2019年06月15日

第五十四回北日本文学賞応募。

 今日、先月くらいから書き始めた禅僧小話を一篇仕上げて、北日本文学賞に応募してきた。どうせ、一次も通らないに決まっているから、サバサバしたものだ。賞に受かるためにあれこれ自分の小説のアラを探して、とつおいつ修正する徒労を繰り返すよりも、次の作品に向けて全力を注いだ方が、百倍まともなので、今度は、十月〆切の群像文学新人賞に応募する作品を、仕上げるつもりである。実は、三月からつまり文藝賞に応募した後からすぐに書きだしているので、すでに60枚書いている。しかし、文学界に叩き落とされた「恁麼」と同様のアブストラクト小説なので、とても書くのが困難だ。なにせ台詞がない。描写はいろいろするのだが、この小説に関して言えば、50枚を過ぎる辺りから抽象論的記述になってしまっていて、とても小説とは言いがたい見苦しい途中経過になっている。なんとかそこを修正して、小説として仕上げねばならないと、今はそればかりを考えている。
 とまれ、また禅僧小話ができた。どうも際限なく出来ていくようだが、これも臨川書店の「中国の禅僧」シリーズの刊行に依頼するところが、かなり大きい。「正法眼蔵」だけでは、なかなか一禅僧の生涯は判らない。思いあまって、「景徳伝灯録」などの漢文を、国会図書館デジタルでダウンロードして読んだこともあったが、なかなか正確に意味が摑めないのが、僕のような無学文士の性だ。そういうこともあって、同書はとても重宝している。
 テーマ的には、長塚節文学賞に出した「画餅点心」に通ずるところもあるが、それを上回った境地を描けていると自負している。妻が読んで呉れたところに寄ると、とても感動したとか、うっとりしたとか、べた褒めだが、妻は僕贔屓で僕を買いかぶっているので、あまり当てにはならない。しかし、たとえ一人だとは言え、そういうふうに感じてくれる読者がいると言うことは、芸術として成立していると言うことである。読者に様々に感じてもらえ、いろいろな感想を抱いて貰える多重的作品こそ、薄っぺらい一枚岩の定型的なドラマなどより、よほど芸術的なのである。
 けだし、芸術は元型的投影を起すものでなければならない。元型的投影すなわち転移を起した上で、作品と鑑賞者の間に、ラポールのようなものが形成され、作品は鑑賞者の個人的無意識によって、独特な模様に彩られていく。だからこそ、優れた芸術品は、多くの人が感動するのに、それぞれの抱く感想が、多様的なのだ。これは、芸術の芸術たらしめるビオスではなかろうか。芸術のビオスは、人格神のように、人の好き嫌いがあり贔屓をする。だから、一部の人だけに格別にすぐれた感動を与える。それが、もはや創作者の個性から離れて独り歩きするだろうことは、僕でも容易に想像が付く。だから、芸術は天からの授かり物なのである。
 僕の前に、マーティロの版画が掛かっているが、いつ見ても飽きない優れた美術だと思う。それは、世人がえせ芸術だの安ポップアートだの、いろいろ罵るものかも知れないが、僕には美術館の絵画と同じかそれ以上の、優れた愛着を抱かせる美しい絵画だ。それは、人生を共にしてきたぶん、僕の思い出を記憶している所為もあるかもしれない。芸術作品とは、このように世評はどうあれ、鑑賞者にとっての宝物であるべきなのだ。
 そう言う意味で、僕の禅僧小話は、いくらかの人々に愛着を持って戴けたのではないかと、友達知人などの感想からも思う。それは、僕の誇りであり、作品に尊厳すら感じさせ、僕自身、各作品に対して敬意を払わねばならぬと思ったりもする。
posted by Pearsword at 14:06| 富山 ☔| Comment(2) | 創作 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年06月13日

露命もて擦る墨

 どうも日頃がバタバタしていて、今一原稿に向かえなかったが、昨日のツイッターで角田光代さんが「源氏物語下巻」の原稿を、保存し損ねて消失してしまった旨が書いてあった。それでも、負けずに頑張って戴きたいが、僕ももっとしっかり書かねばならないな、とも思った。
 昨日は、海市歌会の日でもあり、僕の詠歌は以下の通りである。

 ひさかたの光陰の干す露命にて墨を溶かして文字綴るなり

 墨は擦るものであり溶かすものではないとの指摘を受けたが、大上段だとか大仰だとか口々に言われた。命を賭けてそんなにまでして書くものとは何なのか? とも言われた。しかし、僕にとってそんなことは誇張でも何でもなくて、文字通り命を削るように魂を込めて、小説を書いているのだ。これは、角田さんにとっても同じことなのではないだろうか?
 僕の作品は、ときとしてユーモアが少ないと言われる。それはたぶん、そのように生真面目に小説に向かいすぎるが故に、ユーモアの入り込む余地がないのではないかとも思われる。しかし、そうだからといって、小説の中に油断したような弛んだジョークを挟むものではない。そんなことをしたら、その小説の緊張感がプツリと切れて、すべてが台無しになってしまう。それなのに、プロの作家でも上手な方々は、緊張感を保ったままで、笑える冗談を差し挟んでくる。町田康さんなどは、そのユーモアは研ぎ澄まされているし、角田源氏などでも随所に笑えるユーモアがちりばめられている。そういうところは、僕はもっと見倣うべきところではあるが、真剣度は落としてはいけない。
 上の歌の評で、そんなにしてまで何を書くのか? と言われたことに関していえば、命を賭けない人生など面白くもなんともない。人生をヴィヴィッドに生きることは、命を燃やすことであり命の賛歌であり命への感謝でもあり得る。そう言う意味で、芸術的に生きることはとても大切なことであり、いたずらに生活に追われて金かせぎに終始する人が居たとしたら、もっと自分のやりたいことをさがしなよ、と言いたくなるのである。
 芸術なんて確かにそんな大層なものではない。しかし、人は情動ある生き物である。感情に左右されるが故に、愚かにも成り賢くも成る。芸術はその感情を揺り動かす何ものかである。そういう何ものかを創造していくことで、人は自分らの環境をよりよく変えていくことができるものと僕は信じたい。芸術は、人類のこころに訴え、魂の側面から人類をリードするものであるべきだ。そのような視座に立ったとき、おのずと芸術を創造するときに、自分の限界を越えんばかりの真剣みで、創作をしてしまうのが人間味というものではなかろうか。つまりは、それは「命を賭ける」ということに他ならないのだ。
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2019年06月04日

「渠正に我、我今渠にあらず」

 これは洞山良价大禅師の言葉である。洞山良价禅師は、雲巌曇晟禅師の弟子で、曹洞宗の仏祖の一人である。
 「かれまさにわれ、われいまかれにあらず」
 これは、洞山禅師が「悟り」のことを「那辺の事」(あっちのこと)と称していたようなので、「かれ」とは「彼岸」のことと思って良いだろう。つまりは、「無上正等正覚」のことである。それが、建前であれ「単伝」されてきているのが、禅宗というものなのだ。私は、かならずしも、「無上菩提」が「単伝」されきているとは思っておらず、初祖摩訶迦葉にすら、「無上菩提」は伝わっていないだろうと考えるものである。
 ともかく、ここでは哲学的な「無上菩提」が問題とされている。悟らないうちは「那辺の事」であるが、悟れば「這辺の事」(こっちのこと)となるのは、誰にでも良く判る道理だが、それはこの道得にもよく現れている。「かれはまさにわれ」つまり「仏様は今正に私に垂迹しているが」、「われいまかれにあらず」すなわち「私はまだ無上菩提の境地になっていない」という、諦めの言葉である。これは「過水の偈」といって、洞山があちこち雲水として正師をもとめて放浪して、まるで迷妄から冷めない自分の、皺々になって疲れた水面に映った顔を見て、腑に落ちたのだ。私の取り方によると、「私には無理だ」と腑に落ちたのだ。それがこの道得ではなかろうか。
 この言葉を使って、今北日本文学賞向けの短篇を書いているが、まだ21枚である。おりしも幻聴が繁くて、なかなか筆も思うように進まない。辛いが「かれまさにわれ」私も仏の有り様を呈しているのだ。何を恐れることがあるか。そのまま進めば良いではないか。「われいまかれにあらず」ゆえに「かれ」に向かって進めるというものだ。
 誤解を招いたかも知れないが、僕の言う「仏様の垂迹」とは、「仏性の顕現」とでも言うべきもので、すべての現象が仏様の説法であり光明であると同時に、仏様の御意志の現成なのであるとを言いたいのだ。すべての現象が、仏子の作すことなのだ。だから、人格神のように優しくなくても、「仏様の垂迹」と書いてしまった。
 これは、仏様は善でも悪でも無いという議論に陥るが、人間が「仏性」としての善性を持っている以上、宇宙におのずとして備わっているのが、「仏性」という善性なのである。だから、人は悪事を働くと、苦しむのだ。
 まあ、とは言っても、この浮世ますます問題ばかりが生起して、ほんとうにこれでいいのか? と訝しくなってしまう。まさに「たといおどろきあやしまるる恁麼ありとも、さらにこれ恁麼なり」であろうか。すべての現象が、お釈迦様の霊鷲山からの説法であるからには、やはりそこは、どこまでも謙虚に諸現象を受け止めねば成るまい。
  
 
posted by Pearsword at 20:38| 富山 ☁| Comment(0) | 金言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年05月29日

「アマプレベス」再考。

 「アマプレベス」とは妻の書いた処女作である。現在、悪名高き文芸社から出版されている。
 出版の際に、編集者に騙されて、100枚くらい削られてしまって、大打撃を受けた小説だが、削られても決して損なわれていない精神性や哲学、主題の素晴らしさには目を見張るものがある。
 出だしがかなり文語調で一見難解に抽象的に描かれているが為に、はっきり言って読者を選ぶ。本当の文学好きの人ならば、この出だしは「面白そう!!」と飛びつくのだが、活字離れの酷い現代日本人において、そこまで小説好きの人は、はっきり言ってこの本を理解できるだろう。それくらい、テーマが大きく壮大で、ロマンがあるのだ。
 音楽のことについて書かれている話ではあるが、決して音楽の話ではない。芸術家全般に読んで戴きたい、芸術の真のあり方を切実に問う、本質的な小説だ。しかも、モーツァルトがアンネルという愛称の女性になっている。普段は、コンスタンツェと偽装結婚をして男性として宮廷で音楽を書いているコンポーザーとして勤めているが、ベートーヴェンであるルイのまえでは、とても愛らしい女性になって、ルイと激しい恋愛に落ちる。アイデアは、マドマーゼル・モーツァルトに似ているが、そんなことは寧ろどうでもいい。小説はむしろプロットは重要ではないのだ。その描かれ方を、ぜひ文学好きの人々に、読んで戴きたい。若き日の妻が苦悩して研鑽を重ねた結晶の表現の連なったこの作品を、その若き日の妻の息吹を、じかに感じて欲しい。小説は、つまるところ個人の産物である。大岡昇平の「小説作法」の初めにある作品と作者との間の臍の緒という「生理的類推」について、思いを馳せて戴きたい。
 魅力は、そのほか、ヨーゼフ二世の明晰で完璧な人格の描写や、ルイの父親からの虐待にも拘わらない親子愛の記述など、枚挙に暇がない。この小説の全容を理解するには、完成している第三部から、脱稿している第四部、構想中の第五部まで、全て読まなければ、不可能である。一部につき500〜700枚なので、全部で3000枚あまりの大長編になる。それはすでに大河ドラマ的長さである。長さだけでも、常人には真似できない神業である。
 ただ、惜しむらくは、彼女は若いときに、既存の小説とは異なる新しい文学を作ろうと意気込みすぎて、他の小説を殆んど読まなかったことである。そのため、たしかに描写が全般的に不完全である。しかし、台詞が対話で連発するところなど、下手な描写を入れると却って緊張感が緩まってしまって、逆効果でもある。この対話のテンションにはとてもスリリングさを感じ、美点にも欠点にも成りうる特徴である。つまりは、おもしろい。確かに、文壇は誰も認めないだろう。既存の小説のように、情景描写が細やかでないからだ。しかし、一つ言えることがあるとすれば、この小説は偏見を排して読んだ読者には、激越な感動を与える素晴らしい名作だということだ。藍崎万里子の名は、確実に歴史に残ると、僕は断言できる。
 確かに、夫の欲目もあろう。しかし、それを上回る作品の美しさがある。
 一人でも多くに、その素晴らしい小説世界を見て欲しく思う。
posted by Pearsword at 20:33| 富山 ☀| Comment(0) | 文藝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年05月28日

ノルマ・ブログ。

 あほらしいことだが、この更新はすでにノルマと化している。何も書く内容がないのに、書かずにはおれないのは、何の目的を持ってのことか? 一重に、一人でも多くの人々に、僕の小説を目にして貰いたいからに他ならない。僕の小説は、大衆的に認められる類いのものではない。Webに載せても誰も読みに来ないし、たとえ読んでもらおうとして他の人のWeb小説を読みに行っても、読み返しに来てくれる人は稀だし、それは文フリなどでも同じで、僕が読んで感想を書いても、僕の本を読んで感想を呉れる人は僅少なのだ。だから、僕の小説は読者を選ぶものなのだろうと感じている。大衆と、なにか文学に求めるものが異なるのだろうと思う。
 僕は、文学は文章で示される「思索美」であると考えている。文章で書かれる小説世界の美しさが、小説の面白さのすべてなのだ。その世界は、文章の一文一文に無限の広がりを持たせて込められた小宇宙なのである。だから、必然的に文章自体の美しさも、要求されてくるのだ。汚い文章で綺麗な世界は描けないからである。芸術的文章でしか、美しい小説世界は描けないと、僕は思っている。だから、小説は文章を読むときにすでに世界が拡がってしまうので、起承転結が必ずしもなくても良いというような点は、保坂和志さんからよくよく学んだ。
 ストーリーは、あまり完結性が必要ないと言うことは、意外と誰しもが認めることだと思うが、僕はテーマはかなり重要な要素だと考えている。保坂和志さんは、それすらも肯定的に考えていらっしゃらないようだが、僕はテーマのない小説は、スパイスの欠いたイタリア料理のようなものだと思っている。テーマを鋭くすると、小説の描写やシーンが、鮮烈さを倍増させる。テーマは、あまりぼやけたものを使うと、どんなに素晴らしい描写をしても、小説が死んでしまう。だから、テーマが根源的な問い掛けや本質的問題でない限りは、小説が訴えてくるなにものかが、読者のこころを揺さぶらない。これは、重要な問題だと思う。
 こんなことを書いているから、僕は一向に売れないのだろう。ろくに文学賞も勝ち取れない。しかし、賞を取って有名になるよりも、数少なくて良いから、本当に僕の小説を理解してくれる真の読者をほしいと思うのが僕である。だから、アマゾンPOD向きなのだろう。なかなか出版社にすら認められないのが僕の小説なのだから。
 しかし、受賞なりなんなりしないと、普通の良識ある市民は、素人の小説などに見向きもしない。そこが僕の陥っているパラドックスである。真の読者を増やしたい。しかし、なかなか受賞は出来ない。受賞するためには、出版社のお眼鏡に適わなくてはいけない。しかし、媚びていては何も書けない。独自性を叫ぶ限り、なかなか誰も振り向かず、誰も読まず、真の読者に巡り会えない。
 そういうことで、僕はこのような雑記を書いて、少しでも注意を惹こうと一生懸命なのである。
 まあ、実にならぬ努力ではあるが、月に4回は更新しなければと思っているのだが、今月はまだ三回目。
 明日もノルマ・ブログを書かねばならないのだろう。
posted by Pearsword at 20:40| 富山 ☔| Comment(0) | 迷い言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年05月22日

「族長の秋」の読書中断。

 「族長の秋」ガルシア・マルケス著を読んでいたが、一章まるで改行がなく何処で切れば良いか判らない文章の塊の上に、表現の修辞がごつごつとした結晶の鏤められた派手な簾のように多脈的で、たしかに面白さのある文章ではあるし内容もアイデアも秀逸ではあるが、読むのがとても疲れる文章であることに、遂に根を上げて、100ページあまりで中断した。「百年の孤独」のときはこんなことは無かったのに、と思うので翻訳者の所為かと思ったが、翻訳者は同じだった。
 この読書を通じて思ったことは、芸術には癒し的側面がないといけないと言うことである。「族長の秋」には面白さや興味深さはあるが、あまり僕の理解できる美しさに欠け、癒やし効果がまるでなかった。美しさのない小説とは、推理小説やSF小説も同様なのだが、読んでいて面白みが感じられない。また、癒やし効果と美しさは密接な関係があって、美しい小説世界に接することだけで、読者は癒やし効果を得られる。
 芸術に「癒やし」を求めることが、正しいことかどうかは判らないが、少なくとも僕は小説を読むときの楽しみの一つが「美しさ」である。それのない小説は、極端に面白みが減少する。その辺、僕は耽美的なのかもしれないが、日本人のこころとして、古来から「もののあはれ」というものがあり、それに囚われていては新しいものが出来上がってこないと言うかも知れないが、僕は古い人間だからかも知れないが、とても大切にしていきたい情感である。
 角田光代さん訳の「源氏物語」を読んで伝わってくる、平安時代の「もののあはれ」は、僕がそれまで国語の授業などで、古典で読み感じてきたもののように、ほのかな穏やかな情感では決して無く、もっと鮮やかでなまなましく息づいている、こころが洗われるような情感だった。まあ、僕が角田源氏に感じた美しさが「もののあはれ」と同じものであったかどうかは、はっきりいって疑問の余地が差し挟めないわけではないが、少なくとも「須磨」「明石」に見られるような情景描写は、とても美しくこころを洗った。
 やはり、それが日本的美意識の原点なのではないだろうか。たしかに、岡本太郎さんは、日本らしい美を発掘するのに、縄文式土器まで遡った。縄文式土器に、「もののあはれ」は無かったかもしれない。しかし、僕は縄文式土器も美しいと思うし、日本の四季の自然も美しく思う。それは、同じ美意識から出た感動なのではないかと思うのは、根拠が薄すぎるだろうか? 縄文人は平安人以上に、自然に脅威を感じ自然に神を見自然を畏れた。日本的無常観の土壌となったのは、あくまでも縄文人の価値観であり、そのうえに弥生人以降の仏教が輸入されて、「もののあはれ」が根付いたと考えるのは、強引すぎる理屈だろうか?
 すくなくとも、無常観的情趣と縄文式土器の美意識は同居できることは確かである。であるならば、現代日本人はそれらを踏まえた上で、芸術視なければ、足が宙に浮いてしまうということになるのだ。コロンビアの美意識を理解するにも、日本的美意識を土台にしなければ、真に理解したことにはならないのだ。
 そう言う意味でも、「族長の秋」を楽しむためには、もう少し日本的な審美眼を鍛えてからにしたほうが、いいようにも思えるのだ。
posted by Pearsword at 20:57| 富山 | Comment(2) | 迷い言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年05月06日

豆を蒔く季節でもなく……。

DSCN0380.JPG 今月は五月だ。折しも、天皇が譲位なさって、皇太子が践祚なさったので、改元して令和になった。かならずしも、美しい元号ではないが、保守的なわが故郷の文学館の館長が、万葉集から取って命名したとか、宮内庁か内閣が嘯いたのか、高志の国文学館も右派なのか、とんでもないこじつけだと思ってしまう。そんな元号の意味など知ったことかと、アベノミクス不況をかっ飛ばさんばかりに、民衆は空騒ぎして渋谷の街は大騒ぎで、暗愚な政府の見せかけだけ飴やるぞ政策の十連休で、群衆の殆んどは散財させられて給料も減って、六月は不味い食卓が確定で、そんな大層な時代の際を見極めたかのように、運命の判が、私と現妻との間に押されて、築けば平成ジャンプとやらをせずに済んだとか、言いがかりを付けられて、運命の絆の一本でも増やしてやったかのような、余計なお世話を焼くマスコミに辟易し、相変わらずGWはテレビは一瞬たりとも付けず、iPadでSNSをパラパラ見たのと、コンビニで配られていた号外を読んだの以外は、世間の情報は何も見ずに、それでも日は昇るし夜は更けるわけで、僕と妻は、要するに、世間のごたごたとはまるで関係なく、福を招来したのだった。
 式は、先のバレンタインコンサートで、淳ブライドをしたので、披露宴に当たる食事会を、親戚内で行った。僕は軽い気持ちで行ったが、母が正装した方が良いというので、まさか礼服を着込むことはなかろうと、リフォーム営業をやっていた頃に使っていたやたら派手なスーツを着て行ったら、仕事帰りに寄った兄以外全て正装で、しかもブーケやら御祝儀やら戴いて、驚くだけならただだが、内祝いとも成れば幼児のように驚いてだけはおれず、妻と何か返さねばならぬと話し合って、今は別居婚の妻の実家のある山口県特産の萩焼を買うことにした。
 そんな中でも、文筆活動は続いていて、僕は秋の群像新人賞に向けて、妻は冬の太宰治賞に向けて、それぞれ筆を進めていて、しかも、二人とも積ん読が山ほどあって、あれもこれも読まねばならず、ときには気が抜きたくも成るが、光陰矢のごとし、生きるなら後悔なく生きねばならず、精一杯読書も創作もせねばならないのだった。
 今読んでいる「族長の秋」(ガルシア・マルケス著)は、訳が特殊な所為もあるのか、一節まるごと改行が全く無い、切れ目のない小説で、面白いのは面白いのだけど、どこで切ればいいかの区切り目がないため、余計読み疲れてしまう。もとの文章が改行がないのかも知れないが、日本語に訳すのだったら、改行を適宜入れるべきだと、僕などは思う。確認したところ、僕の持っている「百年の孤独」には改行が入っている。翻訳者の違いでかくも異なるのは、やはり海外文学の限界だろうか。
 今日は、僕は仕事だったが、巷では文学フリマ東京だった。流通センターの第一会場で行ったためか、入場者数の記録を更新したそうだ。ツイッターで5000人を突破したと流れていたが、最終的には何千人だったのか、気掛かりではある。文フリ富山も現在、誘致のメールを事務局に打ったところだが、まだ反応がない。僻地の富山には誘致できないだろうか。富山ゆかりの作家は、割合多いのだが、富山出身の小説家は少ない。富山は、藤子不二雄の所為で、小説より漫画がかった街と思われがちで、高岡駅前などは、だらがかってドラえもんのブロンズ像が立っているし、氷見線にははっとり君電車が走っているし、恥知らずの市政にはほとほと困り果てる限りである。
 そんなに藤子不二雄を神聖化したいのなら、TADとでも組んで、藤子不二雄賞なる絵画コンペでも開いたらどうですか? ポスターのトリエンナーレなど不毛な努力したり、ベランダに白クマの塑造置くよりかは、いくぶんかましかもしれない。
 と、こんな愚痴にもならないクレームを、誰にともなく吐いているから、一向に僕の小説は売れないのだろうな。
 取り留めが無いが、近況報告でした。
posted by Pearsword at 19:07| 富山 ☔| Comment(0) | 浮泡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年04月24日

「TVピープル」村上春樹著。

 妻が発症したときに、本屋の本棚に吸い込まれるようにして選んだという本「TVピープル」を、勧められて読んでみた。この本は短編集だが、とりあえず表題作について、思うところを述べてみる。
 確かに、始まりの掴みは上手い。ぐっと引き込まれる。それはユーモリズムとミステリアス性を混ぜたような、一種反純文学的牽引力である。アイデアが奇抜で、読者は「TVピープル」とは何なのか? と疑問を持ってそれを知るためにページを捲ることになる。この辺は、星新一のSFショートショートとなんら替りのない、世俗的で強い惹きである。なので、とても読みやすい。
 しかし、その小説世界が美しいかと言えば、そういう美的センスの問われる小説ではない。ひとりTVピープルの存在のシュールレアリスティックなところが若干思索美を産むが、劇的美しさではない。ただ、TVピープルの謎を知りたくて、読者は読み進めさせられるが、最後まで明確な解答は得られぬまま、あたかもTVピープルが何かの象徴であるかのように、仔細らしく終っている。
 とはいえ、この小説の筆致を見ると、どうも無プロット小説のような、その場その場の思いつき的アイデアの積み重ねで作られているような痕跡が見える。あるいは、巧みな小説家であるならば、プロットをそのような無プロット小説的に組み立てることも可能なのかもしれないが、ことこの小説に関しては、そこまで計算高く作られているようには思えない。
 TVピープルが一回り小さいのは、芸能人がテレビで大きく見えることから考えたことだろうし、SONYのテレビを据え付けていったあと、テレビが白いサンドウェーブしか見えないのは、昭和末期のテレビ全盛期の、テレビを観ている間は人は何も考えていないという、テレビ文化に対する警鐘でもあり得ようが、そういう寓意を中途半端に見せておいて、最後は自分もTVピープルに成り掛かって終るのは、寓意を安易に理解させずに意図的に複雑化して、読者を混乱させて小説の芸術性にすり替えたような、小手先技術的な卑小な作品と評価することも出来る。
 自分もTVに出るようになり、国民みんながTVに出るようになり、みな矮小化してマスコミの力にねじ伏せられて自分のこころの自由が利かなくなり、石化したように身体が固まる。そういうアンチTV文化、アンチマスコミ、といったテーマが見え隠れはするものの、そのテーマを下手に謎めかせているが為に、寓意が中途半端な状態で吊り下がったまま、着地できる場所を持たない。文章という表現技術で遊んだ小説としか思えないような半端さが、どうしても拭えない。言い切らないのは、余韻と言えるのだろうか? 言い切っても余韻を残すことは出来るのではないだろうか? その辺は、僕は自分で小説を書くから言えることだが、村上春樹氏の卑怯な面、あるいは姑息な面だと思う。テーマを断定してしまうと、そのテーマが間違っていた場合、小説自体も死んでしまうし、理解されやすい小説は、謎のない分簡単に読者に料理されがちだ。そういう、小説を安易に殺させない手段として、わざとのように解決不可能な不可思議さを残すような、中途半端な書き方を、この小説は作されている。それが、正しくないとかそんな議論は不毛だが、少なくとも僕は嫌いだ。そう言う面からも、僕が村上春樹氏の作品を読みたくない理由が、浮き彫りになってくるだけ、この本を読んだこともあながち損にはなっていまい。
 まあ、大衆受けはする作品だとは思う。
posted by Pearsword at 17:56| 富山 ☔| Comment(0) | 文藝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年04月21日

第五回文学フリマ金沢。

20190420_033234222_iOS.jpg 昨日は、平成最後の文学フリマ金沢だった。聞いたところに依ると、文学フリマ金沢は、スタッフが勤め先の会社の都合上、二〜三人重なって転勤移動することになって、スタッフが居なくなるのでとりあえずは今回で最後と言うことだった。また、初めての土曜日開催でもあり、あまつさえお客様の動員数がすくない文フリ金沢だけに、売上が思い遣られた。去年は、懇親会を含めて10冊2800円だったが、今年は単価の高い本が多く売れて懇親会も出ないのに、8冊3900円売れた。僕は、あまり売る気になれなくて、ブース後ろで阿呆な短歌などを詠んだり、句会ワークショップに参加したりしていたが、妻の藍崎さんが頑張ってくれて、もちまえの対人恐怖に駆られながらもこれだけの成果を上げてくれたのだ。ありがたいことである。
 ちなみに僕の文フリ中に読んだ歌は、以下の2首である。
 
 閑古鳥いかなる声か聴きたくば 無刀会なるブース尋ねよ

 客の手はまるで汚物の並ぶごと 我がブースのみ避けて伸びゆく

 右隣は、「嘉村磯多」のパブリックドメインの小説を紹介するブースで、左隣は、下ネタがらみの文学を書く人のブースだったが、両隣はよく客が入るのだが、うちらのブースだけ何故か避けられていた。僕も、最初の何十分かで売る気がうせて、あとは後ろに引っ込んで遊んでいた。今回の売り上げは、妻の頑張りに預かるところが殆んどである。
 文フリ金沢が無くなるということで、望月さんに文フリ富山をやりたいと、名乗っておいた。いろいろ必要事項を調べて、メールしなければならないようなので、後日やっておこうと思う。
 今回は、懇親会は出なかったが、それは金沢駅近くまで移動せねばならないのと、金銭的余裕のなさなどの理由で、決断した。平成最後だし、次の日が日曜日だけあって、出ておいてもよかったのだが、車で二時間強かけて帰ることを考えると、出なくて無難だったかな、とも思う。
 売り上げについては、新刊の9号が5冊売れたのが大きかった。また、はじめアマゾンPODと無当会ダイレクトのチラシを闇雲に配っていたが、あっという間に無くなってしまったので、カラー両面コピーだけに、かなりもったいないことをしたかなとも思う。チラシも格安印刷で作ったほうがいいのかもしれない。
 とまれ、我々の出店する新年度はじめての文フリは無事終わった。今後は、文フリ大阪に向けて、自分の新刊を何か出して、さらなる売り上げ向上を目指そうと思う。
 

posted by Pearsword at 07:53| 富山 | Comment(2) | 創作 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年04月13日

「阪急電車」有川浩著。

 友達に勧められて、普段は自分では決して読まない類いの小説を読んでみた。
 この小説は、構造としては非常に凝っている。おのおのさまざまなドラマを持つ複数の登場人物達が、同一の阪急今津線の中ですれ違う際に、こころを触れ合わせて影響し合う。その登場人物の殆んどが、ハッピーエンドで締めくくられる。悪く言えば、安っぽいドラマのピラミッド、良く言えば、シンプル化した人間模様のミュージアム、といった感じの作品だった。
 しかし、確かに何ごともハッピーエンドが好きな大衆には受ける内容になってはいるが、悪役と正義がはっきりしているし、悪は正義に負けてハッピーエンドという安っぽい哲学で描かれているし、あまり深い思想のもとに描かれているとは言いがたい。複数のカップルが出てきて、みな最後はハッピーになるし、寝取られて不幸の絶頂だった女も、年下の同性の友達が出来るという終り方をしているし、どちらかといえばやはり大衆小説である。全ての人間に、不完全性を持たせている点に到るまで、とことん大衆小説である。
 こういう小説は、やはり名は体を表わすという諺が真理であるのか、描写も拙い。風景の描写が殆んど無い変りに、説明文で補ってある。だから、文学的情趣に欠ける。ストーリーとしてはよく出来ているのかもしれないが、かならずしも文字で書かなくても良い作品である。べつに文字でなくても表現出来るレベルの芸術性しか感じられない。漫画の脚本にピッタリのような気がする。漫画のような白黒の絵で描いても、このストーリーの美しさに罣礙しない。小説である必要性がない。
 また、殆んどの部分の地の文が、語り手の心境として描かれているためもあって、まったく繊細な表現がない。大雑把でずぼらだ。確かに、さまざまな人間模様を描いてあるのは、退屈しないし面白い。それは、読みやすさでもあり、この本が売れる理由でもあろうが、これならツタヤに行って映画のDVDを借りてきて見た方が、面白い時間を過ごせるかもしれない。それだけ、文学的あるいは詩的情趣に欠ける。
 読みにくいと良く言われる大江健三郎の小説などは、確かに安易な大衆を寄せ付けない難解さを持つ。しかし、一度その小説世界の中に入ることが出来るならば、その詩的情緒の秀逸さに感動出来るはずだ。感動出来なければ読書好きとは言われない。そう言う人は、アニメか映画でも見ていればよろしい。
 だから、友達への義理でこの本を完読はしたものの、少し時間を無駄にしたような感じが否めなかった。文学は、芸術であるためには、もっと読み手の感情を揺さぶらなければいけない。この小説の面白さは、「遠山の金さん」などの時代劇や「やまとなでしこ」などのトレンディードラマの域である。それでは、問題多き現世の大衆の寝ぼけた感性を励起できないのだ。芸術とは、大衆の感性へのアタックでなければならない。少なくとも、この娑婆地獄に問題提起を呼び起こすものでなければ、芸術の価値はない。それだけ、いかにこの浮世が問題だらけか、それを訴えねば幾ら奇異な芸術を創出して大衆を驚かせても、何の意味も無いのだ。
 そういうことを考えると、自分の作品の幼稚さがよく見えてくる。僕の作品において、世に何を問い得てきたか? 
 確かに、問題提起だけが文学の要素ではないが、そういうものも大切にしなければならないのだな、とこの作品を読んで感じた。まあ、これは創作家としての色眼鏡での評価でしかないので、別にこのような大衆文学を否定するものではないが、僕自身はあまり楽しめなかった。
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2019年04月12日

「歯車」芥川龍之介著。

 この作品は、芥川龍之介さんの遺作だと聞いて、読んでみたものである。
 ある程度私小説的要素があって、どこまでがノンフィクションなのかわからないような虚構を混ぜたような筆致で描かれているものの、芥川龍之介さんが統合失調症だったという診断もあるわけだから、これは多分ある程度本当に芥川氏が体験した妄想や幻覚をもとに、描かれているものと思われる。
 主人公の右眼に見える歯車幻覚は、偏頭痛を伴い常日頃起っていたものとされているが、それが人間社会の歯車の一つに過ぎぬ自分というものの可視化であると思えるのは、その幻覚に対して反抗心を抱くところに良く出ている。主人公は、物語の初めで、レエンコオトを着た男を見て、街の噂に翻弄されそのような幽霊を見た人はいずれ死ぬのだという妄想に駆られてしまう。その後、黄色いタクシーや翼や白黒の喪色など、あらゆるものが自分の死の予兆のように思われる妄想に苛まれている。
 だいたい、「歯車」というものに反発すること自体、まだまだ仏教的運命感である「因果応報」や因縁たる「回互」を認めていない点において、仏教的にまるで救われていない。「万物おのずから功あり」という「参同契」の言葉にあるとおり、みずからが「歯車」であることは、宇宙的役割を背負っていることであって、少しも忌むべきことではないのに、やおら独立不羈的な野心を抱くために、仏教にも見放されてしまうのだ。
 主人公は、自分は罪悪を犯した存在で、その復讐の神により祟られて地獄へ落ちるのだと、闇の中に落ち込んでしまうような、そんな絶望的感覚に陥っている。闇だけに、志賀直哉氏の「暗夜行路」に安らぎを覚えているところは、なんともいえず文学者としての敬虔さを感じる。宗教や科学が、自らや世間の人々の罪を正当化するためのエナメルに過ぎないように思われる主人公にも、文学のみは救いだったのだ。しかし、その救いを得ようとドストエフスキーの「罪と罰」を読もうとしたら、閉じ違いで「カラマーゾフの兄弟」が装丁されており、主人公は愈々死の恐怖に襲われる。
 やがて、露わになってきて主人公をして、死にたいと切実に思わせる翼の幻覚は、イカロスの翼として描かれている。つまり、太陽という完璧を目指して飛んでいき、蕩けてしまって墜落して死んだ男。それは、主人公の犯した罪悪からの逃避飛行の象徴の翼だったのかもしれない。自分や地球の大宇宙に比する卑小さを思ってみても、少しも拭いきれない自らの罪悪感は深刻で、ドッペルゲンガーの話も想起させて、自分の死の恐怖ばかりが前面に出てきていて、しかもその逃れられない死について、最後には投げ遣りになってしまっている。つまり誰か、寝ている間に絞殺してくれという終り方になっている。
 芥川氏が、愛人などの関係で悩んで自殺したことは遺書に見られるが、それはただの契機に過ぎなくて、自殺の原因はやはり統合失調症であるといわざるを得ない。自分の罪深さを常に思い、それは宗教でも救われず、抗精神病薬のなかった当時、睡眠薬で無理矢理作り出すせめてもの睡眠で紛らわすしかなかった。その苦しみが切実に語られていて、一見纏まりのない小説ではあるが、主人公の病的恐怖が表現されていて、身につまされる小説だった。
 僕は、抗精神病薬のお陰で幻覚や妄想が少なくて正気を保てるので、仏教に明るい死滅感を抱けるので、かなり救われている。しかし、芥川龍之介には゜それがなかったのだ。科学にも宗教にも、猜疑や不審の感性しかもてず、それはあるいは新しい価値観の創造の試みであったのかもしれないが、少なくとも救われず自滅してしまった。僕は、経験上、幻覚や妄想から自分を救ってくれたのは、いつでも現実現象だった。現実は、妄念や幻聴によっては、変化しない。変化したと錯覚するだけである。ここを蹉過しなければ、統合失調症の患者は、現実に救いを求めることが出来る。それは、科学的であり仏教的である救われ方である。それが、歯車には見られない。
 芥川龍之介氏は、やはり病魔に冒されて亡くなったのだと、改めて感じさせる遺作だった。
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2019年04月08日

「優雅で感傷的な日本野球」高橋源一郎著。

 この題名からしてこの内容は、普通の小説家ではありえないものだと思う。大体が、「日本野球」を描くのに、こんなにユニークに多角的視点からグローバルに書くという手法は、風変わりとしか言いようがない。だから、小説の読後感は、「すごい」としか言いようがなく、少しも美しいというような感傷的芸術観に留まっている作品ではない。むしろ、文体そのものには醜さすら感じられる。それでも、作品を通じて提出されるテーマには、日本野球を日本社会の諸現象にまで還元するような、哲学的捉え直しが行われていて、1985年の阪神優勝を通じて、とても独創的な興味深いテーマが突き出されているのだ。
 かといって、全く美しさが無いことはなく、書き始めの章の「偽ルナールの野球博物誌」のリッチーとバースが喫茶店で会話するシーンは、とても情趣豊かに、しかもユーモアを忘れることなく、美しく描かれている。初めは、この二人が、リッチー・ゲイルとランディ・バースだとは判らないように描かれていて、バースが図書館で「日本野球」に関する様々な記事を収集している話から、小説は入っている。
 さまざまな笑いを催させる文章が鏤められている、下手をすると漫画くらいにコミカルな小説だが、読み終わって考えるのは、作者が言っている「日本野球」とは何のことなのか、という問題提起の答えのことである。それは、この小説に明確な解答が述べられているわけではなく、読者おのおのの感性によって、いかようにでも解釈出来る仕上がりである。
 僕の感じるところでは、この小説の筋としては、1985年の阪神の優勝は神がかり的運命であり、もはやそれは「野球」ではなく、日本野球の神とされる「ネメンホテップ」のたなごころの上で操り人形として踊らされた「喜劇」でしかなかったのではあるまいか、ということである。この「日本野球」に関する運命論的なところは、むしろ観客の応援のための応援というお祭り騒ぎを想起させ、そのことについても、著者は「愛のスタジアム」の章で上手く表現している。
 僕は富山出身だが、以前春の高校野球で、新湊高校が旋風を起してベスト4まで勝ち進んだ。そのときの応援は、新湊が港町だったこともあって、凄まじいものがあったらしくて、応援によって相手チームのエースや選手を威圧して圧力を掛け緊張させてミスを誘い、新湊高校を勝ち進めたとも言われている。それと同じことが、プロ野球でもあるとすれば、やはり熱狂的阪神ファンならば、やりかねないことでもあろう。プロは緊張には強い。しかし、それを上回る熱狂を、阪神ファンは1985年に巻き起こし、「ネメンホテップ」のいたずら心を擽って、運命の上ですべてのプロ野球選手を翻弄したのではないだろうか。
 なので、マジック1になった時点で、選手がそれに気付き、こんな何をやっても勝つようなものは「日本野球」ではない、と考えて、突如野球選手をやめて全員失踪するという結末を迎えることになる。もちろん、それは心理面のことであろうし、あるいは虚構の世界でもある。しかし、「日本野球」とは何なのか、根源的問い掛けを提出したのは、華々しい「阪神優勝」という栄華に対して感じた、作者なりの野球愛の現れだったのではないかと思われる。
 印象的な、「テキサス・ガンマンズ対アングリー・ハングリー・インディアンズ」という本の、鼻紙から生還した次のページには、その尋常ならざる根性の熱戦のラストシーンが描いてあって、日本の高校野球の数百倍のロマンを感じさせる、野球のスリリングさと緊迫感、悲哀など複雑な感情が複合的に表現されていて興味深い。野球の勝負は水物で、実力や才能が支配する世界ではないということを、例示的に語っている気がする。
 そして、作者が示唆する「日本野球」とは、日本における社会の営みの一つとして暗喩的に設定される。マルコポーロの東方見聞録に「ジパングでいちばんすばらしいのは、ヤキュウ」という風に記させていて、それが日本における何かのメタファーであることは安易に想像が付くのだ。「日本野球」とは、「野球」というルールにしたがうゲームである以前に、日本人的なにものかなのだろう。それを感じ取るのは、この小説の読者おのおのしかいない。
 とにかく、いやしくも美しい小説とは言われない作品だったが、とても面白かった。こんな凄まじい作風もあるのだな、と恐れ入った。
 
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2019年03月30日

大学時代の助教授の退官パーティー。

 今日は、大学時代お世話になった研究室の片山助教授の退官パーティーに出席するために、東京に行く。今、高速バスで移動中である。在京時代は滅多に行かなかった銀座の、ライオンという料理店で昼間に行われる。
 大学以来、お会いしていない、お世話になった先輩の方々と、お久しぶりにお会いするので、曲がりなりにも看板拙著の「菩提人」を何冊か鞄に詰めた。売る気は毛頭ないが、この前同級会で大学の友達や教授に売ってしまった手前、今回もそうなるのかな、などと思ったりもする。僕としては、お金よりもAmazonレビューが欲しかったりもし、その辺は以前「菩提人」を買ってもらった友達にも、相談するつもりである。
 しかし、朝寝坊してしまって、駅裏の通勤用に借りている駐車場まで行けず、駅前の有料駐車場に止めて来たばかりか、イヤホンまで忘れ、途中のサービスエリアで購入するという、大損害の旅行になった。これなら新幹線で行った方が良かったかもしれない。
 まあ、小説など読み読み行くことにするが、とりあえず高橋源一郎の「優雅で感傷的な日本野球」を読んでみている。同著小説教室に書いてあることを実践しているかのような、模倣を取り入れた小説を、冒頭で軽いジョークのように持って来ていて、それは暗に村上春樹さんを揶揄しているのではないかとすら、思われる。高橋源一郎さん自体は、小説教室にあるような、何かの模倣から始めた小説を書いているのかどうか? はっきり言って、こんな珍妙な小説が、模倣である可能性は、かなり低いように思われる。
 初めから、独特なユーモリズムで満ち溢れたこの小説は、かなり独創的と言わざるを得ないと思うが、あまり知識が多くない僕だから、そのように思われるだけなのかもしれない。
 バス中で、ブログを書いているが、少し酔ってきて気持ち悪くなってきた。
 しばらく、休んでいたら、吐き気が収まったので、また書く。ここは、妙高のあたりか、まだ雪が残っている。今年は富山は小雪で、殆んど積らなかったが、やはり山中に行くと当たり前のように積もっている。そういえば、まだスタッドレスタイヤを変えてなかった。帰ったら、痛い腰を労わりながら、よろよろタイヤ交換せねばならないだろう。
 今日は日帰りで、新幹線の終電で富山に帰ってくる。ライオンでは、14時から二時間の会食だ。二次会もあるらしいが、ただでさえ銀座は高いので、やめておいた。16時から、終電までは暇なので、東京在住の友達に連絡したら、会ってくれるそうだ。久しぶりだから、懐かしい。
 もう、僕も50歳。なかなか立派になることは能わなかったが、今後も希望を捨てずに、一生小説家として生きていこうと思う。

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2019年03月28日

「遠い山なみの光」カズオ・イシグロ著。

 ノーベル文学賞受賞作家の作品を読んでみた。ありていにいって、ストーリーを牽引する力がミステリー的色合いを帯びていて、少し俗っぽい側面が否めなかった。台詞も多く、翻訳者の性質もあろうが、日本語表現に面白さが欠け、小説と言うより脚本といった感じだった。しかし、描き出されている小説世界自体は、なかなか興味深く美しい世界ではあった。
 しかし、この邦題はどう見ても誤訳のように思える。原題は"A Pale View of Hills"つまり直訳すると「岡の青ざめた景色」となって、ニュアンスが邦題とまるで異なってくるからだ。"Hills"は特定されないどこにでもある「岡」である。そのなかの一つの不特定な「青ざめた景色」なのだ。「岡」とは地球に普遍的にある山々のことで、小説に出てくる山は、「わたし」が佐知子一家とケーブルカー(ロープウェイのことと思われる)で登った、長崎の港沿いの峰しかないのだ。つまり、長崎の山たる"Hills"の「青ざめた景色」ということになる。これは、反「原爆」小説的題名になって、この小説のテーマを、ぐっと前に突き付けてくることになるはずなのに、「遠い山なみの光」では、逆に希望すら感じ取れる正反対の題名である。
 まあ、確かに、この小説は「長崎」を第二の舞台としているにしては、「原爆」の惨さが、まったく語られていない。戦争の悲惨さすら、殆んど描かれていない。しかし、日本の敗戦によるアメリカ軍による占領で、日本社会が大きく変化し、それによって様々な人々が、あらゆるものに翻弄され、心理的ダメージを受けたのだ、という、戦争の物理的残酷さではなく、精神的非道さが描かれているのではないかと、原題を読んで思った。
 普通に読めば、日本で産んだ女の子を連れたまま、離婚して英国の男と結婚してイギリスに渡ったために、その女の子・景子が自殺してしまったという、単なる家族関係のもつれの話に過ぎないのだが、そこに「わたし」が思い出しているのが、長崎にいたときに、アメリカ人のフランクにたぶらかされて、渡米を夢見る「佐知子」だった。彼女は、万里子という利発な女の子がいるのに、あまり大切にせずに、渡米やフランクに夢を見る。それは、佐知子一家が東京住まいの時に万里子が見たという、戦時中に見た赤ん坊を水に浸水させて殺す母親のことを、万里子が長崎に来ても思い出して、「私を連れていこうとする」と、万里子に述べさせるような、母親の無関心さとなって描かれている。曖昧にも書かれていて、山にピクニックに行った帰りに、万里子と佐知子と私が市電に乗っているときに、窓の外を覗く万里子をじっと見る不気味な女性が描かれていて、佐知子はその女を見ていたが、私が訊くと「いいえ、人違いだった」と嘯いている。あるいは、最後の猫を水死させる段で、佐知子が裏の川の水面に、子猫を沈め殺すシーンは、ひょっとしたら万里子が見たのは、実子を水死させた実の母の佐知子だったのではないか、とすら勘ぐらせる。しかし、これらには明確な捉え方が用意されておらず、読者の想像に小説世界が委ねられる。
 景子が自殺した話に、なぜ戦後原爆投下から復興しつつある街の、変わり種の御近所さんだった佐知子のことを思い出さなければならなかったのか? その示唆は、ニキと喫茶店で見た、カッパを着てブランコに載った女の子を見て、デジャブ的に同じ夢を繰り返して見たと語った私のシーンに出ている。その夢に出てくる女の子は、あるいは幼き景子の膠着したものであったか、あるいは万里子の思い出であったか、これもまた、伏線が回収されず終いで、小説が終っている。
 言えるのは、若き日に見た万里子に景子の死因を、佐知子に自身の愚かさを、「わたし」は重ね合わせただろうことである。戦後、男女同権になって、「わたし」も夫の二郎から離れて、自由な外国に行く道を選んだ。それは、あくまで自分のためであり、けっして景子のためになっていなかった、そのように自省したからこそ、ニキにデヴィッドとの結婚のことを訊いたのではないかとも言える。
 小説世界としては、割合味わい深く美しい世界が描かれてはいるものの、「長崎」の重みがまるで無くて、原爆被災地としての意味が全く否定されている。その辺は、長崎生まれの著者ではあるが、やはり被爆者ではないからか、その尋常ならざる残虐性が判っていないのだと思う。だから「長崎」を舞台にする必然性がまるでなく、むしろ原爆被災地「長崎」を莫迦にしたような小説とも、曲論をいえば評価可能な作品である。「長崎」を描くなら、せめて戦争の悲惨さくらいは書いてほしかった。これでは、戦没者が報われない。そこは、やはり戦争体験をしていない世代という弱さなのかもしれない。
 まあ、少なくとも日本語訳版は、そんなに文学的色合いは濃くない、大衆小説的作品だろう。
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2019年03月23日

「その街の今は」柴崎友香著。

 この小説は、今まで僕の読んだ柴崎友香さんの小説の中では、あまり僕には高い完成度に仕上がっているようには、思えなかった。題名に比して描き出されるテーマが薄ぼんやりだし、問題提起しているような切迫感も感じ得ない。どこか宙ぶらりんで終っている小説は、余韻が残るというよりも、途中で無理矢理切り上げた感すら思われる、何も言っていないような小説だった。
 しかし、一応の暗喩的テーマは、最後の除却された建物の奥に見えた、家の玄関の罅の入った漬け物樽から鬱蒼と生え伸びる薔薇の花々に象徴されていて、大阪の街の破滅と再生の中にも逞しくも咲く美しい花たる、大阪の街を彩ってきた煌びやかさといったものなのではないか、とも言える。大阪の街の昔に、古い写真を通じて思いを寄せる歌と、その女友達などの恋愛もまた、その花となりうるのかもしれないが、僕は、この小説の柱は、二本なのではないかと思った。つまり、大阪の歴史に代表される、過去から連綿と因果応報の鎖で繋がってきている現在というものに思いを馳せるための、破滅と再生の物語が一本と、歌や智佐などの独身女性の恋愛成就に象徴される、しがらみだらけの一見汚い人間関係のなかに息衝く、出逢いの美しさの物語が一本と。
 印象的なのは、合コンの帰りに寄ったスタバで、智佐と百田さんと歌がお茶しているとき、後ろの席で電話の向こうの友達に、見知らぬ若い女の子が涙ながらに述べた、自分をフッた男の台詞である。
 「おまえはぁ、一人でも大丈夫やけど、おれは、あいつのことはほっとかれへんねん、って言うねんやん」
 その悲痛な台詞を聞いて、こともあろうか、三人は笑うのである。人の悲劇がおかしいという感覚ではなくて、失恋くらい人生の日常茶飯だという感じの、徹底的な楽観が、この一場面に記されている。この女の子にとって、この失恋はとても深刻で、このあと鬱病になってリストカットするかもしれないなどという暗澹たる思いは一蹴されて、あくまでも平和な人間社会の中の一つのありふれた出来事として、描かれている点が著者の価値観の表れだろうか。それは、大阪の街が破滅と再生を繰り返すのと同様、大阪の庶民も辛苦と幸福を繰り返す中に、岩橋の持って来た昔の大阪の写真に写っているような美しい薔薇のような「花」たるきらめきを咲かすことが出来るという、そんな人類愛というか浮世謳歌が訴えられている気さえするのである。
 その証拠、この小説に出てくる大阪の街の風景は、道頓堀川が濁っていようと、とても詩的で美しく描かれている。美しい情景描写は、柴崎さんの小説には珍しいものではないが、この小説に関して言えば、「千の扉」や「パノララ」から比べると、今一小説自体の完成度が低く感じられるので、却ってより目立って美しい。柴崎さんの大阪愛が判るような作品である。
 大阪の街の破滅と再生に関して言えば、一般的無常観の諦念のうえに、血の気の通った人間らしい欲望の碇を降ろしたような感じの哲学で描かれていて、静かな諦念の代わりに暖かい人類愛で、栄枯盛衰の娑婆を包んでいる。写真の見方についても、作者独自の見方が感じられて、写真そのもののなかに、別の宇宙を見出すような見方が成されている。僕は、あいにく写真はあまり好きではないが、このような写真の見方をすると、少しは楽しめるのかな、と言う気もする。その別の宇宙と現在の此土が繋がっていると感じるとき、歌は読者を引き連れて、哲学的な宇宙論に、こころを没入させていく。それは「最初に空中写真で焼け跡の心斎橋を覗き込んだときの、あの感じ」という、言葉では言い尽くせない非言語的感覚として表現されている。つまるところ、それは破滅と再生を繰り返す無常の中に強かに咲く美しさという花、ということなのではないかと、無常観にプラスアルファを加えてくれる作品でもあると思う。
 織田作之助賞受賞作ではあるが、柴崎さんの作品の中では、中の下くらいの出来の作品かな、と思った。
posted by Pearsword at 07:28| 富山 ☁| Comment(0) | 文藝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年03月21日

平成最後のお彼岸。

20190321_063659920_iOS.jpg 今日は、お彼岸だったが春風が強かに吹いて、嵐のようだったので、お墓参りに行っていたら、たいそう蝋燭の着火に手間取っただろう。
 僕はと言えば、腰痛からくる無気力に苛まれて、何も出来ない朝を迎えていた。かといって、朝寝坊できるほど健全な精神ではないので、ギスギスしつつもうすら呆けた頭を覚まして、朝風呂に入って腰の痛みを和らげた。
 そのあと、妻とフェイスタイムをして、少し元気は出たものの、やはりだるくて、何も出来ずにうずくまっていた。外に昼ご飯を買いに行く気力もないので、家にあるお菓子とカップラーメンで昼飯を済ませて、また妻とテレビ電話すると、妻はいつもとは異なり、介護しているお祖母ちゃんの部屋にいた。妻の後ろには、どこぞのお土産の日本地図と、お祖父ちゃんのもらったという賞状が掛かっている。なんでも、お祖母ちゃんが揺り起こしても起きないから、目を覚ますのを待っているのだそうだ。
 テレビが大音響で鳴る中、少し話したあと、ひょっとしたらテレビを消したら起きるのでは? と提案したところ、妻がその通り試したら、本当にそのとおりお祖母ちゃんが目を覚ましたので、テレビ電話を切った。その切る前に、妻が画面越しに、掃除することを勧めていたので、僕はコルセットから探し始めなくてはならなかった。この腰で掃除機を掛けるには、どうしても必要な保護具なのだ。
 散らかりまくった部屋を片付けながら、押し入れの奥から、ようやく古いコルセットを出してくると、それを装着して掃除機を掛ける。その前に、ぞうきんであちこち拭くのだが、そのときにお仏壇の仏様が、所在なさげに埃を被っていらっしゃるのに気付いた。仏像をぞうきんで拭くのは恐れ多いので、専用のハタキで叩いて掃除して、仏壇の周りや須弥壇の下だけ、ぞうきんで拭くと、だいぶん綺麗になった。お彼岸であることを、それで漸く意識できて、お供え物でも買ってこようと言う気になった。
 掃除を終えた後、隣のショッピングセンターまで、春風の強い中、ツッカケ引っ掛けて上着も無しに、出掛けていく。スーパーで、ぼたもちが売っていたので、一番小さい四個パックを買ってくる。その隣の花屋で、白と黄色の菊が主体の仏花を買って、エコバックに入れた。ついでに晩御飯などを買ったりして、風に煽られつつうちに帰る。
 早速、ぼたもち三つと仏花を供えて、久しぶりの読経をしてみた。永平寺日課経大全というものの一部である。ダルマ蝋燭19分一本で読める長さだが、開経の偈、懺悔文、三帰戒文、三帰礼文、妙法蓮華経観世音菩薩品偈、般若心経、参同戒、宝鏡三昧、五十七仏、大悲心陀羅尼、妙法蓮華経如来寿量品偈、消災吉祥陀羅尼、回向、四弘誓願文、と諷誦した。以前は、毎朝読んでいたものなので、すらすら読めたのだ。
 掃除したあとのお彼岸の読経は、鬱気を追い払った。信仰の力というものではないのだが、読経にはこころを安定させる効果があるのだ。
 終わったあと、供物の皿に盛れなかったぼたもちを一つ食べたが、腹が減っていてなかなか美味く感じた。
 たまには、仏事もいいものだと思った。
 
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2019年03月17日

第五十六回文藝賞応募。

 こりもせず、また文学賞に応募してしまったが、腐っても「文藝賞」は若い頃からの憧れの賞だっただけに、今後も出し続けていきたく思うものである。「癲狂恋歌」が、歯牙にも掛けられなかったのは残念で成らないが、それだけ僕の小説世界を理解してくれる選者が、河出書房新社にはいないということだろう。だから、今回のニックタイトル「ウラーメロディエス」も、第一次選考も通らないのは、火を見るより明らかだが、まあ新入社員も募集していたようだし、ひょっとしたら、河出書房新社に僕の理解者も出てくる可能性も、万が一にもあるかもしれないので、地道に出し続けていこうと思う。
 「文學界新人賞」に出した「恁麼」が全く評価されなかったことに関して、僕はかなり失望したのだが、「恁麼」に類した作品を「文藝賞」に出して歯牙にも掛けられなかったら、相当落ち込むだろうことは安易に想像が付く。落としたのが文藝春秋でよかったとせねばならない。文藝春秋は、もとからあまり好きな出版社ではなかった。「オール讀物」に出した「飛梅」もまるで相手にされないのは、「源氏物語」などを読むと、少しは理解できるが、「恁麼」を評価できないお堅い脳というのは、もはやフロンティア精神を失った、保守的なサロン趣味の貴族芸術くらいしか理解できないのだ。そんなもの犬にでもくれてやれだ。
 なので、選考委員に新たに憧れの柴崎友香さんが加わった「群像新人賞」に、今年の後期は応募しようと言うことにも成るのだ。講談社が、どれだけ僕の作風を認めてくれるか、それはかなりの線で厳しいところだが、以前応募した「孤独な恋人」は、かなり瑕疵が見えていたし、落とされても納得がいったので、今度こそは、一次選考通過を期して出そうと思う。最終選考に残る可能性は、宝くじくらい低いだろうが、それでもアブストラクト小説をぶつけてみたいと思う。
 なお、文藝賞の締め切りが今月末なのに、なんでこんなに早く投函したかと言えば、「恁麼」の落選デプレッションで、推敲に疲れてしまって、これ以上手直しする精神力が尽き果てたためである。推敲はとても精神力が必要な作業なので、充分に力を溜めないと出来ない。あと半月休養して、力を蓄えるという手もあるかもしれないが、毎日休みのわけではなく、日々の労働があってなかなか休養できない。待つだけ無駄と判断して、これまでと思い切りを付けて推敲を強引に上げ、今日投函した。何回も今まで推敲してきたし、探せばまだ直せるところも出てくるかもしれないが、見付かっても些末的な部分だろうので、小説の決定的な瑕疵にはならないだろう。もし、この作品が全く理解されないのであれば、多分河出書房新社には、僕の作風を理解できる選者がいないのだろうと思う。
 いたずらに投稿歴ばかり増えていって、少しも選考に残らないのは、実力のなさというよりも、僕の小説世界が出版社には理解されないのだろうと思う。友達とか知人で僕の小説を読んでくれる人は結構いて、お世辞かもしれないが、面白くないとは言わない。好意的な人は、毎回感想文まで書いてくれる。だから、理解者はほんの少しだけれども、いないわけではないのだ。たまたま、出版社の審美眼に叶わないだけなのだ。そういうものは、相対的価値観だけに、絶対的に僕の小説が間違っているとかくだらないとか、そういえるものではないと思うし、僕は自分の小説に人生を賭けている。それを軽視するような人は、もともと僕が嫌いか小説の読解力がないか、どちらかだ。人一人が人生を賭したものを軽んずることは、人権否定と同等レベルの下等さだ。少なくとも、小説を選ぶ出版社の選者の方々には、そういう僕の真剣さを、理解して戴きたく思うものである。
 とか言いながら、結局第一次選考落ちだろうな。  
posted by Pearsword at 11:29| 富山 ☁| Comment(2) | 創作 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年03月16日

「次の町まで、きみはどんな歌をうたうの?」柴崎友香著。

 今となっては、文庫本しか購入出来ない本だが、「きょうのできごと」や「ショートカット」の本を買い、「青空感傷ツアー」を文藝で読んだ私としては、どうしても読んでおかねばならない柴崎友香さんの初期作集だった。
 私は、「きょうのできごと」で既に、柴崎さんに憧れを抱いたが、「青空感傷ツアー」で完全にファンになり、「ショートカット」でこんな美しい小説世界は見たことがない、と痛く感動した。しかし、悲しい哉、その後生活に追われ、小説を読む機会が少なくなり、「寝ても覚めても」を思い出したように買ってみたが、「春の庭」で芥川賞を取るまで、何回も読みかけては挫折していて、それは読書という作業が、症状の所為もあって、なかなか落ち着いて出来なかったことがあって、鹿島田真希さんの「冥土巡り」受賞から俄然、芥川賞を読むようになったら、その後柴崎友香さんも受賞なさったので、「春の庭」もハードカバーで買えて読んでみたら面白かったため、調子付いて「寝ても覚めても」を読んだら楽しく読めたのだった。
 こう書くと、なんだ鹿島田真希さんのほうが好きなんか、となりがちだが、「冥土巡り」に関して言えば、それほど感動はしなかった。ただ、懐かしかった。J文学を追って自分も執筆に勤しんでいた青春が懐かしくて、自分のファンだった作家さんの受賞が嬉しかったのだ。鹿島田真希さんに関して言えば、僕の中で一番好きなのは、「二匹」ではなく「レギオンの花嫁」であり、「冥土巡り」もなんでこんなに暗いのかというくらい、雰囲気に暗雲が立ちこめている。なので、その後の鹿島田さんの作品は読めていない。
 これに対し、映画化が決まってとても嬉しかった「寝ても覚めても」を書いた柴崎さんの作品は、「春の庭」からしてかなり好きな世界だし、その後嬉しくなって読んだ、「公園へ行かないか? 火曜日に」「千の扉」「パノララ」すべて面白かった。だから、今更この本を買ったのだ。
 「次の町まで、きみはどんな歌をうたうの?」は、ありていに言って失恋ストーリーである。私みずからの青春時代を想起させて、コロ助が清水さんに告白して玉砕して泣くところは、ノスタルジーというかコロ助を旧知の友のように錯覚させる共感めいたものが湧いてきて、「まぬけ」という言葉と相俟って涙がにじんだ。「The Crying of Lot G」という曲の「君が笑ったらぼくも笑ったような気分だ、君が泣いたら僕も最悪な気分だ」という歌詞に象徴される、コロ助の清水さんへの想い、あるいは、小林のルリ子への想い。それは、モテない男にしか判らないような無骨で不器用な愛のかたちだろう。私にも良く判る。たまたま、僕は柴田淳のファンだが、デビューシングルのB面に「いちばん星」という歌があり、その歌詞にも「君が嬉しいと僕も嬉しくて、君が悲しいと僕も悲しいよ」という歌詞があって、みんな片想いしている恋人は、同じ想いを味わってきているのかな、などと思わせてくれて、なんだか嬉しかったりする。ここで、「次の町」とは大阪の次東京、と取りたくなり、「どんな歌」とは、コロ助がサービスエリアで歌っていたような無骨な歌であると共に、コロ助や小林の失恋と言いたくなるが、取り方は千差万別だろう。最近の作品と比べると、どうしても描写力や作品世界のクリアーさが、まだ見劣りするが、それは作家がまだ若かった所為であり、それだけ成長して熟達してきている証拠でもあり、とても嬉しい。
 収載されている「エブリバディ・ラブス・サンシャイン」も、絶妙な題名である。これは、デビッド・ボウイが出ているギャングものの映画のタイトルとして、小説内に説明されているが、同時にロンドンに映画修業に行った、花田君の作った映画の名前としても出てくる。ロンドンは、言わずとしれた大英帝国の首都であり、大英帝国とは「陽の沈まない国」として知られている。だから、「エブリバディ・ラブズ・サンシャイン」とは、大英帝国の物言いであり得、そのぶん花田君の価値観を代弁する可能性が出てくるのだ。またまた、花田君に失恋したために、工藤さんは眠り姫になってしまい、大学に出られなくなってしまったのだが、それだからこそ、余計花田君と膠着する太陽の陽が恋しくなるだろうと、安易に想像出来る。だからこそ、花田君のことに諦めが付くかおるちゃんからの告白について、嬉しくなってしまって眠れにくい夜を迎えたりもし、太陽の陽自体が、工藤さんには花田君だったのかも、と思われなくもない。最後は、花田君を忘れ生活が正常化していきそうな雰囲気で終っている。タイトルの意味深さは、流石であろうか。
 両作品とも、私には珍しいくらいの速さで読めた。雑踏でも読めたし、少しの時間でも読めた。それだけ読みやすいのは、とても面白いことが一つと、最近の柴崎さんの小説よりも、シンプルだから判り易いためであろうかと思ったりもする。
 柴崎友香さんのファンであれば、かならず読むべき本です。おすすめです。 
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2019年03月05日

「1R1分34秒」町屋良平著。

 この小説のタイトルを見たとき、「ああ、格闘劇か、苦手だな」と思った。しかし、ネットで町屋良平さんの芥川賞受賞に関するインタビューを読んでいて、ダンスやボクシングなど、言葉に出来ない「動き」を如何に表現するか、ということについて書いてあったことに興味を抱き、買ってみることにした。届いたハードカバーの表紙は、案の定、ボクシング・ストーリーのそれだった。どうせ、「ロッキー」とか「チャンプ」の類いだろうとか、渋々ページを捲ることになる。
 しかし、導入部からすでに、この作品は「ボクシング」を汪溢していた。
 窓の光度が落ちるくらい、窓にぶつかって生え茂る梢の横の部屋。それは、設定からしてその小説の唯一性を持たせていて、そこからラストの回想に出てくるパラレルワールドが拡がるように、いかようにも、つまりボクサーでない「ぼく」をも育む舞台として機能している。そのいかようにも拡がる独自な空間に、青志くんに破れた自分が住まわせられる。
 「ぼく」は、青志くんに破れるシーンを、他の人が撮ったビデオで見ながら、追憶する。「ぼく」は、戦う相手が決まったら、SNSや動画などをチェックして、戦う前から対戦相手に友情を抱いてしまう、優しい青年だ。しかし、ボクサーのプロテストに受かったときは嬉しかった。そのことは、負ける度にズタズタに毀されていく記憶の残骸として、みずからは忘れ果てていたが、「ぼく」の暮らす部屋の窓の木々が覚えているのであった。
 「ぼく」は、ビデオを観ながら、青志くんに負けた原因を、何千通りも思い付くのだ。もしこのときこうしていたら、もしあのときこうならば、の「たられば」の連綿たる続発。それは、自然界の大いなるカオスの流動を思わせ、パラレルワールドの中の唯一のか細い足跡を残す人生隘路が危うく続いているさまを、想起させずにおれない。
 一方で、「友だち」が「ぼく」を、美術展覧会やオペラ鑑賞などに、たびたび誘う。ふたりは、そこで何を観たのか? すくなくとも「ぼく」は、絵画の前でぼうと放心出来る時間を、快く思う。ここで芸術が出てくるのは、作者のなかで、芸術とボクシングが同一平面上に置かれていることを示すのだ。つまり、昏い梢の生い茂る窓の部屋には、パラレルワールド的に、芸術家の「ぼく」をも、住まわせることが可能であったと言うことである。言うまでもなく「ぼく」には著者のある側面が投影されているわけで、町屋さんは、芸術もボクシングも、命がけでやっているということが言えると思う。
 だから、「友だち」に連れられて、北の地方の明け方の河につれていって貰ったときに、「友だち」は手を針で縫わなければならないくらいの傷を負ってしまうのだが、それにも拘わらず、自分の血で薄く色づいただろう河水を「ぼく」に浴びせかけて、「おれたち、かっこいいよな」と言わしめているのである。それは、映画監督を目指す「友だち」の芸術家魂の表れだったのだ。岡本太郎氏の言葉を思い出す。芸術は、血なまぐさくて、生命を賭しているのだ。
 「ぼく」は、ある日からトレーナーに突き放されて、六回戦の先輩のウメキチがトレーナーになる。ウメキチは、ボクシングの正統なセオリーを外れて、「ぼく」を生かすトレーニングをするようになる。「ぼく」はウメキチを初め受け入れられず、信頼も出来なかったが、ある日、ウメキチが自分のために「ぼく」をモルモットにして試しているのだという割り切ったエゴイズムをウメキチ自身にに示されて、途端に信頼出来るようになる。つまり、人間関係の苦手な「ぼく」が、トレーナーたる人にため口を叩くようになる。ウメキチはそれでも全く怒らず、「ぼく」の提案を入れつつ、トレーニングプログラムを組んでいく。
 じっさい、「ぼく」は何のためにボクシングをやっているのか、この小説では明示されていない。ただ、最後に少々難解な文章で語られる「ぼく」の試合前の途切れ途切れの思考からは、「自分を失いたくない」という勝利への契機が提示されるが、それはボクサーであるためのそのものの契機にはなり得ず、ウメキチに嫉妬されるような、ボクシングに負けてへろへろになっていてすら、女に手を出すくらいナンパな「ぼく」の、痩せてもボクシングに人間的生理や日常を自然に溶け込ませている人生スタイルに、暗に示されているに過ぎない。
 それは、この小説のテーマでもあり、一番著者の言いたかったことなのかもしれない。たまたま、この作品では「ぼく」はボクサーをやっているが、それはなんでもよかったわけで、生きるために死を繰り返す矛盾を孕んだシヴァ神の仕儀のような、ギリギリの危機感の中で躍動する命のあり方を、著者は、平和呆けした大衆に叩き付けたかったのではないか、という気がしてならない。
 とにかく、素晴らしく新鮮な作品でした。ぜひ、お勧めです。
posted by Pearsword at 18:22| 富山 ☀| Comment(0) | 文藝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年03月04日

空華第九号は苦しみの九であった。

 空華第九号は、どうも波乱の号になってしまっている。
 もと、寄稿してくれるはずだった滋賀の高城紹さんが、校正途中に、自分の稿を不当に変更されると異を唱えて、稿を引っ込めてしまった。つまり寄稿者が一人減った。それは、僕も悪いところがあったからで、校閲コメントに対して、何の変更をも加えない箇所は、説明してくれと言ったら、無視されたため、赤を入れて修整案を提案したら、烈火の如く怒って辞めていってしまった。あれくらいの説明も加えられないようでは、同人に加わって皆で勉強していくということが出来ないし、こころが狭くて成長は望めないと思った。  
 しかし、それは箱を空けてみたら、他の同人メンバーも似たようなもので、コメントに関して変えたところもあるようだが、変えないことに対する説明がまるでない。これでは、PDFの校閲機能が生きていないばかりか、少しも勉強にならない。自分の文が、どのように他の人達に見られるかは、とても貴重な意見なのに、それに対して何の耳も貸さず無視するというのは、あまりにも横暴すぎるのだ。
 僕に関して言えば、指摘されたところを検討して、修整出来ないところは、校閲の返信コメントを打つようにしたり、ここを直したらここも連携して直さねばならないというところまで、直した。しかし、そういうことを見ているメンバーも少ない。
 そのことに関して、昨日寄稿者の一人である妻と喧嘩になってしまって、やはり僕のやり方が厳しすぎるのか、と思わずにおれなかった。以前の同人メンバーの進藤さんも言っていたが、校正に労力と時間を掛けすぎだとの意見は、普通の人達からしたら当然の意見なのかもしれない。他の人は、僕の文章を読んでも、大体のところあまり多くの校閲を入れてくれないし、僕が独り相撲を取って、いたずらに疲れて果てているというような現状でしかない。
 今後、同人を続けていくなら、やはり勉強していかねばならないし、それには空華と言う場がとても有効なのだが、はっきり言って僕のやり方では誰も着いてこない。校正に関して、もう少し皆さんも真剣に取り組んで貰いたいのだが、どうも僕から見ると手ぬるいような感じの現状の無刀会である。しかし、僕はそれほど統率力があるわけではないので、厳しすぎるとみな離反して行ってしまう。かといって、同人誌の質を落としたくないという意思もある。
 校閲に関して、僕はコスモス文学時代に初めて校正を行った。当時から、いろいろ嫌な思いをしたこともあったが、一生懸命直した。校正でコメントを入れられるのが、いやなのは皆同じで、それでもこうだとかここはこれしかないのだと、拘りの表現を通して戦いながら作品が完成していく。そういうものなのに、それが今の同人メンバーには欠けているように思えてならない。校正は、馴れ合いではなく戦いであるからだ。
 しかも、戦って無理矢理通した表現というものは、得てして奇怪な表現であることが殆んどで、後になって読むと下手くそな表現であったり、恥の元であったりすることの方が多い。当時は、語彙力が少なくてそのような表現しか出来なかったけど、いろいろ書き慣れてきた今にしてみれば、もう少し書きようがあったのではないか、と反省させられる場合が圧倒的に多いのである。
 なので、同人メンバーに関しても、もう少し校閲コメントに対して、真摯に向き合って欲しいし、変えられない理由もちゃんと説明を加えて貰いたいのである。でなければ、自分一人で印刷して勝手にやっていればいいだけである。
 というのが、理想なのではあるが、なかなか理想通りには行かず、困ったものである。もう少し、同人のみなさんには、他人の意見を謙虚に聞く姿勢というものを、持って戴きたいように強く思うのである。

 
posted by Pearsword at 07:47| 富山 ☁| Comment(0) | 創作 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする