の一種でしかなかったのだろうと思われる。
ロルボン卿を歴史から蘇らせようとして、嘔気を誘発してしまったために論文を擱筆したのに、ラストで小説でそのようなことを企むあたりは、いかにも卑近といわねばならない。芸術としてのジャズに救われたから、自分も芸術をして社会的価値を身に着けて、存在することを獲得しようとするのは、美術館で嘲笑っていたプーヴィルの偉人たちの生きざまと、大して変わらない気がするのである。
異常な心理でも、斬新な哲学でもいいから、もう少しマロニエの下での洞察を深めて、ロカンタンにもっと数奇な生き様をさせてほしかった気がする。降りてきた洞察に対して、帰着があまりにもお粗末すぎる気がした。
2024年08月22日
再読「真実真正日記」町田康著。
以前にも、感想をこのブログで述べたことがあるのだが、勉強会のテキストに選ばれたので、再読することになった。
初読のときは、抱腹絶倒の面白さだったのだが、二度目の今回は、だいたいの筋が判っているために、それほど爆笑はしなかった。しかし、ユーモアの腧というものを町田康氏は弁えていて、むしろ吉本芸人になった方が理に適った職なのではないかと思うくらいである。その辺は、大衆を惹き付ける力が強いので、とても大衆的な小説とも言える。
ただ、社会問題も何気なく訴えていて、表面化はしていないが、戦後の昭和の時代を潜り抜けた日本は、国民の内面は動物化しているのではないかとのテーマを感じ取ることができる。作中小説である「悦楽のムラート」に関しても、そのような殺伐とした日本で起こったこととして書かれてはいるが、実際に人間の外見が千手観音化したら、たしかにほとんどの人が気持ち悪がって差別するのではないだろうか。そのような人間の浅ましい本性を直視して、小説は書き進められている。
作中小説が残念なのは、江美保元が実は気が狂って精神病院に入っていたというおちである。それが、悦楽のムラートの効果だとしたら、すこしも面白い話ではない。ただの妄想を書いただけだ。小説なのだから、なにもそんなに小さくリアリズムに徹しなくても、風変わりな世の中に起こった痛快ストーリーとして書けば、シニカルコメディとなって面白かったのかもしれない。
そうしなかったのは、著者の拘りがあってのことか。著者は、作中に短歌を挟むなど、とてもアカデミックである。そういう学術的なことに憧れがあるのかもしれず、ただのコメディ小説家と思われたくなかったのかもしれない。純文学小説家としてのプライドがあったのかもしれない。著者の代表作は「告白」だが、僕はあいにく読んだことがないのだけれども、人殺しをテーマにした大問題作らしい。また、僕が読んだ中では、「ホサナ」が、人間の食肉と道徳をテーマにした哲学の深い超大作であり、純文学として素晴らしい出来映えである。そのように、著者は純文学作家でありたかったのではなかろうか。
ただ、著者の性分からして、堅苦しい純文学は合わない。それで、純文学でありながら自分らしいユーモアを込めた作品の一つとして、この小説を書いたのだろう。実際、ここまでのユーモアを含んだ純文学は、ほかに見たことがない。その点でかなり斬新だ。コミック純文学とでも言いたくなる可笑しさだ。普通の小説は謎や展開などで牽引力を出すが、この小説は笑いで引っ張っている。その牽引力の新しさは、革命的ですらある。可笑しくて読み進める小説など、町田康氏の作品以外にないのだ。
ただ、ギャグの特質として、繰り返し読むと鮮度が落ちる。純文学的味わいというものは、逆に読めば読むほど深くなる。そこが、この小説を代表とする町田康文学の弱点ではないかと思った。笑いは、激しい感情だけに、強く人を惹き付ける分、飽きが来るのが早いのだ。
初読のときは、抱腹絶倒の面白さだったのだが、二度目の今回は、だいたいの筋が判っているために、それほど爆笑はしなかった。しかし、ユーモアの腧というものを町田康氏は弁えていて、むしろ吉本芸人になった方が理に適った職なのではないかと思うくらいである。その辺は、大衆を惹き付ける力が強いので、とても大衆的な小説とも言える。
ただ、社会問題も何気なく訴えていて、表面化はしていないが、戦後の昭和の時代を潜り抜けた日本は、国民の内面は動物化しているのではないかとのテーマを感じ取ることができる。作中小説である「悦楽のムラート」に関しても、そのような殺伐とした日本で起こったこととして書かれてはいるが、実際に人間の外見が千手観音化したら、たしかにほとんどの人が気持ち悪がって差別するのではないだろうか。そのような人間の浅ましい本性を直視して、小説は書き進められている。
作中小説が残念なのは、江美保元が実は気が狂って精神病院に入っていたというおちである。それが、悦楽のムラートの効果だとしたら、すこしも面白い話ではない。ただの妄想を書いただけだ。小説なのだから、なにもそんなに小さくリアリズムに徹しなくても、風変わりな世の中に起こった痛快ストーリーとして書けば、シニカルコメディとなって面白かったのかもしれない。
そうしなかったのは、著者の拘りがあってのことか。著者は、作中に短歌を挟むなど、とてもアカデミックである。そういう学術的なことに憧れがあるのかもしれず、ただのコメディ小説家と思われたくなかったのかもしれない。純文学小説家としてのプライドがあったのかもしれない。著者の代表作は「告白」だが、僕はあいにく読んだことがないのだけれども、人殺しをテーマにした大問題作らしい。また、僕が読んだ中では、「ホサナ」が、人間の食肉と道徳をテーマにした哲学の深い超大作であり、純文学として素晴らしい出来映えである。そのように、著者は純文学作家でありたかったのではなかろうか。
ただ、著者の性分からして、堅苦しい純文学は合わない。それで、純文学でありながら自分らしいユーモアを込めた作品の一つとして、この小説を書いたのだろう。実際、ここまでのユーモアを含んだ純文学は、ほかに見たことがない。その点でかなり斬新だ。コミック純文学とでも言いたくなる可笑しさだ。普通の小説は謎や展開などで牽引力を出すが、この小説は笑いで引っ張っている。その牽引力の新しさは、革命的ですらある。可笑しくて読み進める小説など、町田康氏の作品以外にないのだ。
ただ、ギャグの特質として、繰り返し読むと鮮度が落ちる。純文学的味わいというものは、逆に読めば読むほど深くなる。そこが、この小説を代表とする町田康文学の弱点ではないかと思った。笑いは、激しい感情だけに、強く人を惹き付ける分、飽きが来るのが早いのだ。
2024年08月12日
短歌と陶芸。
しばらくまえに、民芸に関する美術展覧会を観に行った。「民藝」というのは明治時代の造語らしく、生活の中の身近な美術品といった意味のようである。それはつまり、日常の衣食住に直接関わってくるものたちで、食器や衣服、小物などのことのようなのだ。
これを見たときに、僕はこれは、今まで僕が感じてきた芸術における「美の解放」に対して、あっち向きの概念のように感じた。芸術が市民に解放されるにおいては、美を見出す眼力の解放と言うことを行うべきというのが私見で、美しいものを集めるのではなくて、何気ない物や風景に、潜在的な美を見出すのが、芸術の役割であると思うからである。
そのようなことは、同美術館の滝口修造の部屋を見ればよく判る。滝口修造の持ち物は、ガラクタのような無駄なものばかりである。それは、一般的な見方をすれぱ、少しも美しくない物が多い。しかし、愛着を持ったり見方を変えたりすると、美しさが見出されてくる。そのような、取るに足らない無駄な物を大切にするこころこそが、芸術という思想にとてもよく合致するのである。
柳宗悦の「民藝」というのは、しかるに、機能を持った物の中で、美しいものを集めることが、主眼となる。食器は見掛けが美しいだけでなく、食べ物を美味そうに盛るための機能がないといけない。衣服も、防護や防寒の機能を持ちながら、着る人を魅力的に見せなければならない。そのような、機能に縛られた芸術というのは、おそらく自由度が低い。服は一義的に着ることができる機能を要求される。食器も同様。
これは、建築が芸術に成り得なかった事実を想起させる。いくら美しい建物でも、住むことができなければ、住宅ではない。ル・コルビジェも、「建築は住む機械だ」という名言を残している。建築は、第一に機能が優れていることが要求されるのだ。それと同様のことが、柳宗悦の「民藝」にも言えるのだ。
このような、あるものから制限を受けて、自由度が少なくなるということを、文学において考えると、まさしく短歌や韻文は、そのような側面がある。韻律に収めることは機能ではないが、短歌を短歌ならしめる、韻文を韻文とならしめる、そういう役割がある。そういういわゆる「形」というものを保持した中で、美を追究する辺りが、短歌と陶芸、裁縫、建築などは、類似点があるように思われる。
建築は、上述のように、純然たる芸術ではない。それを考えたときに、建築ほど、「形」を押しつける機能が生理的ではないにせよ、自由度を阻害されている点に於いて、短歌や韻文も、純然たる芸術ではないのではないだろうか、という疑問が浮び上がってくる。
しかし、実際において、短歌の美しさは、韻律という「形」に嵌っているところにある。それは、陶芸でも言えて、食器の形をしているが故の美しさというものがあるにちがいない。それは、固定観念の脱却という芸術の一要素を犠牲にはするのだが、形に嵌っているからこその美しさというものも、存在するのである。美しい家と、美しい彫刻は、全く美しさが異なるのである。
そのようなことを考えると、一概に、「形」に嵌った芸術を否定することはできない。世の中には、彫刻より陶芸を好む人がいるのと同様、小説より短歌を好む人もいるのだ。
一言、言えることがあるとすれば、芸術の理想は、個性の尊重である。無駄と思われるもの、弱々しいもの、そういうものたちも、個性を尊重されなければならない。単純な弱肉強食は、芸術の理想に反する。さまざまな個性の中に、それぞれの良さ美しさを見出し、ひいては宇宙賛歌に万人を導くのか、芸術の理想ではなかろうか。
そのようなときに、やはり「形」を押しつける「民藝」は、芸術性が少し低いように思われるのである。
これを見たときに、僕はこれは、今まで僕が感じてきた芸術における「美の解放」に対して、あっち向きの概念のように感じた。芸術が市民に解放されるにおいては、美を見出す眼力の解放と言うことを行うべきというのが私見で、美しいものを集めるのではなくて、何気ない物や風景に、潜在的な美を見出すのが、芸術の役割であると思うからである。
そのようなことは、同美術館の滝口修造の部屋を見ればよく判る。滝口修造の持ち物は、ガラクタのような無駄なものばかりである。それは、一般的な見方をすれぱ、少しも美しくない物が多い。しかし、愛着を持ったり見方を変えたりすると、美しさが見出されてくる。そのような、取るに足らない無駄な物を大切にするこころこそが、芸術という思想にとてもよく合致するのである。
柳宗悦の「民藝」というのは、しかるに、機能を持った物の中で、美しいものを集めることが、主眼となる。食器は見掛けが美しいだけでなく、食べ物を美味そうに盛るための機能がないといけない。衣服も、防護や防寒の機能を持ちながら、着る人を魅力的に見せなければならない。そのような、機能に縛られた芸術というのは、おそらく自由度が低い。服は一義的に着ることができる機能を要求される。食器も同様。
これは、建築が芸術に成り得なかった事実を想起させる。いくら美しい建物でも、住むことができなければ、住宅ではない。ル・コルビジェも、「建築は住む機械だ」という名言を残している。建築は、第一に機能が優れていることが要求されるのだ。それと同様のことが、柳宗悦の「民藝」にも言えるのだ。
このような、あるものから制限を受けて、自由度が少なくなるということを、文学において考えると、まさしく短歌や韻文は、そのような側面がある。韻律に収めることは機能ではないが、短歌を短歌ならしめる、韻文を韻文とならしめる、そういう役割がある。そういういわゆる「形」というものを保持した中で、美を追究する辺りが、短歌と陶芸、裁縫、建築などは、類似点があるように思われる。
建築は、上述のように、純然たる芸術ではない。それを考えたときに、建築ほど、「形」を押しつける機能が生理的ではないにせよ、自由度を阻害されている点に於いて、短歌や韻文も、純然たる芸術ではないのではないだろうか、という疑問が浮び上がってくる。
しかし、実際において、短歌の美しさは、韻律という「形」に嵌っているところにある。それは、陶芸でも言えて、食器の形をしているが故の美しさというものがあるにちがいない。それは、固定観念の脱却という芸術の一要素を犠牲にはするのだが、形に嵌っているからこその美しさというものも、存在するのである。美しい家と、美しい彫刻は、全く美しさが異なるのである。
そのようなことを考えると、一概に、「形」に嵌った芸術を否定することはできない。世の中には、彫刻より陶芸を好む人がいるのと同様、小説より短歌を好む人もいるのだ。
一言、言えることがあるとすれば、芸術の理想は、個性の尊重である。無駄と思われるもの、弱々しいもの、そういうものたちも、個性を尊重されなければならない。単純な弱肉強食は、芸術の理想に反する。さまざまな個性の中に、それぞれの良さ美しさを見出し、ひいては宇宙賛歌に万人を導くのか、芸術の理想ではなかろうか。
そのようなときに、やはり「形」を押しつける「民藝」は、芸術性が少し低いように思われるのである。
2024年07月24日
「夏の流れ」丸山健二著。
丸山健二という小説家は、名前も聞いたことがなかったのだが、勉強会のテキストになったので、読むことになった。芥川賞作品らしい。
全体的に、地の文や台詞など、文章の読みにくさを感じた。特に、台詞の部分は、短い台詞の遣り取りが台詞だけで書かれている部分が多くて、途中誰の台詞であるかが特定できない部分もあった。些末的なことを言うと、そのような台詞の主を、台詞の内容だけから推測させるようなものは、僕の趣味には合わない。
内容的には刑務所の話なのだが、主人公の看守がいやに能天気である。殺人犯の処刑をする身でありながら、休日に同僚と釣りに出掛けて楽しんだり、子供と家族団欒を楽しんだりする。よほど神経が図々しくないと、このようなことはできない。特に、死刑囚を処刑した翌日に、家族と海水浴に出かける無神経さと言ったらない。
作中、人間も不良品が出るから、始末しなくてはならないというようなことを、主人公に言わせているのだが、この非人道性というのは、今の時代には考えられないことである。同僚の堀部や主人公は、そのような正義の味方的な考え方で、処刑をするのだけれども、新入の中川という男が、処刑当番のときに、仕事を辞めると言って、主人公のところに来る。この中川がいなければ、本当に野蛮な小説である。
しかし、中川の存在も、仕事を辞めていくだけであって、死刑の残忍性に対する警鐘を鳴らすには程遠く、訴えが弱すぎる。これでは、死刑制度に対する問題提起が、読者に対してちゃんと出来ているのかどうか、危うい。申し訳程度に、ラストで主人公に、子供たちが大きくなったときに、自分の職業を言うことの恐れを、口に出させているが、妻はまったくそれに対して、不安がらない。そのようなところも、本当に能天気である。
この小説の地の文が、もっとも細かく描写するのは、刑務所の中の様子であり、それが際立つのが、処刑場の描写である。これは、ある程度取材して描かれたのだろうけれども、大衆の下世話な興味を引くためだけの、不必要な描写に思えてならない。そのような処刑場の様子を、微に入り細に亘り描く必要が、文学的にはたしてあるのかないのか。ただ、大衆の怖いもの見たさを満足させるだけに過ぎないのではないだろうか。
死刑囚の話であれば、アメリカ映画にとても多く、僕も若いときに見た「KILLER〜第一級殺人犯」という作品に、とても感銘を受けた。こんな極悪人でも、人間のこころをもっているのだというヒューマニズム、しかもそれでも、最後は憐れに処刑されてしまうことの残忍さ、そのようなものをいたく感じて、感動したのだ。それは、仏教で言えば、仏性の有無という根源的テーマである。
死刑の話であれば、当然、そのような死刑囚の人権ということに、テーマを持っていかねばならないのに、この小説では、死刑囚は最後まで悪人であった。死刑囚にも人のこころがあるということを、全く認めていない小説であった。そのあたり、犯罪者に対する偏見を大きくするだけで、少しも文学的ではないように思われた。
このような文学が、芥川賞を獲ったことに関して、今も昔も、日本文学界の体質は、変化していないのだなと感じた。
全体的に、地の文や台詞など、文章の読みにくさを感じた。特に、台詞の部分は、短い台詞の遣り取りが台詞だけで書かれている部分が多くて、途中誰の台詞であるかが特定できない部分もあった。些末的なことを言うと、そのような台詞の主を、台詞の内容だけから推測させるようなものは、僕の趣味には合わない。
内容的には刑務所の話なのだが、主人公の看守がいやに能天気である。殺人犯の処刑をする身でありながら、休日に同僚と釣りに出掛けて楽しんだり、子供と家族団欒を楽しんだりする。よほど神経が図々しくないと、このようなことはできない。特に、死刑囚を処刑した翌日に、家族と海水浴に出かける無神経さと言ったらない。
作中、人間も不良品が出るから、始末しなくてはならないというようなことを、主人公に言わせているのだが、この非人道性というのは、今の時代には考えられないことである。同僚の堀部や主人公は、そのような正義の味方的な考え方で、処刑をするのだけれども、新入の中川という男が、処刑当番のときに、仕事を辞めると言って、主人公のところに来る。この中川がいなければ、本当に野蛮な小説である。
しかし、中川の存在も、仕事を辞めていくだけであって、死刑の残忍性に対する警鐘を鳴らすには程遠く、訴えが弱すぎる。これでは、死刑制度に対する問題提起が、読者に対してちゃんと出来ているのかどうか、危うい。申し訳程度に、ラストで主人公に、子供たちが大きくなったときに、自分の職業を言うことの恐れを、口に出させているが、妻はまったくそれに対して、不安がらない。そのようなところも、本当に能天気である。
この小説の地の文が、もっとも細かく描写するのは、刑務所の中の様子であり、それが際立つのが、処刑場の描写である。これは、ある程度取材して描かれたのだろうけれども、大衆の下世話な興味を引くためだけの、不必要な描写に思えてならない。そのような処刑場の様子を、微に入り細に亘り描く必要が、文学的にはたしてあるのかないのか。ただ、大衆の怖いもの見たさを満足させるだけに過ぎないのではないだろうか。
死刑囚の話であれば、アメリカ映画にとても多く、僕も若いときに見た「KILLER〜第一級殺人犯」という作品に、とても感銘を受けた。こんな極悪人でも、人間のこころをもっているのだというヒューマニズム、しかもそれでも、最後は憐れに処刑されてしまうことの残忍さ、そのようなものをいたく感じて、感動したのだ。それは、仏教で言えば、仏性の有無という根源的テーマである。
死刑の話であれば、当然、そのような死刑囚の人権ということに、テーマを持っていかねばならないのに、この小説では、死刑囚は最後まで悪人であった。死刑囚にも人のこころがあるということを、全く認めていない小説であった。そのあたり、犯罪者に対する偏見を大きくするだけで、少しも文学的ではないように思われた。
このような文学が、芥川賞を獲ったことに関して、今も昔も、日本文学界の体質は、変化していないのだなと感じた。
2024年06月15日
ふたたびの白木峰。
一昨年、大日平に登って妻が腰を抜かして以来一度も山に登っていなくて、そろそろ山が恋しくなってきたので、あまり乗り気でない妻を説得して登ることにしたのだが、初めは鳴谷山を考えていたが、どうやら林道が倒木で塞がれてて、林道の下から歩いて行かなければならないようなので、もう少し手軽なところを探して、妻も前に行ったことのある白木峰にした。
すると、今年から8合目まで林道が復旧したとかあるので、今度はあまりにも物足りなさすぎるので、前回同様、杉平キャンプ場から登った。
キャンプ場出発7:45。だらだら林道を歩く。こんな遠かったっけ?と訝る頃に、5合目登山口到着、8:40。小休止して、登り始める。この入口に咲いていたササユリも、今日はまだ蕾。上の花は咲いていてくれるだろうか?
途中、何回か休憩を取りつつ、7合目には9:40。思ったより早く着いて、安堵。7合目の駐車場も、満車だった。白木峰は頂上の景色が美しいだけに、林道が開通すると大勢が見に来る。5合目からのほうが山を楽しめるのに、林道が塞がっていたときには客数が少なかった。山の楽しみを知らない人が多いのかなと思った。
7合目までで1/3と妻には言って、励まして登っていく。8合目の分岐までは割合なだらかで、分岐には10:25。木立の切れ目から覗くと、駐車場に停められなかった車が路駐しているのが見える。予想通り、多くの客が来ていることが判る。
急登を登ってしばらく行くと、車道に出る。ここからは、もう1/3だと妻を励まし、登っていく。車道にあと2回出て、ヘリポートに出てぱっと展望が開ける。ここまでこれば、もう目と鼻の先。
木道を歩いて行くと、頂上ベンチは満員。時計を見ると11:45。丁度、昼時。仕方が無いので、地ベタに座って昼御飯を食べる。暑いかと思っていたが、日差しは強いものの風が吹いていて気持ちいい。定番のラーメンも、相変わらず美味い。
腹ごしらえをすると、北白木峰まで、木道を行く。途中、池塘がいくつかあり、泡みたいなものがあるのは、蛙の卵ではないかと、田舎育ちの妻が指摘したが、そうか、サンショウウオの卵かと、ピンときた。水の中を見ると、ちっちゃなオタマジャクシがすし詰めで泳いでいた。可愛らしかった。しかし、家に帰って調べると、この泡の卵は、シュレーゲルアオガエルのようであった。
ワタスゲも、初めてお目に掛かり、木道の傍に生えていたので、手で触れてみた。タンポポのような種が付いていて飛ぶようなものではなく、花びらのようにしっかり綿が茎にくっついていた。これも、美しい花だと思った。
下山開始、13:10、5合目登山口、15:30、杉平キャンプ場、16:25。登り4時間、下り3時間15分の山行であった。
妻は、2年ぶりの登山で、精神と脚を酷使してへとへとになったようだが、ほとんど文句も言わず、辛抱強く付いてきてくれた。いつか彼女の努力が報われる日が来ることを祈る。
帰りは、ゆうゆう館で汗を流した。
すると、今年から8合目まで林道が復旧したとかあるので、今度はあまりにも物足りなさすぎるので、前回同様、杉平キャンプ場から登った。
キャンプ場出発7:45。だらだら林道を歩く。こんな遠かったっけ?と訝る頃に、5合目登山口到着、8:40。小休止して、登り始める。この入口に咲いていたササユリも、今日はまだ蕾。上の花は咲いていてくれるだろうか?
途中、何回か休憩を取りつつ、7合目には9:40。思ったより早く着いて、安堵。7合目の駐車場も、満車だった。白木峰は頂上の景色が美しいだけに、林道が開通すると大勢が見に来る。5合目からのほうが山を楽しめるのに、林道が塞がっていたときには客数が少なかった。山の楽しみを知らない人が多いのかなと思った。
7合目までで1/3と妻には言って、励まして登っていく。8合目の分岐までは割合なだらかで、分岐には10:25。木立の切れ目から覗くと、駐車場に停められなかった車が路駐しているのが見える。予想通り、多くの客が来ていることが判る。
急登を登ってしばらく行くと、車道に出る。ここからは、もう1/3だと妻を励まし、登っていく。車道にあと2回出て、ヘリポートに出てぱっと展望が開ける。ここまでこれば、もう目と鼻の先。
木道を歩いて行くと、頂上ベンチは満員。時計を見ると11:45。丁度、昼時。仕方が無いので、地ベタに座って昼御飯を食べる。暑いかと思っていたが、日差しは強いものの風が吹いていて気持ちいい。定番のラーメンも、相変わらず美味い。
腹ごしらえをすると、北白木峰まで、木道を行く。途中、池塘がいくつかあり、泡みたいなものがあるのは、蛙の卵ではないかと、田舎育ちの妻が指摘したが、そうか、サンショウウオの卵かと、ピンときた。水の中を見ると、ちっちゃなオタマジャクシがすし詰めで泳いでいた。可愛らしかった。しかし、家に帰って調べると、この泡の卵は、シュレーゲルアオガエルのようであった。
ワタスゲも、初めてお目に掛かり、木道の傍に生えていたので、手で触れてみた。タンポポのような種が付いていて飛ぶようなものではなく、花びらのようにしっかり綿が茎にくっついていた。これも、美しい花だと思った。
下山開始、13:10、5合目登山口、15:30、杉平キャンプ場、16:25。登り4時間、下り3時間15分の山行であった。
妻は、2年ぶりの登山で、精神と脚を酷使してへとへとになったようだが、ほとんど文句も言わず、辛抱強く付いてきてくれた。いつか彼女の努力が報われる日が来ることを祈る。
帰りは、ゆうゆう館で汗を流した。
2024年06月09日
無気力なこの頃。
文フリが終ってしばらくして、疲れが出たのか、どうにもやる気が出ない。そればかりか、インスピレーションが湧かず、あまり芸術にも新鮮味を感じられなくなっている。どうやら、陰性症状が亢進したらしい。
いやいやでも書いた時に、インスピレーションが湧けば、仕事にはなる。若いとき、たとえば「眼」などを書いているときは、幻聴と思考伝播から来る執筆恐怖で、書くのが苦しかった。こころの痛みを堪えつつ書いていた。そのときでも、インスピレーションは湧いていた。ここ最近、そのインスピレーションが湧きにくくなっているのだ。
ちょっと、異なる視点から、ものごとを見ることが必要な気がする。保坂和志の小説講座にもあるが、書けないときは別のことをすると良いのだ。それで、このような雑記を書いているのだが、今日もどこか出掛けて、何らかの刺激を受けてこようと思ったのだけども、この陰性症状では、どこにも行く気がしない。昨日も、西田美術館に行ったのだが、そういうときは、神の計画なのか、巡り合わせがとことん悪い。観れると思っていたガランボシュの作品も展示してなかったし、休憩室に大声で長話する中年の男女がいて、まともに鑑賞できなかった。昨日も、それで気分転換にならずに、仕方なく帰り喫茶店に寄って、お茶を濁すことになった。それでは、喉は潤っても、感性の渇きは潤わない。
今日は、何もやる気が無かったので、「仏化の劫火」の手作りハードカヴァーの作成をした。糸で中綴じして背中を糊付けするところまでやった。すると、森田療法の「気分本位の脱却」と言わんばかりに、仕事ができてしかも達成感を味わえた。達成感というのは、ドーパミンの分泌により感じられるものだから、そこまで酷い陰性症状ではないように思う。
達成感と言えば、もっとも得やすいのが登山である。僕は、妻と出逢うまでの辛い時期に、よく登山で元気をもらっていた。特に、剱岳にチャレンジして、日帰りできたときには、とても自信が付いた。それがあっての寛解だった。登山の神様には、病気を治して戴いたのである。だから、また登山に行きたいのだけれども、妻が大の怖がりで、高いのも怖いし熊も怖い。妻を置いて一人で行っても良いのだけれども、僕も長い間の結婚生活に慣されて、妻依存症になっているようで、少し寂しい。でも、一人歩きの面白さを充分知っているので、また一人で登ってみたい気もする。
これを書いているのも、症状が改善しないかと思ってのことだが、少しは良くなるのだけども、全くは良くならないのが今回で、なかなか本調子にならない。精神的エネルギーが枯渇してしまったのは、あるいは歳のせいなのか。
死ぬまで、現役で書き続けたい想いがあるので、やる気が穏やかになってきたときの執筆についても、そろそろ考えておかねばならないのかもしれない。そのような心境も、無常観などをバックにして書けば、それなりに深いものに成るのではないだろうか。
いやいやでも書いた時に、インスピレーションが湧けば、仕事にはなる。若いとき、たとえば「眼」などを書いているときは、幻聴と思考伝播から来る執筆恐怖で、書くのが苦しかった。こころの痛みを堪えつつ書いていた。そのときでも、インスピレーションは湧いていた。ここ最近、そのインスピレーションが湧きにくくなっているのだ。
ちょっと、異なる視点から、ものごとを見ることが必要な気がする。保坂和志の小説講座にもあるが、書けないときは別のことをすると良いのだ。それで、このような雑記を書いているのだが、今日もどこか出掛けて、何らかの刺激を受けてこようと思ったのだけども、この陰性症状では、どこにも行く気がしない。昨日も、西田美術館に行ったのだが、そういうときは、神の計画なのか、巡り合わせがとことん悪い。観れると思っていたガランボシュの作品も展示してなかったし、休憩室に大声で長話する中年の男女がいて、まともに鑑賞できなかった。昨日も、それで気分転換にならずに、仕方なく帰り喫茶店に寄って、お茶を濁すことになった。それでは、喉は潤っても、感性の渇きは潤わない。
今日は、何もやる気が無かったので、「仏化の劫火」の手作りハードカヴァーの作成をした。糸で中綴じして背中を糊付けするところまでやった。すると、森田療法の「気分本位の脱却」と言わんばかりに、仕事ができてしかも達成感を味わえた。達成感というのは、ドーパミンの分泌により感じられるものだから、そこまで酷い陰性症状ではないように思う。
達成感と言えば、もっとも得やすいのが登山である。僕は、妻と出逢うまでの辛い時期に、よく登山で元気をもらっていた。特に、剱岳にチャレンジして、日帰りできたときには、とても自信が付いた。それがあっての寛解だった。登山の神様には、病気を治して戴いたのである。だから、また登山に行きたいのだけれども、妻が大の怖がりで、高いのも怖いし熊も怖い。妻を置いて一人で行っても良いのだけれども、僕も長い間の結婚生活に慣されて、妻依存症になっているようで、少し寂しい。でも、一人歩きの面白さを充分知っているので、また一人で登ってみたい気もする。
これを書いているのも、症状が改善しないかと思ってのことだが、少しは良くなるのだけども、全くは良くならないのが今回で、なかなか本調子にならない。精神的エネルギーが枯渇してしまったのは、あるいは歳のせいなのか。
死ぬまで、現役で書き続けたい想いがあるので、やる気が穏やかになってきたときの執筆についても、そろそろ考えておかねばならないのかもしれない。そのような心境も、無常観などをバックにして書けば、それなりに深いものに成るのではないだろうか。
2024年05月31日
「DJヒロヒト」高橋源一郎著。
少し前に発売されたので、昭和の日に購入してみた。
題名から連想されるのは、何と言っても「玉音の放送」だが、その連想の通り、全編を通して語られるのは、戦争の話である。小説家を中心として、多くの著名人を主人公として、日中戦争や太平洋戦争のことについて描かれた譚が、いくつも繋ぎ合わされて、全体を形成している。この点、技巧的には巧みな方法で、次から次へと話が移るためか、600ページを越える長大編なのに、ほとんど中弛みを感じさせない。それだけ、読みやすい構成になっている。
しかし、明らかに虚構と判るように書いてあるために、どこまでが史実であるのかが判別しがたく、多くの資料を渉猟して書かれたものであるには違いないのだが、戦争体験の部分まで虚構が入り込んでリアリティが低下してしまい、その分反戦のテーマの強度が低下しているように思われる。よくある反戦小説は、多くの部分が体験をそのまま描いてあるが故に、戦争の惨さが浮き彫りになるのであり、その戦争体験が虚構として描かれたような小説は、信憑性まで低下して、反戦のテーマも薄れてしまうように思われる。
ただ、これに対して、小説後半の永井荷風の件りで、考察が加えられている。「あれは、ほんとうに、芝増上寺の鐘なのだろうか。もしかしたら、芝増上寺などもうどこにもなく、それを『録音』した鐘の『音』が、わたしの嫌いな、あのラジオから流れているだけではないか」。荷風が好んだ町の音である鐘声も、ラジオの音として聞こえてくるのかもしれない、それはナチスドイツが録音してスピーカーから流したケルン大聖堂の鐘のように、権力で書き換えられるのだ……。つまり、歴史は権力により、書き換えられるということが、ここで示唆されている。
どうせ書き換えられるならば、権力でではなく放送局のラジオのように語り手として、小説家が書き換えよう。この小説は、そのような開き直りで、虚構を織り交ぜて描かれているのかもしれない。実際、戦後小説の反戦文学も、「野火」や「桜島」などでも、幾らかは虚構が混じっていると思われる。それでも、戦争体験者の印象としての「戦争の悲惨さ」が、切実に伝わってくるために、些末的な虚構は気にならない。むしろ、文学でのリアリズムは、このような作者の印象に求めるべきなのかもしれない。
そのような意味では、この小説に描かれている戦争の悲惨な印象はかなりのものであり、あまり嘘くささを感じさせずに、小説を読ませることに成功している。しかし、昭和天皇については、とても理想化されて描かれているために、本当にこんなに純粋な人であったのかという点については、かなり疑問を差し挟まざるを得ない。僕は、天皇に目見えたことは一度も無いが、会った人に聞くと、とても威光というか気品というか、不思議な尊さを感じるというから、天皇に会った人は天皇を悪く書きたくなくなるのかもしれない。僕個人としては、戦争による虐殺の責任の一端は、昭和天皇にもあると思うのだが、この小説では、天皇は自然を慈しむ優しいこころの持ち主に描かれている。それと、とても研究好きとしても描かれている。
研究に関しても一見理想化されていて、極めたような研究者は、興味対象は自分の研究だけなので、戦時中も権威の統制に従わずに、原住民とも仲良くやっていたように書かれているが、そのやさしい研究者たちも、研究のためには動植物の命を、罪悪感無く殺してしまうようなところが、七三一部隊のような無残な人体実験を行う結果になったということを示唆している。その辺も、わざと研究の危うさを描いているのかもしれない。そのように若干否定的な部分を持たせながらも、昭和天皇を親しみやすく人間的に、描いている。
総じて言えば、戦争は否定しながらも天皇はそれほど悪い人ではなかったと言いたいのだろうか。もっとも、著名な小説家すら戦地で人を殺してしまったと描いてあるために、善良な人々も戦地では人を殺してしまうというような、戦争の地獄の悲惨さが描かれているので、天皇も戦争犯罪を犯していないわけではないと言える。この小説で描いてある最大のテーマは、戦争地獄であろうか。
しかし、戦争小説でありながら、美しい自然描写もところどころに見受けられる。しかし、高橋氏の小説の常として、醜い部分も同時にある。ユーモアも、とてもセンスの良いコミカルな部分もあれば、中年サラリーマンの言うような下卑たジョークもあって、美醜両方ある。このような間口の広さは、自然界を模しているとも思われ、現実はそうそう理想的ではないものだという哲学に基づいているのかもしれない。
筋自体は前衛的で、最後のヒロヒトのDJの件りから見ると、物語がすべてラジオのヒロヒトの語りであったということなのかもしれないのだが、際立って通った筋がなく、とても不可思議な構造になっている。理詰めで自然主義的な筆致に取ろうとしても無駄で、アバンギャルド的な荒唐無稽な芸術性があって、全体的に興味深くて美しい。芸術というのは、すべて判りきったように作られると、作品が小さくなってしまう。作品は、不可解な方が、未知性により大きく拡がっていくものだ。そのような謎めいた部分が、この作品にも多く鏤められており、全体としてとても興味深い作品となっている。
芸術作品として反戦のテーマをどう訴えるか、その一つの解答として、この小説は大いに成功していると思われる。
題名から連想されるのは、何と言っても「玉音の放送」だが、その連想の通り、全編を通して語られるのは、戦争の話である。小説家を中心として、多くの著名人を主人公として、日中戦争や太平洋戦争のことについて描かれた譚が、いくつも繋ぎ合わされて、全体を形成している。この点、技巧的には巧みな方法で、次から次へと話が移るためか、600ページを越える長大編なのに、ほとんど中弛みを感じさせない。それだけ、読みやすい構成になっている。
しかし、明らかに虚構と判るように書いてあるために、どこまでが史実であるのかが判別しがたく、多くの資料を渉猟して書かれたものであるには違いないのだが、戦争体験の部分まで虚構が入り込んでリアリティが低下してしまい、その分反戦のテーマの強度が低下しているように思われる。よくある反戦小説は、多くの部分が体験をそのまま描いてあるが故に、戦争の惨さが浮き彫りになるのであり、その戦争体験が虚構として描かれたような小説は、信憑性まで低下して、反戦のテーマも薄れてしまうように思われる。
ただ、これに対して、小説後半の永井荷風の件りで、考察が加えられている。「あれは、ほんとうに、芝増上寺の鐘なのだろうか。もしかしたら、芝増上寺などもうどこにもなく、それを『録音』した鐘の『音』が、わたしの嫌いな、あのラジオから流れているだけではないか」。荷風が好んだ町の音である鐘声も、ラジオの音として聞こえてくるのかもしれない、それはナチスドイツが録音してスピーカーから流したケルン大聖堂の鐘のように、権力で書き換えられるのだ……。つまり、歴史は権力により、書き換えられるということが、ここで示唆されている。
どうせ書き換えられるならば、権力でではなく放送局のラジオのように語り手として、小説家が書き換えよう。この小説は、そのような開き直りで、虚構を織り交ぜて描かれているのかもしれない。実際、戦後小説の反戦文学も、「野火」や「桜島」などでも、幾らかは虚構が混じっていると思われる。それでも、戦争体験者の印象としての「戦争の悲惨さ」が、切実に伝わってくるために、些末的な虚構は気にならない。むしろ、文学でのリアリズムは、このような作者の印象に求めるべきなのかもしれない。
そのような意味では、この小説に描かれている戦争の悲惨な印象はかなりのものであり、あまり嘘くささを感じさせずに、小説を読ませることに成功している。しかし、昭和天皇については、とても理想化されて描かれているために、本当にこんなに純粋な人であったのかという点については、かなり疑問を差し挟まざるを得ない。僕は、天皇に目見えたことは一度も無いが、会った人に聞くと、とても威光というか気品というか、不思議な尊さを感じるというから、天皇に会った人は天皇を悪く書きたくなくなるのかもしれない。僕個人としては、戦争による虐殺の責任の一端は、昭和天皇にもあると思うのだが、この小説では、天皇は自然を慈しむ優しいこころの持ち主に描かれている。それと、とても研究好きとしても描かれている。
研究に関しても一見理想化されていて、極めたような研究者は、興味対象は自分の研究だけなので、戦時中も権威の統制に従わずに、原住民とも仲良くやっていたように書かれているが、そのやさしい研究者たちも、研究のためには動植物の命を、罪悪感無く殺してしまうようなところが、七三一部隊のような無残な人体実験を行う結果になったということを示唆している。その辺も、わざと研究の危うさを描いているのかもしれない。そのように若干否定的な部分を持たせながらも、昭和天皇を親しみやすく人間的に、描いている。
総じて言えば、戦争は否定しながらも天皇はそれほど悪い人ではなかったと言いたいのだろうか。もっとも、著名な小説家すら戦地で人を殺してしまったと描いてあるために、善良な人々も戦地では人を殺してしまうというような、戦争の地獄の悲惨さが描かれているので、天皇も戦争犯罪を犯していないわけではないと言える。この小説で描いてある最大のテーマは、戦争地獄であろうか。
しかし、戦争小説でありながら、美しい自然描写もところどころに見受けられる。しかし、高橋氏の小説の常として、醜い部分も同時にある。ユーモアも、とてもセンスの良いコミカルな部分もあれば、中年サラリーマンの言うような下卑たジョークもあって、美醜両方ある。このような間口の広さは、自然界を模しているとも思われ、現実はそうそう理想的ではないものだという哲学に基づいているのかもしれない。
筋自体は前衛的で、最後のヒロヒトのDJの件りから見ると、物語がすべてラジオのヒロヒトの語りであったということなのかもしれないのだが、際立って通った筋がなく、とても不可思議な構造になっている。理詰めで自然主義的な筆致に取ろうとしても無駄で、アバンギャルド的な荒唐無稽な芸術性があって、全体的に興味深くて美しい。芸術というのは、すべて判りきったように作られると、作品が小さくなってしまう。作品は、不可解な方が、未知性により大きく拡がっていくものだ。そのような謎めいた部分が、この作品にも多く鏤められており、全体としてとても興味深い作品となっている。
芸術作品として反戦のテーマをどう訴えるか、その一つの解答として、この小説は大いに成功していると思われる。
2024年05月21日
文学フリマ東京38。
今年こそ、春の文学フリマ東京に出よう、ということで、体調も整えて当日に臨みました。
いつも通り自動車で上京しましたが、ホテルに安いところを探して泊ったら、品川シーサイド駅の傍になってしまい、行ってから気付きましたが、流通センターまで3駅のところでした。りんかい線とかいう埼京線から直通電車もある路線が、いつのまにか東京に出来ていて、天王洲アイル駅が東京モノレールと連絡しているために、電車ですぐ会場にいけるという位置に泊ったのです。それで、急遽電車で行くことに予定を変更しました。
しかし、移動してみると、りんかい線や東京モノレールのホームと電車の段差や隙間が結構大きくて、乗り降りがしにくかったです。カートを一時持ち上げないとうまくホームに乗り降りできないために、かなりの重労働でした。しかも、電車料金が妻と二人往復となると、結構な額になってしまい、車で行って駐車場に停めた方が、労力を考えてもリーズナブルかと感じました。りんかい線は、奇しくも次回以降のビッグサイトの近くにも駅があるために、次回以降ここのホテルに泊って電車で行くことも可能ですが、乗り降りの不便さなどを考えると、車の方がいいかもしれません。
とにかく、そのような事情で、流通センターに到着しました。会場設営は、一時間も掛からなかったのですが、アーリーオープンがなかったために、設営してしばらくは、所在なく座っておりました。ブース数が増えて管理が大変なのかもしれませんが、もう少し、設営の時間を短く取ってもらいたいような気がします。しかし、今回は左隣がいなくて柱だったので、荷物を置く場所が広く取れたために、ブース内で動きやすかったということはあります。
今回から、入場料千円を取った文フリ東京でしたが、入場者はかなり多かったです。しかし、それにも拘わらず、売れ行きは伸び悩みたったの16冊になりました。最近の文学フリマ東京はあまり売上が伸びず、20冊行かなかったのは、文学フリマ東京35と同様でした。大阪ではもう少し伸びたのですが、東京ではあまりウケないのでしょうか。ただ、売り子をやった妻が、精神的に不調だったためか、彼女の本の売り上げか低かったです。僕の本と同人誌はわりあい良く出たのですが。
しかし、ほかのブースを見ても、売れ残っているところも多かったですが、売れるブースはかなり売れるわけで、その違いはどこにあるのかというのが、なかなか摑めないです。少なくとも、売れる理由は内容如何ではないような気がします。内容をいくら文学的に凝ってみても、あまり理解されないのが今の市場で、むしろ大衆的なものの方が多く売れます。大衆的なものは、内容的にはあまり文学が極められていないために、売上は上がるかもしれませんが、あまり文学の進歩に役立っていないようにも思います。その辺は、純文学小説と大衆小説のちがいなのかなという気がして、前衛を走っているような僕らは、いつになっても莫迦売れしないんだろうなと言う気はします。
それでも、今回の新刊「恁麼」について、人が出てこない小説などと言うと興味を示してくれるお客様もいたために、数少ない読者は付くために、そのような御縁を大切にして、ほそぼそと今後も純文学路線を走るしかないのかなという気もします。
いつも通り自動車で上京しましたが、ホテルに安いところを探して泊ったら、品川シーサイド駅の傍になってしまい、行ってから気付きましたが、流通センターまで3駅のところでした。りんかい線とかいう埼京線から直通電車もある路線が、いつのまにか東京に出来ていて、天王洲アイル駅が東京モノレールと連絡しているために、電車ですぐ会場にいけるという位置に泊ったのです。それで、急遽電車で行くことに予定を変更しました。
しかし、移動してみると、りんかい線や東京モノレールのホームと電車の段差や隙間が結構大きくて、乗り降りがしにくかったです。カートを一時持ち上げないとうまくホームに乗り降りできないために、かなりの重労働でした。しかも、電車料金が妻と二人往復となると、結構な額になってしまい、車で行って駐車場に停めた方が、労力を考えてもリーズナブルかと感じました。りんかい線は、奇しくも次回以降のビッグサイトの近くにも駅があるために、次回以降ここのホテルに泊って電車で行くことも可能ですが、乗り降りの不便さなどを考えると、車の方がいいかもしれません。
とにかく、そのような事情で、流通センターに到着しました。会場設営は、一時間も掛からなかったのですが、アーリーオープンがなかったために、設営してしばらくは、所在なく座っておりました。ブース数が増えて管理が大変なのかもしれませんが、もう少し、設営の時間を短く取ってもらいたいような気がします。しかし、今回は左隣がいなくて柱だったので、荷物を置く場所が広く取れたために、ブース内で動きやすかったということはあります。
今回から、入場料千円を取った文フリ東京でしたが、入場者はかなり多かったです。しかし、それにも拘わらず、売れ行きは伸び悩みたったの16冊になりました。最近の文学フリマ東京はあまり売上が伸びず、20冊行かなかったのは、文学フリマ東京35と同様でした。大阪ではもう少し伸びたのですが、東京ではあまりウケないのでしょうか。ただ、売り子をやった妻が、精神的に不調だったためか、彼女の本の売り上げか低かったです。僕の本と同人誌はわりあい良く出たのですが。
しかし、ほかのブースを見ても、売れ残っているところも多かったですが、売れるブースはかなり売れるわけで、その違いはどこにあるのかというのが、なかなか摑めないです。少なくとも、売れる理由は内容如何ではないような気がします。内容をいくら文学的に凝ってみても、あまり理解されないのが今の市場で、むしろ大衆的なものの方が多く売れます。大衆的なものは、内容的にはあまり文学が極められていないために、売上は上がるかもしれませんが、あまり文学の進歩に役立っていないようにも思います。その辺は、純文学小説と大衆小説のちがいなのかなという気がして、前衛を走っているような僕らは、いつになっても莫迦売れしないんだろうなと言う気はします。
それでも、今回の新刊「恁麼」について、人が出てこない小説などと言うと興味を示してくれるお客様もいたために、数少ない読者は付くために、そのような御縁を大切にして、ほそぼそと今後も純文学路線を走るしかないのかなという気もします。
2024年05月01日
「幻の母」城戸朱理著。
僕は、詩というものが元来苦手で、感動を覚えたこともないし、読むのにとても骨が折れるので、今まで詩集をほとんど読んだことがなかった。しかし、同人誌などでお世話になった関係上、城戸朱理さんの詩集を購入したために、いやしくも充分理解できたとは言いがたいが、一読してみた。
この詩集を読んでまず感じたのは、描かれる幻の川ホータンが、とても詩的存在であると言うことだ。ヘディンの名前は、浅学の僕でも知っていたが、その「さまよえる湖」と同様、消えたり現われたりするという点に、とても現実の中の詩性を感じるのだ。奇しくも、さまよえる湖もホータン川も、タクラマカン砂漠にあって同じタリム川に接続しているのだが、あとがきで城戸氏がヘディンのことに言及しているのは、地理的な理由と言うよりも、この存在の詩性からによるものではなかろうか。
水の干上がるはずの夏の間だけ流れるという逆説は、詩人をしてホータン川に生命を見さしめた。あとがきでは、「川を、人生や時間になぞらえて眺めるのは、東洋においては、むしろ、ふつうの感覚であった」とあるが、ホータンを見なければ、このような自然の暗喩を感じられなかったのではないかとも思った。しかし、詩人が旅したのは、実はホータンではなくて北上川だった。
詩人は、おそらく、ホータンや北上川に限らず、自然界、いや宇宙全てのものに詩性を観ているのではないだろうか。それが、詩人を詩人たらしめている直接的な基礎因子なのかもしれない。
この詩集は、全体で一つの作品となっており、水、母、故郷、言葉、などのいくつかのキーワードが、全編を読むうちに浮き彫りになるようになっている。「さまよう声」という作品は、詩心のない僕にも、とてもよく響いたが、
「ふるさと」とは
生まれたら、生涯、
その外には出られぬ場所と
告げるのは、他人ならぬ声
というのは、なかなか鋭い見解である。このような言葉は、悟性が通っていないと発せられない。しかし、城戸氏の詩は、決して格言や箴言じみたものではない。感性もとても研ぎ澄まされている。「空位の国にも」から引くと、
身の老い鎮まっていくとき
ゆらゆらと幻が整列するように
耳のなかを流れ始める川がある
それゆえの、耳鳴り
この老化現象の、ユーモリズムとポエジーの混じった、こじつけがましいが妙に説得力のある比喩も、そのような卓越した感性によって、紡ぎ出されるものだろう。この詩集を読むと、人生の川の音が、頭の中に聞こえてくるような気になるのだ。その川が、つまりはホータンや北上川と、あるいは、地元に流れる身近な川と、イメージの上だけではなくて、現実的に一致してしまいそうになる。ホータンが消えるの同様、人生の軌跡も消える。北上川に源泉があるように、生まれた故郷がある。人の故郷は、母であり国であり、ひいては全ての生命の母たる水であり、あるいは、全ての思考の母たる言葉であろうか……。
幻の鹿が、その真実を見る神のように、詩集から飛び出して、読者たる僕を、寂しそうな眼で見る。つまり、この詩の世界は、読むことにより現実化する。それは、詩に描かれる悟境の真実性が高いために、詩が現実として捉えられるのに伴い、その詩性までも現実化するのである。しかし、この鹿は何のメタファーなのか、ただの幻に過ぎないのか、そのようなことは安易な解釈を許さず、謎そのものとして、作品を神秘的に美しく彩る。
このような「謎」が、詩の条件でもあるようにも思う。この詩集を通読して感じたことの一つとして、詩というのは、「語らない文学」ということだ。抽象彫刻やシュルレアリスム絵画のように、謎が言葉で説明されないために、作品に神秘性が与えられ、そのまえで意味や象徴性を考えさせられてしまうような、そういう思索性が詩の美しさには、必要な気がするのだ。
詩と小説では、同じ文学でも種類が異なるが、より美術的なものが詩歌なのかもしれない。「語らない文学」というのも逆説的で、どこかホータンの逆説を想起させないだろうか。そのような事物の神秘性や美しさ、それに近いのは、人間の言葉で汚される余地の少ない「詩」なのではなかろうか。
ほかの詩人の作品も、読みたくなった。
この詩集を読んでまず感じたのは、描かれる幻の川ホータンが、とても詩的存在であると言うことだ。ヘディンの名前は、浅学の僕でも知っていたが、その「さまよえる湖」と同様、消えたり現われたりするという点に、とても現実の中の詩性を感じるのだ。奇しくも、さまよえる湖もホータン川も、タクラマカン砂漠にあって同じタリム川に接続しているのだが、あとがきで城戸氏がヘディンのことに言及しているのは、地理的な理由と言うよりも、この存在の詩性からによるものではなかろうか。
水の干上がるはずの夏の間だけ流れるという逆説は、詩人をしてホータン川に生命を見さしめた。あとがきでは、「川を、人生や時間になぞらえて眺めるのは、東洋においては、むしろ、ふつうの感覚であった」とあるが、ホータンを見なければ、このような自然の暗喩を感じられなかったのではないかとも思った。しかし、詩人が旅したのは、実はホータンではなくて北上川だった。
詩人は、おそらく、ホータンや北上川に限らず、自然界、いや宇宙全てのものに詩性を観ているのではないだろうか。それが、詩人を詩人たらしめている直接的な基礎因子なのかもしれない。
この詩集は、全体で一つの作品となっており、水、母、故郷、言葉、などのいくつかのキーワードが、全編を読むうちに浮き彫りになるようになっている。「さまよう声」という作品は、詩心のない僕にも、とてもよく響いたが、
「ふるさと」とは
生まれたら、生涯、
その外には出られぬ場所と
告げるのは、他人ならぬ声
というのは、なかなか鋭い見解である。このような言葉は、悟性が通っていないと発せられない。しかし、城戸氏の詩は、決して格言や箴言じみたものではない。感性もとても研ぎ澄まされている。「空位の国にも」から引くと、
身の老い鎮まっていくとき
ゆらゆらと幻が整列するように
耳のなかを流れ始める川がある
それゆえの、耳鳴り
この老化現象の、ユーモリズムとポエジーの混じった、こじつけがましいが妙に説得力のある比喩も、そのような卓越した感性によって、紡ぎ出されるものだろう。この詩集を読むと、人生の川の音が、頭の中に聞こえてくるような気になるのだ。その川が、つまりはホータンや北上川と、あるいは、地元に流れる身近な川と、イメージの上だけではなくて、現実的に一致してしまいそうになる。ホータンが消えるの同様、人生の軌跡も消える。北上川に源泉があるように、生まれた故郷がある。人の故郷は、母であり国であり、ひいては全ての生命の母たる水であり、あるいは、全ての思考の母たる言葉であろうか……。
幻の鹿が、その真実を見る神のように、詩集から飛び出して、読者たる僕を、寂しそうな眼で見る。つまり、この詩の世界は、読むことにより現実化する。それは、詩に描かれる悟境の真実性が高いために、詩が現実として捉えられるのに伴い、その詩性までも現実化するのである。しかし、この鹿は何のメタファーなのか、ただの幻に過ぎないのか、そのようなことは安易な解釈を許さず、謎そのものとして、作品を神秘的に美しく彩る。
このような「謎」が、詩の条件でもあるようにも思う。この詩集を通読して感じたことの一つとして、詩というのは、「語らない文学」ということだ。抽象彫刻やシュルレアリスム絵画のように、謎が言葉で説明されないために、作品に神秘性が与えられ、そのまえで意味や象徴性を考えさせられてしまうような、そういう思索性が詩の美しさには、必要な気がするのだ。
詩と小説では、同じ文学でも種類が異なるが、より美術的なものが詩歌なのかもしれない。「語らない文学」というのも逆説的で、どこかホータンの逆説を想起させないだろうか。そのような事物の神秘性や美しさ、それに近いのは、人間の言葉で汚される余地の少ない「詩」なのではなかろうか。
ほかの詩人の作品も、読みたくなった。
2024年04月19日
「魔笛」シカネーダ著/モーツァルト作曲(海老沢敏訳)。
SNSで見掛けたので、まえから気になっていた「魔笛」を読んでみた。このジングシュピールは、妻の持っている音源を部分的に聴いたことがあるだけで、観たことがないためにどのような話か全く知らなかった。だから、却って先入観なしにこの台本を読むことができた。
読後に思ったのは、普通に面白かった。
まず、技巧的に詩的というか凝っている。例えば、夜の女王の三人の侍女が始めに出てくるが、この台詞と話すタイミングが、実に幾何学的に配置されている。言葉のリフレインと対句的な対比は、音楽で言うならば三重奏を彷彿とさせる規律に則られていて、韻文的な形式美があるのだ。この三というのが、ユング心理学的なあるいは宗教的なものを想起させたりもするが、そのような専門的な知識を排したとしても、目立つ数である。パパゲーノとタミーノを導く童子の数も三だし、ザラストロの住む神殿も「叡智」「理性」「本性」と三つである。
また童子が、ヒーローのタミーノを導くというのは、子供の方が真理に近いという考え方を示すようで、なかなか興味深いものがある。ほかにも如実に著者の価値観が感じられるところがあり、たとえば、黒い肌のモノスタトスがこころも黒いというような、こころの汚れは表面に現われてくるという考え方など、現代では差別主義と取られかねない考え方が、作中に流れている。これは古典的な騎士物語的な価値観でもあり、ヒーローとヒロインは必ず美男美女である必要があるのだ。このような騎士物語的な考え方は、美男美女だけが尊いという差別主義に走りがちではあるが、私見を入れるとこれは戯画的な表現にはなっているが、ある意味真実ではないかと思われる。日本の諺にも、「名は体を表す」とも言い、表面的なものにも内的な理由があるのだ。見る目がないと、表面的な虚飾に気付けないだけの話で、真の慧眼には、美しいこころの持ち主の表情が見抜けるのではないかと、僕などは考える。台本では単純化して美男美女になっているが、そうではなくて、見る眼のある人にはこころの美しい人の表情が美しく見えるのではなかろうか。それを、単純にここでは、美男美女としているにすぎないように思われる。
いずれにせよ、試練を乗り越えて終にパミーナと引き合わされたシーンで、タミーノは魔笛を携えて彼女とともに、火の山と水の山を乗り越えて、神殿に入ることを許される。このあたりがクライマックスなのだろうけども、非常にオペラ的に描かれている。小説であるならば、その苦難のさまをリアリティを持たせて感動的かつドラマティックに描くのだろうけども、ここでは二つの山の中に入るだけである。ただ、水の山から抜け出た瞬間に、音楽とともに神殿の扉が開くという、感動的な舞台を想像させる台本になっている。ここに顕著であるのは、このテキストは、あくまでもオペラの台本であるということである。音楽の調べとともに、舞台の上で演じられて、客に感動を与えるべきものである。このテキストは、小説ではないのだ。だから、文学であるかどうかも疑わしい。
しかし、文学ではないかもしれないとしても、ストーリー性はしっかりしていて、前述のように典型的な騎士物語であるし、始めは客のこころを夜の女王側に立たせておきながら、最後にはザラストロ側に立たせるような、どんでん返し的なエンターテイメント性も素晴らしく、タミーノだけでなくパパゲーノまでハッピーエンドにするあたりは、弱者に対する思い遣りすら感じられる。試練に耐えられないのは、多くの市民も同じである。そのような悪人正機的な大衆救済の精神が、パパゲーノの救いに表現されている。
パパゲーノは、タミーノの愛すべきできそこない従者で、道化的な役割を果たしている。ところどころ差し挟まれるユーモアは、このジングシュピールを親しみやすいものにしている。しかも、ただの道化ではなく、パミーナを導くあたりも、ユング心理学的に言えば、トリックスターの任を担っている。彼がいなければ、タミーノは成就できなかったのだ。それくらいの重要な役どころであるために、やはり彼にも幸せになってもらわねばならず、神殿には入れないけども、多くの子パパゲーノと子パパゲーナを授かって幸せになるだろう未来を得るのは、リーズナブルなのである。
このように、ストーリー的にも面白いオペラだが、どうもシカネーダ独りの手によるとは思えないという点を、最後に付け加えておく。
題名の「魔笛」には、音楽に対する切なる祈りが感じられる。それは銀の鈴にも顕著であるが、パパゲーノが銀の鈴を鳴らしたとき、襲いかかっていたモノスタトスは音に感動して踊って去ってしまう。そのときのパミーナとパパゲーノ台詞は、
「立派な男がだれもみんな、鈴をみつけたなら! そうすれば敵どもは苦もなくいなくなってしまう、そして敵をもたずにくらしていける、この上もない和合の中に。ただ友情のなごやかさがわずらわしさを和らげてくれる」
また、火の山水の山にタミーノとパミーナが入っていくときの二人の台詞、
「この笛は道中、私たちを守ってくれるのです。(中略)さあ、いらしって、笛を吹いてください。それはおそろしい道の上で私たちをみちびいてくれるのです」「私たちは音の力によって進んでいく、死の暗い夜をつきぬけて楽しく」
ここに如実に表れている精神は、音楽により諸悪を鎮めて人類を救うという思想であり、モーツァルトの音楽に託した想いのように思われるのである。この台本作成に、作曲者であるモーツァルトが口出しをしないほうが不自然であり、となればどこまで関与したのかということに、いささか頭を悩ませてしまうのである。
このような、音楽により人類を救いたいという祈りは、芸術全般に敷衍すれば、現代に通じる精神であり、それはもちろん、文学にも同様に通用するので、若い小説家志望者たちには、ぜひ読んでもらいたい作品である。
読後に思ったのは、普通に面白かった。
まず、技巧的に詩的というか凝っている。例えば、夜の女王の三人の侍女が始めに出てくるが、この台詞と話すタイミングが、実に幾何学的に配置されている。言葉のリフレインと対句的な対比は、音楽で言うならば三重奏を彷彿とさせる規律に則られていて、韻文的な形式美があるのだ。この三というのが、ユング心理学的なあるいは宗教的なものを想起させたりもするが、そのような専門的な知識を排したとしても、目立つ数である。パパゲーノとタミーノを導く童子の数も三だし、ザラストロの住む神殿も「叡智」「理性」「本性」と三つである。
また童子が、ヒーローのタミーノを導くというのは、子供の方が真理に近いという考え方を示すようで、なかなか興味深いものがある。ほかにも如実に著者の価値観が感じられるところがあり、たとえば、黒い肌のモノスタトスがこころも黒いというような、こころの汚れは表面に現われてくるという考え方など、現代では差別主義と取られかねない考え方が、作中に流れている。これは古典的な騎士物語的な価値観でもあり、ヒーローとヒロインは必ず美男美女である必要があるのだ。このような騎士物語的な考え方は、美男美女だけが尊いという差別主義に走りがちではあるが、私見を入れるとこれは戯画的な表現にはなっているが、ある意味真実ではないかと思われる。日本の諺にも、「名は体を表す」とも言い、表面的なものにも内的な理由があるのだ。見る目がないと、表面的な虚飾に気付けないだけの話で、真の慧眼には、美しいこころの持ち主の表情が見抜けるのではないかと、僕などは考える。台本では単純化して美男美女になっているが、そうではなくて、見る眼のある人にはこころの美しい人の表情が美しく見えるのではなかろうか。それを、単純にここでは、美男美女としているにすぎないように思われる。
いずれにせよ、試練を乗り越えて終にパミーナと引き合わされたシーンで、タミーノは魔笛を携えて彼女とともに、火の山と水の山を乗り越えて、神殿に入ることを許される。このあたりがクライマックスなのだろうけども、非常にオペラ的に描かれている。小説であるならば、その苦難のさまをリアリティを持たせて感動的かつドラマティックに描くのだろうけども、ここでは二つの山の中に入るだけである。ただ、水の山から抜け出た瞬間に、音楽とともに神殿の扉が開くという、感動的な舞台を想像させる台本になっている。ここに顕著であるのは、このテキストは、あくまでもオペラの台本であるということである。音楽の調べとともに、舞台の上で演じられて、客に感動を与えるべきものである。このテキストは、小説ではないのだ。だから、文学であるかどうかも疑わしい。
しかし、文学ではないかもしれないとしても、ストーリー性はしっかりしていて、前述のように典型的な騎士物語であるし、始めは客のこころを夜の女王側に立たせておきながら、最後にはザラストロ側に立たせるような、どんでん返し的なエンターテイメント性も素晴らしく、タミーノだけでなくパパゲーノまでハッピーエンドにするあたりは、弱者に対する思い遣りすら感じられる。試練に耐えられないのは、多くの市民も同じである。そのような悪人正機的な大衆救済の精神が、パパゲーノの救いに表現されている。
パパゲーノは、タミーノの愛すべきできそこない従者で、道化的な役割を果たしている。ところどころ差し挟まれるユーモアは、このジングシュピールを親しみやすいものにしている。しかも、ただの道化ではなく、パミーナを導くあたりも、ユング心理学的に言えば、トリックスターの任を担っている。彼がいなければ、タミーノは成就できなかったのだ。それくらいの重要な役どころであるために、やはり彼にも幸せになってもらわねばならず、神殿には入れないけども、多くの子パパゲーノと子パパゲーナを授かって幸せになるだろう未来を得るのは、リーズナブルなのである。
このように、ストーリー的にも面白いオペラだが、どうもシカネーダ独りの手によるとは思えないという点を、最後に付け加えておく。
題名の「魔笛」には、音楽に対する切なる祈りが感じられる。それは銀の鈴にも顕著であるが、パパゲーノが銀の鈴を鳴らしたとき、襲いかかっていたモノスタトスは音に感動して踊って去ってしまう。そのときのパミーナとパパゲーノ台詞は、
「立派な男がだれもみんな、鈴をみつけたなら! そうすれば敵どもは苦もなくいなくなってしまう、そして敵をもたずにくらしていける、この上もない和合の中に。ただ友情のなごやかさがわずらわしさを和らげてくれる」
また、火の山水の山にタミーノとパミーナが入っていくときの二人の台詞、
「この笛は道中、私たちを守ってくれるのです。(中略)さあ、いらしって、笛を吹いてください。それはおそろしい道の上で私たちをみちびいてくれるのです」「私たちは音の力によって進んでいく、死の暗い夜をつきぬけて楽しく」
ここに如実に表れている精神は、音楽により諸悪を鎮めて人類を救うという思想であり、モーツァルトの音楽に託した想いのように思われるのである。この台本作成に、作曲者であるモーツァルトが口出しをしないほうが不自然であり、となればどこまで関与したのかということに、いささか頭を悩ませてしまうのである。
このような、音楽により人類を救いたいという祈りは、芸術全般に敷衍すれば、現代に通じる精神であり、それはもちろん、文学にも同様に通用するので、若い小説家志望者たちには、ぜひ読んでもらいたい作品である。
2024年04月16日
「菜穂子」堀辰雄著。
高志の国文学館で氏の展覧会があったので、その名前はうろ覚えするほどに耳にしたことはあったにせよ、殆んど知らなかった堀辰雄氏の小説を読みたくなった。それで、私小説からロマン派にシフトする試みの作品という「菜穂子」を選んだ。
とても魅力的な小説世界なのは、少し噛み砕くのに時間が掛かる長めの文体の所為なのか、浅間山を中心にした静謐な小説の舞台の所為なのか、いずれにせよ美しさを感じさせる情趣深い作品だった。しかし、一方で、この小説により作者は何を伝えたかったのかというような、顕著なメッセージ性がまるでない。始まりが菜穂子と不仲だった母親の日記から始まっていて、導入部としてとても興味をそそるのだけども、読了したあと、はてあの日記は何だったのかと問い返したところで、せいぜい菜穂子の結婚の動機が親への反抗心を含んでいたというようなことを、印象深く表現したというふうにしか思われず、その必然性のないドラマチックさはつまりは技巧ばかりが先立っているとも言えるかもしれない。そのような導入もそうだし、都筑明を登場させた意味についても、それほどリーズナブルなものがあるようには思えず、ただ菜穂子の人生絵図を少しばかり複雑にしたような意味しか見いだせない。そういう意味では、よくよくプロットを練って登場人物をしかるべくして動かしているような、物語の設計をあまりしていないようでもあり、展覧会で掲示されていたように、それは氏がもともと私小説を書いていたことの名残でもあろうかと思われる。その辺りが、逆にうまくリアリズムを増してもいて、小説世界の奥行きを広めているように思われる。
表題が「菜穂子」という女性の固有名であることに関して、氏はこのような女性を描きたかったのかもしれないのだが、結局のところ、菜穂子は自己実現できるでなし結婚に成功するでなし、非常に中途半端な立場で物語を終えている。余韻として残る彼女の未来への予感も少なくとも明るくなく、このように耐えて諦めるだけの人生の人を書きたかったのかという気もしないでもないが、彼女はそのくせ、反省や後悔がほとんど浅く、これと言って世人の鑑になるような何ものかが提示されているわけでもない。つまりは、人生訓というものが、この小説からは殆んど感じられない。
それでも読ませる面白さというのは、シーンのドラマチックさであり美しさである。たとえば、駅のホームで中央本線の特急の通り過ぎるのを妻に想いを馳せて見送る圭介や、O村の外れの森の中の氷室あとで早苗と無言のデートを繰り返す明など、絵になる情景が作中に多く鏤められている。この小説は、つまるところそのような、小説世界の美しさそのものを、純粋に描いたものでしかないのだろう。そのあたりが、非常に芸術的である。テーマもメッセージもない、ただ小説そのものの美しさが、この小説のテーマなのである。
いろんなものを読むと、とかくテーマやメッセージ性を持たせた方が、文学性が高いように感じてしまうけども、美しさのみを追究するのであれば、むしろそれらの属性は邪魔でしかない。プロレタリア文学のように政治性の強いものもあるが、そのような文学は純粋な美が、却ってテーマの妨げになる文学である。人は、作品から集中されたテーマを一つ受け取りがちであり、幾つものテーマが盛り沢山のものは、まとまりを欠いてどのテーマも中途半端に感じられてしまうものだ。そういう意味で、「菜穂子」は、メッセージ性を諦めて、純粋に小説の美しさのみを追求した、耽美的な作品といえるだろう。ただ、耽美と言っても美に酔うことがなく、庶民の感じる素朴な美しさの域に慎ましく留まっているのが、却って成功している。それは、浅間山に代表される自然の美しさに準えているのかもしれない。
とても魅力的な小説世界なのは、少し噛み砕くのに時間が掛かる長めの文体の所為なのか、浅間山を中心にした静謐な小説の舞台の所為なのか、いずれにせよ美しさを感じさせる情趣深い作品だった。しかし、一方で、この小説により作者は何を伝えたかったのかというような、顕著なメッセージ性がまるでない。始まりが菜穂子と不仲だった母親の日記から始まっていて、導入部としてとても興味をそそるのだけども、読了したあと、はてあの日記は何だったのかと問い返したところで、せいぜい菜穂子の結婚の動機が親への反抗心を含んでいたというようなことを、印象深く表現したというふうにしか思われず、その必然性のないドラマチックさはつまりは技巧ばかりが先立っているとも言えるかもしれない。そのような導入もそうだし、都筑明を登場させた意味についても、それほどリーズナブルなものがあるようには思えず、ただ菜穂子の人生絵図を少しばかり複雑にしたような意味しか見いだせない。そういう意味では、よくよくプロットを練って登場人物をしかるべくして動かしているような、物語の設計をあまりしていないようでもあり、展覧会で掲示されていたように、それは氏がもともと私小説を書いていたことの名残でもあろうかと思われる。その辺りが、逆にうまくリアリズムを増してもいて、小説世界の奥行きを広めているように思われる。
表題が「菜穂子」という女性の固有名であることに関して、氏はこのような女性を描きたかったのかもしれないのだが、結局のところ、菜穂子は自己実現できるでなし結婚に成功するでなし、非常に中途半端な立場で物語を終えている。余韻として残る彼女の未来への予感も少なくとも明るくなく、このように耐えて諦めるだけの人生の人を書きたかったのかという気もしないでもないが、彼女はそのくせ、反省や後悔がほとんど浅く、これと言って世人の鑑になるような何ものかが提示されているわけでもない。つまりは、人生訓というものが、この小説からは殆んど感じられない。
それでも読ませる面白さというのは、シーンのドラマチックさであり美しさである。たとえば、駅のホームで中央本線の特急の通り過ぎるのを妻に想いを馳せて見送る圭介や、O村の外れの森の中の氷室あとで早苗と無言のデートを繰り返す明など、絵になる情景が作中に多く鏤められている。この小説は、つまるところそのような、小説世界の美しさそのものを、純粋に描いたものでしかないのだろう。そのあたりが、非常に芸術的である。テーマもメッセージもない、ただ小説そのものの美しさが、この小説のテーマなのである。
いろんなものを読むと、とかくテーマやメッセージ性を持たせた方が、文学性が高いように感じてしまうけども、美しさのみを追究するのであれば、むしろそれらの属性は邪魔でしかない。プロレタリア文学のように政治性の強いものもあるが、そのような文学は純粋な美が、却ってテーマの妨げになる文学である。人は、作品から集中されたテーマを一つ受け取りがちであり、幾つものテーマが盛り沢山のものは、まとまりを欠いてどのテーマも中途半端に感じられてしまうものだ。そういう意味で、「菜穂子」は、メッセージ性を諦めて、純粋に小説の美しさのみを追求した、耽美的な作品といえるだろう。ただ、耽美と言っても美に酔うことがなく、庶民の感じる素朴な美しさの域に慎ましく留まっているのが、却って成功している。それは、浅間山に代表される自然の美しさに準えているのかもしれない。
2024年04月09日
「世に出る前」内角秀人著。
同人メンバーの方が、本を自費出版なさったので、読んでみた。
内角さんは、いつもは野球に関する小説を書く方だが、この小説は半分自叙伝である。半分というのは、読んでいてそのように感じるからでもあるのだが、それは日記のように、伏線にも何にもなっていない事柄が雑然と記されていたり、前後関係のあまりないような登場人物が数多く出てきて、普通に考えられるところの一般的な人生経験のように、偶発的な出来事が列挙されているからである。どこまでが創作かは判らないが、本人も自叙伝的作と言っているために、おそらく多くの部分がみずからの経験にリソースを得ているのだろう。
しかし、主人公の名前も実名ではなく、出てくる名前もどれも創作めいた奇妙な名前である。同じ地元なので、中学高校の名前も実在のものは判るが、すべて架空の学校名が使用されている。僕も、「菩提人」を書いたときに、すべて実名を外した。これは、お釈迦様に対して恐れ多いということがあったためだが、実はあとから後悔した。実名で書いた方が、リアルに描けるのだ。どのみち小説は創作なので、自叙伝にしても、学校名や地名くらいは、実名を使用した方が、リアルさが増したと思うのだが、この辺りは、登場する友達などへの気遣いかもしれない。
そのように、日記じみた生活の記録であるために、起承転結や筋の起伏がない。実際、このような人生だったのかもしれないが、人生というのは多くの人にとってあまりドラマチックではなくて、それが小説や映画などの物語が売れる原因でもあるわけで、普通の人と同じような、平凡な生活記録であるならば、そんなに読者は着かないだろうという気がする。
しかし、嘘くさい創作されたようなところもあって、新聞販売店を綺麗に辞めて新しいアルバイトで生計を立てていくところなど、そんなに計画通りにいくのだろうかと、訝しい気がするし、脚本家の小さな出版社に就職するところなど、人生そんなに上手く行くわけがなく、どう考えてもほらだ。そのように、あきらかに嘘っぽい部分があるために、どこまでが事実かが疑わしく思えて、どうも宙ぶらりんな感覚を受ける。
風見梢太郎さんの小説などでも、反原発を訴えているのに創作されているために、一部の創作された雰囲気が、全体に波及して、すべて作り物のように思われてしまって、現実との繋がりが薄く感じられるために、反原発の訴えが弱まってしまうという作品があったけども、この小説も同じことが言えて、中途半端に創作が入っているので、まさか全て作り話ではないにせよ、作者が恥を書かない程度に、作り話があちこち挿入されているのではないかと、そのような感触を受ける作品でもある。自叙伝にするのであれば、ラストの辺りに顕著な創作をもっと削って、リアリティを増すべきだし、創作として脚色するのであれば、もっと筋に起伏を与えて、ドラマチックにするべきではないかと、僕などは考えてしまう。
拙著で言えば、「癲狂恋歌」は僕と妻がモデルなのだけども、もしあのときこうであったならという仮想現実を描いたために、まったくの創作物になった。ほとんど、僕ら二人の現実とは関わりのない小説になっている。もともと、僕は自叙伝はつまらないので書きたくなかったこともあり、脚色という水準以上に、勝手に空想して創作したのだ。まえにどこかで述べたけども、自叙伝ほどつまらないものはない。自分の人生は、あまり他人に語って楽しませるような要素はないのだ。苦しい想いや恥ずかしい想いを多くしたけど、それに対して努力が報われたとか、何か華々しい成果が得られたとか、そのようなドラマチックなネタは、僕の人生には何もない。人生がドラマチックならば、あるいは自叙伝を書いたかもしれないが、現実というのは、とかく貧相なものなのだ。
そのように、どうもこのどっちつかず感が、この小説の面白さを低減させていて、そのあたりもう少し、どちらかの極に傾けられなかったのかと、悔やまれる気がする。
まあ、素直に作者の経験を語ったものだと取れば、それでいいのかもしれないのだが。
内角さんは、いつもは野球に関する小説を書く方だが、この小説は半分自叙伝である。半分というのは、読んでいてそのように感じるからでもあるのだが、それは日記のように、伏線にも何にもなっていない事柄が雑然と記されていたり、前後関係のあまりないような登場人物が数多く出てきて、普通に考えられるところの一般的な人生経験のように、偶発的な出来事が列挙されているからである。どこまでが創作かは判らないが、本人も自叙伝的作と言っているために、おそらく多くの部分がみずからの経験にリソースを得ているのだろう。
しかし、主人公の名前も実名ではなく、出てくる名前もどれも創作めいた奇妙な名前である。同じ地元なので、中学高校の名前も実在のものは判るが、すべて架空の学校名が使用されている。僕も、「菩提人」を書いたときに、すべて実名を外した。これは、お釈迦様に対して恐れ多いということがあったためだが、実はあとから後悔した。実名で書いた方が、リアルに描けるのだ。どのみち小説は創作なので、自叙伝にしても、学校名や地名くらいは、実名を使用した方が、リアルさが増したと思うのだが、この辺りは、登場する友達などへの気遣いかもしれない。
そのように、日記じみた生活の記録であるために、起承転結や筋の起伏がない。実際、このような人生だったのかもしれないが、人生というのは多くの人にとってあまりドラマチックではなくて、それが小説や映画などの物語が売れる原因でもあるわけで、普通の人と同じような、平凡な生活記録であるならば、そんなに読者は着かないだろうという気がする。
しかし、嘘くさい創作されたようなところもあって、新聞販売店を綺麗に辞めて新しいアルバイトで生計を立てていくところなど、そんなに計画通りにいくのだろうかと、訝しい気がするし、脚本家の小さな出版社に就職するところなど、人生そんなに上手く行くわけがなく、どう考えてもほらだ。そのように、あきらかに嘘っぽい部分があるために、どこまでが事実かが疑わしく思えて、どうも宙ぶらりんな感覚を受ける。
風見梢太郎さんの小説などでも、反原発を訴えているのに創作されているために、一部の創作された雰囲気が、全体に波及して、すべて作り物のように思われてしまって、現実との繋がりが薄く感じられるために、反原発の訴えが弱まってしまうという作品があったけども、この小説も同じことが言えて、中途半端に創作が入っているので、まさか全て作り話ではないにせよ、作者が恥を書かない程度に、作り話があちこち挿入されているのではないかと、そのような感触を受ける作品でもある。自叙伝にするのであれば、ラストの辺りに顕著な創作をもっと削って、リアリティを増すべきだし、創作として脚色するのであれば、もっと筋に起伏を与えて、ドラマチックにするべきではないかと、僕などは考えてしまう。
拙著で言えば、「癲狂恋歌」は僕と妻がモデルなのだけども、もしあのときこうであったならという仮想現実を描いたために、まったくの創作物になった。ほとんど、僕ら二人の現実とは関わりのない小説になっている。もともと、僕は自叙伝はつまらないので書きたくなかったこともあり、脚色という水準以上に、勝手に空想して創作したのだ。まえにどこかで述べたけども、自叙伝ほどつまらないものはない。自分の人生は、あまり他人に語って楽しませるような要素はないのだ。苦しい想いや恥ずかしい想いを多くしたけど、それに対して努力が報われたとか、何か華々しい成果が得られたとか、そのようなドラマチックなネタは、僕の人生には何もない。人生がドラマチックならば、あるいは自叙伝を書いたかもしれないが、現実というのは、とかく貧相なものなのだ。
そのように、どうもこのどっちつかず感が、この小説の面白さを低減させていて、そのあたりもう少し、どちらかの極に傾けられなかったのかと、悔やまれる気がする。
まあ、素直に作者の経験を語ったものだと取れば、それでいいのかもしれないのだが。
2024年04月01日
「彼岸先生」島田雅彦著。
島田雅彦氏の小説は初めてだったが、興味があったので読んでみた。
文体は、非常に読みやすいうえに美文だ。350ページを越える長編だが、読めたのはその所為もある。同じ美文でも、大江健三郎のような読みにくい美文ではないために、頭をそれほど使わなくても、内容が理解できるためだ。
しかし、それだけだと途中で中だるみを感じてしまうが、そのあたりも次々と話題が提供されるために、あまり苦痛がなかった。ただ、先生の日記の件りで時間が一旦止まる。この停止された時間の長いことと言ったら、かなりの苦痛である。この冗長でくどくどと先生の女たらしぶりを自慢のように披露した件りが、一番のネックである。ここまでくどくどと省略もなく書く必要があるのかと、疑問に思うほどの冗長さである。この先生の本性を示したあたりが、興味深く思える人が、本当のこの小説の理解者なのかもしれない。しかし、ここはもう少し技巧的に短く描いた方が良くはなかっただろうか?
作中小説にもなっているようなこの日記だが、ここは内容を示唆するに留めて、それを読んだ菊人の感想や引用で、間接的に述べた方が、この苦しい読書体験を読者に強いずに済ませられたのではないだろうか? そう、この部分は読むのが退屈で苦しい。読んでしまうのは、先生の狂った理由が知りたいからだ。その謎で牽引しておきながら、「それから」の章には、およそ精神病院らしからぬ精神病院が描かれていて、どのように締めるのかと思ったら、チベットとその国の人達の素晴らしさまで引っ張ってきて、先生の格を上げて終る。流れも文章も流麗だけに、このあたりのフィクション度は、彼岸先生のお株を奪ったのであろうか。
うちの同人の老宿が言っていたけど、「男は女の愛に救われる」。その通りの、情けない彼岸先生が描かれている。響子さんの仏教的に俯瞰したような悟りきった愛の解釈が無ければ、先生はただの女にだらしない変態に過ぎない。その変態を、あくまで「謎」と善意に解釈し、恋愛対象として愛し続ける響子さんというのは、彼岸先生よりもずっと絵になる人間で、僕であれば主人公はこの娘にすることだろう。僕は、あまり醜い人間を描きたくない小説家だからだ。
彼岸先生は、醜すぎる。乱倫の果てに狂気のまねごと来たら、変態も精神障害者も怒る。小説の中では、先生は不思議と怒りの対象にならない人と断ってあるが、こんな人が間近にいたら、まず僕は理屈抜きで忌み嫌う。理性がまるでないからだ。欲望のままに生きて好きかってしながら、小説家としても成功しているような、まともな苦労も重ねていないような変態野郎としか思えない。ただ、小説というのは、あまり理想的な人格を描くことを、読者に求められないのだ。
このように書くと酷評にもなってしまうが、総じた感想としては、まあまあ楽しめた作品であろうか。妻のある先生と弟子、そして自殺と来れば、漱石の「こころ」を思い出さずにはおれないが、これは漱石へのオマージュなのかもしれない。だとすれば、神格化されつつある漱石を、欲望を持った息も臭ければ糞もする生身の人間として、格を下げてまでも親しみを持てるように、貶めたような作品とでも言えるかもしれない。少なくとも、世間一般に思われているだろう、文学の薫り高さや小説家の高潔さと言うものに関して、どこぞのロッカーのようにイメージダウンさせる効果のあるものであろうか。
ただ、彼岸先生の言葉の意味としては、多摩川の彼岸のままで良かった気がする。終わりに近付くに従って仏教がかったのがわざとらしかった。
文体は、非常に読みやすいうえに美文だ。350ページを越える長編だが、読めたのはその所為もある。同じ美文でも、大江健三郎のような読みにくい美文ではないために、頭をそれほど使わなくても、内容が理解できるためだ。
しかし、それだけだと途中で中だるみを感じてしまうが、そのあたりも次々と話題が提供されるために、あまり苦痛がなかった。ただ、先生の日記の件りで時間が一旦止まる。この停止された時間の長いことと言ったら、かなりの苦痛である。この冗長でくどくどと先生の女たらしぶりを自慢のように披露した件りが、一番のネックである。ここまでくどくどと省略もなく書く必要があるのかと、疑問に思うほどの冗長さである。この先生の本性を示したあたりが、興味深く思える人が、本当のこの小説の理解者なのかもしれない。しかし、ここはもう少し技巧的に短く描いた方が良くはなかっただろうか?
作中小説にもなっているようなこの日記だが、ここは内容を示唆するに留めて、それを読んだ菊人の感想や引用で、間接的に述べた方が、この苦しい読書体験を読者に強いずに済ませられたのではないだろうか? そう、この部分は読むのが退屈で苦しい。読んでしまうのは、先生の狂った理由が知りたいからだ。その謎で牽引しておきながら、「それから」の章には、およそ精神病院らしからぬ精神病院が描かれていて、どのように締めるのかと思ったら、チベットとその国の人達の素晴らしさまで引っ張ってきて、先生の格を上げて終る。流れも文章も流麗だけに、このあたりのフィクション度は、彼岸先生のお株を奪ったのであろうか。
うちの同人の老宿が言っていたけど、「男は女の愛に救われる」。その通りの、情けない彼岸先生が描かれている。響子さんの仏教的に俯瞰したような悟りきった愛の解釈が無ければ、先生はただの女にだらしない変態に過ぎない。その変態を、あくまで「謎」と善意に解釈し、恋愛対象として愛し続ける響子さんというのは、彼岸先生よりもずっと絵になる人間で、僕であれば主人公はこの娘にすることだろう。僕は、あまり醜い人間を描きたくない小説家だからだ。
彼岸先生は、醜すぎる。乱倫の果てに狂気のまねごと来たら、変態も精神障害者も怒る。小説の中では、先生は不思議と怒りの対象にならない人と断ってあるが、こんな人が間近にいたら、まず僕は理屈抜きで忌み嫌う。理性がまるでないからだ。欲望のままに生きて好きかってしながら、小説家としても成功しているような、まともな苦労も重ねていないような変態野郎としか思えない。ただ、小説というのは、あまり理想的な人格を描くことを、読者に求められないのだ。
このように書くと酷評にもなってしまうが、総じた感想としては、まあまあ楽しめた作品であろうか。妻のある先生と弟子、そして自殺と来れば、漱石の「こころ」を思い出さずにはおれないが、これは漱石へのオマージュなのかもしれない。だとすれば、神格化されつつある漱石を、欲望を持った息も臭ければ糞もする生身の人間として、格を下げてまでも親しみを持てるように、貶めたような作品とでも言えるかもしれない。少なくとも、世間一般に思われているだろう、文学の薫り高さや小説家の高潔さと言うものに関して、どこぞのロッカーのようにイメージダウンさせる効果のあるものであろうか。
ただ、彼岸先生の言葉の意味としては、多摩川の彼岸のままで良かった気がする。終わりに近付くに従って仏教がかったのがわざとらしかった。
2024年03月15日
「星の王子さま」サン・テグジュペリ著。
勉強会のテキストとして選ばれたので、読んでみた。
それまで、この「星の王子さま」という言葉が、小説の題名であることすら知らなかったのだが、解説を読むと世界150ヶ国語くらいに翻訳された超ベストセラーなのだそうだ。なるほど、平易な文章で描かれた童話のような世界は、誰でも頭を使わずたやすく読むことができる。
たやすく読むことができるのは美点ではあるが、この小説はその分、難しい表現を避けているために、文学性を犠牲にしているところがある。ただ、それをさっ引いても、描かれる世界の詩的な要素は、小説に独自性を与えていると言える。
出だしの、蛇の絵を描く部分が、その端的な例である。大人というものをつまらないものとする取っ掛かりとして、そのような絵を理解しないことを挙げており、その喩えの奇矯さと端的さにおいて、ポエジーと象徴性を帯びている。この辺は、理屈ではなく感じることなので、受け付けない人もいるかもしれない。
そのように、小説自体とても感性的なポエジーに満ちているのだが、テーマとしてはさまざまなものを内包している。大人は、計算ばかりしていて星の王子さまを理解できないと言ったようなところは、極めて単純化されているのだが、計算を金稼ぎと取るならば、資本主義社会に対する警鐘になるし、さらに仕事をすることと取れば、社会という共同体そのものに対する問題提起に成り得る。そのような、責任と実生活に縛られない子供たちの感性の重要性を、強く感じることができる。
これに関して、小惑星で星の王子さまが出逢う数々の星の住人は、みずからの仕事に目的がないのが奇妙である。王様にしても、酔っ払いにしても、実業家にしても、地理学者にしても、行いそのものを目的にしていて、それによって富を得ようとか名声を得ようとか、そのような欲望があまり顕著でないのだ。星の王子さまは、彼らを大人として見ているが、彼らは大人ではない。みずからの生業をひたすら熟す純粋な動物のようなものだ。この星の住人たちについて、現代社会のサラリーマンと対比させて考えると、もっと自分の好きなことをして生きた方がいいのではないかとのメッセージすら受け取ることができる。
そして、最大のテーマは、「一番大切なことは目に見えない」という狐の言葉である。この言葉を継承して、星の王子さまは、自分の星の薔薇を大切に思い、主人公に夜空の星の一つにいる王子さまを大切に思わせたのだ。実は、この狐のメッセージは、この小説自体にも言えていて、文学というのは、目に見えないものなのだ。それを判りにくくするために、サン・テグジュペリは挿絵を描いたのかもしれない。そのほうが、詩的だし文学の背負うテーマが朧気になって、それすら目に見えにくいのだ。挿絵を描くことで、「文学は目に見えない」というテーマすら、目に見えにくくしたのだ。そのように考えると、とても重層的なテーマの盛られた、凝った芸術作品だなという気がするのだが、正直言うと、それほど真新しく響いたテーマでもなかった。
また、最後に、星の王子さまが倒れて死んだようになったところは、現実的に思わせてはいるが、中途半端という気もする。現実と思わせるなら、砂漠に死体を残すべきなのに、消えてしまうからだ。砂漠で見た幻とするならば、王子が星に帰っていくところも、幻想的にするべきであり、いずれにせよ、リアリストには小説自体が砂漠で錯乱した際に見た幻覚にしか思えず、そのあたり、もう少し不可思議感がほしい気がした。
しかし、読んで損はなかったと思った。
それまで、この「星の王子さま」という言葉が、小説の題名であることすら知らなかったのだが、解説を読むと世界150ヶ国語くらいに翻訳された超ベストセラーなのだそうだ。なるほど、平易な文章で描かれた童話のような世界は、誰でも頭を使わずたやすく読むことができる。
たやすく読むことができるのは美点ではあるが、この小説はその分、難しい表現を避けているために、文学性を犠牲にしているところがある。ただ、それをさっ引いても、描かれる世界の詩的な要素は、小説に独自性を与えていると言える。
出だしの、蛇の絵を描く部分が、その端的な例である。大人というものをつまらないものとする取っ掛かりとして、そのような絵を理解しないことを挙げており、その喩えの奇矯さと端的さにおいて、ポエジーと象徴性を帯びている。この辺は、理屈ではなく感じることなので、受け付けない人もいるかもしれない。
そのように、小説自体とても感性的なポエジーに満ちているのだが、テーマとしてはさまざまなものを内包している。大人は、計算ばかりしていて星の王子さまを理解できないと言ったようなところは、極めて単純化されているのだが、計算を金稼ぎと取るならば、資本主義社会に対する警鐘になるし、さらに仕事をすることと取れば、社会という共同体そのものに対する問題提起に成り得る。そのような、責任と実生活に縛られない子供たちの感性の重要性を、強く感じることができる。
これに関して、小惑星で星の王子さまが出逢う数々の星の住人は、みずからの仕事に目的がないのが奇妙である。王様にしても、酔っ払いにしても、実業家にしても、地理学者にしても、行いそのものを目的にしていて、それによって富を得ようとか名声を得ようとか、そのような欲望があまり顕著でないのだ。星の王子さまは、彼らを大人として見ているが、彼らは大人ではない。みずからの生業をひたすら熟す純粋な動物のようなものだ。この星の住人たちについて、現代社会のサラリーマンと対比させて考えると、もっと自分の好きなことをして生きた方がいいのではないかとのメッセージすら受け取ることができる。
そして、最大のテーマは、「一番大切なことは目に見えない」という狐の言葉である。この言葉を継承して、星の王子さまは、自分の星の薔薇を大切に思い、主人公に夜空の星の一つにいる王子さまを大切に思わせたのだ。実は、この狐のメッセージは、この小説自体にも言えていて、文学というのは、目に見えないものなのだ。それを判りにくくするために、サン・テグジュペリは挿絵を描いたのかもしれない。そのほうが、詩的だし文学の背負うテーマが朧気になって、それすら目に見えにくいのだ。挿絵を描くことで、「文学は目に見えない」というテーマすら、目に見えにくくしたのだ。そのように考えると、とても重層的なテーマの盛られた、凝った芸術作品だなという気がするのだが、正直言うと、それほど真新しく響いたテーマでもなかった。
また、最後に、星の王子さまが倒れて死んだようになったところは、現実的に思わせてはいるが、中途半端という気もする。現実と思わせるなら、砂漠に死体を残すべきなのに、消えてしまうからだ。砂漠で見た幻とするならば、王子が星に帰っていくところも、幻想的にするべきであり、いずれにせよ、リアリストには小説自体が砂漠で錯乱した際に見た幻覚にしか思えず、そのあたり、もう少し不可思議感がほしい気がした。
しかし、読んで損はなかったと思った。
2024年02月06日
「海を感じる時」中沢けい著。
ちょっとした縁があり、中沢氏の著書を読んでみた。
驚いたのは、主人公の名前が「中沢恵美子」であり、私小説じみていることだ。出だしの洋とともに見た海の美しさを感じさせるような詩的な描写から、自然主義的な現実を描写した小説ではないと思っていたのだが、ひょっとしたら多くの部分が体験談なのかもしれない。しかし、どこを読んでも小説世界に漂う美しさは、創作世界のそれのように感じさせる。
テーマ的には、ラストを読むまでは、ドラマチックな恋愛を知らない平凡な女の子が、運命的ロマンスのないまま男を好きになっていくというような、ある種のステレオタイプ的な一般人の女性の成り行きを描いたような小説であり、男女の愛とは何であるのかということに関して、考察を加えたくなるようなテーマが感じられるのだが、それがラストで劇的に変化する。一見毒親に見える母ではあったのだが、恵美子はその母を好いていた。典型的な親のごとく、子供の身のためよりも世間体ばかり気にするような凡庸な親だが、そのような親を持つからか、洋との間も、「生きることは、ほの暗い後ろめたさを、人々と共有することではないのか。高野は性欲をおさえられず、私は自分かわいさにウソをついた。だから、うまくいくのではないか」のような誤解の相補のような哲学で捉える。その親は、ほかの人が見たら多分、子供を愛していないだろうと思うくらい、洋に恵美子が体を許した咎を責め、暴力を働く。しかし、ラストの海岸で母の中に、恵美子は女を見、女の海を見、自分の中の女の海に、衝撃的に気付かされるのである。
筋が変化球でストンと落とされると同時に、テーマまでが激変する。やはり、恵美子の行った凡庸な恋愛もどきは、父に強く愛されていただろう母の熱い恋愛に、否定されてしまうのだ。洋との仲が、否定されてしまうのだ。そして、恵美子の中にうねる「地球で最大の容器」たる海の、黒いタール状の欲望に気付かされるのだ。
この女の海は、そのとき目の前に拡がっていた夜の海のように、恵美子親子を飲み込んで生命を奪ってしまうかも知れない死の海のイメージを投影され、女性というものは、子供を産みたいという強い本能的欲望に突き動かされているものなのかという、普通の男には想像できないような真実を突き付けてくる。つまり、洋との凡庸な恋愛もどきは、恵美子の中の女の海の本能的欲望に突き動かされたために行っていたことなのだというメッセージが、読後に抽象されてきた。
あとあと考えてみるに、この小説において、恵美子は反面教師なのではないだろうか。下宿で洋が絵を描くそばに物言わず付き添っている恵美子という描写は、非常に詩的で美しく、そのような世界も悪くはないのだと思わせておきながら、それをラストで否定してしまう。小説の中では悪役にも見える恵美子の母こそが、貞操を愛する男だけに捧げた、あるべき恋愛をなした女性の、ある種の理想像だったのではないだろうか。
このような小説を弱冠18歳で書いたというのは、早熟な神童みたいなものかもしれないが、感性というよりもむしろ悟性が優れているような気もする。「様々な問題や感情が混ざり合い、ひとつにまとまった時、頭に絵具をめちゃくちゃに混ぜ合わせた時の灰色がつまる」「人間は、様々のことがひとつひとつ別々にとらえられている間は、おそらく死ねないだろう。灰色に全て混ってしまった時に、何もかも同じに思えるものだ」。この部分の感性は若さならではだろうが、悟性はこの歳にしてはかなり鋭いものがあると思った。
そのように、最後まで読まなければこの小説のテーマや価値が判らない、作品性の高い素晴らしい作品だと感じた。最近の文学賞受賞作にはない、テーマの確かさ、小説世界の美しさ、構成の巧みさがある。今の小説ばかり読む人にも、ぜひ読んでもらいたい良作と感じた。
驚いたのは、主人公の名前が「中沢恵美子」であり、私小説じみていることだ。出だしの洋とともに見た海の美しさを感じさせるような詩的な描写から、自然主義的な現実を描写した小説ではないと思っていたのだが、ひょっとしたら多くの部分が体験談なのかもしれない。しかし、どこを読んでも小説世界に漂う美しさは、創作世界のそれのように感じさせる。
テーマ的には、ラストを読むまでは、ドラマチックな恋愛を知らない平凡な女の子が、運命的ロマンスのないまま男を好きになっていくというような、ある種のステレオタイプ的な一般人の女性の成り行きを描いたような小説であり、男女の愛とは何であるのかということに関して、考察を加えたくなるようなテーマが感じられるのだが、それがラストで劇的に変化する。一見毒親に見える母ではあったのだが、恵美子はその母を好いていた。典型的な親のごとく、子供の身のためよりも世間体ばかり気にするような凡庸な親だが、そのような親を持つからか、洋との間も、「生きることは、ほの暗い後ろめたさを、人々と共有することではないのか。高野は性欲をおさえられず、私は自分かわいさにウソをついた。だから、うまくいくのではないか」のような誤解の相補のような哲学で捉える。その親は、ほかの人が見たら多分、子供を愛していないだろうと思うくらい、洋に恵美子が体を許した咎を責め、暴力を働く。しかし、ラストの海岸で母の中に、恵美子は女を見、女の海を見、自分の中の女の海に、衝撃的に気付かされるのである。
筋が変化球でストンと落とされると同時に、テーマまでが激変する。やはり、恵美子の行った凡庸な恋愛もどきは、父に強く愛されていただろう母の熱い恋愛に、否定されてしまうのだ。洋との仲が、否定されてしまうのだ。そして、恵美子の中にうねる「地球で最大の容器」たる海の、黒いタール状の欲望に気付かされるのだ。
この女の海は、そのとき目の前に拡がっていた夜の海のように、恵美子親子を飲み込んで生命を奪ってしまうかも知れない死の海のイメージを投影され、女性というものは、子供を産みたいという強い本能的欲望に突き動かされているものなのかという、普通の男には想像できないような真実を突き付けてくる。つまり、洋との凡庸な恋愛もどきは、恵美子の中の女の海の本能的欲望に突き動かされたために行っていたことなのだというメッセージが、読後に抽象されてきた。
あとあと考えてみるに、この小説において、恵美子は反面教師なのではないだろうか。下宿で洋が絵を描くそばに物言わず付き添っている恵美子という描写は、非常に詩的で美しく、そのような世界も悪くはないのだと思わせておきながら、それをラストで否定してしまう。小説の中では悪役にも見える恵美子の母こそが、貞操を愛する男だけに捧げた、あるべき恋愛をなした女性の、ある種の理想像だったのではないだろうか。
このような小説を弱冠18歳で書いたというのは、早熟な神童みたいなものかもしれないが、感性というよりもむしろ悟性が優れているような気もする。「様々な問題や感情が混ざり合い、ひとつにまとまった時、頭に絵具をめちゃくちゃに混ぜ合わせた時の灰色がつまる」「人間は、様々のことがひとつひとつ別々にとらえられている間は、おそらく死ねないだろう。灰色に全て混ってしまった時に、何もかも同じに思えるものだ」。この部分の感性は若さならではだろうが、悟性はこの歳にしてはかなり鋭いものがあると思った。
そのように、最後まで読まなければこの小説のテーマや価値が判らない、作品性の高い素晴らしい作品だと感じた。最近の文学賞受賞作にはない、テーマの確かさ、小説世界の美しさ、構成の巧みさがある。今の小説ばかり読む人にも、ぜひ読んでもらいたい良作と感じた。
2024年02月04日
「悪の日陰」翁久允著。
地方文壇の先人として前から名前は聞いていたのだが、最近文学館で氏の展覧会があったので、その書籍を読んでみることにした。
読んでまず思うのは、校正が不充分であること。校正以前に、日本語をよく知らない人が書いた文章である。感覚的造語が多く、文法的にも小説技法的にも、未熟と言わざるを得ないところが散見される。日本語を習いたての外人が書いたら、このようになるのではないかという感じの文学である。若くに渡米したときの移民地文学と言うことだから、確かに翁氏は日本語の理解が不充分だったのかも知れない。
内容的には、登場人物を一つの駒として多数使って、さまざまな事件を面白おかしく描いた、週刊誌のゴシップネタの寄せ集めのような小説である。だから、主人公も脇役も、不倫の恋ばかりしている。恋と呼べるのか判らないような、料亭の遊女との恋愛である。彼らにとって、女性はすげ替えが利くような何でも良いようなものであり、それだから、主人公戸村のこころは、本命であるはずのお文から、アエラや秋子へと、花に舞う蝶のように飛び回る。
技法的にも、語り手の目線が一定せず、さまざまな登場人物の心境がそのまま描かれている。そうではあっても神目線ではなく、ところどころ人のこころが判らず推し量るような心境も描かれていて、要するに統一性がない。移民地では、まだ出版物も少なく小説家も稀だろうから通用しただろうけども、現代の日本文壇ではとても認められないような、文体の稚拙さが見受けられた。
それで、テーマが優れていればまだしもだが、戸村の「恋は芸術」という言葉だけ立派な哲学が語られるけども、少しも一途なところや純粋なところがなくて、女がいれば誰でも良いという感じの、性欲に突き動かされた女欲しさを「恋愛」と書いているだけで、恋愛の美しさというものがまるで描かれていない。これで彼が主張するように、「恋愛は芸術」であるというならば、芸術とはなんとも下卑たしろものだなと言わざるをえないような、粗末なテーマである。
それでも、最後まで読み遂せたのは、ある面読みやすいからであり、それは上述のように、ゴシップネタになるような派手な事件ばかりを、興味本位に描いているからではなかろうか。移民地がどのような風俗であったかは知らないが、こんなにモラルが低い場所ではないだろう。そのような下世話なネタばかり集めて描いたから、このような週刊誌の三文記事の寄せ集めのような小説になったのではなかろうか。
後半は、戸村と熊谷の話に終始するが、その戸村の心境として、「もっともっと世界が変化してくれればよい。能う限りの残酷な事件が増えるとよかろう。そうした中の自分の惨死を活動写真に映しておいて、それを自分で眺めたいような気もする」というような、ニヒリスティックとも言える哲学が語られるが、これはこの小説を書いた翁氏自身の哲学でもあったのではなかろうか。
まだ、戦前の小説とはいえ、そのような点はあまり尊いものが感じられず、翁氏のほかの小説をさらに読もうとは思えなかった。富山の地方文壇の先人の例として、頭の片隅に留めておく程度の価値しか、認められないだろうと思った。
読んでまず思うのは、校正が不充分であること。校正以前に、日本語をよく知らない人が書いた文章である。感覚的造語が多く、文法的にも小説技法的にも、未熟と言わざるを得ないところが散見される。日本語を習いたての外人が書いたら、このようになるのではないかという感じの文学である。若くに渡米したときの移民地文学と言うことだから、確かに翁氏は日本語の理解が不充分だったのかも知れない。
内容的には、登場人物を一つの駒として多数使って、さまざまな事件を面白おかしく描いた、週刊誌のゴシップネタの寄せ集めのような小説である。だから、主人公も脇役も、不倫の恋ばかりしている。恋と呼べるのか判らないような、料亭の遊女との恋愛である。彼らにとって、女性はすげ替えが利くような何でも良いようなものであり、それだから、主人公戸村のこころは、本命であるはずのお文から、アエラや秋子へと、花に舞う蝶のように飛び回る。
技法的にも、語り手の目線が一定せず、さまざまな登場人物の心境がそのまま描かれている。そうではあっても神目線ではなく、ところどころ人のこころが判らず推し量るような心境も描かれていて、要するに統一性がない。移民地では、まだ出版物も少なく小説家も稀だろうから通用しただろうけども、現代の日本文壇ではとても認められないような、文体の稚拙さが見受けられた。
それで、テーマが優れていればまだしもだが、戸村の「恋は芸術」という言葉だけ立派な哲学が語られるけども、少しも一途なところや純粋なところがなくて、女がいれば誰でも良いという感じの、性欲に突き動かされた女欲しさを「恋愛」と書いているだけで、恋愛の美しさというものがまるで描かれていない。これで彼が主張するように、「恋愛は芸術」であるというならば、芸術とはなんとも下卑たしろものだなと言わざるをえないような、粗末なテーマである。
それでも、最後まで読み遂せたのは、ある面読みやすいからであり、それは上述のように、ゴシップネタになるような派手な事件ばかりを、興味本位に描いているからではなかろうか。移民地がどのような風俗であったかは知らないが、こんなにモラルが低い場所ではないだろう。そのような下世話なネタばかり集めて描いたから、このような週刊誌の三文記事の寄せ集めのような小説になったのではなかろうか。
後半は、戸村と熊谷の話に終始するが、その戸村の心境として、「もっともっと世界が変化してくれればよい。能う限りの残酷な事件が増えるとよかろう。そうした中の自分の惨死を活動写真に映しておいて、それを自分で眺めたいような気もする」というような、ニヒリスティックとも言える哲学が語られるが、これはこの小説を書いた翁氏自身の哲学でもあったのではなかろうか。
まだ、戦前の小説とはいえ、そのような点はあまり尊いものが感じられず、翁氏のほかの小説をさらに読もうとは思えなかった。富山の地方文壇の先人の例として、頭の片隅に留めておく程度の価値しか、認められないだろうと思った。
2024年01月27日
「東京都同情塔」九段理江著。
生成AIを使用して書かれた小説ということで、初めは莫迦にしていたが、人類における生成AIのあり方的なテーマもあるというようなことを聞き、読んでみることにした。
読後、まず思ったのは、欲張りすぎということである。あれもこれも盛り込みすぎ。生成AIから始まって、犯罪者のあり方、平和とは何か、建築はどうあるべきか、その辺りまでにしておけばまだしも、自意識の発生についてのモデルの提示まで来ると、テーマが拡がりすぎて、作品として締まりがなくなってしまっている。
この自意識の発生について、言葉が鍵だとの案は、安部公房に見られるものだけども、彼の影響が色濃いのは、建築家牧名の不必要とも言える外部と内部に対する考察にも窺える。安部氏の代表作「壁」は、壁にぶち当たって八方塞がりになったときには、自身が壁になって成長していけば良いという、乱暴だが大雑把に言えばそのようなテーマの小説である。この命題に対して、僕も精神病で隔離室に閉じ込められたときに考えたことがあって、隔離室の壁を破るには、隔離室の中を外よりも素晴らしいと思える世界にして、それを世の中に広めれば良いのだという結論に達したのだけれども、それとそっくり同じ思想が、東京都同情塔なのだ。この発想は、おそらく「壁」の影響によって生まれたものであろう。
そのテーマを掘り下げるならば、牧名という建築家はもっと平凡な人にした方が引き立つのに、牧名は言葉が全てと考える小説家のような建築家である。プロの建築家のことをあまり知らないけれども、たとえば透視図から考えて、設計していく建築家がどれだけいるのだろうか? 透視図を絵画と似たようなものと考えているようだけれども、透視図は美しさは求めないのだ。ル・コルビジェの達した心境でも、「建築は住む機械」でしかない。そこは機能が何よりも優先されるべきであり、外観は二の次なのだ。外観から設計する建築家が、一流と言えるだろうか? そのようなところや、言葉に囚われて偏執的に考えるところなど、おおよそ建築家らしくなくて、どう考えても小説家のなり損ねのようでしかなく、リアリズムが欠けている。
まあ、もともと、東京オリンピックの国立競技場がザハ案で建築された異世界の話であり、リアリズムは捨てているのかもしれないけども、牧名は、建築を彫刻か何かのように履き違えた元ジャーナリストの芸術家のような人物で、こんな人実在しないなという気がした。申し訳程度に、子供の頃は数学が得意と書いてあるから、なおさら嘘くさい。
それで、その嘘くさくも個性的な建築家が活躍するために、生成AIがどうあるべきかというようなテーマは、殆んど語られないままだし、犯罪者に対して差別をしない社会という理想についても、落書きのような絵を書き殴っただけで、テーマを浅くなぞるに終ってしまっている。そのテーマは、この小説の中で中核をなしているとは思われるけども、深く掘り下げていないので、ただのSFと変らない軽さがある。
拓人に関しても、犯罪者の子供らしからず出来た人間であり、本来ならば犯罪を犯しても不思議のない、それこそホモミゼラビリスなのに、ブランド物を身につけた洗練された男であるのが、ますますもって非現実的である。牧名が読んだ本の中に、彼の母親のインタビューが掲載されているのに、偶然に街中で容姿に惹かれて、牧名が拓人をデートに誘うというこの世界の狭さは、かなり小説として面白くない。社会が狭い小説は、ちゃちである。この小説も、その点がかなり悪印象である。
牧名が、頭が悪い所為か、そのような拓人の美貌に惹かれる物質主義的嗜好の持ち主であるのも、どうにも建築家らしくなくて、人生経験や社会勉強の足りない未熟者にしか見えない。整合性が取れているとすれば、ラストで牧名が、自分の塑像が同情塔のまえに建つことを想像するところであろうか。つまり、いろいろ格好付けて正当化しているけれども、牧名の活動動機は名声欲でしかないということ。そのあたりの浅ましい欲望に関しては、無抵抗に認めてしまっていて、そこで判るのは、やはり牧名というのは、思慮の足りないイカレた女性だなというだけである。
まあ、小説は虚構だから、基本的に何を書いても良いのだけれども、もう少しテーマというものに重きを持たせて書いた方が良いのではないかと思わせる小説だった。
読後、まず思ったのは、欲張りすぎということである。あれもこれも盛り込みすぎ。生成AIから始まって、犯罪者のあり方、平和とは何か、建築はどうあるべきか、その辺りまでにしておけばまだしも、自意識の発生についてのモデルの提示まで来ると、テーマが拡がりすぎて、作品として締まりがなくなってしまっている。
この自意識の発生について、言葉が鍵だとの案は、安部公房に見られるものだけども、彼の影響が色濃いのは、建築家牧名の不必要とも言える外部と内部に対する考察にも窺える。安部氏の代表作「壁」は、壁にぶち当たって八方塞がりになったときには、自身が壁になって成長していけば良いという、乱暴だが大雑把に言えばそのようなテーマの小説である。この命題に対して、僕も精神病で隔離室に閉じ込められたときに考えたことがあって、隔離室の壁を破るには、隔離室の中を外よりも素晴らしいと思える世界にして、それを世の中に広めれば良いのだという結論に達したのだけれども、それとそっくり同じ思想が、東京都同情塔なのだ。この発想は、おそらく「壁」の影響によって生まれたものであろう。
そのテーマを掘り下げるならば、牧名という建築家はもっと平凡な人にした方が引き立つのに、牧名は言葉が全てと考える小説家のような建築家である。プロの建築家のことをあまり知らないけれども、たとえば透視図から考えて、設計していく建築家がどれだけいるのだろうか? 透視図を絵画と似たようなものと考えているようだけれども、透視図は美しさは求めないのだ。ル・コルビジェの達した心境でも、「建築は住む機械」でしかない。そこは機能が何よりも優先されるべきであり、外観は二の次なのだ。外観から設計する建築家が、一流と言えるだろうか? そのようなところや、言葉に囚われて偏執的に考えるところなど、おおよそ建築家らしくなくて、どう考えても小説家のなり損ねのようでしかなく、リアリズムが欠けている。
まあ、もともと、東京オリンピックの国立競技場がザハ案で建築された異世界の話であり、リアリズムは捨てているのかもしれないけども、牧名は、建築を彫刻か何かのように履き違えた元ジャーナリストの芸術家のような人物で、こんな人実在しないなという気がした。申し訳程度に、子供の頃は数学が得意と書いてあるから、なおさら嘘くさい。
それで、その嘘くさくも個性的な建築家が活躍するために、生成AIがどうあるべきかというようなテーマは、殆んど語られないままだし、犯罪者に対して差別をしない社会という理想についても、落書きのような絵を書き殴っただけで、テーマを浅くなぞるに終ってしまっている。そのテーマは、この小説の中で中核をなしているとは思われるけども、深く掘り下げていないので、ただのSFと変らない軽さがある。
拓人に関しても、犯罪者の子供らしからず出来た人間であり、本来ならば犯罪を犯しても不思議のない、それこそホモミゼラビリスなのに、ブランド物を身につけた洗練された男であるのが、ますますもって非現実的である。牧名が読んだ本の中に、彼の母親のインタビューが掲載されているのに、偶然に街中で容姿に惹かれて、牧名が拓人をデートに誘うというこの世界の狭さは、かなり小説として面白くない。社会が狭い小説は、ちゃちである。この小説も、その点がかなり悪印象である。
牧名が、頭が悪い所為か、そのような拓人の美貌に惹かれる物質主義的嗜好の持ち主であるのも、どうにも建築家らしくなくて、人生経験や社会勉強の足りない未熟者にしか見えない。整合性が取れているとすれば、ラストで牧名が、自分の塑像が同情塔のまえに建つことを想像するところであろうか。つまり、いろいろ格好付けて正当化しているけれども、牧名の活動動機は名声欲でしかないということ。そのあたりの浅ましい欲望に関しては、無抵抗に認めてしまっていて、そこで判るのは、やはり牧名というのは、思慮の足りないイカレた女性だなというだけである。
まあ、小説は虚構だから、基本的に何を書いても良いのだけれども、もう少しテーマというものに重きを持たせて書いた方が良いのではないかと思わせる小説だった。
2024年01月18日
「ブエノスアイレス午前零時」藤沢周著。
この著書は大分前に既に読んでいて書評も書いてあるのだが、今度同人の勉強会で取り上げることになったので、再び読むことになった。
筋はほぼ覚えていたので、ラストもそんなに衝撃を受けなかったのだけれども、藤沢氏の文体にも慣れてきたのか、随分その小説世界の美しさを感じることができた。そんなに描かれているみのやホテルが美しいわけではないのだけれども、描写されるちょっとした細部が生き生きと目の裏に浮んできてイメージしやすい上に、ところどころにカザマの脳裏に浮ぶ想念としての、若い頃の記憶であったりブエノスアイレスのローチャの想像だったりが、地の文の間にバランス良く配置されているために、リアリズムということ以上に、文学的な美しさを感じさせる。場面情景と心象風景の対比が美しいと言おうか。
二度読んでよく判ったのは、カザマは本当にミツコに惹かれて踊ったのだろうと言うことである。ミツコの「若い女のような色をしている指先」から「黒い液体を体の中に注入され」て、カザマはミツコに酔ってしまうのだ。ミツコは、ローチャでの異国の多分売春婦であろう女との夜の話を、ブラカーダに本牧埠頭のカフェで聞かされて、その話に青いイメージを持ったことに対して、判らないと言う。多分、そのように口説かれて、ブラカーダとも夜を共にしたのだろうし、売春婦という噂はその辺りから出たものだろうけれども、そのブラカーダと寝た女になりきって、カザマをブラカーダと見做して踊る。カザマも、その毒に当たって、ミツコの中に異国の売春婦を見る。二人は、ブラカーダとその女になりきって踊ったのだ。
しかし、ミツコの呆けたような「あなたは何をなさっているの? お仕事」というという問いに「温泉卵を作ってる」と、みずからのアイデンティティを主張する。そのとき、カザマはミツコを一人の淑女ミツコとして捉えて、恋をしていたのではなかろろうか? それは、ミツコに対する、前日卵事件で苛められた認知症を患っている眼の不自由な港の売春婦だった老女に対する憐れみや同情ではない、認知症になってもあるいは売女と呼ばれても女性としてのたおやかさやプライドを失っていないミツコに対する、憧れにに似た恋情なのではないだろうか。
ここにあるテーマとしては、どんなに年老いても、男は男、女は女であるということ、つまり、そのような尊厳にも成り得る性別的「らしさ」を失わないことの美しさ、そのようなものではなかろうか。人間を美しく色づけるのが恋愛であるとするならば、歳を取っても若い男と対等に、ダンスを踊ることができるというのは、非常に美しい歳の取り方ではなかろうか。
そして、そのような性別的尊厳は、認知症が発症しても、失わずに生きることができるのだという、老人たちに対する敬愛の念が、この小説には込められているような気がする。大体が、カザマは初めからミツコのことを気味悪がってはいたにせよ、やっていることは労りであり介護である。ガザマは、饒舌体で書かれた思いとは裏腹に、とても老人に優しい青年であり、それが実のところの彼自身の本音だろうと思われる。それが端的に出ているのが、ミツコへの賭けであり、多くの人の予想に反して、ミツコがダンスパーティに出席するほうに賭けた。それは、カザマの本性が善良である証拠になっているのだ。
小説に一番大切なのは、精神ではないだろうか。そういう意味で、この小説は優れている作品だと思った。
筋はほぼ覚えていたので、ラストもそんなに衝撃を受けなかったのだけれども、藤沢氏の文体にも慣れてきたのか、随分その小説世界の美しさを感じることができた。そんなに描かれているみのやホテルが美しいわけではないのだけれども、描写されるちょっとした細部が生き生きと目の裏に浮んできてイメージしやすい上に、ところどころにカザマの脳裏に浮ぶ想念としての、若い頃の記憶であったりブエノスアイレスのローチャの想像だったりが、地の文の間にバランス良く配置されているために、リアリズムということ以上に、文学的な美しさを感じさせる。場面情景と心象風景の対比が美しいと言おうか。
二度読んでよく判ったのは、カザマは本当にミツコに惹かれて踊ったのだろうと言うことである。ミツコの「若い女のような色をしている指先」から「黒い液体を体の中に注入され」て、カザマはミツコに酔ってしまうのだ。ミツコは、ローチャでの異国の多分売春婦であろう女との夜の話を、ブラカーダに本牧埠頭のカフェで聞かされて、その話に青いイメージを持ったことに対して、判らないと言う。多分、そのように口説かれて、ブラカーダとも夜を共にしたのだろうし、売春婦という噂はその辺りから出たものだろうけれども、そのブラカーダと寝た女になりきって、カザマをブラカーダと見做して踊る。カザマも、その毒に当たって、ミツコの中に異国の売春婦を見る。二人は、ブラカーダとその女になりきって踊ったのだ。
しかし、ミツコの呆けたような「あなたは何をなさっているの? お仕事」というという問いに「温泉卵を作ってる」と、みずからのアイデンティティを主張する。そのとき、カザマはミツコを一人の淑女ミツコとして捉えて、恋をしていたのではなかろろうか? それは、ミツコに対する、前日卵事件で苛められた認知症を患っている眼の不自由な港の売春婦だった老女に対する憐れみや同情ではない、認知症になってもあるいは売女と呼ばれても女性としてのたおやかさやプライドを失っていないミツコに対する、憧れにに似た恋情なのではないだろうか。
ここにあるテーマとしては、どんなに年老いても、男は男、女は女であるということ、つまり、そのような尊厳にも成り得る性別的「らしさ」を失わないことの美しさ、そのようなものではなかろうか。人間を美しく色づけるのが恋愛であるとするならば、歳を取っても若い男と対等に、ダンスを踊ることができるというのは、非常に美しい歳の取り方ではなかろうか。
そして、そのような性別的尊厳は、認知症が発症しても、失わずに生きることができるのだという、老人たちに対する敬愛の念が、この小説には込められているような気がする。大体が、カザマは初めからミツコのことを気味悪がってはいたにせよ、やっていることは労りであり介護である。ガザマは、饒舌体で書かれた思いとは裏腹に、とても老人に優しい青年であり、それが実のところの彼自身の本音だろうと思われる。それが端的に出ているのが、ミツコへの賭けであり、多くの人の予想に反して、ミツコがダンスパーティに出席するほうに賭けた。それは、カザマの本性が善良である証拠になっているのだ。
小説に一番大切なのは、精神ではないだろうか。そういう意味で、この小説は優れている作品だと思った。