2021年04月11日

礼儀と作品。

 さいきん、縁があって富山の同人誌をいくつか読んだ。
 いろいろ読んで感想を送ったりもしたのだけど、どうにも相手にされなくて何の返事もない人が多かった。それでも、いつもお世話になっている神さんに、とやま同人誌会の動静を聞いたり、同人誌をもらったりして、さらに感想を書くうちに、白川荘子さんに返事をもらった。それで、ひょっとしたら理解してもらえるかなと思って電話してみたら、あまり好意的に接してもらえなかった。とやま同人誌会には入らない方がいいと、あからさまに言われた。
 だいたい、最近の小説の執筆者は、ろくに手紙の書き方を知らないのか、拝啓も書かない人が多すぎる。前略で初めてかしこで終わらす人もいて、一瞬そういうのが最近の作法なのかと、こっちの無知を疑うくらい堂々としていて、まるで無作法を恥じるでもない。手紙の書き方も知らずに、よくも小説など書けるものだと、あきれてしまう最近である。
 まあ、礼儀というのは蓋し上辺の作法では決してなく、心遣いをするかどうかということに多くのウェイトがかかってくるものであり、いくら作法ばかりガチガチでも、内容が失礼であれば無作法であったりはするのだが、それを加味しても、この富山の同人誌会の先輩の方々の対応は、僕に対して無作法すぎるものがあった。唯一、神さんだけは、初めに手紙を送ったときから、葉書でではあったけれどもちゃんと内容のある返事をくれたし、今でも僕らの同人に好意的に接してくれている。神さんの小説は、確かに同人誌のものだけでなく、興味深いものがあったために、感想も高評価のものを書いたということもあるのだけど、白川さんの小説があまりにも軽い筆致なので、深いテーマが感じることがついぞ出来ずに、どんなに評価しても相手の耳に優しいことばかり言えないような結果になったために、白川さんにはあまりいい返事をもらえなかったのかとも思うが、それと作法はまた別の話であり、要するに人柄が礼儀に出てしまうというか、さらにそれが作品にも出ているとも言えて、一頃小説に惚れた作家に嫌われて心が痛んだのだけど、やはり作品には曲がりなりにも人柄が出るのではないかと、再び考え方を改めざるを得ないような最近の出来事だった。
 また、神さんが尊敬している人で同人誌会の先輩に深井さんがいて、僕も裸人の合評会に出たときに、話し振りから優しさを感じて、そのあとに神さんと深井さんだけに手紙を書いたのだが、そのことを思い出して、再び深井さんに手紙を書いたところ、必ずしも作法に則ったものではなかったが、今度は中身のある返事が来て、同人誌を交換することになった。それで、深井さんの作品を読んだら、神さんが尊敬するだけのことがあって、僕もとても感銘を受けるものが多かった。御高齢のためパソコンに疎く電話しか出来ないようだが、話してみるととても気さくで、当同人にも協力的だった。
 僕らに好意的な人が素晴らしい訳ではないが、少なくとも僕が価値を認める小説を書く人は、感想を書かなくても僕に好意的だ。文フリなどで知り合う人々の中にも、僕は感想を書いてきたが、まともに返事をくれる人は少ない。ほとんどの人が、僕の小説の感想など書いてくれないし、メールを打っても嫌がられることが多い。嫌いな相手だから、無作法にして意思を伝えたいのかもしれないが、それはどうにも乱暴なやり方のような気もする。そのような人に無作法なことをする人たちの作品は、大抵は僕の好みでないので、僕は礼儀正しい人が好きなのかもしれない。礼儀は上辺だと考える人は、無作法なので僕の価値観に染まないからだろう。
 小説は人柄を表すという価値観を、もう少し掘り下げて今後活動していきたい。

 
posted by Pearsword at 21:08| 富山 ☀| Comment(0) | 迷い言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年03月26日

「六〇〇〇度の愛」鹿島田真希著。

 鹿島田さんの小説を読みたくて探していたら、三島由紀夫賞を取ったという作があったので読んでみた。
 文章は、すべて地の文で構成され、台詞もカギ括弧なしに叩き付けられている。その文章自体、混沌を表しているかのようでもあるが、鹿島田作品は割合このようにカギ括弧のないものが多いので、彼女の古来からの日本文字に拘って使いたいというような、何かがあるのかも知れない。
 この小説で、女は混沌の象徴である被爆地の長崎に行く。話の初めは、女の兄の頭の、「アンドロメダ星雲のように混沌と渦を巻」くと記されるつむじに象徴された、兄の生活振りのような、混沌そのものの世界が描かれている。それは、秩序と無秩序が交錯したもので、兄と女の境界を不鮮明にし、女に死への憧れを抱かせた、おそらく母親からの愛情をうまく受け取れなかったことから来る虚しさのようなものから来る、女の認識の曖昧さなのだろう。その虚しさは、動画や写真で見られるだろう、長崎の原爆によるキノコ雲を美しいと感じさせ、女を衝動的に長崎に誘うのだ。
 長崎で女は、ある青年と出会う。一見したところ、彼も女とそっくりの面を持っていると、女は思う。女同様、過去さまざまに凌辱された過去があるのだ。その凌辱は、長崎そのものを思わせ、女は彼を長崎そのものと思うのだ。それは、「自分と良く似た無秩序」「溶けてつながったガラスの瓶、焦げて誰なのかわからない子供の死体、高く積み上げられたおびただしいしゃれこうべ、それらを総合してなんの意味もない、そういう状態」として認識される。死とはそういうもの。「誰もが泣くしかないと答えを出した」もの。死ぬために、女は青年とセックスをする。
 しかし、あるとき青年は、女の死への希求を見て、本能的にそれを止めるのだ。その行為は、女を目覚めさせた。それまで、青年と同質であると思っていたのに、孤独にさせられた。青年は、死を「意志」していない。凌辱されても、禁忌のように死を避け、力強く生きようとする。女は、青年を怒らせようとするが、青年は決して怒らない。彼の肉体は、犬に与えるパンのごとく、女を夢中にさせた。しかし、青年はロシア正教の聖女のように、数知れぬ凌辱を受けても清らかであった。その聖女のような青年に結果的に救われたのだろう、女はこの死の制止行動により、青年と別離し、孤独になるとともに、よろこびも悲しみもない「無」の生きように転換していくのだ。その切っ掛けとなったもう一つが、青年の考え方である「被り」という概念だった。「被り」はギリシャ語の「パトス」が語源で、「情熱」の意味でもある。よころびも悲しみも「被り」。その考え方が、女を救った。少なくも、死に対する憧れはなくなったのだろうと思われる。
 この小説の奇妙なところは、そのような混沌としたイメージで始まるのに、読み終わってみたら、秩序立った主婦の記録として、捉え直されるところである。無秩序から秩序へと、読者をともに通過させる。そのトリックじみた小説技法が、とてもおもしろく感じられる作品であった。
 読後感としては、主婦がよく抱くような平和ボケじみた虚しさを小旅行して脱皮した物語として捉えられるが、ひょっとしたら著者の私小説的側面があるのではないかとすら思わせるリアリティがあり、その辺も興味深い。しかし、自殺した女の兄の、浮いたように前向きな日を思い出すように、語り手は「私の過去にもう一人の兄がいたように、もう一人の母が紛れ込み、もう一人の私もいる」「私の中の質の異なる認識が、過去の大樹のところどころに巣を作る」「無秩序と違和感で染められた過去の帯を私はそのまま広げる」というような書き方で、この小説を語り、また現実を語るのだ。
 長崎の惨事を許すのは、どのような精神を産むのか、それは正しいことであるのか、あるいはただの偽善であるのか、そういうことを振り返って考えさせられるこの作品は、恋愛小説的ではあるが、むしろ反戦的な被害者の意識改革的なテーマを持っている。しかし、作品としては、纏まりがあって全体的に美しさを感じさせる芸術品である。そのことに関して、この作品自体が、長崎を化粧した街と書いた女がキノコ雲を美しいと感じたことと、どこか通じるものがあるのだと、著者は警鐘を鳴らしているのかもしれない。
posted by Pearsword at 17:05| 富山 ☔| Comment(0) | 文藝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年03月23日

越中大手市場に出る。

IMG_1680.JPG 先日の日曜日21日に、はじめて越中大手市場に、文藝同人無刀会として出店してみた。
 大手市場は、いろいろな露店が出店するが、食べ物や雑貨が多いので、本は売れないだろうと、はじめから思っていた。しかし、妻が仕事をしたいといってやまず、どうにも資本主義経済の中で労働とされるお金稼ぎをしたがるので、それなら本を売ってくれといったところ、本気になったため、あちこちのフリーマーケットを検索して問い合わせたのだった。蚤の市も問い合わせたが、結局大手市場になった。
 しかし、やってみると二人ともけっこう一生懸命で、ポスターも何枚も作り、売るための本を包装したり、準備を頑張った。当日は風でトランジットモールが中止になったが、大手市場は開催された。朝方は雨も降らず、なかなかの天候だったので、文フリなどと何も変わらない気がした。そのような気持ちでいたからか、開店早々二人のお客様が来て、二冊売れた。これは、もしかしたらもっと売れるのではと、かけ声に力が入り、店の前でビラまきなどを頑張ったりした。すこしは店に立ち寄ってくれる人はいるのだが、なかなか購入までには行かなかった。
 そうこうしているうちに雨風が強くなり、市場も14時で終了になった。疲れたけど、売れたので惨めにならずに済んだ。一回目でこれであれば、回数を重ねたらどんどん売れそうな気がする。文フリですら、初めて出たときに売れたのがたったの一冊だったのだ。今は30冊くらい売れる。そういう積み重ねが、大手市場にも必要な気がするのだ。
 ということで、今後も継続的に、大手市場に出てみようというふうには思うのだが、今回雨だったので、手作りのインクジェットポスターは、ほぼ全滅、二度と使えないほど破けたり滲んだり。また印刷せねばならない。原稿はあるからいいが、また印刷して糊付けである。インク代がもったいなくもある。業者に頼んで、PP加工のポスターを作った方がいいのだろうか。とも思わないでもない。
 しかし、こういうことをすると、本当に同人誌ショップなる店舗を作ってもいいのではないかという気すらしてくる。小説を書く傍ら、それらの本を店舗で売るのである。当同人のものだけでなく、すこしマージンを取って、ほかの同人誌も扱うと、立派な商売になるかも知れない。今どきzineというのがはやりだから、ひょっとしたら商才があれば成功することもあろう。僕は商才がないから無理だけど、喫茶店と併せてそういうスペースを持って商売じみたことをするのも、面白い気がする。小説家を兼ねたショップ店員である。同人誌を売りながら、立ち読みスペースに机と椅子を出して、お茶も売る。おもしろいかもしれない。
 ただ、そんなことをしていると、肝心の執筆の間がなくなっていくような気もして、現実的には難しい。しかし、生計は年金だけでなんとか回っているので、とんとんならば店は成り立つので、執筆しながら店番すれば、なんとかなるような気もする。新しいスタイルの小説家を模索しながら、頑張っていこうと思う。
 
posted by Pearsword at 09:50| 富山 ☔| Comment(2) | 浮泡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年03月14日

文学の芸術性。

 今日は、僕の文学観を語ろうと思う。
 文学というのは、造詣の深いさる方に訊くと、すべてを文字に収斂させたもの、と捉えるらしい。それはたしかにその通りなのだが、僕は、すこし異なったことを思う。
 文学というのは、やはり「芸術」の一種なのだと思う。これは、志賀直哉の「暗夜行路」にも出てきて、時任謙作は自分の小説を「芸術」と言っている。芸術と言うからには、人のこころを癒やしたり和ませたりするものでなければならない。
 しかるに、最近の小説は、あまり癒やすことをしない。珍奇さや刺激の強さを楽しむような、僕に言わせれば下世話な作品が多い。これはたぶん、僕が精神障碍者であることと拘わりがある。僕は、こころが辛いことが多いから、芸術にこころの癒やしを求める。だから、純文学の一部の優しい作品を好む。しかし、世間は健常者が多い。健常者は、こころの癒やしをそれほど必要としておらず、むしろ平穏な現在に退屈して、烈しい刺激を求める。たぶん、主婦がワイドショーを見るような心地で、文学を漁る。その温度差が、僕と世間のものではないのだろうかと。
 最近の文学は、ヒットすると必ずと言って良いほど、映画化したりドラマ化したりする。これは、出版社が主導でやっていることだとすれば、文学を否定する自滅行為にすぎない。映画やドラマの面白さを判って貰っても、その原作の面白さは100%判らない。動画の面白さと文学の美しさは相反するものであるからである。僕なんぞは、文学が好きになってしまってから、テレビが苦痛で観れない。
 文学は、目に見えないものや実際に体験できないものを、文章で伝えようとするものだ。他人の体験やそれを再構成した文学作品は、その文章の上にしか存在しない仮想世界であり、それを読者がじかに体験することは不可能だ。そこに想像力が働くのが読書だ。読書は、あいまいなものを実感させる芸術である。言葉で表される形而上学的な事物を、あたまで想像して体験する。想像体験する芸術だ。しかし、言葉には不思議な再現性があって、うまく表現すると、現実より美しい経験を、読書において可能にせしめる。そこに芸術として文学が分類される理由がある。
 文学というのは、曖昧なものを表すものだ。しかし、自由想像ではない。言葉に於いて規定される中での、読み手の個性的な経験と感性に依拠した自由度の想像である。だから、視覚芸術よりもかなり感想に幅が出て然るべきだし、鑑賞者によっては感性次第で相当な美しさが体験されるのだ。それが、万人に開かれないところが、文学のもどかしいところであり、文学を映像化したがる人々の思惑なのかも知れない。
 しかし、自分で言葉を感じて再構成しない限りは、文学のすばらしさは判らない。与えられた映像と音は、すでに文学世界を壊している。文学というのは、自然、音も静かなもので像もぼやけたものである。そういう曖昧な美しさは、日本古来の風情や趣というものを、うまく表現する。風情や趣というものは、じかに見せられるものではなく、主体的にみずからがふと感じられる情感であるため、万人の共有物として供給することは不可能なものである。そういう感性をもたなければ感じられないし、それはくっきりどっきりの動画ばかり見ていては、一生つかめない情感である。
 感じ方を学ばせる役割も、読書にあるということだろうか。しかし、小説もピンキリがあり、売れるのは動画化しても世界の壊れないような、漫画の台本にでもしたくなるような、ストーリーを売りにしたものばかりである。つまり文学性の低いものしか今の世の中もてはやされない。これは、文学にとってかなり危機なのである。純文学の純文学たる思索美が、損なわれたり感じられなかったりするものばかりが、流行する。本物の文学が衰退していく。
 芸術が世の中に出来うることがあるとすれば、人心を優しくすることぐらいだ。純文学にはその要素がかなり多いのに、最近の文学は大切なものを忘れすぎである。日本の文学出版社は、そのようなことをもう少し真剣に考えてほしい。いくら売れないからと言って、文学を漫画化すべきではない。もうすこし明るい文学界はないものか、途方に暮れるこの頃である。
 
posted by Pearsword at 11:53| 富山 ☔| Comment(0) | 迷い言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年03月09日

春が近い。

 今日は晴れだった。このまえ、大学時代の同級生が飛騨市役所に勤めていたのが近々転勤になるというので、富山から近いし一度会いに行こうというので、妻を連れて会ってきたのだが、すると精神病院がコロナ対策しているのに抵触して、二週間病院出入禁止になり、今日は病院の駐車場で電話診察になったのだが、そのときに出掛けにお日様を浴びたせいか、妻がピクニックに行きたいと言いだしたので、僕自身は億劫であまり出歩きたくなかったが、梅が咲いているかと思って、中央植物園に行ったのだった。
 中央植物園は、昨年も妻と来ていて、そのときは菜の花が金色に輝いてとても感動した。しかし、今回は菜の花はまだで、マンサクやトサミズキが咲いていた。そのほか、アセビの花を初めて見て、とても可憐な花だなと感動した。自然はやはり美しい。春の花は、あたたかい夏を予感させる陽気さがあって好きだ。その代表が桜であるが、桜はもう暖かくなりつつあるときに咲くので、梅の方がより春の先取りとなる。気配、影、陰影、そういうものが好まれた中世は、それで梅がより愛でられたのかも知れないと思った。
 奥の方に行くと、福寿草が咲いていた。いつ見ても黄色の綺麗な花だ。絵画で言うと、原色の黄色。くっきりはっきりと言う点では、現代絵画的ですらある。菊葉のようすすら幾何学模様的で、抽象芸術というのも大自然のふところからは逃れられないのだなという気がした。具象像の象徴化シンボル化、それが抽象ということなのかもしれない。
 今の世の中、電飾や花火が綺麗という女の子が多いが、それは自然の美しさを知らないからなのではないだろうか? 去年見た菜の花の金色にも思ったが、たとえば万葉時代の人々は、野山にあの輝きのさらに倍する雄大な風景を、じかに裸眼で見ていたのだ。見ただけではなく、その場所にいた。そして、その菜の花を食べもした。自然の美しさ雄大さと、一体になることが出来た。だから、現代のような人工美が要らなかったのだ。
 皮肉なことに、自然を搾取してあらゆる美しさを失った人類が、こころの補償としてみずから作り出した美しさに、太古の自然美と共通なものを含ませてしまった。その太古の自然美から、人工美は抜け出せなかった。けだし、「美しさ」という概念自体、元来大自然が産み出し大自然に属するものであったのだろう。芸術は、大自然の外に出ることは不可能なのだ。アントナン・アルトーが「どのような超現実より美しい」とした現実というのは、そのようなことなのだと思うのだ。
 だからこそ、芸術というのは突き詰めるとアニミズム的様相を呈してくるのであり、個人の個性に拘るうちは、まだまだ理想が程遠いのだろう。いつか僕が美術館で感じたように、芸術は美を日常生活や環境に敷衍するものでなくてはならず、現実の美しさに目覚めさせるものでなければ人類のためにならない。美しさを蓄財して独り占めする類いは、すこしも美術ではないのだ。もっと、芸術は普遍化されるべきなのだ。
 そうすれば、妻の唱えるような、人類総芸術家社会が実現できるかも知れない。
  
posted by Pearsword at 18:08| 富山 | Comment(2) | 迷い言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年02月26日

書くのに息切れ。

 今書いている長編小説は、仮題「名梨」であるが、どこの賞にも出すつもりはないが、実母のために書いているものなので、母の誕生日の八月までには、製本したい。製本には一ヶ月くらい見ておきたいし、表紙デザインはそのまえに頼まなければいけないので、六月くらいまでには、推敲も終えて仕上がったものにしておきたい気がする。今、かなり終盤に来てはいるものの、しかしながら今日などは息切れしてしまって、書き継ぐモチベーションが低かった。
 午前中も、何か書きたいと思うのだけど、疲れたというのかこころが弱っているというのか、書こうという意志を掻き立てようがなかった。何か、芸術などに癒やされたい気持ちがし、寝室のマーティロの版画などを寝転がって眺めてみたり、居間に戻ってブラームスのヴァイオリン協奏曲を聴いてみたり、それでもなかなか書く気が起きなかった。若い頃から影響を受けている森田哲学の考え方の「気分本位の脱却」というのを、久しぶりにやってみようかという気になって、あまり気が進まなかったが、とりあえず筆を加えてみた。
 難儀は難儀だったが、二三枚書き足せてほっとした。少し前の方を読み返してみたら、自分でもなかなか面白いと思える出来で、作品というのは自分が何よりも癒やされるものなのだなと、改めて感じ入った。作っているときはもちろん、できあがったあと読み返して、自分が癒やされたり楽しめたりする、それが作品に宿る神性であり、作品が神の手によるものである証拠である。自分で自分の傷を癒やせる者はいないのである。作品は、自分が作り上げるような必然性から超越しているからこそ、作者すら楽しめる代物になる。しかるに、作品のすべてを、自我や理性のコントロール下において、設計図を作ってその通りに作り上げるのが技術だと思っている人は、たぶん創作には向かない。設計された創作物は、生きていないしダイナミズムがなくて、すこしも面白みがないものだ。それは人間の理性の限界であるし、人間なんて宇宙の中の塵一つ正確に把握できない愚かな動物なので、それは当然のことである。人間は、謙虚になった方がいろいろなものが見えてくるものなのだ。
 製本に関しては、実母にプレゼントするものであれば、自家製本するのも手かも知れない。たとえば、製本キットなどを購入して、ワープロ印刷で糸で綴じて、ハードカバーの表紙を付ける。ハードカバーというのは、背表紙が一番難しくて、厚さが本によって異なるから、それを考慮するなら、厚紙を買ってきてカッターで切って、包装紙か何かで覆うように糊付けするという、職人技が必要になってきて、僕がやると小学生の工作になりかねないので、やはりハードカバーはあきらめて、小ロット印刷を製本屋に頼むのが現実的かなと思う。あるいは、ネクパブでも非売品であればカバーを付けられるというので、そういうものを利用してもいいようにも思う。
 しかし、本というのは芸術と異なり、それほど神性の宿る代がない。芸術というのは、機能のないところに素晴らしさがあるからだ。機能のない無駄なものにこそ、美しさが宿るのだ。本が芸術的であったなら、機能性が悪くなって少しも読めないに違いない。だから、製本は設計図通りに作るのがいいのだ。
 本は、芸術と技術の合わせ技で出来るのだろう。
 
posted by Pearsword at 17:46| 富山 ☁| Comment(2) | 迷い言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年02月19日

取り留めなく思ったことあれこれ。

 どうも頭のすっきりしない午後で、何か書きたいという気持ちがあるのだが、現在執筆中の作品はあまり筆が乗らない。
 「螺旋の拈り」を自分で読み返してみて、ずいぶん面白いな、またアブストラクトを書きたいなと、思うのだけど、そしてそれとは異なる美しさを持つ「名梨」について、書き継ぎたくも思うのだけど、どうも上手く行かない。
 今、「暗夜行路」を読んでいて、ずいぶん無駄な描写も多いなと思いつつ、明治時代の風俗が偲ばれて面白かったりするのだが、そういう「無駄の美しさ」について、現代のプロ小説家の何人かにずいぶん学んだ気もするが、じつはそれは過去の文豪のすでにしていたことだったのかと、思い当たらないでもない。
 何か、おもしろいものを書きたい、そういう創造欲がまずあって、だからこそあれこれ書くのだというのは、たまにちらちら眺める保坂和志さんのタイムラインなどにも書かれていて、僕の創作方法があながちおかしくもないことを物語っているのだけど、しかし、保坂和志さんにはあまり良く思われていない。
 権威とか権力とか、そういうものに順でなければ、有名にはなれない世の中なのかも知れないが、べつに有名にならなくても、僕らは生きていける。有名になりたいのは、自分が褒められたり人気が出たりして、他人より有能であるという優越感に浸りたいからに過ぎず、ようするに自惚れたいのだろうと思う。優越感に浸ると、どのような神経伝達物質が分泌されるのか、大脳生理学の研究者にでも聞かなければ判らないが、ドーパミンとかかなり麻薬的なものが分泌されるに違いない。人は快感に惹かれるものだ。
 僕も、人間故そのような快感に惹かれてしまうのだが、それは優越欲を満たすことではなくて、創造欲を満たすことによる喜びだろう。別に、大衆にどう思われようといいのだ。創造したものを、他人に読んでもらって、面白がって貰う。それは、コミュニケーションであり、精神交流である。そういう友好的な喜びを、僕は求めている。
 しかし、なかなかそんな物好きな人はいなくて、僕の作品の感想を下さる方は、僅少である。まあ、少ないながらもいないわけではないので、統計学的に言って、もし全国民に読んでもらったら、何割かは理解者がいるということにはなる。僕は宣伝力がないので、たまたま僕の本を見掛けた人は、標本的意味合いがあるからだ。
 僕は、創造じたいに美しさを感じる。それは、岡本太郎さんの言っているように、石を積み上げることのアニミズムということなのかも知れないが、僕は、芸術作品を鑑賞するときに感じる、センシティブで思索的な美しさというか、欲から遠ざかったところに存在する、環境の快適さをエンハンスするような美しさというか、そういうものを創造の時間そのものに感じたりする。しかし、創造はそのときにしかなくて形而上学的存在であり、その産物の作品というものができたとき、それはまた別の美しさがあるような気がする。
 なんか手探りで話してみたけど、石積みにおける三つの神性という岡本太郎さんの論にそっくりだったりする。そういう点は、みずからも創作者になった証だなと、喜ばしく思える。
 
posted by Pearsword at 14:27| 富山 ☁| Comment(2) | 迷い言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年02月08日

「ひかりの針がうたふ」黒瀬珂瀾著。

 縁あって、歌集を一冊読んでみた。
 僕は、その実、短歌というものが能く理解できなくて、あまり短歌に感動した経験がない。自分でも、少しく短歌を詠むが、それはむしろ遊び心からであり、こんなことを書いたら、さまざまな歌人に陰口を叩かれそうだが、真剣に芸術の手段として詠むことをあまりしない。
 しかし、この歌集を読んで、はじめて短歌を美しいと感じた。たぶん、短歌も良さを解るために感性を磨けば、解るようになるのだろう。それは、あたかも僕がバーンズコレクション展に行ってから、絵画の良さを解るために、あちこちの絵画展覧会に行き、一生懸命鑑賞した結果、絵画の自分なりの好みができたことと似ている。つまり、小説用の感性と短歌用の感性は異なる。
 この歌集は、そういう意味で短歌初めての人にも向いているような印象的な歌が多く、しかも海や夫婦愛親子愛が歌われていて、とても常人に優しいものがある。もし、歌集を初めて読むような人がいたら、まず巻末のあとがきの文章を読んでから、短歌を味わうことを進める。歌人の福岡での二年間の背景は、判っていた方が、短歌を鑑賞しやすい。
 海の歌がとても情景が鮮やかだ。

 "朝日より吾へと海をひた走るひかりの道は踏みがたきかも"

 また、海と妻をともに詠った歌も美しい。本著のまえにも後ろにも、妻と子供の存在が常にあり、海の美しさと相乗効果を作している。

 "秋冷のまぶしき領に船を出すわが生に妻の言葉あふれて" 
 
 そして巻の真ん中には、福島第一原発での除染作業のことが詠われている。どのような経緯で除染作業に参加したのかは語られていないが、「水を送る」のくだりに多くの歌を詠んでいる裏には明らかな脱原発思想があり、その下の家族愛と平和への祈りが見え隠れするのである。

 "冬田を削る男らの影とほく見てわが被爆けふ10μS"

 "原町の田ごとに瓦礫積まれをり潮浴びたれば他に役目なし"

 "1Fを国は遺跡とせぬだらう霜に包まれからすうり照る"
 
 後半は、原発短歌に気を取られたためか、どうも印象負けしているような気がしたが、「かもめの朝に」は僕の読みが間違っていなければ、かなり痛ましいくだりで、

 "死をかつて優しき岸と謳ひたるわれらが注ぎあふチリワイン"

 には、宗教で救われぬ人の罪と幼い生命が詠われ、それに対する歌人の悲しみの叫びが聞こえそうな切実さが感じられる。
 そのほか、育児の喜びや悲しみを詠んだ歌もあり、ここで紹介しきれないが、そういうものも、平和への祈りというテーマで統一されそうな気がした。たぶん、実母への追悼の歌なのだろうけど、母の歌も印象に残った。

 "吾児がわが母にほのかに似てくるを九月の朝のさざなみとなす"

 最後、九州を発つくだりは、歌人の土地と過去への愛着とその別れの悲しみが感じられて、感慨深い。

 "阿蘇の陽に首照らされて妻は立つ旅嚢を分かつひとのゐること"

 この歌集は、書棚に置いてときどき味わうのも楽しいと思わせる一冊だと思った。


 
posted by Pearsword at 17:25| 富山 ☁| Comment(0) | 文藝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年02月05日

龍の置物。

20210205_120952859_iOS.jpg 気分転換に、どうでもいいことを書いてみる。
 うちの居間のテレビ台の中に、BDプレイヤーと地デジチューナーが隠れる形で、龍の置物が置いてある。長さ二尺程度の青銅の置物である。これは、まだ妻とつきあい始めてまもなく、妻の誕生日の贈り物として買ったものである。つきあい始めた歳の年末、妻に何が欲しいか訊いたところ、「へんなおきもの」が欲しいと言ったので、僕は前衛芸術のようなものがないかとネットで探してみたが、めぼしいものが見当たらなかったので、ひょっとしたら画廊などに売っていないかと思い、百貨店大和の横にある美術古物を扱う店に、確か病院の帰りか何かのときにふらりたち寄て見つけたものに、さっと手付けを千円くらい払い、後日バスで取りに来たのだ。なぜ、バスで行ったかと言えば、駐車料金が気になったからであって、その実バス代と短時間の駐車料金はさして変わらない。
 しかし、その美術品店に立ち寄ったとき、そのような前衛的な置物は何一つなかった。あまり格好のいい置物がなくて、せいぜい猪とか龍くらいしかなかった。猪はどうもかっこうわるいので龍にしたのだが、金色で一回り小さいものと青銅製のものがあった。金色のものはメッキだろうし、あまり金ぴかの趣味がない僕は、まよわず青銅製のものを選んだ。今思えば、大和などで決めずに、高岡地場産業センターにでも行けば、もう少しまともなものが買えたのかも知れない。しかし、そのときは多分お金があまりなく、地場産センターを選ばなかったのだろう。クリスマスにちょうど妻の実家の方に旅行に行っていて、往復五万くらいかかるので、その旅費は少し妻に出してもらったとは思うが、そのときはあまりお金がなかったのだ。
 買うときに包装してくださいと行ったら、店のオヤジはあまり品の良くない包装紙で、下手くそな包装をしたのだが、これが外から見るとべらぼうに大きい。中古品だったため、適当な箱を選んだのだろうと思って、うちに帰って別の箱に詰めようと考えた僕は、その包装を開けた。しかし、それはその置物の専用の箱で、「玉龍」という置物の名前の書いた木札まで入っていた。失敗したと思いつつ、もう一度箱に収め、それを妻に郵送した。もう一度包装した覚えがあるが、100円ショップの包装紙を買ったのが別のときだったか、少し記憶が曖昧ではっきりしない。
 妻は、それをスカイプの向こうで嬉しそうに開け、しばらく部屋の本棚の上に飾って置いておいてくれた。
 その「龍」がもとなのか、妻の僕との思い出を基にした小説「喫茶店」の夫の名前は「竜司」である。その実、僕は龍というような逸材ではなく、ただの蚯蚓程度である。だれかの禅問答で、蚯蚓の仏性を問うたものがあったが、僕にも仏性はあると自負している。それは、むしろどうでもいい話ではあるが、龍も蚯蚓も等しく仏性があるというのが、「一切衆生悉有仏性」の立場だ。
 思い出の龍の置物で、買って良かったなと思っている。
 
posted by Pearsword at 21:13| 富山 ☁| Comment(0) | 持ち物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年01月19日

最近の症状。

 年金暮らしになってみると、ある程度自由が利いてそれ以上それほど欲しいものがなくなる。僕は、おかげさまで、かなり満たされた人生だ。暖かい御飯を食べられ、便利な住宅に住めて、好きな女性とともに暮らせる。これ以上望むことはそんなにない。だから、ときとして人のねたみが気になる。あるいは、周りに引け目を少し感じるのかも知れないが、精神症状が時として悪くなる。他人のねたみの視線を感じて、もちまえのテレパシー妄想が頭の中で現実化して、絶えず行動を見透かされている感覚に陥り、僕の生活が超能力で他人に覗かれながらねたみの幻聴を聞くことになる。こういうのは、統合失調症にならないとどういうものか判らないだろうが、かなり辛い状況だ。他人は、そういう状態を自我が強いからうまくコントロールできるが、統合失調症という人たちは自我が弱いので、そういう情報処理がうまくできずに、妄想として医者に報告して、その超能力を押さえなければ、生活が破綻するのだという妄想が、真実性を増してくる。つまり、妄想の中では、普通の人々は平気で暗黙の了解で、超能力を扱っているという世界になる。そのなかで、超能力を扱えない未発達な精神の人々が、統合失調症にかかるという原理だ。つまり抗精神病薬というのは、超能力を抑える薬ということだ。
 そういう妄想体系が僕の中にはできあがっていて、時としてうずき出す。今もそのような状態だ。ありがたいことに、ロナセンが効いてくれていて、文章を書くことが出来るので、このブログを書けるのだが、若いとき症状が酷くて、書こうとするとそれを誰か第三者に見透かされて、言葉を想起するのを邪魔されたり別の言葉に置き換えられたりして、いらいらするので少しも冷静に執筆できなかったし、書く速度も著しく遅かったのだ。そのころから見れば、そうとう改善してはいるが、やはり今でも、対人関係のストレスに遭うと、見透かされ感がぶり返して、避難の幻聴が聞こえ出す。
 そういうときは、仕方がないから横になって頭を休める。これも、今だから出来ることで、酷い時期は横たわると余計幻聴が酷くなった。だからいても立ってもおられず、不必要に行動してみたり、しかし無気力症状も同時に出ていて酷く身体を動かすのが辛かったりもして、とても普通に労働できない状態のことがあった。今は、薬のおかげで休むと頭も休まる。音楽も静かな音楽を流すと、気持ちが和らぐ。だいぶんこのような人間的安らぎ方が出来るようになったのも、精神医学のおかげであろうか。
 ちなみに、現在は執筆意欲はあるのだが、精神が傷ついていてあまり頭を使う執筆が出来ない。それで、このような雑記を記している。実は、午前中は空華第一三号に載せるための、黒瀬珂瀾さんのインタビュー記事を書いていたのだけど、なんだか昨日今日といろいろごたごたがあって疲れてしまって、一時間ほどで切り上げた。空華も、市立図書館で受け付けてくれるようになったので、とても発行しがいが出てきたため、面白い記事をどんどん作り出そうと考えているところだ。書評も連載が板に付いてきたし、短歌も載せているので、各方面に声を掛けて、誌面を豊かにしていきたく思っているところである。
 BGMはシューベルトピアノソナタ#13#14、とてもこころが癒やされた。疲れた日は、精神を休めなければならない。
posted by Pearsword at 17:03| 富山 ☁| Comment(2) | 症状 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年01月14日

小説の完璧さについて。

 ときどき、小説を創作するのに完璧さを求める人を見かけることがある。僕は、これはあまり面白い方向性のようには思わない。なぜなら、小説の創作は芸術的活動だからである。
 僕が創作を始めた原点を振り返ると、子供のころからの「ものを作りたい」という欲がある。子供の頃から工作が好きで、いろいろな紙細工を作っていた。しかし、手先が不器用でなかなか満足のいくものが作れなかった。そこで、絵や漫画も作ってみたがなかなかうまくいかず、いろいろ試すうちに、自分で出来のいいと思った文章を担任の教師に褒められた。それで、嬉しくなって小説を書き始めたのが中学二年であった。
 要するに、「自己表現」ということをしたくて、僕は小説を書き始めたのだ。自己表現とは、個性の発表である。それは、完璧性とは相反する属性だ。なぜなら人間というものはなべて不完全であるし、個性というものはどこかしら完全性が欠けているところに成立するものだからである。
 岡本太郎さんは、芸術はうまくあってはならない、きれいであってはならない、とまで仰った。それは、芸術が完璧な機能美ではなく、滑稽なくらいの個人的特質の表明でなければならないと、教えてくださったのだと思う。完璧というのは、どうにも面白みがなくて、そこに人を感動させうる要素はないように思える。
 しかし、プロの小説は完璧ではないかと、反論する人もいるだろう。プロットもキャラも文体も、すべて無駄一つない完璧な美しさだと。しかし、それはマスコミの祭り上げたイメージによる偏見であって、教科書に載っている文豪と呼ばれる人々の小説が、すべての人類に感動を与えるわけではない。その教科書に出ている文豪の作品が理解できないと、読解力がないのだと学校教育では教えるが、それはむしろその個性を矯正するような虐待的側面がある。本来、どのように感じようが、読者の勝手である。
 だいたい、プロの小説というのは、校正者によって修正されるから完璧然とするのであって、素人の書く小説でも、丁寧に校正すれば、完璧然とした文章になるのだ。また、プロは文章ばかり書いているから、書き慣れてきてだんだん文章力も付いてくる。そんなものを才能だとか称して祭り上げるのが出版社の仕事である。
 小説というのは、芸術であって製品ではない。人間味を感じさせるような不完全さがあってしかるべきである。それを恥じるような小説家は、まだ若いかうぬぼれている。完璧な芸術などあり得ない。かならずどこかに人間的不完全さが表現されるはずであり、それがなければ却って芸術とも言わない。だからこそ、AIに小説を創作されることを恐れるような莫迦者が出てくるわけで、AIも学習機能と成長機能を身につけて、生きるのに苦労することが出来れば、ようやく芸術を作り出せることが出来るが、ただのコンピューターには苦労の大切さが表現できないので、芸術的な個性表現や欠落や奇妙さが、まるで作り出せない。つまりAIにはろくな小説は書けない。
 だいたい、プロの小説家というのは、自分の文章は美しくて、自分は頭のいい才能の豊富な人間だと優越感に浸ってうぬぼれている。それは、芸術の本質から相当離れてしまっているのであるが、残念ながらそういうことを見抜く力のあるプロ作家は、日本には見受けられない。みな多かれ少なかれうぬぼれている。百歩譲って、小説を書くのが上手だとしよう。それが、どうしてそんなに大衆から比べて、偉いことになるのか? 自分は商売道具の万年筆や原稿用紙一つ作り出せない癖して、何を偉ぶっているのか? プロの小説家というのは、どうもマスコミの犠牲者的側面が否めない気がする。
 僕は、ありがたいことにプロにならなかったので、うぬぼれずにすんでいる。それは、僕が文学の本質を蹉踞せずにすむことでもある。マスコミにいたぶられないように、文学の本質を突き詰めていきたい。
 
posted by Pearsword at 18:08| 富山 ☔| Comment(2) | 迷い言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年01月02日

今年はよい一年でありますよう。

 妻の祖母が昨年なくなったので僕は喪中なのだが、新年の挨拶として他に言葉を知らないので、このように書く。
 昨年から、コロナウイルスの流行が酷くて不安が広がるばかりだが、本当に平均寿命が縮まるかも知れない。まだ、特効薬も開発されておらず、罹って死ぬ人も後を絶たない。
 昨年中に書くべきであったが、自分の三大事件を書くとすれば、
 @憧れの小説家にストーカーとして訴えられそうになる。
 A憧れのミュージシャンに小説を捧げるも差別を受ける結果になる。
 B「癲狂恋歌」を刊行する。
 どうも僕が今まで捧げてきた小説というのは、相手に認められないことが多くて、贈った相手に喜ばれたのは、妻の場合だけのような気がする。ミュージシャンに捧げても結局ファンクラブから追い出されるし、小説家には準備段階で阻止された。その小説は、妻の小説の登場人物に捧げることにしたが、なかなかの力作に仕上がっているので、いずれは文フリなどでも頒布を考えている。
 要するに、有名人の方々からしたたか差別を受けた年であった。有名人に対する認識が変わったし、もう少し正しく生きねばならないとも考える契機になった。
 妻と太宰府で買っただるまは、未だに二つとも片目のままである。受賞祈願であっただけに、ずっと片目かも知れない。片目でも二つあれば両目になるとかや、くだらぬ冗談はやめるが、別の意味での文学の成就を祈願にしなければならないだろう。人に認められるというのは、相対的なことでありながら、人間が人間である以上、どうしてもその当事者の幸せにとって必要なことである。しかし、内容もない文学をみとめられても仕方がない。僕らは僕らの信じる理想を追求して、それを認めてもらうほかない。
 生活は、おかげさまで不自由ない。だから、むしろ感謝しなければならないのだ。そのうえで、いつか僕らの文学が大衆に認められたならと、そういう希望を持ってはいる。大衆は、必ずしも文学の面白さを判ってはいないようなのだけれども、それならばそのような穏やかな面白さを伝え受け継ぐための一助になるように頑張らなければならない。
 今年の初歌を詠んでおく。
 
 元旦のパンデミックにしずけきも喪に隠れをり 初線香焚く

 なかなか人生思うようにはいかないが、仏様の御加護を信じて生きていこうと思う。 
 
posted by Pearsword at 09:40| 富山 ☁| Comment(2) | 迷い言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年12月18日

「ハルモニア」鹿島田真希著。

 鹿島田さんの小説のイメージが「この暁のぬるさ」で変容し、かなり興味が湧いたのでこの作を読んでみた。
 そうとうロマンチックな話で、登場人物も個性的きわまりなく、その小説世界は美しい。本当の音楽大学がこのようであるかのように、音楽の世界が奇抜に描かれているが、たぶん本当の世界はこんなに美しくない。しかし、そういうリアリズムというか写実の芸術論というものにも、この小説では触れられていて、主人公トンボの書く曲は、経験的に日常生活の描写というものになっていった。一方のあこがれのナジャは、トンボから見ると音楽の世界の中だけで美しさを追求したような音楽を作曲していた。二つのやり方のどちらが芸術的なのか? その芸術論にこの小説は簡易ながら一つの解答を与えている。
 前者はどちらかと言えば悲劇詩人的作曲で、チャイコフスキーやマーラー的な音楽であり、後者はどちらかといえば喜劇詩人的作曲で、モーツァルトやハイドン的な音楽のような気がする。しかし、それは僕のイメージでしかなくて、小説の中で言えば、ナジャの方がトンボより前衛的である。トンボはブルックナーに影響を受けていると書いてある。確かにブルックナーも短調が多いような気がするが、現実は厳しいことが多いので、写実するとどうしても短調になってしまうような気がするのは、僕の性向が暗い所為だけだろうか?
 ともかく、トンボはナジャが迎えた挫折について、彼女を好きになって助けることが出来るようになる。ナジャはもともと新入生の中から選ばれた天才であり、トンボは二浪してやっとかっと大学に入った劣等生であった。トンボの方が努力家のように思ってしまうのが、一般的解釈ではあるのだが、作中、トンボはナジャにとても同情的理解を寄せている。天才にもスランプはあり、劣等感を抱くことがあるのだと。
 ところで、この小説はナレーション的独白で描かれている。それが、客観的な記述と異なり、ややテレビドラマ的ではあるのだが、文章がかなり簡潔にまとまっていて、短編的美しさがある。それは、要するに理系的機能美とでもいうものである。不必要な記述が省いてあって、理性でまとめられ整形された人工美である。それ自体、ナジャ側の芸術性をもつ作品である。
 文中、作者の考え方なのか、芸術論的文章がある。
 「観念と生活。魂と肉体。音楽の内容と形式。すべての抽象的なものと具象的なものは結局一致しているのではないかと。そしてものを作る人間がその二つを完全に一致させることができた時、それは結構官能的体験でもある。ぼく達の抱擁のように」
 芸術というものは、いずれにせよ人のこころを癒やしうるものだろうと思う。この作品自体、作中の世界に行ってみたくなるような憧憬を抱かせるし、トンボやナジャに会ってみたくなる。彼らの作曲した音楽を聴いてみたくなる。いわば、そのような抽象である。それを具象化するとき、多分多くの芸術は失敗するのだ。映画化やドラマ化した小説ほど、小説を台無しにするものはないからだ。
 そういう意味でこの文章を考えると、小説というのは、すべての読者に小説という抽象を具象化させることを強いる、芸術敷衍の効果のある芸術なのかも知れない。読んだ世界をどう再現するかは、読者それぞれの創造行為なのだ。
 ともかく、この小説自体、ハッピーエンドでとても美しい短編だった。本棚に入れておきたい一作である。
posted by Pearsword at 16:46| 富山 ☔| Comment(0) | 文藝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年12月14日

「原発小説集」風見梢太郎著。


 令和二年の秋の文学フリマ東京で手に入れた本であるが、反原発思想の小説である。
 短編集だが、すべて原発がらみの作品で、出てくる登場人物が作品間で共通している。全小説で一つの小説世界を形成しているのだが、現実とリンクした状況が描かれるため、ある程度はモデルがあるのだろうと推察できる。ただ、三人称で描かれていて、すべての短編を一つの作品としたならば、多元焦点的であるので、その心理描写などの詳細さから言って、あきらかに創作物である。
 そのような反原発のテーマで描かれる世界は、福島の原発事故を主体として、かなり悲惨な状況である。本当に現実がこの通りであるのかにわかに信じがたいくらいの、原発周辺の放射能もれのひどさや現場作業員の置かれる状況のむごさが、文学として描かれている。文学として描かれているために、作品の美しさは見事なものがあるのだが、そのせいで、脱原発というテーマが犠牲になっていると言える。著者は、問題事件の衝撃性よりも、作品の文学性を取ったのだと思われる。それが、読者に訴える方法として、成功しているのかどうかは、僕にはなんとも言えないが、少なくともこの作品に滔々と流れる人類愛というものは、読むもののこころに浸み入るものと思われる。
 作品の中で、僕が一番印象的だったのは、「海洋投棄」である。大手電力会社は、福島の原発事故の前から、放射性トリチウムは三重水として海洋投棄を暗黙の了解でしていた。東京電力は、トリチウムは処理不可能だと開き直った説明をして、垂れ流しにしてきたらしい。水素は身体を作る元素の一つなので、いずれは体内に入り内部被曝を起こす。そんな誰でも判る道理のことを、こともなげに処理不可能だと言って垂れ流す大手電力会社というのは、目先の利益しか考えられない愚昧な企業なのだ。
 「海洋投棄」の最後に、次のような台詞がある。
 「海に引きずり込まれた人々への鎮魂の捧げ物が、放射能の汚染水とはなあ。ある種の冒涜かもしれんな、これは」
 海洋投棄される汚染水は、凍土の壁で流出を防ぐと見せかけていた、原子炉から漏れ出したプルトニウムを含む汚染水であるが、それ以前にすでにトリチウムは海洋投棄されていた。ALPSで汚染水の放射能を取り除くと見せかけて、放射性トリチウムはまるで除去するつもりがない。
 この小説に描かれる暗愚な権威たちは、地球を汚染して生物を殺すことを、まるで問題にしていない。その暗愚な権威の考えることは何なのかが、この小説では描かれない。権威側はなぜそのような非持続可能な未来を作るような政策をするのか? ただ権威の犠牲になりつつも、懸命に生きる人々のあたたかさや精神性を描くだけでは、どうにも訴える力が弱い気がして、この小説群はその点がすこし残念に思えた。
 権威に訴えるならば、大衆を動かさねばならない。それはよく判るのだが、この小説でどれだけの人々が目覚めるだろうか? 
 しかし、僕も物書きとして、風見さんの扱うテーマには、とても感銘を受けた。このような小説家がいることに関して、僕もかなり勇気を戴いた。僕も、反核思想の小説として「ジオハープの哀歌」「螺旋の拈り」を書いているが、なかなか他の人に影響を与えうるかどうかは疑わしい。それでも、風見さんを見習って、このようなテーマの作品を、もっと書くべきだと思った。
posted by Pearsword at 20:57| 富山 ☁| Comment(0) | 文藝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年11月23日

第三十一回文学フリマ東京。

EnaImJsUwAANQrx (2).jpg  今回の文学フリマ東京は、東京に同人メンバーができたので、その人に設営をしてもらい、遅刻して参加することになった。
 なぜ遅刻したかといえば、新幹線代を浮かすためである。妻と二人で車で来たのだが、高速代金も片道六千円あまりと、かなり格安なので一泊することにしたのだ。二人で来る場合は、このほうが断然リーズナブルである。流通センターまでの道が、カーナビ頼りだったが、iPadがよく働いてくれて、迷いなく着くことが出来た。
 さて、一時くらいに到着したが、早々にいつも買ってくれていたMさんが、差し入れとともに3冊も購入してくれた。あとから聞いてとても恐縮したのだが、御礼を言いに行ったときにはすでにブースにはいなかった。今度お会いしたときには、かならず御礼を言おうと思う。
 あとの報告によると、今回の文フリ東京は、3148人の来場者があったということで、確かに第二十九回からは減っているのだが、売れた率としては大して代らなかった。今回は23冊を売り上げ、コロナ禍下にあっては大変がんばった結果となった。これも、事務局の適切な対応があって、お客様が安心して買い物が出来る環境になっていたからであろう。
 隣の方は、以前一度購入したことのある「地図と小説」の本多篤史さんだった。今回は挨拶もできなかったが、撤収作業のとき優しくお声を掛けて戴けて、なかなか気さくな人だなあと思った。一冊買っておくのだったかなと、思った。小説というのは、書いた人の人となりが大切であり、いくら巧みに作った作品でも、その人の人格がなっていなかったら、読んでも味気ないものである。やさしい人の書いた小説を読みたい気がする。
 宿泊は、近くの東横イン大森に泊まった。安い割にはいい宿だった。
 車で来たので、どこか駐車場のあるところと言うことで、翌朝は明治神宮に観光に行った。初めての明治神宮は、なかなか感動もので、二人でおもうところを祈念してきた。帰りは、竹下通りでクレープを食べ、表参道を散策してきた。
 なかなか面白い文フリ東京だった。来年の春も来たい。
 
posted by Pearsword at 07:59| 富山 ☔| Comment(4) | 創作 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年11月18日

「その暁のぬるさ」鹿島田真希著。


 鹿島田さんの作品は、芥川賞受賞作「冥土めぐり」以来読んでいなかったが、僕向きの小説家を探す徘徊をするうちに、ふとまた読みたくなった。それで、この作品を図書館で借りてみた。
 入りからして、とても引き込まれる作品だった。会話がすべて地の文に書いてあるため、内向的な性格の女性語り手の雰囲気が出ていて、すこし取りつきにくい感はあるが、語り手の女性の優しい感性だとか、細密な心理描写などにより、とても小説の魅力が放散されて、すこしも陰気でない。舞台も、保育園とその職場の女性たちの話で、初めから出てくる「和紙の方」という言い回しは、どこか平安時代の宮廷を彷彿とさせる雰囲気を醸し出している。
 その通りに、「わたし」の悲恋の思い出が描かれていて、それは平安貴族の女性のように、切なく悲しい彩りで描かれているのだけど、雰囲気的には平安宮廷でも、内容は近代的な不健康さを持っていて、「わたし」の素直でない不器用な「あの人」に向かった想いが、思い出として描かれている。つまり、ほぼ風景描写がなくて、心理描写の豊かさで、その内にこもるはずの陰気さを消滅させていると言って良い。
 ある絵本を見せると泣き止むという、「わたし」と「あの人」の関係を唯一知っている園児は、どこか不思議な雰囲気を持っているけども、その娘が夢の中で「あの人」を連れて行ってしまい、その代償として、「わたし」が泣きながら老いぼれていくという、よくできた寓話のような夢を考えると、その園児は何か霊的能力を持った、神様の使いか何かではないかと思わせられ、その流した涙とともに、「わたし」は「あの人」がいなくなっても大丈夫な状態に、されてしまったように感じられた。それは、小説がリアリズムがあるとかないとかの次元の問題では無くて、うまく出来ている纏め方という感じがするエピソードである。むろん、現実にそのようなことは起こりえないだろうけれど、「わたし」の心理については、ずいぶんリアリティのあるねじくれ方をしていて、このように悩む現代女性も多多いることだろうと思わせてくれる。
 全体的に眺めると、とてもよく纏まった小説然とした小説だなという気がする。このような小説を読むと、本当に小説は写実しなければいけないという決まりはないなと思うし、個性的なことが素晴らしさを表現している例として、記憶に留めておきたくなる。鹿島田さんの小説は、あまり数多く読んでいないけれど、ほかにも読みたくなるような、この小説独特のいい香りを漂わせていて、面白みを非常に感じた。
 最後は、「あの人」との貴重な思い出を、自分が忌避していたような噂話ばかりする女子のまえに、自分もそれと同化するかのように晒してしまうような雰囲気で終っている。「その暁」というのは、夢を見て泣き老いたときの、大根とソーセージの炒め物を食べた朝のことであろうし、そのときはすでに、「あの人」との恋愛時のような緊張感を失ってしまっていて、「ぬる」かったのだということだろうが、そのぬるさが題名と言うことに関して、それを肯定しているのか否定しているのかは、俄には判りがたい。それはおそらく、読者の裁断によりどちらにでなるべきものであり、「ぬる」いから否定しているという淡泊なものではないはずだ。それくらい、この小説は独自的で個性的である。
 ぜひ、みなさんにもお勧めの小説である。
posted by Pearsword at 18:51| 富山 ☀| Comment(0) | 文藝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年11月16日

芸術と優劣。

 僕は、今までに方々に自分の小説を送ってきた。憧れのアーティストを初め、プロアマ問わず多くの小説家にも、自作を送った。しかし、感想をまともにもらえたことは殆んどない。それだけ、小説の質が悪いのだとか、自己嫌悪に陥ることも出来るが、僕はむしろ自分の人を見る眼がないのだろうという気がした。多く送れば、中には奇特な理解者もいていいはずなのに、誰一人僕の小説など、読もうともしてくれない。読まれなければ、面白いかどうかも判らないのに、さしずめ三ページほど読んでは投げる人が殆んどなのだろう。
 たとえば、本当の文学者であれば、素人の小説も楽しんで読んでくれると思うのである。読む暇がないのなら仕方がないのだが、僕の小説に関して言えば、暇がなくて読まれないだけではない気がする。どうにも僕の精神障害者というハンデが偏見を生じて、読者を一層少なくしているような気がする。そういう偏見を持たずに、いろいろな小説や文学を楽しむことが出来る人が、本当の意味での文豪である。僕は、現代のプロ小説家の中に、そのような人を知らない。
 文学は芸術ではないのだろうか? 僕はその大前提は信じたいたちだ。文学が、ただの名声を得るための道具でしかないという見方は、一部の有名人にしかない勘違いだと思う。名声を得れば、その人は誇らしくなるし、歴史に名前が残れば、偉人になった気持ちになる。そう思って死ぬことが出来たら、その人は達成感に満ち足りて死ねると思うのだろう。しかし、結局死ねば骨と炎に成るのである。歴史に名前を残せたとして、それが何になるのであろうか? 名前だけ残しても、その中味が邪であったなら、犯罪者と変わらないのだ。
 それは、たとえば小説家として、名を成してしまえば、他の人々は大体大人物だと認めてくれるかも知れない。小説というものは、一目では価値の判らないものだからこそ、人々は評判で評価しがちだし、賞を取ったものしか読まないようになる。すべての小説を読んでいられないからである。だから、素人の書く素晴らしい小説があったとしても、読まれなくて闇に葬られることも充分あり得る。
 しかし、それは他人に読んでもらえないからである。現代のように、いろいろな形で人に読んでもらえる時代であれば、実際に読んでもらうのが一番大切なことであろう。少しでも誰彼に自分の感動を伝えられたら、その小説は成功していると言える。統計学的に言って、無関係な誰かに読んでもらってその人が面白かったという感想を持った場合、他にもそのような人は人口に分布していると考えて良い。即売会など、赤の他人に読んでもらっていろいろ感想をもらえたなら、その頻度が多いほどその分布は広いことになる。
 だから、アマの作品だからと言って、楽しめない人は多分偏狭な堅物なのだと思う。芸術というのは、正解がないから楽しいのだ。子供の絵でも楽しんで鑑賞出来るのが芸術家だし、小説だっていろいろなものを楽しむことが出来る人が、本当に文学を愛している人だ。下手だからとかくだらないからとか言って、その作者を蔑むような人は多分芸術家に向かない。サラリーマンでもやって出世街道を進んでおれば良い。芸術を楽しむと言うことは、平等で自由な平和を作ることでもあるのだ。個性がそのままで相互肯定され、自由に自分を表現できる。それが芸術の本質だと思う。そこに優劣を持ち込む人は、くだらない人たちだ。
posted by Pearsword at 22:13| 富山 ☀| Comment(0) | 迷い言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年11月06日

「ポトスライムの舟」津村記久子著。

 プロ作家不信に陥る中、それでも何かを探さねばと思って、以前から気になっていた津村記久子さんの小説を、今回は読んでみた。
 始まりは、工場の休憩室の一幕から始まる。そこに貼ってある世界一周旅行のポスターに惹かれて、自分の給料を一年貯め込んだら、このツアーに申し込めるなどと思ったナガセが、じっさいにいろいろな事情に絡まれながらも、お金を貯めていく話である。そのいろいろというのが、どうもわざとらしいような事情で、要するに離婚話を初めとする男女の仲の話なのだ。そのようなことに、やはり女性は関心があるのだろうし、ナガセの周りの登場人物は、すべて女性である。
 まあ、そのような夫婦仲は上手く行かなくて、男女の愛とは何なんだろうとか、考えるのも面白いのかも知れないが、この小説ではむしろそんなことはどうでも良いテーマで、一番素晴らしく思えるのが、雷の鳴る豪雨の中のポトスライムを並べた廊下の描写であったり、工場のある街並みの雰囲気であったりと、僕には思えた。「ポトスライムの舟」というものは、作中に一回だけ、ナガセの夢に出てくる。シングルリガーカヌーで、世界中の人々にポトスを配って行くときに、カヌーに多くのポトスを積んでいたものを言うのだと思う。雨の中で、ナガセはこの国は雨が降るだけでもありがたいのだと思うため、水がないと要らないと言われるポトスについて、その夢の中で、かなり持てあますことになるのだ。
 ポトスが、その生命力で物語に蔓延るかのように、あちらこちらに縫って出てくるのは、何かの主題を暗示しているのかも知れないが、そういう深読みは敢えてしなくても良い気がする。ポトスを食べるという思い付きが面白いし、それは世界一周のためにお金を貯めるときに考えついた制約料理法だというのも珍妙だし、ナガセを取り巻く小説世界がとても美しく描かれていて、そのへんはなんとも言えず美しい。
 ユーモアが笑いを誘うような滑稽さがなくて、美に昇華しているかのようなこの小説世界について、何かに比べて素晴らしいなど、あまり比較対象のものがなくて、独自のものだと言うほかない気がする。何もテーマがないじゃないかという意見もあるかもしれないけど、少なくともこの雨ばかり降る描写についても、日本的な気候の必然以上の著者の嗜好が感じられ、水が好きなんだなあ、という感想を抱くに到る。
 最後は、ナガセが自分のバイタリティのようなものに気付くため、水が好きな雰囲気と相俟って、ポトスというものをナガセ自身の象徴として表しているのではないかという、こじつけじみた解釈も出来なくはないが、そういう余計な考察はしない方が良いような気もする。
 僕の自分の小説と比べて、いろいろなものが繊細で、また卑近でもある。そこらへんにありそうな工場の、そのへんにいそうな女工の話である。リアリティという概念は、必ずしも写実性ではないと僕は思っているけど、何かモデルがあるにせよ、人間関係の構造みたいなものが、写生された作品のような気がする。ありそうな街並みの中のありそうな人間関係での少し夢のある話とでも言おうか。その辺、僕の書くものとは性質が異なるし、現実の醜さのようなものも描かれていて、確かにいろんなものが美化されて描かれてはいるのだけど、理想主義にならずにうまく現実を模写して再構築してあるような小説だと思った。
 作品としてとても味わいがあって、芸術作品と言って差し支えないと思った。
posted by Pearsword at 09:25| 富山 ☁| Comment(0) | 文藝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年11月01日

差別にあってみて思うこと。

 歌手Sのツイッターブロックをされたのは、かれこれ10年くらい前になるが、ファンだった僕はかなりこころを痛めた。それからも声援を送り続けていたが、今回またツイキャスで僕だけ配信が見られないというブロックのようなことをされて、僕はとうとう彼女の理解を得ることをあきらめた。ファンを辞めることにした。
 思えば、僕がツイッターで「あなたの名前」の歌詞について意見した日から、彼女は僕を忌み嫌ってきたのかも知れなかった。女性は一度嫌いになった人は二度と好きになれないと言う話を聞いたことがあるが、今までは商売上仕方なく付き合ってきたのであったが、僕が小説の進呈などをするものだから、とうとうぶち切れたのだと思う。
 この彼女の決断に火を付けたのが、同じ僕の憧れだった小説家Sの差別であろう。彼女は、大阪のイベントで僕のサインを間違えてしたことがあり、それすらも故意だったのかなと言う気すらする。それ以前に多くのファンレターを送っていて、大阪のあとのオンラインイベントなどでは、僕のアカウントからのコメントだけ、司会の人が無視して読み上げなかった。はじめその司会が悪いのかと思っていたが、そういうことが二度違うイベントで続いたので、小説家Sの悪意であろうと気付いた。それについて、ツイッターでクレームを入れたら、彼女の代理人の弁護士から警告状が届いて、これ以上イベントに参加したりファンレターを送ったりしたら、ストーカー防止法で訴えると告げてきた。言いがかりもいいところだが、弁護士には叶わないから、引き下がった。
 そのことを、よせばいいのにファンレターで歌手Sに書いたものだから、歌手Sもこれに乗じて、僕を常識のない問題ある精神障害者として特別扱いしたのだろう。証拠としては、しかとしたものはないが、長年のファンの中で、会報にコメントが載せられない人は多分僕だけだろう。それくらい嫌われていた。
 このようなことを通じて、僕は芸術がすこし怖くなった。いくら感動するものを見聞きしても、もしその作り手が酷い人格の持ち主だったら、と思うと、芸術を味わうのがこころむなしくなるのだ。そんな酷い人の作ったものなんて興味ないし、もし感動させられたとしたら、自分の不覚を嘆くだけとなる。芸術作品が素晴らしいのではない。そこに流れる作り手の精神性が素晴らしいのだ。たとえ作り手の人格がなっていなくとも、もしその作品を真剣に作り上げ、そこに尊い精神性を込めたなら、それはそれ相応の価値が出る。しかし、酷い人格の人たちには、そのような精神性は期待できない。すくなくとも、精神障害者の僕を差別するような人々に、なにも期待できない。
 僕は、最近そういうことで、心も痛むし何を作ればいいのか判らなくなって、どうにも創作が出来なくなっていた。しかし、今日妻に話していて、自分でも気付いた。もし自分が正しいと思う道を進んでいるのなら、まわりが僕を莫迦にしようが煙たがろうが、それを辞めるのは周囲に負けることであると。そんな邪な勢力に負けてはいられない。自分の正しさを突き抜けねばならない。それはことによると利己的なのかもしれないが、自分が自分であるための条件なのだ。負けて周囲に流されたら、自己表現をあきらめることになるのだ。僕は、表現家として生きる上で、自己主張を辞めてはいけない。自分を生き抜かねばならない。
 確かに、それは商業作家への道ではないだろう。しかし、そのほうが僕らしい小説が書けるし、真の理解者も出来るのだ。
 人間不信にも陥って、どの小説家も結局名声を得たいだけの下らぬ人格の方々なのだと思ったりすると、小説が味気なくなってきて、何を読めばいいかもはや判らなくなってしまっている。とりあえず、妻の小説を読んで気を休めているが、プロ作家なんて有名になって名声にあぐらを搔いていい気になっているだけの人々なのかなと思ったりする。
 仏教では、行を大切にする。思うだけでは駄目だし口だけでも駄目だ。正しいと思ったことは実行しなければ意味がない。難しいことではある。しかし、間違ったことではない。七仏通戒偈「諸悪莫作、衆善奉行」。芸術の意味を考えつつ、日々創作していきたい。
posted by Pearsword at 22:38| 富山 ☁| Comment(0) | 迷い言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年10月29日

「沼に迷いて」草間彌生著。

 統合失調症の大成功者としての芸術家草間彌生さんは、小説も書いていた。そのことを知ったのはだいぶん前だが、そのときからいつか読んでみたいと思っていたので、今回購入してみた。
 「沼に迷いて」は、大芸術家ロイ・グリーンパークについて描かれた小説である。筆致は簡素で飾り気がなく、どうしても描写が薄い。しかし、芸術家の面白げな世界が描き出されていて、読んでいて楽しい。この小説世界の面白さは、まずはロイのアトリエとそれを取り囲む沼の描写が美しいから生じるものであり、そのへんは如何にも画家らしい方法である。筆致は簡素なのに、描かれている世界が美しいので、小説全体が面白くなるのである。
 プロットととしては、芸術の価値を問うようなテーマを描き出すことに成功していて、そこも巧みである。初め、僕は主人公のマーコが草間さん自身の投影像なのかと思って、なんとも著者は差別的でいい気になった高慢女だなと思ったが、ひょっとしたらこれは、草間さん自身の考え方感じ方とはことなるものを持つ人格を描いてあるのかと思い直した。というのも、芸術品がそのものの価値如何よりも、名前で高値が付いてしまうことや、その先に、高値の付いた美術品やお金だけを欲しがる人が出てきて、そういう人は作者などどうでもよくなっているという、芸術の現代の風潮に対する風刺が上手く表現されていると感じたからである。
 しかし、ロイの人格の描かれ方も酷い気がして、マザコンで自閉症の醜い老人と言うことに成っている。天才とはえてして人格が曲がるものだというふうに描かれているのかとも思ったりもするが、もっと掘り下げると、これは精神を病んだいびつな性格の人たちに対して、もっと理解してほしいという願いが込められているような気もしてきた。精神が病んでいても、性格がねじ曲がっていても、美しい芸術品を作ることの出来る人がいるのだ、ということを、ここは草間さん自身の訴えとして、小説で表現したかったのかもしれない。
 最後はロイの詩で終わっているが、確かにあまり印象的には響かない詩ではあるのだが、味わいはそれなりに深いものがある。この詩によって、作者は天才ロイのこころの清らかさを示したかったのだろうし、そういうロイの可哀相な境遇を象徴にして、世の中の精神が病んでしまった方々を、もっと理解してほしいというメッセージが、どうもこの小説には込められている気がしてならないのだ。
 確かに、ロイの天才ぶりは、小説としては貧弱にしか表現されていない。しかし、弟が小児麻痺であり母が酷い過保護であるロイが地下室で美しい芸術的な箱を作るというそのアイデア自体が、すでに天才を描く骨格として印象的であるので、ロイの天才ぶりはなかなかうまく書かれていると言わざるをえない。
 何よりも、文体がとても静謐感を持っていて、小説がとても興味深い香り高さになっている。このような小説を読むと、芸術は技術ではないなという側面と、やはり小説も名前次第で売れる売れないが決まるのだという側面が、よくよく判る気がするのだ。
 まあ、草間さんに関して言えば、自伝など読んでも結構尊敬している人なので、たぶん人格もお優しいのだろうと思う。 
posted by Pearsword at 17:25| 富山 ☀| Comment(0) | 文藝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする