2018年10月13日

「太陽の塔」関根光才監督。

 田舎の富山では上映しないので、隣県金沢のイオンシネマまで、愛車かっ飛ばしてこの映画を観に行った。
 土曜日なのにがら空きで、8番スクリーンは初め私一人だけだった。しかし、始まる直前になって、ひとりのオッサンが、この広い劇場のどこにでも座れるものを、よりによって私の席一つ空けた隣に、あからさまに嫌々オーラを発散しつつ座った。こっちもいやだったし、そんなに嫌ならほかのところ座れよ、と言いたくなったが、座席指定なので受付の姉ちゃんのおそらくマニュアル通りのお勧めの席と言うことで、通路下の真ん中の席に、勧められるままに座ったのだろう。その臨機応変でないところや神経質な人嫌いっぽいところがとても嫌な感じで、鼻水も出ていないのに、映画の良い場面で、鼻を啜ってばかりいるので、イライラして集中出来なかった。
 なぜ、映画の感想にこういうことを書くかと言えば、内容と関係が深いからで、岡本太郎さんはパリ留学時代に、ジョルジュ・バタイユに影響を受けてのめり込んでいったらしい。これはどういうことかというと、コメンテーターに言わせれば、その時点でただの絵描きでは無くなったということらしい。ジョルジュ・バタイユというのは、詳しいことは知らないが、「低次唯物論」を唱えた人で、美しい物ではなくて醜いもの、この汚らしい「クソ」が重要なのだ、ということを言ったらしい。だから、思想的美しさを追い求めず、いつも太郎さんの芸術は、現実に根付いていると言えるのだろう。
 太陽の塔は、「人類の進歩と調和」をテーマにした大阪万博のそのテーマ展示の塔であった。しかし、常日頃体制に刃向かって活動してきた太郎さんを、体制側が起用したのは明らかに矛盾を孕んでいた。体制側としては、どうにかして世界に「日本」を売り込むための「賭け」であった。しかし、著書から分かるように、岡本太郎さんは「対立」を保持しつつ互いに衝突するエネルギーが「芸術」のパワーとして爆発するという考え方の持ち主である。その価値観が人生のどの段階で形成されたか判らないが、私はフランス留学時のバタイユに影響を受けた時期と取りたい。醜いものを大切にして、そこに根付いて美しいものを創造しようとしたその「美」「醜」の二極対立が、岡本太郎さんの「芸術」の基礎ではないのだろうか。
 そう考えるならば、反体制側の異分子を体制にぶつけた体制側は、戦う前からすでに太郎さんに飲まれてしまっていたと言うことに成る。なので、太陽の塔は、有名建築家・丹羽健三の誇る空中都市に穴を空けて、圧倒的勝利を誇ることになるのだ。その証拠に、万博の後、ほかのパビリオンが除却されていく中、太陽の塔だけは残されて公園の中に佇んだままだ。「怖くて取り壊せなかった」のだと、コメンテーターは推理していた。ここには、岡本太郎さんの意志を越えた、神がかった運命すら感じられ、その偉大さには畏怖の念すら禁じ得ない。
 太陽の塔の裏側の黒い太陽は、どうしても眼を背けられない「原爆投下」の広島や長崎の犠牲のことを、喚起させうるものであった。つまり、太陽とは原子力のことなのである。私が、じかに太陽の塔を観に行ったときには、この部分が全く見抜けなかった。「原子力」=「太陽」の図式は、太陽の塔の重要な一側面である。科学技術の発達の中に「人類の進歩と調和」を描いた大阪万博で、太陽の塔は縄文式の土偶を想起させるかのような、シャーマニスティックな風貌の、明らかにテーマに対立的なモニュメントであった。つまり、「反科学」的思想の象徴なのだ。だから、内部の「生命の樹」には、動物的な進化があっても、科学技術的なものは何一つ混じり込んでいない。岡本太郎さん自身言うように、あの樹の形は血管を意味しているので、あのモニュメントは巨大な肉体なのだ。
 この映画の思想的なところは、この反科学、反核を、311の反省と反原発にまで展開していったことである。ソ連はチェルノブイリの6年後に崩壊した。なのに日本は、原爆を二度も投下されても、原発開発に着手し、福島の原発事故の後すら、未だに原発を再稼働している。この政府の愚昧さと国民の平和呆けの有様は、どこの地獄民の真似をしているつもりなのか? ここまで愚かしい政府と国民の眼を、どうしたら目覚めさすことが出来るのか。
 ただ、一つ解答があるとすれば、映画中にもあるように、科学技術の発展やその道筋は、人類のコントロールを外れ、神話的偶然の支配下にあると言うことである。映画は、最後に、この巨大モニュメントが、曼荼羅を表わしていて、過現当来の人類への捧げ物であるという示唆に行き着いているが、それは映画監督の一つの祈りであり、独自の解釈として捉えられるものである。曼荼羅を引き出すために、南方熊楠を登場させるのは、あきらかに監督の個人的解釈であろう。しかし、それによって解釈が華厳経にまで拡がるのは、ジョルジュ・バタイユの存在があるために、無理の無いところかも知れない。
 監督の解釈に一つ注文を付けるとすれば、私はこの巨大モニュメントは、太郎さん自身が少なからず入っているのではないか、と思う点である。塔の建設中、もし塔が出来なかったら、太郎さん自身がここに手を広げて立つのだ、と言っていたらしい。岡本太郎さんは、あくまで、体制の対立項として、反科学至上主義の象徴して、それよりもなによりも自己表現として、太陽の塔を設計したと私には思われてならない。
 ともすれば、岡本太郎さんは神がかってあの塔を作成したのだと言う人もいるが、私はそうは思わない。太郎さんでなければ出来なかった巨大芸術として、太陽の塔があるのである。
 映画には、渋谷の「明日の神話」という壁画も紹介されている。太郎さんの巨大ストゥーパともいえる太陽の塔を、芸術の科学からの勝利の象徴として取りたくなる映画作品であった。
posted by Pearsword at 17:34| 富山 ☁| Comment(2) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年10月09日

第五十五回文藝賞、落選。

 結果は判りきっていたことではあったが、この目で確認しなくてはならぬと、文藝冬号を地元の書店で買ってきた。
 すると、驚く勿れ、我が同人メンバーの藍崎万里子さんの「Nという山奥」という作品が、第三次選考を通っていた。文藝賞は、北日本文学賞などと違って、確実にプロへの登竜門の文学賞なので、藍崎さんはプロに一歩近付いたことになる。
 実を言うと、この知らせは私を複雑に懊悩させ失意の念を抱かせた。私は、藍崎さんの小説は結構好きだし、藍崎さんの「アマプレベス」シリーズの完成を応援していて、彼女を尊敬をもしているのだが、小説の質では彼女に負けているつもりは無かった。しかし、実際、僕の「癲狂恋歌」は歯牙にも掛けられず、ひとり「Nという山奥」だけ、選考に残った。私のうぬぼれといえばそれまでなのだが、この知らせは私のモチベーションを、一時的に低下させてしまった。なぜなら、河出書房新社の編集者に公正さが欠如しているように思われたからである。あまりにも悲痛だったので、自分でも莫迦丸出しだとは思いつつ、暴挙を止められなかった。つまり、お便りメールフォームが開いていて、しかも私がとても憧れている小説家、柴崎友香さんに「癲狂恋歌」の文書を、初めだけでも読んでくださいと、送りつけてしまったのだ。こんなことをやるから、よけい受賞から遠ざかっていってしまうのだろうとは自分でも思うのだが、憤りのやり場がなく止められなかった。
 しかし、冷静に考えてみると、アマゾンPODでも、藍崎さんの小説は飛ぶように売れているのに拘わらず、僕の小説は年に数冊出るだけだし、やはり客観的に見て、小説家の才能が認められているのは、藍崎さんの方なのであろう。私の読者は、友達とか義理で読んでくれる人ばかりで、本当に私の文章や小説が好きで読んでくれている人は、殆んどいないのではないだろうか。
 おりしも、文フリでお知り合いになった織作雨さんから、小説本が届いた。早速目にしたら、この鮮明な情景描写には、眼が醒める思いがした。情景描写は得意な方だと思っていたが、私などまだまだ技術もこころも眼差しも、なにもかも稚拙なのだと思わずにはおられなかった。要するに、書き慣れると自惚れが溜まっていくということなのかな、と思ったりもし、自戒の念を強く思うところであった。
 仏教を持ち出すのは、かなり矛盾しているのだが、五欲のうちの一つが名声欲である。これが強すぎると浅ましいことになってしまうのだろう。賞など求めるものではないのか、しかし受賞しなければ誰も読んでくれず、芸術の意味合いが薄れていってしまう。岡本太郎さんの言うように、「才能なんてない方がいい。才能なんて勝手にしやがれだ。才能のある者だけがこの世で偉いんじゃない」「才能のあるなしにかかわらず、自分として純粋に生きることが、人間の本当の生き方だ」というのが、今の私には一番教訓になる言葉だろう。しかし、この言葉は決して甘い慰めではない。「才能」を認めず「自分として純粋に生きる」ことが、どれだけ厳しいことか、それは岡本さんの生き様を見れば、瞭然とするだろう。
 ともすれば、「才能」や「名声」は、資格か何かのように、持っていると驕ったり偉ぶったりしがちだ。岡本さんはそういうことの弊害を仰っているのだ。そんな水戸黄門みたいな紋所は捨て去って、自で闘えと。その方が、どれだけ激しく純粋で厳しい人生か、それは筆舌に尽くしがたいだろう。
 いつまでも、素人の文筆愛好家でいたほうが、辛いけども良いものを書いていけるのかもしれない。
posted by Pearsword at 19:41| 富山 ☀| Comment(0) | 創作 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年09月24日

第124回文學界新人賞、応募。

 退院して創作を再開し始めてから早8年経った。その間に書いてきた小説は、「ラストデート(『終わりし夕べの果てに』改題)」「無形の子供」「隠遁の小部屋」「花火のあと」「虹の雨露」「菩提人」「作られた精神」「飛梅」「空仏」「画餅点心」「仏化の劫火」「幸せの断面」「孤独な恋人」「好き病み」「江面月明」「心跛」「癲狂恋歌」と17作に及ぶ。一年に二作のペースは速いのか遅いのか、しかしこうして並べてみると、よくも書き上げたものだなと、すべての作品に愛着が湧いてくる。
 今年で9年目、大体は10年書き続ければ結果が出てくるという俗説がある。そろそろ結果が出てきても良いかもしれない。
 現在、北日本文学賞応募作と今日投函してきた文學界新人賞応募作を併せれば、9年で19作書いたことになる。都合、今までまともな作品として遺っているものは、23作になる。
 しかし、今回の応募作もかなり完成させるのに工夫した。描いてあるものがシュールレアリスティックであるがために、何分にも枚数が稼げない。何故なら、抽象的であるために確たる主体がなくて、思考も台詞も殆んどないからである。風景描写に終始するため、ただの意味の無い映像動画の描写に堕しがちだ。そうさせないために、事物に象徴性を持たせて描こうと思ったが、これがどうも上手く行かない。結局は、私の哲学の根幹を成す仏教に依拠せざるを得なくなり、またまた中途半端な仏教哲学が開陳されているのである。
 なので、見掛けは斬新かも知れないが、あまり思想的には新しいものが描けた気がしていない。別に思想家ではないのだから、必ずしも新奇な思想に満ちていなければならないというものでもないのだが、もう少しスマートに書けたら大分可能性が高まったのではないかとも思う。
 しかし、現在の私のベストを尽くしたアブストラクト小説なので、今後この類いの小説を書くときには、もう少しベターなものを創作するように心掛けようと思うものである。
 枚数はギリギリ70枚を越えた。まあ、長ければ良いというものではないので、ギリギリでも良いものは良いと判断される。刃が立たないかも知れないが、これで斬り掛かってみた。文學界を斬り取るには幼稚すぎるかも知れないが、これでも渾身の力を込めたのだ。評価されなければそれまで。せめて一次選考にでも通らないか、それだけを祈っている。
 今度は、来年三月締切りの文藝賞を狙って、また書き始めようと思う。じつは既に少し書いているのだが、割合普通の小説に仕上がりそうである。映画「寝ても覚めても」が痛く感動的だったので、その原作たる小説に憧憬の念を抱きつつの執筆になるが、そういうのも一つの成長するための環境として、必要なものなのかも知れない。良い作品を多く読んで、その影響を受けながら自分の個性を突き出していくところに、新しい芸術作品が生まれ出る余地があるというものである。
 いつかは克ち取りたい商業文学賞なのである。
 
posted by Pearsword at 16:04| 富山 ☔| Comment(2) | 創作 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年09月16日

「寝ても覚めても」濱口竜介監督。

 かなり久しぶりの映画鑑賞だったが、原作が好きだったので行ってきた。
 しかし、原作とかなり設定もディテールもデフォルメされていて、原作の良いところが再現されていない部分があった。しかし、しっかりとテーマは蹉過しておらず、原作の訴えかけるテーマを強く叩き付けてくるので、良い映画だったろうと思う。これを観て思ったのは、小説と映画は、それぞれ別作品であるということである。同じ画因を描いても、画家によって異なる絵画になるのと同じく、同じテーマで描いても、柴崎友香さんと濱口竜介監督では、別物の芸術作品になると言うことであろうか。
 僕は、「好き病み」という小説を書いているが、これは友達の実体験のラブストーリーをデフォルメして書いたもので、かなり実話から修飾を施した作品になっているのだが、それと同じことが映画「寝ても覚めても」に言える。忠実に柴崎友香さんのストーリーを辿って作られたならば、ここまで生き生きとした作品にはならなかったであろう。
 小説では、タワーの展望台での運命的邂逅で麦と出逢っているが、それも映画では完全に別のものに成っている。いきなり名前を訊いて麦がキスをするあたり、なんとも元キャラの性質をより極端に際立たせたような感じで、上手くいった演出と言わねば成るまい。出だしは、通天閣に国立国際美術館が映って、親しみやすい大阪の風景が描き出されていて、インパクトが大きい。ここで、まずぐっと観衆の眼を引くことに成功している。
 岡崎の親が家主のアパートでの日々も、小説よりは所帯じみていて、少しイメージが崩れたが、春代のキャラクターは逆に生き生きしていて、小説よりも好感が持てた。麦は、数ヶ月付き合っただけで、朝子の前から姿を消すが、その二年後、東京でウニミラクルという喫茶店(ここも原作を単純化したところ)で働くうちに、亮平に出逢ったときの、なかなか亮平を受け入れようとしない複雑な朝子の心情が、映画ならではの解釈になっていて、それがエンディングの、亮平がなかなか朝子を許そうとしないシーンに呼応していて、監督ならではの人間観がうまく表現されている。
 小説では、麦との駆け落ちは、和歌山から九州になっているが、映画ではまるで逆方向の北海道である。しかも、「この人は亮平じゃない!」とはっと気付いて、ふたたび亮平のもとに帰ろうと正気に戻る契機が、小説ではメールの麦の写真であったのに対し、映画ではその「亮平を捨てたから朝子とは縁を切る」という連絡が、直接的契機になっていなくて、高速道路の上に窓から携帯を投げ捨てるまでやらせているところが、少し失敗と言えば失敗であろう。映画では、麦が途中の東北で、海を見たくなって高速を下りて、目覚めた朝子にキスしたところで、なんとなく気が失せて、「亮平のもとに帰らなきゃいけない」と朝子に言わせている。そこのはっと気付く驚愕が、この映画には抜けていたが、上述のように、麦が去って行った後に、なかなか亮平を受け入れられなかったぶん、裏切った後の許されるまでの切なさや努力が、色濃く演出されていて、なかなか素晴らしい仕上がりとなっていた。
 最後、映画版では亮平は、「一生信じられへんと思う」と朝子に対して言うが、それでも朝子は「川の水が綺麗」と言って、二人の仲に希望の光を見るようなことを言う。ラストは意味深だが、部屋に入れた以上は亮平は朝子を許したのであろうし、一生信じられないだろうとは口では言いつつも、二人の仲を容認したのではないかと、私は取りたい。その辺りの、亮平の気持ちや朝子を許すかどうかを読者に委ねるところは、映画にも忠実に再現されていて、テーマを飽くまでも外していない名画だと思った。
 男と女は、相手の何処を好きになって、恋愛に陥るのだろうか……、その根源的テーマが味わえる、いい作品である。 
posted by Pearsword at 08:46| 富山 ☔| Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年09月13日

太陽の塔、内部公開。

 大阪に行ったついでに、万博記念公園に行ってきた。万博記念公園はこれで二回目になるが、今回は太陽の塔の太陽の塔の期間限定内部公開ということもあって、もう一度観に行かねばと思って、無理矢理有給休暇を取って、観に行ったのだ。予約制になっていたので、七月くらいにとっても九月の月曜日にしか取れなかった。さすが、岡本太郎は知名度が高いのだ。
DSCN0159.JPG 去年行ったときは、その大きい姿に驚いたが、内部公開の準備の所為か、柵がしてあって近くまで立ち寄れなかった。それが、今回は、後から入場出来るようになっていたので、近くに行くどころか、内部まで見ることが出来たのだった。そのため、当初の「太陽の塔に触りたい」という目的を忘れてしまって、内部を見学して終ってしまった。
 もとより、遠くから見る限りでは、抱きつくなどスキンシップを楽しめそうな気もするが、タワー並みに大きいので、触るというより建築物の中に入って歩いて行くという感じなので、イメージが当初とは全く異なったために、忘れてしまったと言うこともある。しかし、中に入って楽しむと言うことは、スキンシップよりも親密な関係を結べるような気がして、岡本太郎さんにまた少しより親近感を覚えることが出来た。
 私は、以前、彫刻家の小説を書こうとして、彫刻家の事務所にインタビューに行ったことがあった。そのときにした質問の一つに、彫刻の表面と内部は密接に関わり合っていると思うが、表面に滲み出させるために、彫刻の内部を充実させることがあるのか、と言ったような内容のものがあった。その彫刻家は、彫刻は結局は、雌型を作って雄型にブロンズを流し込むだけなので、中味はあまり関係ないと仰って、当時の理想多き私を失望させたのだが、太陽の塔の内部公開はそれを思い起こさせた。
 太陽の塔の内部は、まず「地底の太陽」がお出迎えする。その流線型にレリーフを刻まれた顔のような形象は、まさに地面の胎蔵を思わせる激しさの孕みを感じさせるのだ。そのゾーンを抜けると、太陽の塔上部に向かって、「いのちの木」が伸びている。地面近くに、ラッパムシなどのプランクトンのような原生生物の彫刻があり、それが上に登るにつれ、原生魚類、恐竜、哺乳類、類人猿、人間と繋がって、進化の過程をたどれるようになっているのだ。太陽とは、進化を育むものであるという、オーソドックスでありながらダイナミックで壮大なテーマが、描かれた巨大なモニュメントなのである。
 案内の女性に訊くと、岡本さんは、あくまでもこの塔の設計や計画をしたのであって、各々の彫刻は職人さんによるものだと言うことである。進化の過程の「いのちの木」もそうだが、建物内部に取り付けられた鱗状の反響板など、非常に左脳的に設計されたモニュメントなのだ。岡本太郎さんというと、感性ばかりが持て囃されているような感が無いでもないが、やはりどう考えても知性が豊かで、理知的であったと言えるのである。
 塔の内部を充実させることが、外部にいかなる影響を与えうるのか、それを岡本さんが考えていなかったわけはなく、内部を充実させることで外観をより輝かせるように、心身一如的にこのモニュメントを設計されたのであろうと思われる。実際、外見だけで中味を想像出来る眼力のある鑑賞者は皆無であろうが、中味と外見はやはり密接に関係を持っていると言えるであろう。
 今後、内部公開はしばらく無いであろうから、見ておいて全くありがたい限りの太陽の塔内部であった。
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2018年09月10日

第六回文学フリマ大阪。

84B52E48-71C3-43D0-8FC1-B41D8FB23CE3.jpeg 今回は、地震と台風の被害がどう影響するか、非常に懸念された文学フリマであったが、予定通り出店410ブースで開催された。うちら無刀会は、島の中央のアンソロジーの場所にいたが、たまたま両隣が空席だった。
しかし、めげずにブース設営をして、「6」「飛梅」「仏化の劫火」という拙著と、「アマプレベス」「ベートーヴェン交響曲『幻影』」という藍崎万里子著のものと、同人誌「空華」を並べた。
まあ、机が狭くてなかなか並べるのが大変だったが、何とかギチギチに並べて、ポップも立ててブース設営をした。
始めの一時間は、ほぼ全く売れなかったが、だんだん調子が出てきて、結局ブース販売では15冊売れた。お疲れ様会で売ったのと併せて、18冊の売り上げになった。過去最高を更新できたので、よく頑張ったとすべきだろう。
今回は、藍崎万里子さんのアマプレベスシリーズが多く売れ、これらのは本は長編で分厚く単価も高いので、お陰様でかなり同人会計が潤った。
私の書物は、どれもこれも単価が安い癖して売れないので、あまり会計に貢献していないところがある。私も、もう少し大長編を書くべきだろうか、などか血迷ったことを思わないではない。
今回の文フリ大阪は、OMMビルだったが、地下鉄から屋根付きで移動出来る利便性もあり、会場のアクセスも新大阪駅から近くて、とても便利な感触を受けた。今後も、この場所で開催してもらいたく思う。
災害による暗い雰囲気を、少しでも払拭出来たらありがたいと思った。
帰ったら、文學界新人賞の応募が待っている。そのあとは、文フリ東京もある。
忙しいがなかなか景気は良くならず、いたずらに空転している無刀会であった。

posted by Pearsword at 17:59| 富山 ☔| Comment(0) | 創作 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年09月05日

第六回文フリ大阪まで、あと4日!!

 昨日の台風で、大阪の街は水没してしまうのではないかと大層心配したのだが、何の連絡も無いところをみると、無事文フリ大阪は開かれるようで、何よりである。
 今度の文フリ大阪は、いつも通り「アンソロジー」で出すのだが、新刊は拙著「6」だけになる。「6」は、「6」が体験した理想型の「6」の崩壊を通じて、「6」が体得した生き様を「6」自らが語るという、寺の住職の夢の話からなる小説である。このように書くと、いかにも莫迦げた小説のように思われるかも知れないが、自分ではなかなか気に入っている小品である。織田作之助賞の第一次選考を通った作品だが、今回の版は、それに少し手を加えて、エピローグを付けたものである。
 「アンソロジー」は、第四回文フリ金沢に持っていった「空華第七号」が最新刊だが、私の作品は「孤独な恋人」である。これは186枚だったので、第六号と二分割掲載したため、第七号だけでは小説の全体が読めない。私としても全部読んで戴きたいので、六号と七号はセットで売ろうと思う。しかし、七号には藍崎万里子著「サリエリの庭」が掲載されており、これはアマゾンキンドルの人気作だけに、紙本が格安で手に入る今回の文フリは、藍崎万里子さんの作品を読みたい方には、ぜひ出向いて戴きたいイベントである。
 そのほかは、拙著の「飛梅」「仏化の劫火」ほか、藍崎万里子さんの「アマプレベス」「ベートーヴェン交響曲『幻影』」なども格安で頒布している。どの本も、アマゾンで購入可能だが、アマゾンで買うより割安で手に入るので、この機会に、皆様にはぜひ、無刀会の小説を手にとって戴きたく思うものである。
 「孤独な恋人」は、最近問題になっている少年少女による殺人事件を題材にした作品の類いである。群像新人賞に出したが、歯牙にも掛けられなかったわけだが、自分でも瑕疵が見えている作品ではある。方言がわざとらしいし、登場人物のキャラがぶれている。テーマは重苦しく問題提起するに足るヘヴィーなものだが、必ずしもそのテーマにうまく解答を与えられたとは言いがたい。読んでくれた大学の同級生の感想によれば、すべてが「義の人」で描かれていて、エゴイスティックな人間の多いこの世の中を、うまく描けていないというような感想だった。私が描くから、どうしても救いは仏様に委ねてしまうのだが、殺人犯は必ずしも救われているとは言いがたく、なんとも中途半端な結末になっている。
 「サリエリの庭」は、私が読んだ限りでは、映画「アマデウス」のイメージで、サリエリが晩年閉じ込められていた精神病院での、サリエリの最期に救いを与えた作品である。実際のサリエリがどのような死を迎えたのかは、誰にも判らないことではあるが、藍崎万里子さんの手により、サリエリの死に天国の救いを与えた思い遣りある作品である。サリエリは、モーツァルトを殺したという妄想に駆られて、自殺しようとして精神病院に入れられるわけだが、その妄想から上手い具合に救い出している。なので、なかなかの感動作である。
 なお、第六号には、「孤独な恋人(前編)」のほかは、藍崎万里子さんの「はっちゃんが行く」がお勧めである。これは、精神病に罹ったお笑い芸人の話で、なかなかテンポの良い前向きな小説である。文フリ大阪の「無刀会ブース」に御来店のお客様には、ぜひ六号と七号をセットで御購入戴きたく、お勧めする次第である。
posted by Pearsword at 08:43| 富山 ☁| Comment(0) | 創作 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月30日

第五十五回文藝賞、発表。

 今更書くことではないが、七月くらいまでに何の知らせも来なかったので、第一次選考も通っていないのは判りきっていた。なので、どんな作品が受賞になるかが、気掛かりだったのだが、二名の作品の同時受賞になった。二人とも東北出身らしい。
 http://www.kawade.co.jp/news/2018/08/55-2.html
 読んでみないとどんな作品か判らないが、紹介文を見る限りでは、日上秀之さんの「はんぷくするもの」は、東日本大震災によって作られた仮設住宅を舞台にしている上に「生の倫理を根源的に問う」という、とても興味をそそられる作品である。また、山野辺太郎さんの「いつか深い穴に落ちるまで」は、日本からブラジルまで穴を掘削する国家プロジェクトという非常に莫迦げたアイディアを使って、日本の社会システムを描くという教養なくしては書けない、これまたとても興味をそそられる作品である。
 私の作品が弱いのは、まずアイデアが貧相であることである。受賞作と比べることは、莫迦げているかもしれないが、私の応募作「癲狂恋歌」は、狂人同士の恋愛物語を書きながら、みずからも統合失調症を発症してしまう女性と、同じく統合失調症を発症しつつも上京して病院に通いながら大学を卒業した男性との、恋愛ストーリーである。アイデア的には、もう一拈り二拈りくらい必要だし、描いたつもりだったけども、統合失調症の患者の苦しみが今一、切実に描けていないところが、非常に弱いところである。
 とりあえず、必ず10月6日に文藝冬号は買うつもりだが、自分に何が足りないとか考えるより、もう少し飛び抜けたものを書くような努力をした方が良いのではないかとも思ったりもする。
 ツイッターでは、受賞作に対する批判や芥川賞そのものに対する批判をしてしまっているが、そういうのは少しも相手にされない私のような愚劣作家の僻みでしかなく、一にも二にも、私の小説は、スケールが小さいしインパクトに欠ける。もっと、何でも良いから、読者のこころに力強く訴え抜くものを書かなければ、永遠に受賞は無理だろう。
 そういう意味で、第56回の文藝賞に書くものは、もう少しインパクトのあるものを目指してみようと思う。いつもはプロットをろくに錬らない描き方をしていたが、なにか遣り方を変えなければ、似たような結果になると思うので、プロットは今まで通り大筋を決める程度にして、書きながらの「運動性」による臨場感を持たせつつ、そこにどでかいアイデアをガツーンと入れてやろうかと、思ってみたりする。しかし、この中年の呆け掛かった頭で考えつくアイデアと言ったら、大したものはないような気もして、余程錬らないと拈り出ないような気がする。
 いずれにせよ、後悔のないよう全身全霊で、次回作を創作しようと思う。
posted by Pearsword at 18:52| 富山 ☔| Comment(0) | 創作 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月23日

本のカバー付け。

 私は、自分の小説を書籍化するときに、表紙は白黒で簡素に印刷し、その上にカバーを付けることにしている。
 なぜ、カバーに拘るかと言えば、その方が見映えがするからである。むろん、アマゾンPODのように、ペーパーバック状にPP加工のカラーデザイン表紙にすると、印刷所で全てやってくれるから、楽と言えば楽なのだが、カバーが付いた本の方が、私は個人的に好きなのである。
 画像ソフトで、塗り足しを付けて印刷し、それをカラーコピーしてから裁断する。カラーコピーは、良い塩梅に艶が出るので、それなりの出来映えになる。ただ、手作りのカバーゆえ、折り目も何も付いていないため、自分で上手く合せて折らねばならない。背表紙を合せて折るようにすると上手く行く。
 裁断も、うかうかしていてはズレてしまうのだが、画像ソフトであらかじめ、断ちトンボになる線を入れておくのだ。それでも、少し小さめになったりして、なかなかピッタリは行かないが、それも手作り感が出て良いかもしれぬとて、お茶を濁しておこう。
 一冊一冊折っていくのは、とても大変なのだが、ちょっと出来た暇など、読書する気分でもなくパソコンを付けるのもうざったいときなど、つまつま折っていけばやがて出店時に持っていくぶんは、折り終ってしまう。気を紛らわすには、丁度の作業である。
 裁断は、カーリルのディスクカッターを使用しているため、重ね切りはせいぜい10枚が限度だが、それでも充分事足りる。ベストセラーになって何百冊も売れるようになれば話は別だが、こと私の作品に関して言えば、そんなことはあり得ない。
 カバーデザインは、いまのところ、一人のデザイナーの方にお願いしているが、「鞭と人参」を書籍化しようとしたところ、そのカバーデザインをお願いしたら、試行錯誤はして戴けたのだが、結局上手く描けないから辞めさせてくれないかと相談があり、中止した。そんな難しく考えなくても良かったのだが、「シュールレアリスティック」に描いて欲しいといった注文を気にしすぎてのことか、なかなか安易には描いてくれなかった。そんな難しい絵でもないのだが、人馬が下手をすると漫画チックになってしまうのと、注文の付け方がやや難しかったためであろうか。
 誰も描いてくれそうに無いので、何か別の表紙を付けねばならず、ココナラやスキマなどでは、アニメチックな絵を描くクリエーターばかりが目立つので、どうすれば良いか途方に暮れている。誰か、表紙を付けてくれる方は、いないものだろうか? ココナラで依頼を出してみても良いが、多分誰も描いてくれないだろうな。
 ともあれ、「6」や「仏化の劫火」など、かなり見栄えの良いイラスト表紙になったので、デザイナーさんには感謝感謝である。
 カバー付けもなかなか、本作りの仕上げ工程であり、慣れると面白くなってくる。
 
posted by Pearsword at 08:00| 富山 ☁| Comment(2) | 浮泡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月14日

症状のキツいお盆休み。

 私は、お盆休みは殆んど全く、独りきりで過した。
 しかし、部屋の中で独りで籠っていると、幻聴が襲ってきて、見透かされ感が出てきて、部屋を千里眼で覗かれている気持ちに成り、行動に対する非難の声や思いに対する中傷の声が聞こえてきて、その声を現実のものと信じてしまって、妄想を抱いてしまう。
 妄想とは、たとえば私がIQ値が知的障害のボーダーに近いくらいに低いコンプレックスがあるためか、ことさら知恵遅れでほかの人々に良いように操られているのだとか、私がいくら小説を書いても受賞出来ないのは、レベルが低いのに莫迦だから自分で気付けないからだとか、そんなような暗い考えである。
 なので、私は実はすべての人間に嫌われている憎たらしい当事者にすぎないのだというふうに考えてしまって、部屋の中で鬱々と悩んでしまっている。そういうとき、世界を敵に回してでも逞しく生きることの出来るのが、男というものだという風に言う者もあるかもしれないが、私はあいにくそんなに逞しくないのだ。世界を敵に回したら、一溜まりも無く潰れてしまう。
 そういうわけで、幻聴が煩いのと精神不安定のため読書困難で、何一つ手に付かない状態に陥ってしまっている。暗雲が掛かった夕暮れの空のように、どうにも暗い気持ちを静めることの出来ないお盆休みである。
 正月やお盆を独りで過すのは、とかく惨めなことである。私は、今年の正月も独りで過した。最近は、そんなお盆と正月ばかりになった。
 しかし、考えようによっては、孤独は創作するための糧となるものである。すべての創作は、孤独な作業なのである。独りで居る分、創作に打ち込める時間が増えるのである。この時間を生かすか殺すかは、私の才覚次第であるのだ。
 孤独に打ち克てる精神力を持っていれば、盆と正月は創作のためにその膨大な暇な時間を費やせる。それだけ創作量が増えるはずである。
 孤独に打ち克つには、幻聴や妄想にも打ち克たねばならない。幻聴で、私の書こうと思う文章を先取りして読み上げて、文章を曲げようとするものや、日常生活における私自身の無価値な様をつらつらとのべたてるものなど、モチベーションを下げるような幻聴に、打ち克たねばならない。
 幻聴は、現実の現象とは、あまり関係の無いことを直視して、幻聴に振り回されない精神力を付けねばならないのである。
 薬ばかりにも頼っては居られない。

 
 
 
 
posted by Pearsword at 17:03| 富山 ☁| Comment(2) | 症状 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月12日

侘しいお盆。

 お盆は、母の誕生日が近いこともあって、誕生日プレゼントを兼ねて、兄と両親が旅行に行く。もとより、父に精神障害の理解が無く、実家の敷居を跨げない私としては、旅行にも誘われず独り静かに、することのない閑日を過すことになる。こういう時期は、頼みの綱の彼女も親戚の接待で大わらわで、私の相手が出来ないのだ。彼女がいないと、こんなにも寂しいものかと、あらためて痛感する。
 寂しすぎて切なくなって、読書や創作すら手に付かない。情けないやつだと言われるかもしれないが、私は文字通り情けないやつなので仕方ないのだ。しかし、やることはいろいろあって、文フリ大阪に向けてのホームページ更新や、新刊で出す「6」と既刊の「仏化の劫火」のカバー付けとか、空華第八号の原稿直しとか、その他もろもろである。
 今日は、本当に何もしなかった日だったので、明日でもお墓参りに行き、空華原稿直しやホームページのトップページなどの更新をやろうかと思う。なんだか、お盆に独りなのは、ほかの家族などを見るに付け、ひときわ惨めである。彼女も、今は親戚の接待で忙しくても楽しそうなので、私のところに嫁がせても良いものかと、ふと疑問を感じるを禁じ得ない。うちに来ても、今彼女が味わっているような、賑やかしい家族団欒は築けないので、彼女が寂しがるのではないかと、不安に思ってしまう。私と二人きりなので、私は楽しいのだが彼女は出勤中など寂しい想いをしないか、非常に心配である。
 寂しさの耐性は、たぶん私の方が付いているだろう。彼女は、いつも家族とともに暮らしてきたから、独りの時間を耐えられるか、わからない。まあ、精神障碍者というものは、大抵が独り者であり、寂しさに親しむように出来ているのだが、私だけがそれを逃れられると考えるのは、甘いのかも知れない。彼女も精神障害なので、こちらに来たら知らない人ばかりだし、引っ越しのストレスと寂しさで、頭がおかしくなるかも知れない。そうなっては、何のために同棲するのか判らなくなるので、ことは慎重に進めなければならない。
 ということは、彼女自体は富山に嫁ぐメリットはほぼゼロに近く、リスクばかりが高い。そこまでして、嫁ぐ決心をしてくれた彼女には、やはり足を向けて眠れないし、一生感謝せねばならないだろう。まだ、婚約段階だが、もし成婚したとしたら、彼女は私の幸運の女神なのだ。
 私は、元来ものごとを計画的に進められない直感的人間だが、ことこの件に関しては、慎重に石橋を叩いて渡らねばならない。失敗は許されないからだ。ただでさえ、富山と山口の遠距離恋愛なのに、双方精神障碍者という弱みを持っている。やはりそう簡単には結婚が成功しないだろう。しかし、もし成婚出来たなら、私は彼女のお陰で、素晴らしい余生を送れることになるだろう。
 あとは、仏様に手を合せて祈るしか無いだろう。南無本師釈迦牟尼仏。合掌。
 
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2018年08月03日

自我障害に関する私見。

 私は、常に自我障害に苛まれている。投薬と治療のお陰で、現在は文章を書けるまでに寛解しているが、全く無くなることは稀である。常に、誰彼に自分の思考が伝わり、絶えず誰彼の意見が飛んでくる。つまりは、思考伝播と見透かされ感と幻聴の合わさった症状が自我障害である。
 この症状は、妄想を呼びやすい。何故なら、自分だけ幻聴に特別悩んでいるのに、幻聴テレパシーの主は、聞こえるのがさも当り前のような内容のことを述べ立ててくるからである。みんな聞こえるのだ、みんなそれを黙って耐えているのだ、とか、表と裏の使い分けだとか、それが「日本語の構造だ」とか。つまりは、ほかの人と異なった愚かしい脳だから、こころの声を直接口に出してしまうのだ、と。
 つまり、幻聴は思考伝播を常識として肯定している。しかし、それは科学的ではない。科学ではテレパシーは否定されている。伝える媒体がないし、受信器官も無い。無理繰り考えれば、シナプスに走る電流により出来た電磁波により、相手のシナプスにも同じような電流が流れるという、幼稚な理論も叫べるが、この電磁波だらけの浮世に、微量の電磁波だけ拾い上げるのは、不可能に近い。
 むしろ、ユング心理学に言う共時性が、まだテレパシーを証明するのに、より近しい概念である。つまり、共時性は意図せずして、違う場所で同じようなことが起こりうる、集団的無意識の現象であろうが、これを意識化して意図的に、同じことを双方が思うようにすれば、テレパシーが成立するのではないか? こんな荒唐無稽なことを言うと、ユング派の心理学者に唾でも吐きかけられそうだが、そうでもしないと、テレパシーは存在し得ないのだ。
 なので、私は実のところ、左脳的には、テレパシーを否定している。左脳的説明では、もろもろのコンプレックスが、自我に反逆して他人の声として自我に告げるのが幻聴なのでは無いだろうか、と考えている。精神医学的に、自我障害がどのような説明を付けているのかは、私は全く皆無だが、当事者の立場から言えば、そのような仮説が成り立つのである。
 全ては、聴覚野の間違った働きより、聞こえた風になるのが幻聴なのだ。頭の中の出来事でしか無いのだ。だから、たとえ隣近所の人のような声で嘲り声が聞こえてきても、それは隣の人に投影した無意識コンプレックスから発せられたメッセージでしかないのである。その隣の人は、実際どのように思っているか、それは隣の人当人にしか判らない。
 してみると、人間というものは孤独なものである。いくら愛する人が出来たとしても、言葉やスキンシップ、ボディーランゲージなどでしか遣り取り出来ないのだ。こころとこころが直接通じることは、ついぞあり得ないのである。
 しかし、故事成語に「以心伝心」という言葉がある。こころを以てこころを伝う。これは、テレパシーのように一見誤解されがちだが、よく字を読んで欲しい。「こころ」を以て、「こころ」を伝える。つまり、真心の心遣いをして、こころの内を伝える、と言う意味に取れる。禅の単伝の妙法により、無上菩提が稟持されてきたというのが、以心伝心の答えである。お釈迦様の御心が仏祖のこころを通じて現代に受け継がれてきたとするなら、現代の不幸はここまで多くなかったに違いない。現代の禅僧に、無上菩提を悟り得る聖人は皆無である。つまり、こころは少なくともそのままそんぐりは、お釈迦様ですら伝えられなかったのだ。
 統合失調症の人は、幻聴テレパシーが当り前になってしまっているので、誰しもがテレパシーの中に普通に生きていると妄想しがちだが、それは事実では無い。人間は悲しいくらいに孤独なのである。そのことに、はやく障碍者は気付くべきである。しかし、確かに、ユングの提唱するような集団的無意識はあると、私は思いたい。そこからこころが通ずるのではなくて、「自己」元型が発現すべきなのだ。人間は、孤独だからこそ、それを支える「仏様」がいらっしゃる。集団的無意識の最底辺が、「大日如来」たる仏様なのだろうと思う。真言宗徒の言う「いつも大師と二人連れ」とは、いつも仏様が見守って下さっているよ、ということなのだ。それくらい、人間というものは、こころが孤独なのである。
 統合失調症の人は、おそらくは、その孤独に耐えきれないから、幻聴を産み出してしまうのだろう。「おらおらでひとりいぐも」には、「桃子さん」を通じて、その様子が丹念に描かれている。統失の人は、ぜひこの芥川賞受賞作を読むべきだろう。
posted by Pearsword at 19:17| 富山 ☀| Comment(0) | 症状 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月29日

文學界向けの小説について。

 現在、書いている小説は今度の文學界新人賞に応募する予定である。ほぼ、おおかた原型が出来てしまっており、63枚を計上している。
 しかし、文學界は70枚以上150枚以内である。相当足りない。原型というのは、つまりは草稿のことなので、ようするにもう少し書き継ぐしか無い。伸ばすわけにも行かず、何か途中にエピソードを挟むわけにも行かず、やはり書き継ぐしか無いのだ。
 しかし、もう終ってしまったような筋に、何を付け加えれば良いのだ? 確かに、この小説はアブストラクト小説に近く、主人公もいなければ騎士物語のようなヒロイズムを喚起するドラマチックなストーリーも無い。しかし、それでもストーリーじみた流れみたいなものがあるのだ。
 これを打破するには、星新一では無いが、どんでん返しをするしかない。初心わするるべからずと言う。私が作家を志した切っ掛けは、痩せても枯れても星新一さんの小説を読んだからなのだ。
 しかし、ただのどんでん返しでは、物語の風合いが崩れてしまって、少しも面白くなくなってしまう。この小説の良さを生かす、何らかのエピローグを付けねばならない。それを今とつおいつ考えているところである。
 しかし、こんな今まで出版されたことの無いような異端な文章が、ほんとうに小説として認められるのか、そこが第一の難点である。どこの阿呆の真似かと、一笑に付されて一次選考も通らないのが、目に見えるようである。確かに、異端ではあるかも知れないが、前衛であるかどうかはまた別の話だ。
 私の初期の小説を読んだことがある人なら、ある程度予想するかもしれないが、「鞭と人参」や「6」「眼」などによく似ている。しかし、これらの初期小説群と決定的に違うところは、主人公の有無である。「鞭と人参」では、人馬が主人公だったし、「6」の「6の告白」の章では、「6」が、「眼」では巨大な「眼」が、それぞれ主人公だった。これらの主人公に当るものが、今回のアブストラクト小説には、全く出てこない。いわゆる「神の目線」で書かれているのかと言われると、「神」というほど、すべてお見通しの目線で書いてあるわけでもなく、どうも変な中途半端な視点で描かれている。
 とか言いつつ、どうもどん詰まりなので、筆を擱いて気分転換に、ほかの小説でも読んでみようとするが、なかなか集中できず、今読んでいる「送り火」は面白いのだけど、途中まで読んでいる「源氏物語」を読みたくなってみたり、チラ見した「公園へ行かないか? 火曜日に」などをつまみ食いしたりで、どうも気持ちが定まらない。思いあまって、このように無駄なブログを書いている始末である。
 まあ、締切りまであと二ヶ月あまり有るので、しっかり腰を据えて、頑張って行こうと思う。
posted by Pearsword at 18:26| 富山 ☁| Comment(0) | 迷い言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月24日

「禅僧小話集」について。

 今、アマゾンPODで販売している拙著に、いろいろな方々にお願いして、解説を付けてもらっている。初めは、「仏化の劫火」だが、これは初版から藍崎万里子さんに、解説を付けてもらった。彼女は、同じ同人のメンバーなので、なんとかなった。次に、「飛梅」だが、これは文フリ大阪などで大変お世話になっている上住断靭さんにお願いしてみたら、諒承を戴いた。今秋の文フリ東京には間に合う予定である。また、まだアマゾンPODだけでオフセット印刷の予定がない「禅僧小話集」であるが、アマゾンPODだけでも解説を付けて貰おうと思い、ある方にお願いしているところである。
 「禅僧小話集」は、実際の禅問答から台詞を拝借してきているので、歴史小説と言えなくもないかも知れない。ただ、禅問答が出てくる部分が極めて一部に限られているので、ほかの大部分は全て創作である。どちらかといえば、時代小説に近いものがあるのかも知れない。
 たとえば、「空仏」だが、これは道元禅師著の「正法眼蔵仏性巻」に出てくる大満弘忍大師の出生譚と大医道信との出逢いを描いているのだが、「正法眼蔵」に弘忍大師が栽松道者の生まれ変わりだとか書いてあるので、そのように生まれ変わるところまで含めて描かざるを得なかった。だいたい栽松道者は、その人となりが何も判らないし、インターネットなどで調べてもデータが全く見付からないツワモノである。読んで字の如く、野山に松を植えて廻るエコロジーな仙人という荒唐無稽な設定で描くしかなかった。
 原典の禅問答が出てくるのは、弘忍が童子にして道信と対等に渡り合う次の台詞のところだけである。
 「汝は名前を何というか?」 
 「姓はありますが、変った名前です」
 「何という姓名だ?」
 「仏姓と言います」
 「汝に仏性は無い」
 「仏性は空ろなので無いというのです」
 このわずか数行だけが禅問答である。小説では脚色して、自分を赤子の時に殺そうとした母親に「仏性は無い」とあらかじめ道信に言わせておいて、その子供である弘忍にも同じ血が流れているという流れで、少なくとも表向きは「汝に仏性は無い」と言わしめていることになっている。作者の心づもりでは、母親に仏性がないのは、一切空相だからだ、その空相のなかにも、空があり雲があり風が吹く、つまり、自然現象は成るように成る、なので、周家の娘である母親にも、たとえ赤子を投げたときに仏性は無くとも、やがてそれが戻るべくして戻ってくる、といったような意味合いを持たせて、道信と栽松道者の会話を進めている。
 ここでは、「仏性」が二重の意味で使用されている。すなわち、仏性=善性という意味と、仏性=真実という意味である。「一切衆生悉有仏性」という場合の「仏性」とは、後者の意味で使用しており、全ての有情無情が宇宙の真実である、ということを言っている。これは、「正法眼蔵」では「恁麼巻」に詳しい。また、「母親に仏性が無い」と言っているのは、前者の意味で言っているのである。もとより、宇宙の真実は、宇宙全体が大きな善性的仏性を帯びているというのが私の解釈なので、後者の順的人間表現が前者であったりする。
 ともかく、この二重構造を喝破して、幼き弘忍は言い放ったのだ。
 「仏性は空ろなので無いというのです」
 つまり、無いとは仏性があるという意味である。無いのが仏性の姿なのだから。これを、お釈迦様の教えに「一切空相」というのだろうと思います。
 なかなか、パラドキシカルで解釈するのが難しい小説であり、これらの小説の解説を誰がやってくれるのか、非常に困っているところではある。現在、依頼している方がお断りに成れば、いっそ禅寺のお坊さんにでもお願いしてみようかとも思わないではない。
 まあ、解説を付ければ売れるというわけでもないのだが……。
posted by Pearsword at 20:51| 富山 ☁| Comment(0) | 創作 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月16日

そらと書いてうつろと読む。

 うつろなるままに、筆を指任せに走らせ、文を綴る。
 一切空相なるがゆえに、世界を感ずれば一層、うつろさが増すのみなるか。
 先ほど、ツイッターで詠んだ歌に、

  求めつかみ この手で創り上げるため うつろなこころ 持ちて生まれる

 これは、よくよく考えてみたら、私のインディーズ処女作「6」のテーマそのものだった。家族を失って、虚しさを抑えきれず、ある寺に相談に行った中津川が聞かされる「6」の話。「6」は、うつろな閉円と物欲しそうな左腕からなっていた。「6」自身、むなしさに飲み込まれて、死滅しそうになるが、左腕の存在意義に気付き、本能的に乱れ動き出す。
 我々は、気付けばみんな虚しい。命は露よりも脆い。光陰は矢よりも迅やかだ。大宇宙の偉大さに比べ、この卑小な塵芥ほどの人間の所行のつまらなさといったら、虚しいとしか言いようがない。やれ脱原発だの、やれエコロジーだの、いくら人類が長引くように理想を述べてみても、大宇宙の営みからすれば、そんなもの大した塵ではない。くだらぬ虚しい愚かな人間の所行に過ぎない。
 しかし、その自分が取るに足らぬ儚いものだという気付きこそが、諸行無常と諸法無我の悟りへの始まりの一歩として、大切にされるべきものであり、発菩提心への第一歩なのである。だから、一切空相とは、この世は虚しいということと、密接に繋がっているのである。
 そういうときに、うつろなこころを満たすために、腕を動かしてものを創造する。それが、私においてのアートであるのかもしれない。私におけるアートとは、取りも直さず、文学以外の何物でもないのだが、うつろなこころを保持しつつ、それを埋めるために書くという立場は、むしろ悲劇詩人的で、あまり理性的でないのかも知れない。しかし、完全な健常者の人間が幻想であるのと同様、完璧な喜劇詩人というものも、存在し得ないように思う。こころが完全に満たされていて、その上でもっと生活を豊かにしようと、創造されるものが真の芸術だと、考える人もいるかもしれない。しかし、完璧な密厳国土が現成したら、ことさら芸術する必要もなくなる。全てが美しい世界だからだ。何をしていても美しい世界になるのだ。
 けだし、この世が醜いから、アートを創造する意味があるのであり、この世がアートで出来ていたら、逆にアンチ・アートなるものが必要になってくるのである。「参同契」にも云う「明中に当って暗あり。暗相を以て遇うこと勿れ。暗中に当って明あり。明相を以て見ること勿れ。明暗各々相対して、比するに前後の歩みの如し」だから、こころが虚しいのは、不虚なものをこの手で創り出すためなのである。不虚なものとは、満たされるものであり、おそらく「法愛」かなにかだろう。
 法愛というのは、宇宙の愛のことである。創り出すときに、法愛を得ているかどうかは、肯んじえない。科学的に云えば、ドーパミンが分泌されているだけである。しかし、ものは言いようで、創り出すための土壌として、空虚感があると思えば、創作に対するモチベーションを保てるのである。もちろん、モチベーションだけでは、空虚さは損なわれないが、そこで手を動かし筆を執ってみると、意外に面白さが湧き上がってくるのである。
 やはり、創るなら美しい物を創りたい。完璧なものではない、美しい物を創りたいのだ。けだし、美しい物はなべて完璧ではないのである。どこか欠けていたりどこか余分であったりするからこそ、個性的で輝かしいのである。端正な円形は、ただの記号に過ぎないのである。
 このように考えると、このうつろむなしみすら、仏様の恩恵なのかなと、感じ入る次第である。
posted by Pearsword at 16:55| 富山 ☀| Comment(0) | 迷い言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月07日

死刑執行。

 昨日、某カルト集団の極悪犯罪者の死刑が七人分執行された。EUでは、これを批判的にみているようで、いかなる場合でも死刑執行はすべきではないと、コメントしている。私もこれは同感だ。
 このカルト集団は、殺人するときに、悪人をポアすると良い人間に生まれ変らせることになるのだから、悪人をポアするのは善行だと教えられていたらしいが、それと同じことをしたのが日本政府なのだから、法務大臣もまったく深謀が足りないとしか言いようがない。教祖と同じ考え方なのだ。
 死を死で報いるやり方からは、何も生産的なものは生まれてこない。これは、なぜ殺人がいけないのか、という話に必ず戻ってくる。
 殺人が惨いのは、周りの多くの人々が悲しむからと言うことも無きにしも非ずだが、むしろ殺された人の人生や命がないがしろにされるからである。殺された人は、その人生が台無しになる。命とは、露よりも脆いが故に、ダイヤモンドの数億倍貴重なものなのである。
 たしかに、殺人は良くなくて、畜生を殺すのは構わないという考え方も、人間至上主義的で良くない。だから、さまざまな命が尊重されるべきである。命とは、仏性の顕現である。生死は、二つものではなく命と同義の言葉である。無情の問題はさておいて、すくなくとも有情全ては、貴重な生死の中を生きているのだ。
 そう考えたときに、バクテリアや虫などにいたるまでを考えるに、全てがしかるべく天寿を全うして、最期まで生き抜くのが生死の正しい有り様のような気がする。今回の七人の死刑囚に関して言えば、これらの殺人犯に殺された被害者と同様、人生半ばで死ぬのが運命だったとしか言いようがない。
 しかし、日本政府の悪人は殺せといったような、単純すぎる幼稚な考え方は、やはり間違っていると言わざるを得ない。犯罪者にだって人生はあるのだ。殺人に到るまでに、異常な人生を歩んできたわけだ。そんな異常な人生を歩かされてみてみなさい。誰だってただではすまないのだから。殺人犯は、被害者同様、大慈悲を向けるべき存在である。大乗仏教では、闡提は居ないとするのに、死刑囚だけ仏性も持たない悪の権化だとかいう、いまどき幼児番組すら取り上げないようなテーマで、正義ぶって死刑執行する法務大臣は、本当に人の上に立つには不適格な人格であるとしかいいようがない。ゴジラ退治とは訳が違うのだ。
 政府は、反組織的人間をどう扱うか、身を以て殺人犯達に教えなければならなかったのではなかろうか? カルト集団の中で悪人だった被害者をポアした教祖と、日本社会で悪人だった殺人者の死刑を執行した法務大臣と、その心根はどれほどの差異があるのか、私は疑問視せざるを得ない。
 万物おのずから功あり、とも言い、犯罪者にもそれなりの役割があった。現に、破壊活動防止法が制定された。この世の中に、無くてもいい存在など、一塵一埃に到るまで、なにもない。全てが貴重な仏性の表れだ。殺生を犯すことは、その仏性の顕現に、傷を付けることと思わねばならないだろう。命が何故尊いのか、そういうことを日々考えながら、行動していかねばならない。
 
posted by Pearsword at 07:17| 富山 ☔| Comment(0) | 世事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月05日

市民文学時代の到来。

 七月になっても、まだ何の連絡もないところを見ると、私の今年の文藝賞応募作「癲狂恋歌」も、あえなく第一次選考で落ちたのだろう。ここのところの無気力はそれに起因していて、自分ではかなり面白く出来上がったと自負していただけに、落胆の度合いが大きい。あれで、第一次選考を通らないとは、どうやれば通るのか不思議でならない。
 現在執筆中の、文學界新人賞向けの小説は、斬新な作風ではあるが、「癲狂恋歌」すら第一次選考を通らないところをみると、一笑されて終りそうである。新しい分野の小説だけに、小説と認められるかどうかも疑わしい。途中で投げ出されて全部読んでくれないかも知れない。自分で読み返してみても、それなりに面白くはあるけれど、子供が漫画に嵌ったときの面白さのような、強い惹きは何も無い。知的情趣は溢れているが、それがどこまで通用するか、あまり自信はない。
 「癲狂恋歌」に関して言えば、狂人の二人の恋物語を描いた小説を書く統合失調症患者の恋物語なのだが、その統合失調症患者の苦しみが今一、切実さに欠けたと言うべきか。狂い方はかなり狂っているのだが、それも僕の価値判断でのの狂い方なので、あまりぶっちゃけてないのかも知れず、他人からみて大したことないな、と思われたのかも知れない。それは、わが筆力の拙さであろうか。
 しかし、現在アマゾンからPODとはいえ、どんどん個人の創作家が出版出来る時代だ。これは小説界の革命の時代が来たのかも知れない。絵画がサロンで貴族に認められないと売れなかった時代から、一般市民に開放されていったのと同様、小説も文壇から一般市民へ開放されつつある時代が来たのかも知れない。
 とりあえず、私は自分の小説に関して、誇れるものはアマゾンPODで出版して、国会図書館に寄贈しようかと思う。何れの時代か、誰かしら発掘して読んでくれるかもしれないからだ。また、文フリなどの即売会にもどんどん出店して、一人でも多くの読者を得るように頑張っていこうかと思う。
 なにも受賞出来る限られた人々だけが創作するような、特権的な小説業界がすばらしいわけではなく、芸術すること自体が素晴らしいのだから、臆することなく今後も、市民文学としての創作を続けていきたいと思う。
 いずれは文壇も、私の文学を認めてくれる日が来るかも知れない。
posted by Pearsword at 07:57| 富山 ☁| Comment(2) | 迷い言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月29日

「拝啓、お姫様!!」

 いつかは書こうと思っている柴田淳嬢に捧げる小説。
 柴田淳の「拝啓、王子様☆」シリーズから取って、その題名も「拝啓、お姫様!!」。
 主人公の男とその彼女は、ある日、有名シンガーソングライターのコンサートを観に行く。主人公は、その時に、そのスターに強かに魅了されてしまって、片想い状態に成ってしまう。彼女のこともそっちのけで、シンガーソングライターにファンレターを送り続ける。その熱意に動かされてか、ついにスターは主人公に逢うことになる。主人公は、決死の覚悟でシンガーソングライターをくどき続けるが、スターはそれを一笑に伏す。それでもめげずに、主人公は、スターにアタックし続けるが、片想いは続き、ついに主人公は狂気に走る。つまり、シンガーソングライターと心中する計画を立てる。主人公の彼女は、主人公の異変に気付き、必死に止めようとするが、主人公は狂気に陥っていて、まるでそれを無視するどころか、それだったら三人で心中すれば良いじゃないかと、スターの家を突き止めてそこに放火して、彼女と自分は毒を飲んで死ぬ……。
 如何にも、莫迦げたプロットなので、小説化せずにここに公表したわけだが、これでは、モデルになった方々に失礼極まりないので、このような興味本位の創作は、避けねばならないのである。
 まあ、柴田淳さんに捧げるなら、彼女の性格を優しく設定して表現したいし、自分の彼女も傷付けたくないので、上述のような莫迦げた殺人騒動は描かないだろう。
 テーマ的には、ほぼ「拝啓、王子様☆」と同じものが流れているのだが、しばじゅんは前半はコミカルに、第四話から殺人へと持っていった。彼女自身がモデルになっているだろう、湯deDAKOの経営者の妻が死ぬと言うことで、解決させようとしたのだ。優しい淳ちゃんは、自分を殺すことでしか、問題の解決を図れなかったのだろう。
 もしも、憧れのスターと恋人関係になったら……。現実の彼女は捨ててしまうのかどうか? スターとて一人の人間だ。その素顔を知って、内面的な悩みや性格をよく判ってあげられて、その上で相思相愛ならば、スターと結ばれても良いのかもしれない。しかし、それは彼女もいない独身男性の場合である。今もし愛している彼女がいるとすれば、いくらアフロディーテのように魅力的な女性だろうと、現彼女を犠牲にしてまで、スターと結ばれようとするのは、あきらかに間違いと言わねば成るまい。人を不幸に蹴落として、自分だけ幸福になろうとするなど、間違った考え方なのだ。
 淳ちゃんは、優しい繊細な女性だから、あまりがさつな作品を進呈すると、傷付いてしまうに違いない。だから、上記のようながさつなプロットの小説は、捧げられない。いずれ書くにせよ、大衆受けを狙うような衝撃作は目指さないでおこうと思う。ただ、テーマ的に、「拝啓、王子様☆」と同じものがあるという点だけ、淳ちゃんには言葉で伝えて、その上で進呈しようと思う。
 いつの話になるか判らないが、確実な一つの課題であり楽しみでもある。誰かに捧げた方が、芸術作品は、輝きを増すものなのだ。
posted by Pearsword at 15:54| 富山 ☁| Comment(0) | 迷い言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月26日

GrageBandで遊ぶ。

2018-06-26 07.43.20.png 私の音楽の素養と言ったら、幼稚園時代にヤマハオルガン教室に通っていたきりだが、iPadで何のアプリか判らないのがデフォルトで入っていたのを何気なく開いてみたら、音楽演奏アプリのGrageBandというのがあった。これは、バイオリンやピアノ、ドラムなど何でも弾けるアプリなのだが、私はピアノぐらいしか弾けないので、それを使って単音の主旋律を弾いて遊んだ。曲目は主に柴田淳だが、他の歌謡曲やクラッシックのクライマックスなどの主旋律も弾いた。なかなか面白い。
 絶対音感など良く判らないが、聴き込んだCDなら同じキーで弾けるので、だいたいの歌謡曲が白鍵盤でなっているのに気付かされて面白い。ベートーベンの交響曲第九番の第四楽章の声楽のサビの部分も、白鍵盤の単調な主旋律で成っているし、チャイコフスキーの交響曲第五番の第四楽章の初めの印象的な主旋律も、白鍵盤で成っている。さらにシベリウスのバイオリン協奏曲の第三楽章のサビの部分も、しかりである。耳に付く主旋律というのは、えてして単純なのかも知れない。シンプルイズベストなのかも知れない。
 しかし、モーツアルトのピアノコンチェルトなどに成ると、まるで複雑すぎて、メロディーラインが再現できない。煌びやかで流れるようなあの美しさは、そう簡単に弾きこなせないのである。まあ、楽譜もなければ素養もないのに、モーツァルトが弾けるわけがないのは、当り前と言えば当り前すぎるのだが。
 GrageBandはまだ使いこなしていないが、自動で和音なども出せるようで、録音も出来るので伴奏付きで演奏できるかも知れない。更にドラムなどを併せれば、極めれば素人レコーディングが出来るのかも知れない。そこまでしようとは思わないが、ゲームがまるで出来ない阿呆な私としては、かっこうの暇つぶしである。気晴らしには持って来いである。
 出来れば、柴田淳ぐらいは楽譜を買ってきて、「花吹雪」とか「僕の味方」「桜日和」「うたかた」その他、うまく弾きこなしたい曲が沢山有るので、弾きこなしてみたい。柴田淳の楽譜は、アマゾンなどで手に入るようなので、思い切って買ってみても良いかもしれない。まあ、柴田淳のファンである私としては、楽譜の一つくらいは持っていても不思議はないのだ。
posted by Pearsword at 08:01| 富山 | Comment(1) | 浮泡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月20日

空華第八号の危機。

 空華第八号の発刊まであと三ヶ月。
 表紙とイラスト担当の☆ろりみたん☆さんが、鬱病を悪化させて入院してしまった。最低三ヶ月は出てこられないだろう。
 巻頭グラビアがなくなり、表紙を作成してくれる人もいなくなった。巻頭グラビアは無しで仕方ないにしても、表紙はどうにかせねばならない。第五号も私が自分で作ったが、あまり評判は良くなかった。私には、デザインの才能がないので、どうしても☆ろりみたん☆さんのように、見映えのある表紙は作れないのだ。
 仕方ないから、写真を載っけようと思う。いつも写真を載っけているが、第七号から作品名と著者名を入れることにしたので、あまり目立つバックでは良くない。控えめなものを選ばねばならない。富山らしいもので、私が持っているものといえば、だいたい高がしれているが、つまりは山の写真で攻めようと思う。
 内容もまた、実を言うとピンチである。私・大坪命樹は、北日本文学賞に出した「江面月明」で30枚なので25ページ程度である。藍崎万里子さんも、同じく北日本文学賞に出した「マーミン帝国の末裔」で30枚なので、25ページ前後である。冬月さんは、「伝説教師X」の第二話なので、10ページ程度を見込んでいる。杜埜不月さんの小説が未知数だが、初めての作品なのでそう長くはあるまい。となると、そらばなし書評を入れても100ページ行けば良いところなのである。いままで150ページ前後だったので、格段と薄くなってしまうのだ。
 私がもう一篇、長塚節文学賞に出した「心跛」を出せば、万事解決するのだが、私だけ二篇出すのもなんだか出しゃばりすぎのような気がしないでもない。かくなる上は、掲載料を無料にして、誰かに原稿を依頼するしかないか……。しかし、それではあまりにも情けなさ過ぎる。やはり、我々の同人だから、我々のベストを尽くすようにせねばならない。
 薄くなったら薄くなったで仕方ないじゃないか、とでも言っておくか。それが、現在の文藝同人無刀会の現状なのである。もちろん、長い作品が無いわけではない。私は「好き病み」の205枚が掲載可能だし、藍崎さんも、未発表の「内からの崩壊のあと」という小説がある。しかし、私が読む限り、「マーミン帝国」はとても魅力的な作品で、ぜひ空華に載せてほしいものである。また、「好き病み」は長すぎるので、一挙掲載が無理で、また分割掲載になってしまう。こと「好き病み」に関して言えば、分割掲載はあまつさえ好ましくない。「孤独な恋人」を分割掲載して、たいそう後悔しているところである。やはり、長物は空華には向かないというほかない。
 今後、空華を続けていく上で、長編の扱いをどうするか、非常に迷うところである。205枚なら150ページは下るまい。その場合、フォントのポイントを落として、段組で掲載することも考えねばならないが、老人にも読みやすくという現在の拘りを、捨てねばならない。しかも、一度フォントのポイントを落とすと、以後ずっとその文字の大きさでやっていかねばならず、原稿量が増えてかなり大変になってくる。
 そういうことを考えるに付け、やはり現在のページ体裁を保ったままでやっていくのが、当同人の限界のような気がする。本作りばかりに時間を割いておられないのだ。
posted by Pearsword at 19:22| 富山 ☁| Comment(4) | 創作 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする