2020年09月24日

「杳子」古井由吉著。

 知人から紹介されて興味を持ち、この作を読むことになった。
 杳子は、主人公Sと山の中で印象的な出会い方をする。その著述はいかにも病的に神経質な不自然的執着のある感じ方を表現しているが、却って僕のような当事者からすると、非現実的な感じを受けた。僕は、現代医学で研究されている精神病理を一応は理解していて、というのは自らの病気がかなり医学的に説明が付くからであって、僕が描く精神病というのもやはりそのような病理をもとに描かれている理屈っぽいものである。そのため、どうにも狂人的荒唐無稽さが抜けていて、一般人には却って迫力もリアリティもないように見えるのかもしれないが、その逆のことがこの「杳子」という小説には言える気がする。一般人の描く精神障害像というのは、かなり奇抜で感覚的で神秘的ですらあるのだろう、そのような怪物じみた異常感覚が、杳子の感情として描かれている。
 しかし、この「異常感覚」は、一般人が感じそうなことの延長線上であり、その感じそうなことを誇大化して描かれたような感じを、僕は受けた。なるほど、このような「異常感覚」を感じることは、確かに普通の生活の中であり得そうな気がする。それゆえ、そのような感覚に落ち込んで病気になるという精神障碍者も、どこかにいそうなリアリティがある。しかし、実際には杳子のようなおかしな「ノイローゼ」はいないだろう。似たような人が実在しそうだが、どこか矛盾していてあまり病的切迫感も感じられず、やはり当事者の僕からすれば、作中人物でしかない。
 もっとも、それは小説だからしかたのないこと、あるいは、当然のことなのかもしれない。この小説では、最後に「健康な人」を杳子と対峙させて書いてあるが、それはどこか差別的な視線を感じさせつつも、杳子と同じかそれ以上おかしい姉が、「健康な人」側に描かれているが故に、読者たちに対する「あなたの精神は本当に健康ですか?」という問い掛けもテーマにあるように思える。主に病的な「反復」に抵抗があるうちが「病気」で、それを当り前にこなせるようになれば、姉のように「健康な人」側になれるという風に描かれているからだ。そのために、初めから描かれる病的心理が、いずれも誰にでも共感を呼びやすいように、描かれているとも言える。これは、作者の意図的なものなのかも知れないが、むしろ作者の精神病観の表れのような気がする。
 僕も精神病を描くが、なかなかリアリティを持つように描けない。その理由の一つとして、病人の切迫感が巧く再現できないと言うことがある。病理も判っていて経験もある僕も、喉元過ぎれば熱さ忘れるというものか、症状の酷いときの想い出話は、なかなかそのただならぬ危機感を再現できない。その恐ろしさというのは、言葉で表せば「自我が粉々に砕ける」「精神が爆発して無くなる」といったような恐れなのだけど、経験のない人からみれば、ただの笑いの種になる場合が多い。精神障害というのは、どうにも健常者には感情移入しがたい未知の感覚であって、知識としてしか判らない。だから、そのまま経験を描いても、なかなか共感されがたいのだろう。
 そのため、共感されやすいような「ノイローゼ」像を描くと、「杳子」のように実在しそうにない病人となってしまう。つまりは、感情移入できるように書くと病理的にありえなくて、知識的に正しく書くと感覚的に共感されがたいという、「精神病」の伝えがたいジレンマがあるということが、この小説を読んで思ったことだった。
 当事者の物書きとしては、そのジレンマを解くようなものに挑戦できないかなどと、思ったりもする。
posted by Pearsword at 19:56| 富山 ☀| Comment(0) | 文藝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年09月23日

梯子坂45。~人形山にて~

Image_1 2020-09-23_06-53-21.jpeg 昨日は、コロナウイルスによる自粛で縮こまった身体をリフレッシュしてこようと、妻と山登りに出た。
 どこにしようか迷ったが、比較的頂上の展望がいい人形山を選んだ。ここの山は、傾斜が登りやすくて、気付いたら頂上に着いているような山だと思ったからである。
 しかし、それは自分の独りよがりな感覚で、妻にしたら相当辛かったようだ。登り初めからそうとう汗を掻き、30分ごとに休憩を取った。しかし、1200mの休憩所までは一時間でなんとか来た。出るのが不覚にも遅く、登山開始8:45、第一休憩所9:45、第二休憩所10:40、宮屋敷11:30になった。宮屋敷で引き返すことも考えたが、登山は登頂してこそのものであるので、頑張って自ら励まし、更に進んだ。
 じつは、梯子坂46という企画があって、五箇山女のユニットをギャグで作れないかとか、冗談で考えていた。妻は、奇しくも今年45歳。それで、人形山の梯子坂の看板の前で写真を撮って、「梯子坂45」とか言ってSNSに載せたらウケるかなとか、考えてしまった。とりあえず、宮屋敷から30分ほど歩いて、梯子坂に掛かるが、標柱が草刈りのあとのためか、枯れ草に覆われてどこに行ったか見えなくなっていた。しかたないから、梯子坂を登る妻の写真を収めておいた。
 そんなギャグ企画はともかく、妻は体力があまりないし熱中症になりやすい体質なのに、よく頑張ってくれた。顔に塩が吹き出して、しょっぱくなっていた。それでも、弱音を吐かずに、一生懸命登ってくれた。
 頂上到着、13:10。とりあえず、大の字になって横たわり、少し休む。そして、インスタントラーメンで塩分と糖分を補給し、そのあとは山頂コーヒーを飲む。朝挽いてきた豆だが、こんなところで飲めるコーヒーは、そうとう美味い。これらのために登ってきたと言って良い。
Image_1 2020-09-23_06-54-00.jpeg しかし、昼食を食べて出たのが13:50。かなり遅くなった。妻の脚がへたばっていることや、靴擦れでいたいことなどを考慮に入れていなくて、妻にそうとう無理してもらった。たいへんハードな下山になったが、妻はへこたれずよく頑張り抜いた。宮屋敷に15;30に着いたが、なかなか安心出来ず、急がせた。妻はここでもそうとう無理をさせた。妻の精神性をあらためて尊敬した。彼女の頑張りのお陰で、なんとか17:30には下山完了できて、ギリギリ暗くなる前に降りてこられた。人形山の白山権現のお陰だろう。宮屋敷で、二人お祈りしてきたから。
 帰り、林道で子熊二匹とリスをみた。もう少し遅かったら、とんでもない眼に遭っていたかも知れない。危険と隣り合わせの登山でした。
 帰りは五箇山山荘で汗を流した。
 お疲れさまでした。
posted by Pearsword at 06:58| 富山 ☁| Comment(2) | 山行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年09月18日

創作甲斐。

 どうも僕は、最近の大衆は、本当の文学の味わい深さとか面白さを理解できないのではないかと、疑っている。
 友達の一人が、僕の本を読むときに言った。「込み入った話は要らない。判りやすい話を適当に楽しみたい」。全ての大衆がこうだとは言わないが、特に小説を読むのが好きでない人は、小説に求めるものもあまり大きくないのだ。文字を読むのがまどろっこしくて、判りやすく動画で見せて欲しいのだ。だから、小説の映画化も流行るし、映画に甚だしく感動するのだ。
 しかし、これはまるで文学を判っていない証拠である。映画など、くっきりどっきり実写されると、小説を読むときに読者たちが独自に感じる個性的世界がすべてぶち壊しにされる。小説の作り出す世界は、現実として現れず頭の中だからこそ現実より美しくなりうるし、摑めないからこその素晴らしさがあるのだ。それを安易に可視化してイメージを台無しにするのが、小説の映画化という行為である。多くの小説家が、自分の小説の映画化を喜ぶが、文学の振興のためを思えば、少しも喜ぶべきことではない。
 小説という芸術は、文字で表現するから文学なのである。そこに表現の技巧が生まれるし、映画やテレビなどで表せない妙があるのだ。文章でしか表現できない、他の媒体では代えが効かない、そういうものが文学である。そういう文学の面白さを、最近の大衆はどうも判っていないような気がしてならない。だから、絶賛されるのは、映画化されるような単純なシナリオばかりだし、その原作の中に文学性の多くないものばかりなのである。真に文学的な小説は、安易に映画化できないし、もししたとしても、小説の世界を再現することは不可能である。
 そういう視点から見て、純文学とは何であるか? ということを考察できる。古い時代は、他の芸術と等しく、小説も写実から始まっている。なんらかの現実を描写した、私小説的な自分たちの日常の物語である。そのほうが、本当にありそうな話として大衆に受け入れられやすいし、文学的表現を楽しまなくても、ストーリー自体を楽しめるのである。しかし、ストーリーというのは、そういう文章の芸術を楽しませるための方便に過ぎず、本来の文学というのは、もっと形而上学的なつかみ所のない、それでいてえも言われず美しいものである。文章の技術のことを言っているのではない。文章で表現される中身の美しさを言っているのだ。中身を表現するために、結果として技術的に巧みな表現も必要になってくる。形骸だけ巧みな文章は、中身がうつろで少しも美しくない。
 しかし、結局はだれかれ読者がいないと、小説というものは虚しいものである。誰にも読まれないものは、存在の意味がない。それでは、創作の甲斐が無いのだ。それで、僕は、だれかれに捧げることを始めた。今は、公募しても少しも理解されないので、だれかれに捧げることのみを目的として、小説を書くことになった。誰かに読んで貰えると思えば、しぜんモチベーションも上がるし、一生懸命書くことが出来るというものである。
 今は、誰かのために書く方が、面白く書けるのかなという気がしている。同人誌発表も面白いが、捧げることの面白さには負ける気がする。もし捧げる相手が間違っていなければ、それはその人の人生に、多少なりとも影響を与えうるものであろうから。
posted by Pearsword at 09:50| 富山 ☔| Comment(0) | 迷い言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年09月11日

理想を求めて。

 憧れの小説家の方から、先日、通知書が届いた。代理人の弁護士の筆により、手紙やSNS、メールなど、一切の接触を禁止します、その要請を犯すならば、裁判を起します、と書かれていた。痛かった。さまざまなことが、とても痛かった。
 しかし、裁判を起すほどお金は無いし、こちらに非がないにしても、弁護士の詭弁で無実の罪を着せられるのは判っていたので、黙って憧れの小説家の書いた本のレビューを全て消し、その方の本を16冊売ってきた。今まで、大好きな小説だっただけに、憧れの小説家だったために、かなり失望したし、こころがじんじん痛んだ。恋人に裏切られたくらい痛かった。
 作品と人間性は、あまり関係ないのだなと、はじめて思った。いくら面白い小説を書く人でも、残酷なことをできることがあるのだと思った。だから、僕は彼女への憧憬を諦めねばならなかったし、小説の理想というものを失ってしまった。もう五十路。いまさら再スタートを切れる歳でもない。自分なりを突き詰める歳だ。
 妻が慰めてくれた。小説なんて星の数ほどある。他の小説を探せば良いじゃない……。その通りだと思う。しかし、傷が癒えるのは少し時間が掛かりそうだ。そして、芸術観が大きな変革を受けた。作品が上手くても、人間性が必ずしも優れているわけでもない。人間性と芸術性、どちらが大切なのか? それはピカソの言葉に端的に表れている。「一枚の傑作を描くよりも、その画家が何者であるかと言うことが重要である」
 たぶん、このようにして僕は文壇に睨まれていて、一生日の目を見ないだろうけど、それもまた良いように思う。プロの小説家なんて、自分の文章を使ってうまく名誉と富を得た人達に過ぎないのであって、すこしも芸術的ではないし、たまたま大衆に頭が良いと誤解されているだけで、その実大して頭も良くなければ人格者でもない。そういうプロの一人になることを目指すのが、かなり虚しくなってしまった。プロの小説家になったって、自分の本を売ることに専念せねばならなくなるだけで、すこしも文学的ではない。僕らは、売れないなりの追究ができるのだと思った。
 とりあえず、現代の日本文壇に不審があるので、たぶん海外文学か古典を多く読むようになるだろう。また、ひょっとしたら、しばらくは絵画鑑賞などで頭を休めるかも知れない。いずれにせよ、あらたな理想を求めなければならない。
 けだし、芸術というものは歳によって受け取れるものが異なってくる。僕が老境に差し掛かったときには、また違う文学が好きになっていることだろう。そういう文学の多面性を惟みて、老境の自分にあった芸術観を探していかねばならない。
 こういう沙汰も、仏様の方便であり説法であることを、僕はよくよく理解しなければならない。このような世の中に僕のような顰蹙児が生きていくには、どうすればいいのか……。しかし、僕は仏様にはずいぶん救われている。だから、もうすこし巨視的に、自分の人生を捉え直せば、それでいいのかもしれない。
  
posted by Pearsword at 08:19| 富山 ☀| Comment(0) | 迷い言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年09月04日

「筆と虹」の改稿。

 「筆と虹」を刊行する前に、知人の黒瀬珂瀾さんに読んでもらう機会に恵まれた。
 黒瀬さんは、歌人にして大阪大学大学院の博士課程で研究をお積みになった方で、文学の造詣が深い。そのため、何か有用な御意見がいただけるのではないかと思って、お願いした。
 いろいろな御意見を戴いて、刊行までもう一度見直すことになったのだが、すべて黒瀬さんの御意見を反映できるほど、僕は殊勝ではない。しかし、それなりに改変を加えているところである。
 一番気に掛かったのが、僕の芸術観や価値観を、登場人物に言わせているのではないかと言う点だった。僕は、登場人物の考えとして言わしめているつもりなのであるが、どうもその部分が浮き上がって、小説の時間の流れが止まってしまうと言ったようなことを指摘された。僕としては、明言した方が判りやすいと思って、そのように書くのだが、人間言葉でズバリ言われると、却って反発してうまく受容できないと言うことなのか、僕の姿が登場人物の背後に見え隠れして、何を偉そうに知ったかぶりして、このえせ文士が! ということになるのかもしれない。いずれにせよ、控えめにほのめかす程度にしないと、上から目線だの尊大ぶっているだのと、揶揄されかねないのかも知れない。僕としては、僕のメッセージを加えているにしても、みなさんに呼びかけているという感じなのだが。
 もう一つ指摘されたのが、僕の表現はジェンダー差別について、あまり意識されていない、ということであった。「ジェンダー」という意味すらネットで調べないと判らない僕だったが、ようするに性別の差別意識が感じられやすい小説だと言うことか。その辺、どうしても男尊女卑思想の残る昭和生まれの考え方が染みついているので、俄に付け焼き刃的に男女平等を唱えてみてもうらむなしいだけだ。僕は、男と女は異なると思っているし、それは生理的なものや遺伝子的なものに加えて、ユング心理学で言うような民族の要請する集団的無意識というものも色濃く影響していると思うし、男と女は相補うために二極化しているのであって、それは各民族に受け継がれる習慣として、ひいては人類全体の知恵として、性別間の魔法として必要なものであり、それがあるから男女は恋愛が出来るし、フロイトの指摘するようなエロス的美学も生まれうるわけで、美というのは確かに性的なものだけではないが、かなり大きな部分を占めているので、男女が完全に均等で平等になったら、世の中から判りやすい美術が消え失せてしまうという結論にもなる。
 そういうことも、確かに小説のテーマにはなり得るが、いまのところその問題を中核として、小説を書いたことはない。ただ、確かに僕は、男を強壮に書かない癖して、女を女性らしく書こうとする癖があるというか。あまり化粧だのファッションだのに興味のない女性もいるだろうし、その辺はあまりこうだという定まったものは持たない方がいいとは思う。
 まあ、「筆と虹」を捧げる相手の柴崎友香さんも、ジェンダー差別には敏感な方だから、ひょっとしたら僕の小説に不快感を感じるのかもしれない。僕としては、自分の考え方をどういう形であれ表現するのが芸術だと思っているから、ジェンダー差別と言うかどうかはしらないけど、男女の役割はロマンチシズムを壊すものではないと思っているのである。
 改稿は、思ったよりも大変で、今年じゅうに発刊できるかどうかは判らないが、空華の校正も終了したし、全力を注ごうと思う。
posted by Pearsword at 13:08| 富山 ☀| Comment(0) | 創作 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年08月27日

文学活動とは何か?

 いろいろなことがあって、僕は一時、文壇批判をしたたかにしていた。
 しかし、好きな小説を読むと、どうしてもその小説の世界を嫌いになれなくて、その世界を創った著者が、どうしても悪者に思えなくて、しかも嫌いになってしまったら、もうその小説を読むことが出来なくなりそうで、結局、文壇批判をやめざるを得なくなった。好きな小説家は、たとえ僕に冷たくても、それは一時は怒りにまかせて暴言を吐いてしまったけど、虫のいいようではあるが、やはりあこがれの対象であり好きなのである。有名人というのはどうしても一般人に冷たいものなのだろう。
 まあ、僕は出版社にはまるで認められないし、プロデビューは難しいと思う。だけど、今月はそのような文壇批判で注目を浴びたせいもあるのか、キンドル本がいつもの月より、かなり多く出た。少しは読んでくれる人がいるのだと思うと嬉しいものだ。確かに、栄光にはほど遠いかも知れないけど、もともと文学活動というものは、栄光を得るための道具ではないのだ。文学活動するということは、どういうことなのか、素人ゆえにプロよりも真剣に純粋に、追求することが出来ると思う。
 プロは、お金を稼ぐ目的があるから、あまり実験的な小説は書けないし、どうしても売れる小説を書いてしまう。それは、かならずしも文学性と方向性が同じではない。むしろ売れれば売れるほど、文学から遠ざかる。では、その「文学」というものは何ものなのだろうか?
 それは、小説家が自分で、犀の角のごとく追求すべきことであり、僕はたまたま「芸術」と思って書いているが、そう考えない人もいるだろうから、一概に正しい解答はない。ただ、言えることがあるとすれば、宇宙の真理とか生命の価値とか、なにかそういった本質的なものを、追求すべきものであると言うことである。資本主義社会に圧倒的に不足しているものは、なんと言ってもこのあたりの思想である。何のために生きるのか? 命とは何か? コロナウイルスの災禍に紛れて、スーパーシティ法案を通したり、六ヶ所村の施設の安全性を是認したり、福島の立ち入り禁止区域にもどれるようにしようとしたり、そういうむごいことが平気に行われるのは、政府に倫理や思想がないからであり、ただ税金を如何に効率よく集めるかということだけを考えているからである。このような資本主義社会の不足を補うのが、「芸術」の役割である。「文学活動」もそのような補填に、与するべきなのである。
 かといって、僕らしろうとにそんな大きなことは出来ないだろうから、数少ない自分の読者に、少しずつ自分の平和思想を伝えていくほかないのだ。僕の小説は、今はほんの少ししか、現実に影響を与えられないけど、そのわずかな影響が、未来には大きな違いを生じると思うのだ。カオスというのはそういうふうに出来ているし、現実はカオスなのだ。
 そのように思って、僕はやはり文学活動をするには、自分の思想を大切にしたいと思う。思想が小説に現れ、読んだ人に影響を与えうるのだ。それは僕があこがれた小説家から教えられたことである。
 
posted by Pearsword at 17:48| 富山 ☁| Comment(0) | 迷い言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年08月16日

「野火」大岡昇平著。

 この小説は、フィリピンのレイテ島での日米の戦争をもとに書かれた話である。著者自身、レイテ島での戦争体験があるため、どこまでが実際の体験に基づくのか、とても気掛かりではあるが、作中、田村一等兵はかなり危険なことをし、殺人などの残虐行為を行い、そののち精神病院に入るために、ある程度は創作であろうかと思われる。
 まず、読み始めると、この自然描写の鮮やかさに驚かされる。戦争の話なのに、自然がまるでわざとのように色鮮やかである。それは、戦争という残虐行為を自然と対峙させて、はじめは自然を破壊する人類のイメージで描かれているが、病院が襲撃されて負傷兵が散り散りになり、人それぞれ自分たちのことだけしか考えられなくなるあたりから、人間の本能的部分が露出してきて、熱帯の自然の大きな営みの中に、人間の殺戮行為すら溶け込んでいくような、そんな描写の仕方がされている。
 かと言って、大自然の中だから、人は食物連鎖の法則に則り、殺戮をしまくってもいいのかということにはならず、田村一等兵は、あるとき野に降臨した神による百合の花を見る。それは、彼の食欲を満たすために、自ら食べてもいいと言った狂人将校と同じことを言い、人間の原罪の自覚に田村一等兵を導いていく。これは、テーマ的には人類共通で永遠と言っても良いほどの大問題なのだが、問題は、この神の助けを得てのちに、田村一等兵は、さらに人肉を喰らうところにある。
 実際、死ねないと言うだけで生きねばならないような、希望も何もない状態で、人は共食いまでして生き残りたいと思うものなのだろうか? 僕は、たぶん人生疲れてしまって、そこまで生きようとはできないと思うタイプの人間だ。人間の生きようとする本能は、そこまで強靱だろうか? そこはかなり、この小説を読んで、疑問に思ったところではあるが、田村一等兵は、そのような人間の狂人と化す力を、戦争が持っているのだというような訴えに、結び付けている。
 戦争というのは、権力に動かされて、嫌でも敵兵を殺さねばならない、おそろしい残虐行為である。人を一度殺してしまうと、一線を越えるというか、その人はどんどん人殺しをするようになるだろう。しかし、何故人殺しだけがだめなのか? ここは、町田康著「ホサナ」とテーマは同じくしている。生命の尊さは、この世の生きとし生けるもの全てにある、とすれば、ウイルスや病原菌にも慈悲を与えるのが、仏のこころであろうか? この辺は、禅書に曰く「万物自ずから功あり」。それぞれが礎となって、宇宙の城を支えている。この世の全てが尊い、というのが仏教的救いである。
 ともかく、野火では、そのようなキリスト教的原罪観まで達していながら、人はそれを犯さずに生きられないという、悲観的な終り方をしている。題名が「野火」であり、田村一等兵が記憶を失ったときに、フィリピン人の野火のもとにいき、殺害して食おうとしたと、彼自身が病院で推測するところなど、罪を知っていても避けられないという、人間の悲しい性が描かれている気がする。さらにいえば、「野火」は、「徴候」として田村に現れて、悪い予感を催させたのであり、その「徴候」とは、終りの方で書かれているかのような、「戦争」をしているあるいは始めようとしている世界の多くの国々であり、「野火」は世界の終りの大劫火の象徴として、題名として採用されたのではないか、と言う気がして成らない。
 最後は、田村一等兵は、生きているのか死んでいるのか、不確かな境地に成って終っている。それは、人類を救うための皮肉的祈りと言えよう。みな、田村一等兵のような悲惨な体験をしないと、判らないのではないか、みなさん、戦争を知らない子供なのではないか? 田村一等兵の叫びが、聞こえてきそうである。
 
posted by Pearsword at 10:08| 富山 ☁| Comment(0) | 文藝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年08月07日

第44回すばる文学賞、一次選考落選。

 「莫迦は懲りた」を、柴崎友香さんに捧げる作として、すばる文学賞に応募した。予想通りとはいえ、一次選考落選はきつかった。渾身の力作だったゆえに、やはり文壇や出版業界は、僕の作品を認めようとしないのだなと思った。僕は、統合失調症だから、何を叫んでも狂人の妄想とか思われるだろうけど、しかしどう考えても、出版社の選考は不公平である。一度、その人を差別すると二度とその作品を認めないのだろうとか思ったし、僕は出版業界でブラックリストに載っているのだろうとも思った。何らかの理由で、僕は出版業界や文壇に恨まれていて、僕の文学を意識的に認めようとせずに、ことによると歴史から抹消したいと思っているのだろうと思う。抹消しなくても、歴史には残らないというかもしれないが、少なくとも新しい文学を始めたのだから、後世の人が見たらその新奇さには気づくはずだ。それを、認めようとせず、僕の作品を歴史から抹消しようとしているのだ。恐ろしいことである。
 僕は、そういう巨大な権力を敵に回していて、いくら頑張っても僕は精神的に殺されてしまうというふうに思ってしまうけど、他人が聞いたらただのメンヘラの被害妄想に過ぎない。そういうふうに思わせるところまで計算済みの陰湿ないじめを、僕は受けている。
 先日、柴崎友香さんに、好意の印として、飯田橋文学会気付で、お菓子をお贈りしたら、そのまま返送されてきた。飯田橋文学会では、このような品を転送することが出来ませんとの、まったく融通の利かない対応だった。僕は、その対応にひどく傷ついたし、苦情のメールを入れたが未だに返事もなく無視されている。僕は、いやしくも柴崎さんの本を買っている客だし、その読者に対する対応として、この沙汰はどうなのかと思う。
 まあ、先に保坂和志さんに「恁麼」の原稿を送って、初めは読んでくれると言っていたのに、しばらく音沙汰無いから催促してみると、感想どころか読むことのお断りの返答が来ていた。どうも文壇や出版社にそうとう嫌われているようで、その忌避は異常なまでのしつこさであり、どの作家さんや出版社でも同じ対応なので、たぶん黒幕がどこかにいるのだと思う。こういうのこそ、誇大妄想なのだろうけど、そう思わなければどうもつじつまが合わない。なんで僕ばかりこんなにいじめられなければならないのか。
 とりあえず、Amazonでは出版できるので、そっちのほうで販路を広げ、読者を獲得していくほかないだろう。とにかく、文壇や出版社の弱いものいじめは酷いものだ。たぶん僕が精神障害者であることは無関係ではないだろう。
 なお、「莫迦は懲りた」という話の実題は「筆と虹」と言い、260枚あまりの作品である。コロンビア人の小説家志望の青年が、日本の著名な小説家の家に訪ねてくることからはじまる、言葉は世界を越えると言ったテーマの小説である。作中小説もあり、一部分英語やスペイン語のところがあって、相当頑張って書いたものである。そのうちAmazonで出版するので、みなさんにもぜひ読んで貰いたい。出版社の選考が如何に不公平かが浮き彫りにされることだろう。
 
posted by Pearsword at 15:45| 富山 ☔| Comment(2) | 創作 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年07月30日

「金沢 洋食屋ななかまど物語」上田聡子著。

 知り合いの人がプロ作家デビューしたので、その作品を読んでみた。
 純文学になれている僕としては、どうも違和感のある筆致で、描写が説明的で言葉で抑えるようにして書いてあって、小川洋子さんのような感じの書き方なのかなと思った。そういう書き方の方々もいるので、僕に合わないだけであろう。
 登場人物がとても判りやすい言動を示すのも特徴で、テレビドラマか何かのように、そのような配役を演じて観客に判りやすく自分の気持ちを伝えているかのような書き方をしてあった。だから、あまり曖昧な点がなくて、すっきりした漫画のような書き口のような気がした。
 食べ物の描写が細かくて、この作者の興味対象は花より団子なのかな、と言う気がした。登場人物がほぼ全員食べ物好きで、美味しいものを食べると幸せになるのは、全国民の共通項のような感じで書かれているけど、僕はひねくれもののためか、そんなことは思わないので、どうも違和感があった。
 また、観光スポットの紹介もうまく差し挟んであって、観光地紹介にはとても効果的な気がした。地元のテレビ局でドラマ化したら、視聴率を稼げそうな気がした。観光スポットの記述が、それだけ現実に即していて、作者の下調べも大変だっただろうと想像される。
 それと、恋愛ドラマじみているが、結局、三角関係の三人が三人とも、自分の道を選んで恋人を捨てる辺り、この人たち薄情だなあと、思った。まあ、それもこのストーリーなら仕方なくて、千夏は「大恋愛」とか言っているけど、惚れてる丹羽に対して、そんなに恋愛するような経験を積んでいないから、せいぜい顔とか雰囲気で好きになっている点が多いと思われるため、あまり大恋愛と思えない。千夏は、基本的に受け身だし、丹羽がいなくても貧血になる程度で、なんとかやっていける。泣いたり悲しんだりと、言葉の上では書いてあるけど、あまりその落ち込みや悲しみが絶望的でないため、愛する人を失った喪失感までに達しておらず、少しも「大恋愛」になっていない。だからこそ、三人とも独り立ち出来たのだし、丹羽と再会しても千夏はそんなに恋情が湧かないはずなのに、大袈裟な表現をしてあって、どうにもしらじらしく思った。
 まあ、あまり暗い影がないドラマなので、そこが美点と言えば美点なのだろうけど、千夏の都合のいいように、配役の人々が動いてくれるので、どうにもどんくさいお話のように感じられてしまう。つまり、リアリズムがない。
 ドラマの脚本としてなら、ありなのかな、と言う気がした。
posted by Pearsword at 09:55| 富山 ☔| Comment(0) | 文藝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年07月28日

作品と作者。

 芸術において、作品と作者はどのような関係にあるのだろうか?
 僕は、たいがいにおいて、すばらしい作品に触れると、その作者もたぶん善良な方なのだろうと想像して、尊敬するに至る。しかし、どうも最近思うに、それは必ずしも是ではないような気がしてきた。すばらしい作品を作り出しても、人格があまりよくないことも多いのだ。作品と人格はあまり相互関係がないのではなかろうか?
 しかし、僕は好きな小説は限られている。だから、その作者の性格が僕と相容れなかった場合には、読める小説がなくなってしまうことになる。僕にとって、好きな小説はほかに替えが効かなくて、やはり愛着があり素晴らしいと思う。いつまでも手元に置いておきたい。それなのに、作者が僕を疎んで、僕になどその作者の小説を読んでもらわなくてもいいと思う場合、僕はたぶんその小説家は性格が未発達なのだろうと思う。自分が才気にあふれていて、大衆にモテモテだから、嫌いな人に読まれるのはあまり感謝できないという、そういう経験不足のうぬぼれが、作者の中にあるのだと思う。
 ただ、作品に底流する哲学や世界観は、やはり作者の影響を多々受けているわけだから、その作品に感慨を受ける僕は、たぶん理解し合えれば、仲良くなれるほどの共通点を持っていると思う。それが、できないのは、作者側の性格の未発達度によると思う。
 作品には、無意識的なものが多々出る。自分では意図しない作者の人間が出る。それを見て、鑑賞者はすきになったりきらいになったりするのだ。その作者の人間が、作者自身分かっていないことがあるのだと思う。
 人は死んで作品は残る。しかし、まず人ありきだ。人がいなければ作品もない。だから、人間性が芸術性よりも優先されるべきだ。芸術至上主義の時代は終わったのだ。芸術など、人間がいないと価値をなさないし、人間のためにあるものだ。その芸術が人間より大切だという見解は、本末転倒である。人間を豊かにするための芸術でなければならない。人間を平和に導くような、やさしい文学が僕は好きだ。
 だから、読者を選んだり差別したりする小説家の方々は、どうにも人間性が未発達と言うほかないのだ。作品は優れているのかもしれないけど、現場では人一人救う勇気もない。だから、弱者や障害者などは異端視して差別する。無意識の中では、作品に流れるような善性が流れているのだろうが、それを実行できないのだ。
 だから、心理学ではないが、読者の方が優しくならなければならない気がした。有名でちやほやされているプロの方々は、たぶん苦労が少ないために、弱いものの気持ちが判らないのだ。しかし、仏性というか善性が、作品から感じられるように、その作者の人間の底に流れている。その無意識的なところまで感じて、作者にたいして優しく理解を示さねばならない気がしてきた。それは、ちょうど別嬪さんの性格が成っていないのに、惚れている男は辛い思いを耐えて、思い続けなければならないのと似ている。顔が取り柄なのが別嬪さんだが、その代わりに文章が取り柄なのが小説家なのだろう。だから、美人同様つんつんしているのだ。
 しかし、あまり辛すぎると、惚れた男も愛想を尽かす。プロの作家の方々には、もう少し僕に配慮をしていただきたく思うものである。
posted by Pearsword at 12:45| 富山 ☁| Comment(0) | 迷い言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年07月17日

知り合いがプロ小説家になる。

 知り合いと言っても、文学フリマ金沢の懇親会で、当時うちのブースにお手伝いに来ていたTAN TANさんが話し掛けたのが縁で、お互いの著書を贈りあったり感想を言い合ったりした方で、上田聡子さんと仰る。僕は、上田さんの著書の中では、「言の葉の四季」がもっとも好きな感じがするのだが、はっきり言って彼女の理解者ではなく、僕の素晴らしいと感じる小説とは別の部類のものをお書きになるので、相容れるところがなく、しばらく音信不通になっていた。
 しかし、黒瀬珂瀾さんの海市歌会などでも何度か御一緒して、妻とも面識がある。海市歌会は、僕があまりにもひどい冷遇を受けたと感じたので、そのうち辞めることになったのだが、上田さんもたまにしか出ていなかったので、そんなにそういう意味での疎外感は、彼女に関して言えば感じられない。しかし、彼女には、折に付け批判的なことを書いてきたので、プロになったからと言っていきなり、やっぱり素晴らしいですね、などと虫のいいことを言うほど僕は性格が捻れていないので、ここは遠巻きにメールで祝辞を述べるに留めた。
 しかし、このまえ中心街に出たときに、ついでに大和によって紀伊國屋書店もぶらぶらしていたら、つい彼女の小説が並んでないかと探してしまって、するとPHP文庫のところに平積みになっていて、何でか知らないけどすげえなあと圧倒されてしまい、ついつい一冊買ってしまった。少し読んでみたけど、感想は言わぬが花だろう。まあ、わりあい明るい雰囲気で描かれていたようで、悲劇的でなさそうだからそこがいいところなのかもしれない。
 しかし、上田さんがたとえ上智大学出身とは言えプロになるというのは、はっきり言うとびっくりした。僕はどうにも、彼女の小説をよく理解できないから、運やコネでプロになったのだろうとかどうしても思ってしまうのだけど、逆に、いくら芸術を極める努力をしても、今の出版業界には認められないのだなとも感じた。それは、最近キンドル出版した「恁麼」のあとがきにも書いたことであるが、芸術というのは、素晴らしい感情を伝えるものでなければならない。僕の場合、それは静かな美しさであり、もののあはれや風情に準ずる穏やかな感情である。そういうものは、平和に属するものであるし、今の精神がすたれた世の中には、非常に必要とされるものであるはずなのに、出版社ときたら、ドギツイもの珍しいもの、派手なもの面白いもの、といったような目立つものしか選ぶ目を持たない。これでは、出版業界の未来は昏いのだ。
 まあ、僕はどうも、名声からは見放されてるようで、それはことによると、ファンレターや自著の送りすぎで、出版社に軽蔑敵視されているからのように思えなくもなくて、「癲狂恋歌」だって「はんぷくするもの」よりは面白いと思うし、「ジオハープの哀歌」だって「かか」よりはドラマチックだと思うし、自惚れだとかいうかもしれないけど、それらの受賞作のどこがいいのか、僕にはまるで理解できないのだ。また、キンドルで無料配布をやるつもりだが、もし良識のある読書家がいらっしゃったら、ぜひ受賞作と読み比べて欲しい。これが受賞して僕のが一次も通らないのは、どう考えても選者の贔屓だろう。
 日の目がでないなら出ないでいいけど、それだけ出版業界は腐敗していて、売り上げ第一主義に成って文学の廉価化を推進し、みずからの首を締めている莫迦者なのだと思う。そういう目先しか見えないところ、どこかのアホ政府にそっくりだったりするのだが。
 あまり悪態ばかり吐いていると、アカウントを凍結されかねないので、この辺にしておく。
 
posted by Pearsword at 14:06| 富山 ☁| Comment(0) | 浮泡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年06月23日

「死者の奢り」大江健三郎著。

 大江健三郎さんといえば今でこそ日本のビッグネームだが、認められるまでは相当時間が掛かった苦難の人というイメージがある。だから、よほど理解されがたい難解な文学なのかと思って、なかなか取っつけずにいたのだが、今回読む時間が出来たのでこの作品を読んでみた。
 しかし、読み出してすぐに、とても読みやすい文章であることがわかる。扱っている題材もとても異常なもので読者の興味を強く引きがちだ。しかし、そんなに純文学性が高いようには、僕には思われなかった。「死体」を扱う奇妙な状況は、倫理的な思惟を読者にさせしむる設定とともに、禁忌を犯すことの興奮のような興味をとても呼び覚ますのだが、最近の派手な残酷さを扱った話題作とあまり変わらないようなグロテスクさである。そういう暗く衝撃的なストーリーは、大衆の興味は惹くがあまりテーマ性に高尚なものを感じさせない欠点があり、この小説もそのように思えた。
 小説中、女学生の妊娠と中絶に関する倫理観や生命観が出てくるが、突き詰められないので今どき古くて弱い問題提起的なメッセージにしか成っていないし、それはメッセージではなく小説のなかの創作でしかないと言ってみたところで、あまりその描かれる世界自体が薫り高かったり美しかったりはしていない。むしろ、死者を扱うアルバイトについて、わざとそのような設定にして面白く仕上げた故意感が拭えず、小説の完成度を却って低くしているような気すらする。最後のあたりに、主人公が感じる湧き上がってくる感情についても、謎のままでわざと語らずに終っているけれども、そんな下らぬ示唆をさせるよりも、もっと著者は小説の芸術性を上げることが出来なかっただろうかと訝しく思うのである。
 また、死体の処理について、アルバイトを頼んだ仕事自体が、教授の頼んだものと異なっていて、最後にどんでんがえしのようなオチのあるプロットだが、これも却って興覚めした。それだけ、死体遺棄のようなことをさせて、学術的には犯罪にならないのは、法律と道徳についてとても考えさせると言えば、小説を善意に解釈しすぎで、それならどうして、もっと突っ込んだ解釈をさせるようなシーンや台詞がないのか、と僕は読者に対する不親切感を思うのだ。
 この小説が注目を浴びた理由があるとすれば、文壇や出版社の極端な悪趣味と学歴偏重主義しかないと思う。死体を遺棄することや解剖実験などの非倫理性を描きたいのであれば、もっと具体的にあれこれ描かねばならないし、この中途半端な小説は、描かれている世界に何の美しさも感じられなくて、大江さんの文学観は、あまり美的でないのかなとすら、勘ぐってしまうのだ。
 この本は短編集なので、この終り方には落胆したし、残りの短篇も読む気をなくしてしまった。つまりは、僕は大江さんの良い読者にはどうにもなれそうにないようだ。まあ、一作で作者を決めつけるほど乱暴なこともしたくはないので、また機会があれば大江さんの作品も読むかも知れないが、今はもう良くなった。人生は短いのだ。本も出会いを大切にせねばならない。
 
posted by Pearsword at 20:36| 富山 ☁| Comment(4) | 文藝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

白木峰に登る。

DSCN0734.JPG このまえ、妻を宇津江四十八滝に連れて行ったら、意外としゃきしゃき登るので、本人の希望も聞いて、てごろな低山を案内することになった。白木峰は、いつもであれば八合目まで自動車で行けて、すぐに頂上に着く山だが、下からでもそれほどハードではないだろうと思い、台風19号で道がふさがったままにつき、キャンプ場までしか車で入れないのにもかかわらず、登ってみた。 
 五合目登山口までは、車道をだらだらあるく。7:30スタートしたが、登山口は8:30くらいだった。そこから、僕も初めての道を歩く。ササユリやレンゲツツジが綺麗に咲いていた。久しぶりで登山初めての妻を気遣って歩くと、かなり時間が長く感じた。ようよう道が見えてきて9:50に七合目にでる。少し休憩して、だいぶん疲れているだろう妻を見たが、まだまだ行けるというので、また登り始める。八合目までも結構長く、途中ゴゼンタチバナやアカモノ、マイズルソウなどを見ながら、歩いて行く。分岐を右に見て、急坂を登り、10:50ごろ、もう一度車道に出る。地図ではもう一時間程度だ。疲れている妻を少し休ませて、更に登っていくと、視界が開け風衝草原に出合う。ニッコウキスゲの山吹色が、遠目に鮮やかだが、まだギボウシは早くて蕾だった。ヘリポートを抜けて、更に行った頂上付近は、霧の大草原だった(11:40)。ニッコウキスゲがポツラポツラで、まだ花期には少し早かったが、その静寂な広漠感は相当美しかった。
DSCN0729.JPG じつは、白木峰に連れてくる前に、妻には仮題「つまささU」という小説を捧げていて、妻に聞いたらその小説そっくりだと言われた。小説の方はもっと高い山がモデルなのだが、それでも「つまささU」について、妻が喜んでくれているので、とてもうれしいかぎりである。実際の山の景色や感動には負けてしまうかも知れないけど、それでも小説でしか表現できないものもあると思うのだ。山行は山行に過ぎないし、現実を上回るものを創造したいという気もする。たとえば、柴崎友香さんのカッパドキアのように。
 しかし、ほかのパーティーは小白木峰まで行っているのか、山頂は貸し切り状態だった。顔に塩を吹いたという妻と、インスタントラーメンを二つ作って食べた。霧と風でバーナーの効率が悪かったのか、なかなかお湯が沸かず、ガスは使用後すっからかんになった。それでも、食後のコーヒーも淹れたので、良かったとすべきだろう。
 帰りは、ゆっくりの下山になった。妻が足先がいたく爪が割れてしまったからだ。実は妻は登山靴を買っていない。普通のスポーツシューズで来た。今度登山するとしたら、装備もちゃんと調えねば成るまい。
 五合目登山口15:00着。そこから車道をだらだら歩き、ゲートに16:00到着。キャンプ場のトイレ付近に犬がいて、じゃれついて来る。車まで着いてきたので、撫でた。雑種だけどかわいらしい犬だ。妻もかわいがっていて、帰りぎわ車窓から手を振った。
 帰りは、ゆうゆう館で汗を流した。
 妻よ、お疲れさまでした。
 
posted by Pearsword at 07:54| 富山 ☁| Comment(0) | 山行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年06月18日

「きれぎれ」町田康著。

 この小説は、すこしも美しい文章や文体で書かれていなくて、美文家の人が読んだら顔を顰めるに違いない小説だ。
 しかし、描かれている小説世界は、詩的ではないのだがある種の芸術性を漂わせていて、それというのも回想や過去、現実や妄想、最後には描く絵の内容と現実が錯綜して交流していることからくるアバンギャルド性のためであろう。かなり荒唐無稽な世界が描かれているのだが、友達の吉原の家にお金を借りに行って買っただろう絵具を使って、描く絵の内容が現実に溢れ出してきたところの、情景描写がすごく乱雑感が増していて、すごく大雑把に乱暴に素描され、どうもおかしいなと思っていたら、冒頭部の妻が焼きそばを食べるしぐさが出てくるのだが、このシーンの一致が、しかしながら冒頭部では家の中になっていて、ラストではデパートの屋上になっているのは、僕のような素人にはどうにも評しようのなく、貧相な想像力を精一杯使っても、現実の多面性の表現かななどと推測することしかできないのだ。
 しかし、この小説内にも描かれているように、名誉とか名声とか言うものは、そんなに本質的なものでもなくて、主人公の僻みや妬みばかりでない位、人間関係の巧さや狡猾さによって勝ち取られるような、浅ましいものなのかもしれない。この小説は、確かに以上の説明に依るように、かなり風変わりで、筋書きや描かれている世界が、アバンギャルド的である。しかし、そんなに上質な美のように思えないのは、もちろん僕が素人だからだろうし、しかし、素人に強かに本質的なものを訴えてくるものこそ、真の芸術だと思うので、この小説に関して言えば、それほど僕は素晴らしいと評せない。
 氏の小説は、ほかに「ホサナ」と「真実真正日記」を読んでいるが、前者は大作で名作だろうし、後者はユーモアの粋を尽くした傑作だろうとは思う。この二作を読んでいなかったら、この小説をそれほど面白いと思えなかったかもしれない。面白くないわけではないが、描写は雑だしユーモリズムも今一冴え渡っていない。二分法で行けば面白いうちかな、という程度である。
 しかし、それも相性なのかもしれないが、ほかの僕の嫌いな小説家の作品から比べると格段に面白くて、「ホサナ」や「真実真正日記」ほどではないにせよ、とてもユーモリズムの利いた小説である。魅力としては、一にも二にもアバンギャルド的小説世界であって、その支離滅裂的なものが、僕のこころを現代絵画のように楽しませる。しかし、それは例えば安部公房著の「壁」ほど凄まじくはないため、インパクトとしては中程度である。
 しかし、前半は普通の少し妙ちくりんな世界が描かれているので、そこでつまらないと思ってやめたらこの小説の半分も読めていない。最後のたどたどしく雑になっていく筆致と、最後に現実に回帰したようになる危うげな小説世界を読んで自分なりに味わないと、良さは見えてこない。なので、読みだした人は途中で辞めずに最後まで読んでみることをお勧めする。少なくとも、何ものかは感じることが出来るはずである。それが良い印象であれ悪い印象であれ、である。それが芸術というものであろうから。
 
posted by Pearsword at 16:56| 富山 ☁| Comment(0) | 文藝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年06月07日

さわやかな初夏に。

 先日、とやま同人誌会関係の合評会で知り合った先輩の神野さんに、小説本の印刷の相談を受けたので、いろいろお手伝いした。神野さんは僕の親くらいのお歳なので、今一デジタル機器に詳しくなく、ワープロは使えるがデータ編集などは苦手のようなので、僕がページ体裁を整えてPDF化して、簡単な表紙作成をした。そしたら大変喜んでくれて、拙著「癲狂恋歌」と妻の著書「ガラスの子供たち」を購入していただけた。後日読んでくださるようだ。
 僕は僕で、「つまささU」が少し前に脱稿して、あとは推敲を重ねるだけになったのだが、枚数は124枚ほどだが、ラストがどうもうまく書けていないので、もう少し枚数が増えるかもしれない。いずれにせよその程度の枚数なのだが、どこの賞というものも出すつもりもなかった。どうせ理解されないだろうし、しても無駄な努力ほど疲れるものはないのだ。ツイッターで山野辺太郎さんがことばと文学賞を紹介していて、大手出版社の主催でないので、あるいは理解される可能性もあるのではないか、などと思ったりもするが、枚数が合わないのでいかんともしがたい。
 神野さんとも話したが、受賞というのは努力が報われてするものではないという意見で一致した。いくら努力をしても、認められる人とそうでない人がいる。あるいは僻みかもしれないけど、僕より創作の労のないものでも、運などの条件だけで、受賞する人もいる。また、受賞したからと言って、プロになるほど小説を書き続けられるかというのも、かなりの確率で否定的で、多くの小説家の例にあるように、大手の受賞でなくても立派な小説家になる例が多い。受賞しても書き続けられない人もいるけど、受賞しないのに書き続ける人がいると言う点において、編集者の目はふしあななのかなと思ったりもする。
 とりあえず、僕のたのしみとしては、空華掲載やアマゾン出版、同人誌即売会しかなくて、そういうもので売れなければ、僕も俗物なのでかなり辛い。誰にも読まれない小説ほど、寂しい存在もないし、誰彼に読んで貰って何かを感じて戴けるほど、小説家冥利に尽きることもない。富や名声は、得られればそれもいいかもしれないけど、小説家の追う目的にするには、見当外れのような気がする。小説の創作の楽しみというのは、小説が技術ではなく芸術である点にあると思うのだが、それは技術をいくら磨き上げても、精神的に画期的なものが作れないからである。芸術は、精神的に画期的であることができる。精神的に画期的と言うことは、つまり感動を呼ぶことのできるものであるということである。
 小説の創作は、読書の面白さを伝えるものでなくてはならなくもある。読書するときに初めて小説が息づく。その穏やかな楽しみは、テレビドラマや映画では再現不可能のものである。最近の傾向として、なんでもかんでも売れたらすぐ小説を映画化しすぎであるが、それは小説の楽しみを却って奪うものである。音痴の人が音楽を絵で表わしたものを見て知ったつもりになったり、絵心のない人が絵画を表現した詩歌を読んで判ったふうになるのと同じで、アホらしいこと甚だしい。音痴の人には優しい調べ、絵心のない人には優しい絵画、文字嫌いの人には判りやすい小説、と言ったふうに、各芸術の基礎を教えて、それらの素晴らしさを伝えるようにしないと、鑑賞者のこころは豊かにならないと思う。
 とかまあ、今日もくだらぬ雑記でした。
posted by Pearsword at 18:08| 富山 ☀| Comment(2) | 迷い言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年06月05日

「季節の記憶」保坂和志著。

 この小説は、鎌倉の稲村ヶ崎を舞台にした作家中野とその息子、そして近所の松井さん兄妹を中心にした、コミカルな人間社会を描いたものである。中野と松井さん兄妹の話し合う内容は、保坂さんの嗜好ゆえがいやに哲学的で、日常的にこのような会話をする人はいないだろうなと思いつつも、もしそんな話し合いをできる友達がいたら楽しいだろうなとも、同時に思わせてくれる。
 中野の息子のクイちゃんがとても滑稽で可愛く描かれていて、実際の子供はこんなに可愛いだけではないだろうなと、へんに現実的に思ったりもするが、この小説内の稲村ヶ崎が現実よりおそらく美しく描かれているのと同様、そのある種現実を排した美しい舞台でやりとりされるコミュニケーション自体もまた、現実よりも美しく描かれている。
 これは、かならずしもリアリズムがないと言うことには繋がらないということも、この小説の教えてくれることの一つで、写実すればリアリズムが生起してくると言うわけでもないのだ。写実してもへたくそなら嘘くさいし、創作でもうまく描写するとリアリズムが出てくるのだ。この小説のような世界は、想定内の非現実であり、少なくとも読者にとって、共感してその世界に行ってみたくなる気持ちを起こすものだ。それは、稲村ヶ崎という固有名を使用しているが故に、稲村ヶ崎のすでにある美しいイメージを利用しているともいえるが、さらにそれを塗り替えうる可能性を持っているものである。
 二階堂という厳ついホモが出てくるが、この人もなんだかおかしげで、男の大人を怖がるナッちゃんの娘のつぼみちゃんに、すこしも忌避されないことについて、変に秩序だった理論付けをするのだけど、現実はこのようにすっぱり理屈どおり行かないし、こんな子供に好かれるホモというのも珍しいと思うし、また二階堂自身がそのような現実の理屈づけについて、あまり肯定的でないという内容を、中野にしゃべっていて、どうにも容易にテーマの見いだせない、それでいて哲学的思惟に富んだ複雑な話である。
 もう一人個性的な人物として、蝦乃木が出てくるが、中野に自分の経営する温泉街の会社のパンフレットを作成してくれと言うことで、自分で撮影した従業員の紹介ビデオを送りつけてくるのだが、それを見て中野が感動する場面がどうも今一情感が溢れていなくて、感情移入できない。その場面があったほうがいいのかないほうがいいのか、ということに関しては、この場面が小説のテーマを語るクライマックスだというふうに解釈すると、クイちゃんの好きな宇宙に思いを馳せた中野の想像も思い出すため、現実はすべて素晴らしいのだ、という宇宙全肯定的な仏教哲学じみたテーマが主題になりそうで、しかしそのようなテーマはあまり直接語られていないために、どうももともとパーツの適合しないおかしげなジグソーパズルのようにしか見えなくなるのだが、それは僕の読解力が甘いからだとか言われるだろう。それでも、読解力の強弱を越えて、普遍的に訴えるべくが芸術なのだから、僕の感想はこれでいいのだ。
 そのちぐはぐ感よりも、感じられる小説世界の情趣や情景美、登場人物の魅力、ユーモアなどがこの小説の主眼であるように、僕には思われた。もともと「プレーンソング」でも、そんなにテーマが重要とされていないわけで、その延長線上に考えるならば、僕の考え方もあながち見当外れでもなかろうと思うのである。
 というわけで、この小説はテーマを考えずに読むことの練習になるような、とても文学的な小説だと思います。ドラマチックなシナリオばかり読んでいる方々にこそ、ぜひ味わってもらいたい良作です。
posted by Pearsword at 18:05| 富山 ☀| Comment(0) | 文藝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年05月16日

今日は風が強かった。

 何か書いておかないと、ブログが死んでしまうとか、なかば義務的なことを感じてしまって、ただの雑記を書いております。
 最近は、めっきり外に出られなくなって、ストレスが過剰なのか、症状がきついこと極まりないです。それで、昨日も幻聴にやられて妻に怒ってしまったのですが、優しい妻はそれをやんわりと受け止めてくれて、そのあと僕の妄想体系について、すっかり打ち明けました。すると、とてもすっきりして、昨晩はよく眠れました。妄想は、日に干すことが大切なのかも知れません。今度、主治医にもすっかり話そうと思います。
 今日は、それで割合調子が良く、朝から小説を5枚書きました。仮題「つまささU」は、お陰様で80枚に達しました。どこの賞にも出さずに、空華にそのまま載せようとか思ってますけど、それは出版社が何を書いても認めてくれないからであって、たぶん僕の書くような小説は、一生日の目を見ないのだろうと思います。
 今日は、よるにtoi booksのネット企画で、柴崎友香さんと高山羽根子さん、太田靖久さんの出演する対談があって、それを見る予定なのです。とても楽しみにしているのですが、午前に執筆したせいか、少し疲れていて読書したい気も失せていて、妻に提案して「TOWER OF TH SUN RE-BIRTH 再生・太陽の塔」というDVDを見ました。これはたぶん、万博記念公園で、生命の樹を観てきたときに買ったのではないかと思っております。生田緑地も行きましたけど、そのときは「美の呪力」を買ったように記憶しておりますが、今一曖昧です。
 それで、その鑑賞の時に、妻が気の散ることをしてしまって、僕は瞋恚を抱いて、それがもとで幻聴の会話が始まってしまったのですね。すっかり気を悪くして、DVDにも集中できなくなってしまったのですが、後から和解したときに、妻の悪意のなさがよくわかって、いかにも瞋恚は仏教でいう三毒だというのが、よく骨身にしみたことでした。怒って良いことは何一つありはしない。仏教では、こだわりのないこころや、寛容なこころが、もっとも大切であるように説かれているように思います。個我にこだわらず、怒る機会を少なくし、こころ静かに過ごすとき、平安な境地でしずかに過ごせるのではないでしょうか。
 そのあと、少し早いですが、久しぶりに湯船に浸かりましたが、その前後に読書も出来て、なかなか楽しい一日になりました。これも僕の至らぬ部分を、妻が優しく許してくれたからだと思います。ありがたく思わねばなりません。ようやく最近、僕の「食えない小説家」人生が稀有な運命であるとしみじみ感じられてきて、ありがたいお恵みだなあと、仏様の妙技にただただ感心するばかりです。世間はあまり僕らのことを高く評価はしないでしょうけど、僕らはなかなか面白い人生を歩ませて戴いております。それも、みなさまのおかげですし、仏様のお慈悲です。
 コロナの大流行も、まだ予断を許しませんけど、だいぶん収まってきました。犠牲者も多く出てしまい悲しい天災ですが、生き残ることをありがたく思い、残りの人生をできるだけ有意義に、生き抜いていこうと思います。僕は、小説をまだ書かねばなりません。妻に捧げる第二作目のあとは、実母に捧げる小説を書くつもりです。そのように、作品をだれかれに捧げることは、とても有意義なことだと思えます。残りの人生、そのように生きていけたらな、と思います。
posted by Pearsword at 17:10| 富山 ☔| Comment(2) | 浮泡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年05月05日

新型コロナウイルスは、精神にも感染するのか……。

 どうも最近、コロナショックによる外出自粛の所為か、幻聴がよく聞こえてきて、妻と喧嘩ばかりしている。それというのも、僕に妻に似せた声で、腹黒い声が聞こえてくるからである。そこですでに、症状が再燃してしまって、他人の本音がテレパシーで伝わるという実感が戻ってきてしまうからだ。妻が僕を何らかの理由でだましていて、僕はもてあそばれているだけというふうになり、そうなると地位もお金も何もない僕としては、妻にすら裏切られたことになり、人生に何も報われるものがなかったということになって、僕はすべて虚しくなってしまうのだ。生きる気力も無くなり、もう疲れた、静かに死にたい、となるのだ。
 大げさに思うかもしれないが、僕の症状はかなり酷く、発症当時の会食恐怖や加害者意識まで、フラッシュバックしてしまった。妻の献身的な抱擁とそのあたたかみによって、僕は再び妻の優しさを実感することが出来、なんとか人心地をつけたのだった。この筆記も、幻聴に先取られてしまい、タイプしようとする先に、誰かが文を読み上げるので、僕の書きたく思う言葉がかき消されてしまい、正確に自分の文章が書けない。相当、症状が悪化している。仕方ないから、頓服のリスパダールを飲んだ。
 かなり現在、ナーバスで病的になってしまっていて、全ての行動が意識的にぎこちなくなる寸前になっている。発症当時は、すべての不随意運動まで、意識的にしか出来なくなっていて、ぎこちない動作を苦しい中にしていた。それが、中学校の理科の先生が、ヨガの行者は心臓を動かせるという話をしたことがあって、もしかしたら僕も心臓を動かしてしまうのではないかと強迫観念に駆られて、心臓が痛くなることもあった。そういう心筋の痛みは、かならず寝こみに襲ってくるので、不眠がちになったりもした。
 何か、気分転換が必要だろうと思うので、明日は少し妻とドライブでも行ってくるつもりである。外出自粛要請の中、その禁を破ってのドライブになるが、こちらももう限界である。こう引きこもってばかりだと、頭が持たない。本当に再燃したら、入院しなければならない。そしたら妻は、極端に症状が悪くなるだろう。二人で助け合って生きていかねば、精神障碍者の夫婦の我々は、生きていけないだろう。今も、幻聴であざけりの声が聞こえてくる。筆記を操り嘲り笑って、僕のこころをボロボロにする。人の本音がこうだとしたら、百人が百人、人間不信に陥るだろう。それくらい、最低の嘲り声だ。
 
 幻聴のあざけり声を恨めども君のぬくもりこころと等し

 この歌も、かなり幻聴に刺されながら書いて、ボロボロだが、ここで表現をあきらめていては、僕の人生ではない。妻が僕を必要としていてくれる限り、僕はしっかり文筆家でなければならない。自分の人生を捨ててはいけない。それは同時に、妻をも捨てることになるから。
 症状がかなり亢進してきて辛くて仕方ないが、いつもこうではないので、明日は少し改善しているかもしれない。希望を捨てないで生きていこうと思う。
posted by Pearsword at 20:32| 富山 ☁| Comment(2) | 浮泡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年04月24日

「カンバセイション・ピース」保坂和志著。

 読むことの出来る本は数が限られていて、一生の中で出会える小説も数少ない。だから、知っている中で大切に、読書をしていきたい。そんな思いで、「小説入門」に感化され「プレーンソング」に感銘を受けた保坂さんの小説をまた読んでみた。
 この小説は、保坂作品の中でも特に文章が冗長なのではないだろうか。一文が異様に長くて、なかなか述語が来ないので、こころを容易に預けられないような緊張感があって、それでいて矢継ぎ早に語られる修飾語により、リズミカルに物語が展開する。そのため、美文家がみたら何とも無様な文章だと評するかもしれない。しかし、描かれている小説世界はとても美しい。それは、いわゆる描写的美しさではなく、文体は至って簡素なのに、その言葉群で語られているイメージが情趣溢れているというか、「プレーンソング」のような静謐な美しさもありつつ、そのうえ更に別の要素が加えられていると言おうか。それでいて、とても繊細な世界が描かれてもいる。
 はじめは、祖父の建てた世田谷の古民家の間取りが書いてあって、そこに子供時代をともにした珍妙な従姉妹兄弟たちが出てきたり、そこに今は間借りして会社経営をしている友達が出てきたり、「プレーンソング」並みのありえない設定と細密な描写に、その世界自体を楽しめるのだが、そのうち横浜ベイスターズが出てきて野球の話になって、なんだずいぶん大衆的だなと思わせておきながら、その観戦の中にとんでもない哲学的思惟が成されて、その続きがまた世田谷の古民家で行われる。「プレーンソング」は、小説世界の美しさだけしか読み取れなかったし、それで充分だったけど、この作品はその小説世界の美しさの上に、哲学的問題提起が成されているのだ。
 小説ではよくネタバレをしないでくださいというが、この小説は際だったドラマはないし、そういう意味でのネタバレはすることもできない。ただ、小説家内田とその家で会社をやっている従業員三人、初めに出てくる内田の従姉妹兄弟、妻の姪のゆかり、飼い猫の三匹などの、共同生活がだらだら書いてあるだけだから、ネタも何も無いのだ。しかし、別の意味のネタとして、哲学的思惟がある。この小説の妙な牽引力をなしているのが、この哲学の謎かけである。
 それは、従姉妹の奈緒子姉がむかし風呂場で見たという幽霊のようなものの考察から入っていき、「私」や「見る」とはどういうことなのか、「神」とは何なのか、などということについての内田の、もっともらしくもどこか真実とはズレているような考察により、小説全体を通じて成されるものだ。この小説を読んでいる途中に、僕ははっと我に返った。これは哲学書ではなかった! 虚構なのだ! と。それくらい、巧みに読者の悟性を試す小説だろう。つまりは、この小説に語られる哲学は、内田のフィクションの上での考え方にすぎないのだ。
 それでも侮れないのは、その哲学があるていど現実に即しているからで、正直どこまでが虚構でどこまでが現実的哲学であるかが判らない。そのトリックに、読者は舌を巻かれることだろう。そのような哲学的思惟をクライマックスに持ってくるも、小説に描かれた世界はとても美しくて、そこに住んで一緒に内田たちと歓談したくなる。それがこの作品の純文学的美しさであり小説的なところであろうと思う。
 直訳すると「会話の平和」という題名だが、そんなものでは決してなく、もっと深くて艶のある味わい深い作品であった。
posted by Pearsword at 17:30| 富山 ☁| Comment(0) | 文藝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年04月20日

名声と文学。

 小説家志望の人々には名誉を得ようと努力する人が多いように思う。僕も、若いときには、栄誉を志していたし、それはごく当たり前のことのように思われる。しかし、僕のように名誉から見放されてしまうと、そんなものを得るために文学を利用する人々が不純に思えてきた。僕も、そういうなかの一人だったのだが、目を覚ましたと言おうか、気付かさせられたと言おうか。
 たぶん、作家と小説家の線引きもそこなのだと思う。栄誉やお金を得るために文学を利用する人々が作家で、貧乏でも芸術性を求めて文学を極める努力をする人々が小説家なのだと思う。文学とか芸術とか偉ぶるけど、じつはそんなたいそうなものでもない。芸術などというものは、本来ただの遊びごとにすぎない。文章で読み手を楽しませるだけで、その創作のときに感じる達成感とか喜びというものが、芸術の本質であろう。その喜びは自己満足ではなくて、鑑賞されたときの感情と共鳴すべきもので、感想を予期しているとも言える。芸術は、コミュニケーションを下地にしてあるもので、たぶん、誰にでも出来る創造である。誰かに向けて作る何かが、そのこころと相俟って、芸術だと思う。手紙などでも、相手を思い遣ったり為を思ったりして書けば、充分芸術なのではないだろうか?
 しかし、プロの小説家の中には、おそらく自分は文章を書くのが人一倍巧みな天才だと思っている人もいるだろう。そういう人は、他人を上から目線で見るから、こころが伴っていない。読まれて当然、人々が感動して当然。自分は文章の名手であり、その巧みさが美しくて価値があるのだと。そう思うのは、読み手に対する優しさに欠けて、たぶん「こころ」が伴っていない。そういう人はおそらく技巧に走る。だから、芸術が形骸化する。却って、文章の技術者に堕するのだ。
 芸術というのは、なんであれ人に感情や思想を伝えるものである。そこに感動の生まれる余地もあるし、人々は影響され、自分らも何かしらの創造をしたくなるのだ。それが芸術の力であり、創造力のすばらしさである。誰しもが自分だけのものを創造できる。それは、自分だけが思う人がいるからである。誰かに向けて優しく語りかける創造をするとき、その人は芸術家なのである。
 だから、芸術は名声を得るためと思う人は、芸術が判っていない人なのだ。その人は自分のために、ものを形だけこさえる工人だからだ。エゴイストであり、ことによると自己満足でしかない。そういう人は可哀相ではあるが、こころがけを変えない限りは、周りから何を言っても無駄だろう。周りの善意もたぶん判ろうとしないはずだから。
 僕は、名声に見放されて思ったことは、栄光など得ない方が幸せなのだろうということだ。現在、愛する妻と二人きりで悠々自適に暮らしていられる、その生活のどこが不幸だろうか? 何も不自由はないし、他に望むべきことも無い。欲は細い方が幸せになれるのだ。欲ばかり多いのは、餓鬼道のたぐいなのであろう。また、もともと文学というものはストイックにみえるものだ。その実、当人はそれほど苦しくもなくて、その静かな境遇が楽しいのである。そんなに派手ではないけど、落ち着いて静かに楽しめる、それはまさに読書の愉しみそのものであるから。
 芸術のモデルとして、フロイトなどは性欲の象徴としての意味を想定したようだが、近年認められてきたように、環境美といったような「コンフォート性」が、僕の場合は一番しっくりくる。壁に掛けてある絵画は、それに女性を投影して発情するためのものではなくて、環境を個性化して楽しい生活を彩るためのものである。すべての芸術に、僕は「コンフォート性」が必要であるように思う。そういうときに、僕も自分の書く小説は、たとえ好きな人のために書くものであったとしても、その人を静謐な気持ちにさせるものでありたいと思うものである。
posted by Pearsword at 16:17| 富山 ☁| Comment(2) | 迷い言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする